デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 






おっ?


図鑑で見るような鳥がいた


紅葉が綺麗で水面にも映えていた


カメラを変えるとこうも色合いが異なる



後ろに皇南大塚



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デンバー・ナゲッツの初優勝も喜ばしいニュースだったのだが、個人的にはハスレム選手が引退したことのほうが印象深い。
ウェイド選手らが活躍した頃のヒートが優勝したときの縁の下の力持ちで、熱いプレースタイルとともに、マッチアップの選手に対して、たまに少し頭に血がのぼった時は怖い雰囲気があったがそれがまた魅力だった。私の中ではリバウンドの競りももちろん強かったが、ここぞという場面でコーナーからのシュートが何度も決まって、それが最終クオーターのチームの勢いに直結して勝利をもぎ取る試合が鮮烈だった。
これからもチームと何らかの形で関わってマイアミに貢献するとのことで、バスケットボール以外でも活躍を期待しています。長い間お疲れ様でした。


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味鄒王陵(ミチュワンヌン)入口


ハングルと英語のみの解説だった…


人が少なくなるまで待った。


味鄒王陵(ミチュワンヌン)



味鄒王は伯済国(のちの百済)の攻撃を何度も凌いだ。農業を奨励した王としても知られる。
金富軾(キムプシク)が著した『三国史記(サムグクサギ)』には「味鄒王は、民を慈悲深く思い、五人の使者を各地に派遣して、民の苦衷を聞き、在位すること二十三年で崩御したので大陵に埋葬した」との記述があり、「大陵苑」の名はこの故事に由来している。彼は慶州金氏として最初に王となった人物で、金閼智(キムアルジ)から7代目の子孫にあたる。味鄒王から新羅は滅亡まで金氏の者が代々王となった。

玉座に相当? ここに子供を座らせて
写真を撮る人も、ちらほらいた。

遠足?の高校生たちが
賑やかに入って行った。



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大人子供かかわらず豪華な
衣裳を着た人が通り過ぎるのを
目にしながら一休みした。


カササギがいた


最初、この二つの古墳が
「皇南大塚」だと勘違いしていた。


韓服で訪れ、撮影ポイントで
楽しむ人も多かった。しかし
靴だけは現代的だなぁ(笑)


味鄒王陵(ミチュワンヌン)だ。



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シルクロードを渡ってきた
ガラス杯(レプリカ)



天馬塚の概要については前回の画像にあったとおりだが、天馬塚に埋葬された人物については分かっていないのだそうだ。
ただ副葬品が非常に豪華で発見された金製の帯もとても長いことから、強い権力を持った大柄の人物だったという推測はなされている。可能性として埋葬されたのは新羅第22代の王・智証王(チジュンワン)(在位)500~514)ではないかと考えられている。

天馬塚の外来遺物の説明が
あった。新羅は陸路も海路も
使い東西と交流していたようだ。





韓服?で入場する人も
ちらほら見かけた。



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天馬塚


天馬塚入口





中に入ると「ここはお墓ですので厳粛な気持ちを忘れず、騒いだりしないでください」みたいな注意書きがあった。

発掘時の模様が
再現されている

馬の泥よけかな?

古墳に天馬塚の名がつけられたのは、副葬品として出土した白樺製の馬の泥よけに天馬の絵が描かれていたところからきている。



再現された天馬の
絵の泥よけ。


天馬塚に展示されている副葬品はレプリカだが、オリジナルは国立慶州博物館で見れる

解説がわかり
やすかった

こちらもレプリカ



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今大会の女子ダブルスの加藤未唯(日本)、アーディラ・スーチャディ(インドネシア) 組と、マリエ・ブズコバ(チェコ)、サラ・ソリベストルモ(スペイン)組 とボールパーソンの騒動については正直いやな気持ちを抱いていた。加藤選手の返球は不用意であったことは動画を見た限り確かで、その点は非があったと思うし、警告が与えられても甘んじて受け入れざるを得なかったろう。
ただその後の「(映像を確認することなく)協議→加藤、スーチャディ組の失格、賞金・ポイント没収」の流れに対しては、単に裁定者が情に流されてしまった可能性が高いとはいえ、もし加藤組が白人女性プレイヤーのペアだったなら失格の裁定が下っていなかったのではないかと、私は未だに思っているのだ。
白人であれば警告があろうがなかろうが試合を続行した可能性は、残念ながら、紳士やフェアであることを謳うヨーロッパ貴族が愛好するスポーツ競技で時々見られることだし、夏のスポーツや室内競技だけでなくウインタースポーツでも過去の事例を挙げだしたらきりがない。
女子ダブルスでの騒動が尾を引いて、混合ダブルスでも加藤選手がすぐに敗退していたとしたら更に後味が悪くなっていたろうが、最良の結果となってよかった。
スーチャディ選手にさらなるチャンスが訪れることを祈ります。加藤選手、ティム・プッツ(ドイツ)選手、おめでとうございます。


