デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 









夕立が当たり前の季節になった。
この日、写真を撮りたいと思ったときに、いつものデジカメのバッテリが切れてしまっていた。
仕方ないので、携帯のカメラを使って撮ってみた。私の携帯のカメラは、変なクセがあり、あまり使っていないのだが、しかし写す対象によってはまた使ってもいいかもと思った。

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「疎水北園橋」

以前に画家の御仁として、弊ブログで触れた釆野さんも出展されている第34回グループランディ(テンペラ画展、会期は終了しています)に先月末、足を運んできた。見に行った日は当番で釆野さんもおられたので、昨年10月以来の久々の再会となった。お元気そうでなによりだった。
事前にいただいた展の案内で、釆野さんと邂逅した場所の作品も展示していますとのことだった。上の絵はまさにその場所で、改めてうれしさとともに感慨深いものを覚えた。


「桜」



「バス停下鴨」



「good morning」

時々、通りがかる場所も絵となればまた違って見えるおもしろさもあったのだが、4番目の「good morning」という作品に、シャルダンやセザンヌっぽさを感じた。展には人が途切れなく訪れたので、今回はまとまったお話をすること叶わなかったが、今度お会いしたときにも初期の現代絵画についてお話をうかがいたく思った。釆野さんはまた別の個展をされるとおっしゃっていたので、その機会をたのしみにしている。

展では他10名の方の作品もあり、駄洒落も飛びぬければ立派な洒落になることを実証したような「カオス」という作品や、フラ・アンジェリコの「最後の審判」の模写など充実した作品もあったので、展全体としてもとてもよかった。

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佐藤優元分析官の有罪確定へ=猶予付き懲役2年6月-外務省背任事件・最高裁(時事通信) - goo ニュース
なにはともあれ、結果は出た。いろいろ思ったが、少なくとも次のことだけは変わらないと思う。佐藤氏は、その当時、外務省で最も仕事が出来る人だったのだということ。
佐藤氏にとっては腑に落ちん結果だったろうが、いずれ時代が変わりこの事件の背景が明らかになると、この裁判に費やされた多くの時間が国にとって後悔されるものとなるような気さえする。
そういえば、今読んでいる本のなかでは、皇帝が代わると、先帝から被ったいわれなき不名誉から、名誉回復を遂げた事例もいくつか紹介されていた。佐藤氏にもその例に漏れないような明るい未来がおとずれますように。

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カスパー・ダヴィット・フリードリヒ『エルベ川の夕暮れ』(1832)

ドレスデンのノイエ・マイスターには、あと数枚のフリードリヒ(1774-1840)の傑作があったように記憶しているが、この一枚も忘れられない。
フリードリヒは、「肉体の目」に対して自然を内面化する「精神の目」を芸術活動の根本にしていたが、それは作品を見る側に形而上的な瞑想に導くことすらあるように思う。しかし捉えようによっては、それは陰気くさく暗いものとして映るかもしれないし、また以前書いたような宗教的な次元に高められるような神秘的なものを帯びているものとして映るかもしれない。後者は特に、靄や霧、薄明を描いたフリードリヒの作品を見れば、感じることができるように思う。(豊富な図版が載っている本としては、ノルベルト・ヴォルフ『フリードリヒ』(タッシェン)を挙げたい)
ノルウェーの自然主義者の画家ダールと合同で展覧会を行っていたりしたフリードリヒだったが、1820年代中頃から後半に重病を患い、健康状態は改善したものの1830年ごろから次第に世間から隔絶し、自虐的な自我の中に引きこもっていった。
フリードリヒにとっては晩年の失意の時期に描かれたこの作品は、ザクセン美術愛好家教会に買い上げられたが、フリードリヒの後期を飾る美しい作品であることは間違いないと思う。
風景画は、広角レンズでとらえられたような構成になっており、「双曲線図式」と呼ばれるフリードリヒ独特の構図法である。
この絵は創造された風景であることは証明されているが、作品の個々の部分を見る限りではまことに詳細で迫真的である。しかし、写実という観点から見ると、およそありえない自然の図式となっている。決してこのような絵の風景は、現実では見ることができない。
しかし見ることができないからといって、それが美しくないものであるとは限らない。フリードリヒの精神が描く風景画は、有限者に無限者の仮象を与える。ともすれば魂が吸い込まれそうな、危険に満ちているような気もしてしまうのだが、絵の魅力はそういうところにもあるのだと改めて思う。
なお、『エルベ川の夕暮れ』は本によっては「広大な囲い地」と紹介されていることもある。

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