7月26日
貧乏な作家があって、彼の作品は、彼が貧乏であるがために人を感動させている。
しかし、彼が一旦貧乏でなくなると、頓に作品に生彩がなくなる場合が多い。
貧乏が如何に作家の心を緊張させるものであるかが判る。
同時にその作家は、貧乏だけに頼って生活していたことを暴露するものだ。
自分なども、貧乏だけを頼って生活している一人のような気がする。
世には富だけを頼っている生活があり、そういう生活は勿論度し難いが、
我々のごとく、貧乏だけを頼りにしている生活も、なんとあらぬ方向に向いた生活だろう。
これは昭和16年に発表された侘日記の中の1つだが、たぶん昭和12年の日記だと思う。
今日はこれを選んでみた。
それはなぜかと言えば、私自身の精神の根底にあるのが、これに似た認識なのだと最近気づいたからである。
それは、7月1日のブログに書いたものに通じる。
なんで、こういう考えに支配されて生きてきたのだろうと思うに、
それは、過去の小説家や詩人や歌人や音楽家や画家などに、一生貧乏で過ごした人が多いからということがあるように思う。
例えば、石川啄木の「一握の砂」みたいなものである
働けど働けど 猶 わが生活 楽にならざり じっと手を見る
このような作品を生み出すには、貧乏でなければいけないのだ。
そうして、そういう人の人生を私自分が尊重しているのだと思う。
そのような人は、ここで上林暁が書いているように、
「貧乏であるがために人を感動させている」面が強い。
だから、私は、無意識のうちに、人間は貧乏でなければいけないと思って生きてきたのだ。
しかし、それは上林暁が書いているように「貧乏だけに頼って生活している」のであった。
一方で、富だけを頼りにして生きている人もいる。
お金持ちになり、贅沢をすることを心のよりどころにしている人がいるのだ。
そういう人はいやだ。
でも、貧乏だけを頼りにするのも、妙な生き方だと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます