デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



国立慶州博物館

一日の疲れが出始めていたが、新羅の時代の発掘品はぜひ見たかったので博物館へ。日曜は19時まで開館しているので助かった。





新石器時代の櫛文土器


木棺墓

紀元前57年から紀元後300年頃までの慶州地域の指導者たちは棺に埋葬された。墓の中には漢様式で作られた四つの鏡、青銅製の短剣、鉄製の短剣、鉄製の道具が並んでいた。


青銅器時代の磨製石剣


紀元前8~7世紀の
遼寧式銅剣


石でつくられた
矢の先端だ


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月城  


鶏林からすぐの月城へ





上にあがれる

月城は新羅の王宮があった城址だ。新羅時代(斯盧国時代)の第5代の王「婆娑尼師今」が即位22年目になる101年にここに城を建てて首都を移し、それ以来新羅時代の王の居所になった。








月城の上から

さて、斯盧国(サログク)が新羅になるのは4世紀後半だが、城などまだない時代のこの地には、どこかで聞いたような、神話かよ、と思わせる話がある。
斯盧国の(新羅第5代の)王「婆娑尼師今」の先代の脱解王(タレワン)が幼い頃、この地には既に瓠公(ホゴン)が住んでいた。この地を気に入った脱解は瓠公の家の側に、密かに砥石と炭を埋め、「この土地は祖先からの土地なので立ち退いて欲しい」と瓠公に言った。寝耳に水の瓠公は当然怒ったが、裁判になって脱解が「私の祖先は鍛冶だった。瓠公の家を掘ればその証拠が出てくる」と言って、砥石と炭を掘り起こし、瓠公を謀(たばか)ってまんまと土地をせしめた、というものだ。



洋の東西を問わず、土地をせしめるこの手のエピソードはよくあるし、神話・宗教の口伝・聖典にも似た話が載っていたりするなぁと思った。
個人的には、のちに瓠公は脱解王の家臣になったから、(裁判になったとはいえ)案外、脱解が子ども?ながらに謀っていたことを本当は分かっていた可能性もあるのではないか、いろいろ思惑があり「(裁判も織り込み済みで、将来有望な人物に)貸しをつくった」という解釈も可能かもしれない、と考えている。


雲が少しでも切れてくれたらなぁ、夕景の瞻星台を見たいなぁと、期待してもう一度来た道を引き返したが、夕日には恵まれなかった。

石氷庫に行こうか迷ったが
パスし、瞻星台から東に歩いた。

雁鴨池の方へ国道7号に合流する手前に露店があったが、その横に目を惹く鳥瞰図があった。


CGを用いた昔の東京(高麗王朝は三京制ないしは四京制をとっていた。そのこともあって高麗時代の慶州は東京と呼ばれていた)を鳥瞰した復元図じゃないかと思う。
(ストリートビューでは高麗時代の1300年頃の鳥瞰図2017年4月撮影の分で似た鳥瞰図が表示されるが、私が写した画像とは異なっている。たぶん数年以内にいっそうの適切化を図った鳥瞰図を私は目にしたのだろう)
画面の下半分に弓形に流れている川は月城の南を流れる南川だろうし、左の古墳群は今の大陵苑だろう、また右端の8層か9層くらいある塔は皇龍寺の塔か。月城を中心にしたかつての高麗時代の整然とした東京(慶州)の姿に驚くばかりだった。



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鶏林  


瞻星台から月城の方へ。


新羅か高麗時代の建物跡っぽい。


韓服の女性たち。慶州は晴れ着や民族
衣装を着ての撮影ポイントが多そうだ。


鶏林(ケリム)

新羅は、その前の名前を斯盧国(サログク)と言ったが、斯盧国は朴赫居世(パクヒョクコセ)を君主として国がつくられた。王位は朴氏から昔氏、金氏へと受け継がれたと建国説話にあるが、王位を受け継いだ金氏の始祖に金閼智(キムアルジ)という人がいて、鶏林は金閼智誕生の場所である。


祠堂だ

金閼智誕生の碑
1803年に建てられた

慶州金氏の始祖の誕生といってもその内容は伝説めいている。
斯盧国(新羅第4代)の王の脱解王(タレワン)の家臣の瓠公(ホゴン)が、この林の傍を通りがかったら、林の中で何かが輝いていて、近づくと木の枝に金色に輝く櫃(ひつ)が下がっていた。その下で鶏が鳴いていて、櫃を開けてみると男の子が現れた。それでその子の姓と名が金閼智とつけられたのだ、というのがその内容だ。
古今東西問わず、よく聞かれるような伝説だ。特に林の中で何かが輝いていたというパターンは(笑)。







瞻星台のにぎやかさとは対照的に
静かで落ち着いた雰囲気だった。



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昨年五月から屋内でも近距離で延々と会話しなければマスク原則不要だったが、一昨日の3/13に至って、ようやく屋外・屋内問わず密でさえなければマスクをしなくてもよいこと、または各自の判断が前提に来るようになったように思う。
一昨日も昨日も買い物に行ったり飲食店を利用するときにマスクを付けなかったが、本当に一つストレスが減ったと思う。呼吸が楽だし眼鏡が曇らない。
ただ、髭や鼻毛の手入れやメイクを怠ってもマスクで誤魔化せないこと、引いてはメイク商品などにまたお金をかけねばならないことがストレスになるという意見も、まぁ分かる。


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瞻星台(せんせいだい)

汶湖社の目と鼻の先にある瞻星台(チョムソンデ)は「三国遺事」などの記述から、新羅第27代の王・善徳女王(ソンドクヨワン、632-647)の時に造られた、韓国では東洋最古の天文観測台といわれている。



個人的には「史記」に占星や星座に関する膨大な記述が既に存在しているし、古代中国に天文観測台が無かったというには無理があるので、現存しているもので東洋最古である可能性があるというふうに留めるほうがいいと思っているが、それはそれとして、古代でも星の動きを観測するのはとても重要だったことに改めて思いを馳せた。


高さは9.4m、下部の直径は5.17m、
基壇部分の長さは5.35mあるという

一番下の基壇は花崗岩を加工して造られていて、その上に徳利のような円筒形に石を27段積み上げ、その上に「井桁」状に組み上げた構造物が乗せられている。
塔に使われている石の数は全部で362個、陰暦の1年の日数だという。また出入口を基準にすると井桁部分までが12段、基壇部分までが12段で、二十四節気を象徴していると考えられている。井桁の四辺は正確に東西南北に面しているそうである。
一般的には天文観測に使われたと考えられているが、平地にあるため祭壇として使用されたとする学説もある。


右の子どもが、いい
アクセントになってる(笑)


日曜なので瞻星台も家族連れが多かった。瞻星台の前では韓国の昔の衣裳で写真を撮る人も多い。もちろんネタのような写真を撮る人たちもいてとても楽しそうだった。



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転害門

実は、この件以降に2回ほど奈良に遊びに行った。






奈良にはコロナ禍前だろうが以降だろうが何度も行っているので、マスク警察おばさんとの遭遇が奈良に対する印象の「一事が万事」ではないのだけれども、あぁいう不当な目に遭わないに越したことは無い。



鹿が珍しいアクションを
披露し歓迎してくれた(笑)

これから800万年ぐらいしたら、猿人ならぬ鹿人に進化するのかもしれぬ。


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道なりに瞻星台の方に向かっていると、それらしい通り抜けられそうな舗装路があった。


広いところに出た。
日曜の雰囲気だなぁ。

中国で見かけるような石碑と古めかしい建物に目が行った。石碑の真ん中の部分は現代の技術で補ったものだろう。
石碑は前人の勲功を後世に伝えるために、堅石に文を刻み建てられるものだが、


觀瀾李先生倡義碑

とある。觀瀾というのは称号だろうから、要するに李先生が倡義(唱義)したのを記念する碑なのだ。
では李先生がどういった勲功をあげたのか?


