3日間の休みが終わった。
結局、この3日間、いつもの休みのごとく何もしなかった。
何もできないのだ。なぜできないのかわからない。
全く、行動力がなくなり、ひたすら布団にもぐって眠るのみである。
すべてのことが煮詰まっているし、ヤル気が起きない。
小林多喜二の本といっしょに、伊藤整の本も借りてきた。鳴海仙吉を読み始めたが、読み続ける気になれない。面倒くさいのだ。悠長なのだ。やはり私にとっては蟹工船のほうがちょうどいいのかもしれない。鳴海仙吉は若い頃読み始めてやはり続かなかった。それを、自分が若いからだと思っていた。今になったら、自分も40代後半なんだから、中年の心情はよくわかるはずだった。しかし、どうも、最初のうちはどうでもいいような内容だ。
自分が好きだと思いこんでいる作家が、実は自分に合っているわけではないのかしれない。
それは、普通の人間でも同じことだ。なんとなく、この人は自分に合っているとか、自分と理解し合えそうだと思いこんでいることがある。しかし、意外にそうではないのかもしれない。全然気が合わないとか、自分とは違うと思っている人間が実は自分に合っているのかもしれない。
昼寝をたらふくした後、今度は北野武の「余生」の続きを読み始めた。これは読みやすいから半分くらい読んだ。タケシも私とはかなり違う人間だと思った。
そういえば、この人のことは以前は全く関心を持っていなかったのだ。だから、フライデー事件のことも全然知らなかった。
私がこの人に関心を持ち始めたのは、北野氏がバイクの事故を起こして、その傷で顔面神経麻痺になり、その後回復したが、後遺症が残っていて、その後遺症の様子が、私の顔に似ているからである。つまり、おにぎりを食べたときの目の閉まり具合が同じだからだった。そして、また、偶然にも誕生日が同じということを知った。
しかし、考えてみれば、共通点はたったそれだけのことなのだと思う。
何もかもが、自分に合っているわけではないと思い始める。
たとえば、仕事だ。なんで機械だの化学だのの文書を校正しているのかわからなし、なんでそんなことのために放送大学で勉強しているのかもわからなくなってくる。
なんで自分は好きでもないことをしているのかわからないが、だからといって、好きなものが何なのかもまるでわからなくなるばかりだ。
結局、この3日間、いつもの休みのごとく何もしなかった。
何もできないのだ。なぜできないのかわからない。
全く、行動力がなくなり、ひたすら布団にもぐって眠るのみである。
すべてのことが煮詰まっているし、ヤル気が起きない。
小林多喜二の本といっしょに、伊藤整の本も借りてきた。鳴海仙吉を読み始めたが、読み続ける気になれない。面倒くさいのだ。悠長なのだ。やはり私にとっては蟹工船のほうがちょうどいいのかもしれない。鳴海仙吉は若い頃読み始めてやはり続かなかった。それを、自分が若いからだと思っていた。今になったら、自分も40代後半なんだから、中年の心情はよくわかるはずだった。しかし、どうも、最初のうちはどうでもいいような内容だ。
自分が好きだと思いこんでいる作家が、実は自分に合っているわけではないのかしれない。
それは、普通の人間でも同じことだ。なんとなく、この人は自分に合っているとか、自分と理解し合えそうだと思いこんでいることがある。しかし、意外にそうではないのかもしれない。全然気が合わないとか、自分とは違うと思っている人間が実は自分に合っているのかもしれない。
昼寝をたらふくした後、今度は北野武の「余生」の続きを読み始めた。これは読みやすいから半分くらい読んだ。タケシも私とはかなり違う人間だと思った。
そういえば、この人のことは以前は全く関心を持っていなかったのだ。だから、フライデー事件のことも全然知らなかった。
私がこの人に関心を持ち始めたのは、北野氏がバイクの事故を起こして、その傷で顔面神経麻痺になり、その後回復したが、後遺症が残っていて、その後遺症の様子が、私の顔に似ているからである。つまり、おにぎりを食べたときの目の閉まり具合が同じだからだった。そして、また、偶然にも誕生日が同じということを知った。
しかし、考えてみれば、共通点はたったそれだけのことなのだと思う。
何もかもが、自分に合っているわけではないと思い始める。
たとえば、仕事だ。なんで機械だの化学だのの文書を校正しているのかわからなし、なんでそんなことのために放送大学で勉強しているのかもわからなくなってくる。
なんで自分は好きでもないことをしているのかわからないが、だからといって、好きなものが何なのかもまるでわからなくなるばかりだ。
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