実家からの帰りの電車で三木卓の「K」をやっと読み終えた。
これは、図書館で借りている本なのだが、そういえば、前回帰省したときも持ち歩いていたわけで、1か月以上もこれを持っているということである。
つまり・・・本の貸し出し期間は2週間なのに、どれだけ返却が延滞しているのか?
早く返さねば!
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本の内容になるが、これは著者である三木卓氏の妻、福井桂子さん=Ⓚのことが書いてある。
ほぼ実話なのであろう。
出会ってから一緒に暮らし、それからの結婚生活の様子が書かれ、娘が生まれ育ち、小説家と詩人というちょっと変わった夫婦の形態、別居生活、家族の姿が描かれていた。
Kは一風変わった個性を持っており、夫婦それぞれの生い立ちや境遇から形成された人格などが、素直に分析されて描かれている。
私は、三木卓氏の「裸足と貝殻」などの作品を読んだことがあり、本人の講演も聴いたことがあるが、ほがらかで優しい人柄の人であった。
この「K」を読んでいても、この人は、基本的に優しく思いやりのある人で、等身大の自分と妻を素直に描いているという印象を受けた。
三木卓氏は、どちらかといえば、妻のやり方に合わせている夫であり、最終的には病気になった妻の闘病を支え、妻が亡くなるまで妻を守った。
妻の詩人としての活動を見守り、著作にも協力した。
当然ながら、誰よりも「K」のことをよく理解している人間であり、Kの一生を残すために、年月を振り返って綴ったのであろう。
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これを1つの作品として見るとしても、どうしても実在の三木卓・福井桂子夫妻のことを想い描いてしまうし、それから私自身の歩んできた年月も思い出してしまう。
人はそれぞれの独特の境遇の元に生まれ、それを背景としてその環境の中で成長し、それぞれの人格を持ち、そして夫婦として共同生活を始め、子供を育てるなどし、そうしてお金を稼いで生活を成り立たせて生きてきて、いずれは老境に入り、癌などの病気にもなり、どちらかがどちらかを看病したりして一生を終えるのだ。作家や詩人は自分の人生を作品として残すこともある。
私自身も60代中ごろになり、どんな病気になるかもしれず、もしなったら闘病しなければならず、そうして必ずいつかは人生を終える時が来る。夫婦であれば、生き残ったほうが見送ってくれるだろうし、子どもが居れば子供が見送ってくれるだろう。
人生には絶対に悔いがあり、やリ残したこともあるだろうけど、結局ああだったこうだったと可も不可もなく、その事実を思い起こして、肯定するしかない。
自分も高齢者の部類に入るような年齢になったので、先が見えてきて、過去を振り返ることも多くなった。でも、まだある程度の期間の晩年をすごす予定であり、それは有意義に過ごさないといけないなと思った。
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三木卓氏は今どうしているのだろうかと、この本を読み始めたときに調べてみた。
そうしたら、ちょうど1年前くらいに亡くなっていることがわかった。2023年11月18日に老衰で逝去されたとのこと。妻を亡くしてから16年生きられたようだ。
昭和10年生まれで88才だったので、男性にしては長生きされたようだ。
この本は70代の時に書かれたものだったが、実際には、私の母と同世代なのだから、そりゃあ年も取るわけである。
著書の中に出てくる娘さんに関しては、今どうされているのか情報が出てこなかった。年齢を概算すると、私より5才くらい若いことになる。
娘さんが小さいころに破傷風にかかったというのは、「K」の中にも記されているが、「震える舌」という小説があり、その壮絶な闘病の状況が描かれていて、映画にもなっているそうだ。それも実体験なのではないだろうか。
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三木卓氏が生きているうちにもっと関心を持っていろいろな作品を読んだり、消息を気にしていればよかったなあと思うのだが、仕方がない。
「K」はたまたま図書館の棚でみつけたもので、それを手に取ったのは、全く知らない作家ではなかったからだ。
この年になると、なにか昔のかかわりを足掛かりにして、それにもう一度接近してみる、というような行動しかできなくなってきているような気がする。
それでも、それでよいのだろう。
実際には図書館で自分の知らない「森博嗣」という人の本を探していて、書棚を眺めていたのだけど、その近くに懐かしい「三木卓」という名前を発見して、思わず手に取ったのだった。
両方借りてきたけど、結局「三木卓」だけ読み終えた。
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