デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



開演30分前に

京劇の初鑑賞で得た印象の後編。
芸術作品を鑑賞した時の記事では毎回といっていいほど同じような「硬いこと」をいうようだが、たとえ俗物の知ったかぶりで人様にしたり顔で語った薀蓄内容が結果的に馬脚を現してしまうようなものであったとしても、芸術作品を鑑賞するにあたっては、事前に学習し時に本の受け売りになるようなものであるにせよ自分だけのイマジネーションを時間のある限り高めておくべきだろうと思う。四面楚歌や劉邦が背水の陣を敷いたことや梨園の語源はどこから来ているのかとか、なんでもいい。たとえそれが「イメージと違う!」といった幻滅に終わったとしてもだ。
私の場合は友人の薦めてくれた京劇に関する本を4冊、中国や儒教に関する本を3冊の読み、京劇に挑戦する日本人俳優のドキュメンタリーと京劇が劇中劇となっている映画を1本、他中国映画を2本を観ていった。どれもなんだかんだいって無駄にはならなかったし、その中で自然と歌舞伎の約束事のように京劇の表現の約束事とかが頭に入ってきていたのはよかった。その上で、実際のものを自分の眼で見ると肉感的な感動の度合いが異なる気がする。
京劇の表現の約束事といえば、基本的に舞台装置を使わないというのがある。そこは西洋のミュージカルと全く異なる点といっていい。ミュージカルは舞台装置をフルに生かして観客をその世界に没入させてくれるところがいいところだが、京劇はいたってシンプルで大道具?らしきものはテーブルとイスと大帳子ぐらいしかなく、場面の展開は演じる俳優の動作を見る観客の想像力に委ねられていることが、今回の鑑賞でよくわかった。
京劇入門の本を繰って一つ一つ動きについて解説やその紹介はしない。しかし、とにかく直感的に、この観客の想像力に一切を委ねていることが、京劇の最大の魅力の一つではないかと思った。鑑賞し終えた帰りの車の中で、その想像力がどういったものなのか考えてみたのだが、小学校の演劇の舞台発表で上手いクラスの演劇を観ているときの子どものころの気持ちのような気がした。そして、なぜだかドストエフスキーの『死の家の記録』のクリスマスの描写で、囚人たちが演じる劇の見事な描写を思い出し、京劇もいわば立派なパントマイムなのだと思った。
加えて華美な衣装とメイクはリアルな人物を表すのじゃなく、それは、いかにもこういった人物がいそうとか、また歴史に存在した彼・彼女らの後に語り草になる行為の象徴(イメージ)の視覚化であって、この立派な華美な衣装とメイクでもって演じられるパントマイム劇には、リアルかつグロテスクなものを付け加える必要はないのだ。動きで観客に印象を呼び起こさせる演技、それを苦も無くやってのける演技で、観客の想像力に訴えかけさせるような効果が人を京劇にひきつける一つの秘密・魅力じゃないのかと分かったようなことを考えた次第である。あくまで支離滅裂な一つの見方ではあるが…。
その例になるのか分からないけれど、私が特に感心したのは、「鳳還巣」のラストで元帥と周監軍が、結婚すべきか思い悩む出世した穆居易に「年長者なりの気遣い」を施そうと気を揉むにも単なる好奇心や興味に取って代わってしまってる喜劇の場面に、一切の舞台装置としての壁が無いにもかかわらず、あたかもいい年こいた物好きなおっさんたちが壁越しに悩ましい青年の様子を覗き見ているその壁が存在しているかのように見えた時だった。もちろん、第一部、第二部を通して、場面展開については字幕での説明もあり演奏が入ったりすること等の理屈を前もって知っていたので分かっていたが、ラストの場面で覗き見る壁が感じられると元帥が花嫁の父親と穆居易との仲人というより伝達係と化し部屋を行き来する滑稽な場面の部屋の間取りすら分かる感じがしたのは、やっぱり京劇のシンプルさゆえの、しかし動きだけでもって観客にあらゆることをイメージさせる表現が存在していたことに他ならないのだと今にして思う。

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