デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ペイシストラトスの肖像(ヴァチカン博物館)


塩野七生著『ギリシア人の物語Ⅰ』(新潮社)で“再会”できたもの第二弾。

一人あたりGDPが4000~6000ドルのレベルに達すると、多くの社会は必然的に民主化へと向かうだったか、新興国では中間層の割合が低所得層人口の2倍以上の水準に達すると民主化への動きが活発になってくるだったか、そういった個人所得と国の体制の変化の兆しみたいな法則を中心にすえて、世界各国の「民主化を求める革命」を報じるニュースを目にすることは、今となっては珍しくない。また国や都市の産業を発展させ経済的に豊かにした指導者については、日本でも戦国時代以降、枚挙に暇が無い。
そんなこともあってか、『ギリシア人の物語Ⅰ』で描かれるアテネのペイシストラトスの改革による功績は目新しく映るわけではない。しかし、経済的に豊かにならないと手をつけることのできない体制の変化や社会改革というものはあるのは分かるし、その先例が紀元前546年のアテネで現代の人間にも分かる形で存在していることには、やはり目を見張るものがあった。

町全体が博物館になっているようなローマ市内にヴァチカン市国があるが、そのヴァチカン博物館は見たいものが多すぎて困る博物館である。
上のペイシストラトスの胸像に出会ったのはヴァチカン博物館の「ミューズの間」で、きっと古代ギリシア好きにはたまらないセクションなのだが、実はというかいつもどおり、当時の私はこの胸像が誰なのか分からないまま画像に収めた。その頃はギリシアの歴史家や作家・詩人、数学者・天文学者、発明家、古代ローマの政治家や軍人、そして神々の像などを追い求めていたが、ギリシア語やラテン語が読めるわけでなし、とにかくソクラテスやプラトン、アリストテレス、エピクロスやルクレティウス肖像…etc、誰の肖像でもいい、あとで有名な哲学者や思想家であると判かったらいいな、という程度の気持ちで部屋の隅のほうではあるが誇らしげに展示されている上の像に見入っていた。
以前の記事にて

現地にいた頃、この作品についての思い入れは、そこまで強かったわけじゃない。予習して得た知識が人工的な音や記号の域を出ないままで作品を目にしたのは相変わらずであったが、見ておいたものが後々に新たな印象とともに甦える体験も決して悪くないものである。

と書いたが、当時はペイシストラトスはおろか古代ギリシアについても「予習して得た知識」すら持ち合わせていなかった。あれから何年も経って「下手な鉄砲数撃ちゃ当たってた」体験を得るのは今回が初めてではないし、またしても同じようなことを書いてしまうなぁと思いつつも、知識を得る前に見る目を持つ者は見よというのは酷な話であるし、今になって分かることが目の前に立ち現れることはほろ苦くも歓びであると改めて思うのである。

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