ぱたぱた仙鳩ブログ

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拓本講習会

2012年02月10日 | インポート

Sakurama 2

10日(金)、今朝、早くから、名西郡石井町高川原の桜間神社のご神体である、桜間池石文の碑陰の拓本を採らせて頂きました。これは、石井町の高川原小学校6年生のふるさと学習の一環として、教育委員会の許可も得た拓本採取で、小学生の前で石文と拓本の解説も行ないました。

学生数名に手伝いを頼み、朝8時には現場に到着しました。桜間には昔、大きな池があり、和歌集にも詠まれた、全国的に有名な名所だったのですが、江戸末期には池も荒れていました。当時の徳島藩主が江戸で将軍から、この桜間池のことを聞かれてしっかり答えられず、帰国後に改めて池の整備をし、その折に巨大な石を阿波南部の海岸からいかだで運び、池の脇に据え付け、記念に碑陽には当時の幕府右筆の屋代弘賢が連綿の和文で由来を書き、碑陰には柴野碧海が楷書の漢文で書いたものです。この2人は、学者・書家として重要ですので、略歴を記載しておきます。

屋代弘賢 (やしろひろかた)  宝暦8~天保12  (17581841) 84

江戸の生まれ。初名は詮虎・詮賢・詮丈、通称は太郎吉・太郎・大郎、号は輪池。書を森尹祥に学び、持明院流の名手であった。国学を塙保己一に、和歌を冷泉為村に、儒学を山本北山に、故実を伊勢貞春(安斎の子)に学んだ。阿波藩儒から幕府儒官に転出した柴野栗山の書記となり、寛政4年には奈良・京都などの寺社の調査に従った。その縁で栗山の仲介で阿波藩主蜂須賀斉昌の国学の師を務めた。また文政5年には、国学の師である塙保己一を助けて『群書類従』の編纂・刊行に当たった。さらに幕府の右筆となり、幕命を受けて『古今要覧稿』などの編纂に従事した。阿波石井の桜間池石文の碑表は弘賢が書き、碑陰記は柴野碧海が書いている。死後、遺言により私蔵書「不忍文庫」6万冊が蜂須賀家に寄贈され、柴野栗山の寄贈本と合わせて「阿波国文庫」と称し、有名だった。

今回は、時間の都合もあって、碑陰のみの拓本を採りました。この石は6畳の部屋一つ分ほどの巨大な石で、これを運ぶのに、7年間、数千人の人員を要したということです。碑陰の面も大きく、大画箋2枚分ほどあります。寒い中、水を使うのは大変でしたが、なんとか良い拓本ができ、小学生たちにも説明がうまく伝わったようです。なお、小学生はこの見学の後に鳴門に移動し、焼き物の絵付け体験をしたということです。なかなか良い学習プログラムです。

柴野碧海は、叔父の栗山があまりにも有名なために、蔭に隠れた儒学者ですが、実は才能豊かで人脈も広く、徳島の学者を大勢育てました。書も穏やかで魅力的です。この碑陰は彼の代表作と言ってよいでしょう。

Isikawa_2 午後は、近くの石川神社に移動し、さらに板碑の拓本を採りました。この神社には鎌倉時代中期以来の板碑がたくさん建てられていました。そのうち、文字のしっかり残っている江戸時代の板碑を2基選んで採拓しました。これも高川原小学校からの依頼によるものです。

学生たちの協力もあって、午後3時にはすべての作業が終わり、小学校で校長先生に拓本をお見せし、少しお話してから帰りました。これらの拓本は後日額装されて小学校に展示されるということです。地域の石碑に関心をもち、文化財として大切にしてくれる若者が多く出てきてくれることを期待しています。