デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



数年前からグリンメルスハウゼン作『阿呆物語』(岩波文庫)を手がけているが、一昨日、ようやく上巻を読了した。
サッカレー原作の映画「バリー・リンドン」を髣髴とさせるわけじゃないが、主人公の生い立ちを除き、個人的にどことなく「バリー・リンドン」のイメージが湧いてきたことも上巻をようやく楽しめて読めた要因だろう。
作品は太閤秀吉の出世物語のパロディのようなものだし、主人公ジンプリチシムスはキリストやドン・キホーテやムイシュキン公爵の役割を担い程よく混ざっているような感じだと思った。実際、作品にはおどけながらも世の中の醜悪な現実を純朴なまなざしで糾弾し真実をあばきたてたくなる変な力がみなぎっている。
また海千山千の主人公の波乱万丈の生涯から彼が得ることになるであろうアイデンティティや人生訓は、たった一回の通読であたかも自家薬籠中の物としてしまいたくものだ。この物語を読んだ少なくない読者には上巻の時点でその波乱万丈の前半生から世の中の酸いも甘いも知り尽くし若くして人生を悟りきってみたいという願望を覚え、満足した気になってしまった人もいるのではないだろうかと思う。「それは君だけだよ」とツッコミがあるかもだけど。
感心したのは主人公が女装し男の身でありながら女性が味わう社会的困難やストレスや戦時の恐怖を思い知る場面があることだ。作品の時代には既に女性が男に扮し、あこがれの男性キャラに対して二律背反的状況から自己欺瞞に陥って苦しんだり、社会的権力を笠に着るオヤジキャラをこっぴどくやっつけたりする喜劇が存在していたが、シェイクスピアのすぐ後といっていい時代で(といっちゃ失礼だが)その逆を、それも深刻さが伝わる形で描いたことはかなり画期的なことだったように思う。
すぐに次巻(中巻)を読みたくなった。

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