解説はハングルでなされていた…

李先生については後ろの汶湖社という建物とともに解説があったが、ハングルでなされていた。
解説板によると李先生の正式な名前は李承曾(イ・スンジョン)で、そのあとに李承曾の勲功が紹介されている。私にはきちんと読みこなせなかったが、ここに述べられている
宣祖 25년(1592) 임진왜란이 발발(勃発)
というのは「宣祖 25年(1592)・壬辰倭乱(イムジヌェラン)が勃発」という意味なので、李承曾が、豊臣秀吉の命令を受けて朝鮮半島に上陸した日本の大名や武将と関係するというか、ずばり彼は第一次朝鮮出兵・文禄の役で朝鮮王国側の人間として戦ったことが分かる。


汶湖社(문호사,ムンホサ)

汶湖社は、朝鮮中期の性理学者・觀瀾(称号) 李承曾(イ・スンジョン)先生の書院遺跡地で、ここで忠孝精神を(門下生?)らに教え、〔思想を〕唱え続けた。
李承曾は新羅の佐命功臣・諱謁平の子孫で、司馬両試という難しい〔国家〕試験に合格したものの国からの官爵を固辞しつづけて、〔この場所で〕後進育成に専念したが、第一次朝鮮出兵・文禄の役(壬辰倭乱)が勃発すると、78歳の老齢にもかかわらず慶山慈仁で(国難に際し)義兵を起こし、敵陣を大いに打ち破った。
そして、大邱地方の士林〔派〕に「〔お前たちは〕忠義や忠孝心しか言ってないが国の危機なのになぜおとなしくしているんだ!?」と檄文を発し、それを読んだ大邱とチョンドの民が発起し共に郷土を防衛した。
李承曾は85歳で亡くなったが、王国が葬儀を営み、士林〔派〕は彼の祠を建て祭享を行なった。
彼の子孫?は李承曾の思想の内容の写本を収集し、1821年に「觀瀾・李先生文集」を出版した。
(※義兵とは外敵の進入に際し、国家の命令や徴発を待たずに自発的に立ち上がった民兵をいう。)
(あくまでハングルについては素人以下なので、この大意は誤った訳および意味になっている可能性があるゆえ、そこは自分で調べてやろうという気概でいていただきたい。できれば、詳細について、李承曾が処士なのかどうかも含め、ご存知の方からさまざまなご指摘をいただければありがたい。)

解説板の内容の大意としては、こんな感じだろう。
つまり、石碑の内容は「觀瀾・李承曾が国難に際して義兵を起こした碑」ということになる。また觀瀾は中国の孟子の言葉で「水を観るに術あり、必ず其の瀾(波)を観るべし」からきていて、流れを見極めることを述べたものだそうだ。
ちなみに、性理学というのは、朝鮮王朝の党派の一つである士林派(サリムパ)が政治力学の根本に置いた学問というか思想のことだ。朝鮮朱子学とも大いにかかわりがある学問だが、朝鮮出兵で捕虜として日本に連れて来られた儒学者が「朱子学」を日本にもたらしたこと、「朱子学」と目にするだけで学校で習った林羅山や新井白石といった名前とともに江戸時代の学問のことが頭に浮かぶ方もおられよう。
これらの内容は帰国後に調べてみて分かったことであり、現地では「1592年」と「壬辰倭乱」ぐらいしか分からなかった。
ただ、これまで豊臣秀吉の時代の朝鮮出兵で半島に渡った日本側の武将たちについては関ヶ原に行ったきっかけから、それなりに知ってはいたが、朝鮮王朝側の将軍や武将は、義兵を強化し水軍を率いた李舜臣(イ・スンシン)と、本の中で少しだけ紹介されていたことをかろうじて覚えていた「紅衣将軍」郭再祐(クワク・チェウ)しか知らなかったこともあり、李舜臣や郭再祐以外で勲功をあげた現地の思想家・学者縁の建物や石碑を目にすることができていたことは、本当に貴重なことだったと思うのである。


