デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



谷崎潤一郎『細雪』(中)をもうすぐ読み終える。

ひさしぶりに、現代の価値観からではあるものの、作品のなかの登場人物や家の事情について同情もでき批判的なことを、ぶつくさつぶやいてしまいそうになる作品だなぁとしみじみ思ってしまう。時代が変わりつつあるのに何を呑気にうじうじしているのだ、ドストエフスキーの『白痴』やモームの『人間の絆』、プルーストの『失われた時を求めて』、太宰治の『斜陽』、そしてT・マンの『ブデンブローク家の人々』などに見られる救いの無さが、小気味よく感じらられる。それほどまでに巧く時代を映し出しているというか、かといって完全に古くなってしまったものではなく現代でも今なお廃ることの無い門地への執着や功利を余すところ無く書くのがうまい。
そういや、十数年前だったか周囲の神聖でいやらしい強情ぶりに翻弄させられ自立心と主体性のない雪子のことを、日本の現代文学で最も美しい登場人物として激賞している論調をなんどかネット上で目にしたが、雪子は意外と我が強く、こだわりやカマトトぶりが思う以上に目に付くのは私だけだろうか。大いなる語弊および誤読覚悟で書けば、表層の全く異なるドストエフスキーの『貧しき人びと』のワルワーラやT・マンの『ブデンブローク家の人々』のトーニへの、憐憫を介した愛着というのなら分かるんだが、美しいというのは、はて?と今にして思う。

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