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大陵苑の後門(裏門)

大陵苑(テヌンウォン)には太宗路に面した後門から入場した。正面入口は南にあるようだ。
入場料は3,000ウォンだったが、CCが使えなかったので現金で支払った。ここにあった券売機のタイプ、雁鴨池のタイプと同じじゃないか?と思った。私のカードでは使えないパターンの一つが分かったかもしれない。
カード払いはできなかったが、翌日に帰国なので現金のウォンはなるべく使い切るようにしたかったし、丁度良かったのかも。

花壇のリュウノヒゲが
ハートの形に(笑)


皇南大塚(ファンナムデチョン)

上の皇南大塚は大陵苑にある古墳群の中でも一番規模の大きなもの(東西120m、南北80m、高さ23m)で、連なった2つの古墳(北墳と南墳)からなる瓢箪型の古墳だ。
1973年に行なわれた発掘調査では副葬品として北墳からは金冠、金製首飾り、腕輪などが、南墳からは武器や馬具類が比較的多く発見された。北墳から出土した金製装身具の数は、現在まで調査された新羅古墳の中で一番多い。装身具のほかにも西域から伝わったものと見られるガラスの杯も発見されている。さらに北墳からは「夫人帯」と銘のある銀製の帯具が発見された。このことから埋葬されたのが女性であること、この古墳が新羅最大の夫婦古墳であることが明らかになった。夫が先に亡くなり、南墳に埋葬され、後年、夫人を埋葬する北墳が南墳のすぐ横に造成されたのである。北墳の副葬品が豪華なことなどから、夫人のほうが夫よりも身分が高かったのではないかとの推測もされている。
出土品についてはこちらを予め見ていたものの、現地では博物館で見た出土品と皇南大塚とが頭の中で一致していなかった。ただ、一際デカいな、という印象はいだいた。





苑内図

大陵苑は街のほぼ中心にあるのだが、ここには新羅時代の古墳が大小23基も集まっている。
皇南大塚の他にも、きらびやかな金冠をはじめ1万点以上の副葬品が出土した天馬塚(チョンマチョン)、新羅第13代の王・味鄒王(ミチュワン)(在位262~284)の陵墓と伝えられる味鄒王陵(ミチュワンヌン)が特に有名とのことだ。



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何事かと思ったが


水路にいた

少し前に下の記事


を読んで、鹿ってお辞儀するの?と正直おどろいた。ここ数年何度も奈良公園に行っているくせに、まったく気付かなかった。
もう奈良公園に行っても「鹿せんべい」を買って鹿にやったりしなくなって久しいし、過去にせんべいをやったときに鹿からお辞儀されたことなんかあったっけ?と個人的には思う。私の印象ではせんべいを持っている手に向ってまっしぐらに来るのが奈良の鹿だ。
ただ、「鹿」「お辞儀」などの言葉で検索してみると、観光客を前に鹿が頭を上下に振っている動画が出てくるしそれを見ると、たしかに、まるでお辞儀しているように見える。
記事の中で

「海外ではコロナ禍でヒトが外出しなくなったら、住宅街に住み着く鳥が鳴くようになったなどの報告がなされている。野生の動物がヒトとふれあう中で獲得した行動が、ヒトとふれあわなくなるとどうなるのかという影響にはまだ分からないことが多い」

と語られているが、まさにその通りだなと思う。人間もコロナ禍にあって他人と触れ合わなくなってどうにかなってしまったような人もいたことだし。


鹿にとってみれば人間社会の
コロナ禍の騒ぎなんかどうだっ
ていいことだったろうなぁ。


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ファランロからGyerim-roへ
左折し太宗路に向う。

城東市場から大陵苑(テヌンウォン)まで歩いて行くことにした。


Gyerim-roは若者向け?の
店が並んでいる通りだ。


太宗路(태종로、県道4号線でもある)に出た



大陵苑だ


新羅大鐘





路東里古墳群


慶州では入場料が必要なくとも目を見張る古墳群を横目にしながら歩けるんだと改めて思った。

大陵苑まであと少し



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