凧がたくさん上がっていた

やっぱり木に引っかかって
取れないものもあるわな(笑)



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皇吾洞古墳群

慶州駅から少し歩くと目の前に皇吾洞古墳群が現れた。

電柱が少ないのも印象に残った。






慶州中心街には大古墳群がいくつかある。この古墳群には、3世紀から6世紀中頃まで墳墓が築造され続けたものが残っているそうだ。大小のものが密集しているが、その多くは盛り土が失われたために平らになっている。今では約10基だけがその形を保っているとのことだ。


どこかしら奈良っぽい感じがした。
個人的には藤原京跡や唐古・鍵遺跡
史跡公園 の周囲の風景と似ている?

あの白い目立つ建造物、
チョクセム遺跡発掘館?



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慶州駅

城東市場から東に横断歩道を渡ったら2021年の年末に廃駅となった慶州駅だ。駅舎や線路は歴史的価値があるとされ準鉄道記念物に指定され保存されている。






駅舎構内を使って書道作品の展示が行なわれている期間だったようで、自由に鑑賞できた。


日本からも出展があった。


市場で満腹になった
こともあり、ゆっくり
歩いて駅から南の方へ

古墳群だ



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韓食  


城東市場

城東市場の前でバスを降りた。市場では(2022年10月下旬現在で)8,000ウォンで食べ放題のフードコートが朝5時から夜まで営業しているとのことで、やっぱり空きっ腹には食べ放題かなと思ってやってきた。(市場は月に2回ほど特定の休みの日もあったはずなので、もし行きたい方は事前に確認を)






14時を回っていたが、フードコートを目指しまっしぐらだった。早くご飯が食べたいと思っていたせいか、ブレた画像が多くなった。


フードコート内のこちらの
お店で遅い昼食を摂った。
お客さんの「おかわり」の
お椀が差し出されている(笑)


画像では小さく見えるかも
だが、けっこう盛れるのだ。

フードコート内のどの店でも、「いらっしゃいませ」といった言葉はなくて、客に大皿を手にするよう促し、バイキング形式で「どれでも皿に盛っていって下さい」と言われ、大皿におかずを一旦盛り終えると飯(パプ)を盛った銀色のお碗を出され、「スープはどれにする?」と訊かれ、あれよあれよという間に品が揃い、客は席について食べ始めるというのが当然の流れ、という感じだった。基本はセルフサービスなのだが、ご飯とスープは席まで持ってきてもらえたりした。
前払いなのかどうかと訊くのもまどろっこしく思ったので、周りに習い私もさっさと食べ始めた。
韓国国内での初めての韓食は家庭料理となった。空きっ腹も手伝って、めちゃくちゃ美味しかった。おかずも更に盛ったし、ご飯のおかわりもお願いしたので、
더 주세요(ト・ジュセヨ、おかわりください)
という表現は積極的に使った。
食べ終わり一服してから現金で8,000ウォン支払った。他の客がカードで支払っていたのを見て、カードを出してみても良かったかもと思った。


キムパプ
左上はおでんの出汁

腹8.5分目くらいにはなったので出かけるには十分な元気が湧いてきたのだが、フードコートを出るとおでんとキムパプ(海苔巻き)の屋台もあって、そこのおばちゃんと目があって足を止めたらキムパプに目が行ってしまった。
あの感じはなんだろう、おばちゃんの放つ客が自ずと注文しなければならない雰囲気の流れになぜか乗ってしまい、腹が膨れているのにキムパプ一貫ぶん(3,000ウォン)を頼んでしまった。
持ち帰るのもどうかと思ったので、そこで食することにした。おでんの出汁と副菜の気遣いがありがたかった。美味しかったがお腹がパンパンになってしまった。



フードコートは市場の一区画にあり、他の区画は食材や衣類や家電類などさまざまな店が入っている。


麺があふれんばかり
ということか(笑)


魚介類も美味しそうだった

市場の周辺も露店が並ぶ。



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