デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ここからも石が切り出された



見えてきた










今更だが、ここ数回つづけている「昔の採石場へ」というタイトルの記事の二回目の分を上げた時に、昔の採石場が現在「太閤岩」と呼ばれていることをインターネット上で知ったのだ。


太閤岩







太閤岩という名称はベテラン登山者の方々から聞いてはいたものの、私個人がいつも通る道で見る石を切り出した跡がそれであると「石切り場=太閤岩」というふうには自分の中で一致していなかった。
だが、「昔の採石場へ」というタイトルの記事の二回目の分を上げた時に、「大文字山」「太閤岩」のキーワードで検索にかけてみれば、自分の知りたいことがたくさん検索結果に表示された。どうやら登山ルートや山の歴史のキーワードで検索するより、「地学」のキーワードで検索すべきだったようだ。(なんとまぁ回りくどい話であったことだろう(笑)。)
太閤岩についての詳しい内容は良質な他のサイトに任すとして、私としては山で知り合った方々から石切り場の石が安土桃山時代に建てられた豊臣秀吉縁の神社仏閣・屋敷の土台に用いられていることを直に聞き、それが正しかったことの方がうれしかった。つまり親しくなった方々から伝え聞いたことが、歴史的根拠のある話であることの重みを実感できたことがよかったと思うのである。
ところで、幻の滝の記事で私は室町時代にスポットを当てた根拠無き想像を膨らませたようなことを書いたわけだが、太閤岩の場所の岩壁から石が切り出されたのが秀吉の時代と分かった今、幻の滝の奇岩は秀吉の時代に切り出されたものの、採れそうな石の量が少ないとか、運ぶにはちょっと骨が折れる距離だった、もしくは運搬ルートの目処が立たなかった、秀吉が没したことで新たに建物をつくる計画が水泡に帰したとか、ようするに安土桃山時代に石を切り出しそこで生じた問題とか諸事情で石が放置されたと想像するほうが、より現実味を帯びるように思う。それに、石を切り出すにも膨大な費用がかかるし、そんな費用を統治や経済政策の失敗で資産を売り払っていた足利家やその家臣が出せたとは思えないから、それこそ時代が下った秀吉もしくは前田利家ぐらいの大名じゃないと費用を出せないと考えるほうが自然だろう。

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