山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

レインボーブリッジ

2018-02-09 00:12:19 | 車・運転・道路・駐車場2018


お台場から帰るときのドライブレコーダーの映像から画像を保存してみた。
レインボーブリッジを渡ったという記録を残しておかないと、あとになって、本当に渡ったのかわからなくなってしまうかもしれない。

人の記憶っていい加減なものだから・・・。
それに、走るのに必死で、ドライブレコーダーでも見てみないと、どんなだったかも記憶にない。



左側に何かある。(あとの写真を見ると三角の部分が写っている。)



結構人が歩いていた。私も歩いて渡ってみたい。徒歩だとかなり距離があるのかもしれない。



だんだんカーブになる。



カーブを曲がっているときに、右車線からいっぱいぬかされて行った。
私は、今回、初めて走る都心方面だったので、初心者マークを付けて走っていた。



レインボーブリッジが見えた! 今、走ってきたところ。
もう、すっかり渡り終えてしまったということだ。
(さっきの画像の三角の部分(あれはお台場側のもの?)が見える。)



そして、こんなところを走り、街の方に進んでいった。

・・・・

レインボーブリッジを渡る前に、ナビが右折しろというのを「無理です」「できません」などと答えつつ、2回も案内に従わないで直進をし続けた。
その結果、レインボーブリッジを渡ることになったのだった。

ドライブレコーダーを見ながら復習すると、この度の、お台場往復では、右折の案内に従わない場面は多々あり。
「いやあ~、車線変えられないでしょ。無理ですよ~~、直進だね」などとナビと会話しながら走っていたのであった。
ナビよ、そのたびに、根気よく臨機応変に、別の経路を教えてくれてありがとう。

だいたい、左車線を走っているので、右折するには2車線くらい車線変更しないといけないのだ。

無理だよね。

そういえば、都心部では「この先、右側4車線をお進みください」なんていう案内もあって驚いた。
そんなに車線の多い道路を走ったのも初めてだろう。

レインボーブリッジは、上が高速道路のようだ。

以前バスで走ったときのブログはこちら。
「吉祥寺→大江戸温泉物語 バスの旅」

















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迷走:国立ハンセン病資料館にたどり着くまで

2018-02-07 23:22:02 | 車・運転・道路・駐車場2018
先週、東村山市青葉町の多磨全生園「国立ハンセン病資料館」まで車で行ったのだが、そこの駐車場にたどり着くまでは、実は迷走を繰り返し、1度はあきらめて帰ろうと思ったのだった。

ここに行くには、北原交差点から所沢街道を北西に向かってずっと進んで行き、「全生園東」という交差点を右折する。



ここは対向車が多いと、後ろの車をせき止めてしまうのだが、それは仕方がないとして、なんとか右折できた。

そして、すぐに左側に東門というのも見えたので、これで問題なく到着できると思っていた。

ところが、資料館とその駐車場となると、いったいどこなのか?たぶんここかも?でも違うかも?という感じで、「あっ、ここだ!」



と思ったときには、通り過ぎてしまっていたのだ。



カーブを曲がって進んでしまった。
その先の交差点を左折して、



どこかで回って来れると思って進んで行くと、狭い道が住宅に突き当たってしまい左折。



曲ると、ひえ~~雪が積もっているではないか!



バリバリバリバリ・・・凍った雪の上をタイヤが・・・無事雪の上を通過できて一安心。


そして、また道が突き当たってしまった。



安全確認しつつ左折したら、ぐるっと回って元の道に戻った。



それから、また資料館前の通りに戻ってカーブを曲がる。



今度は反対車線からで・・・、やはり、ここが入り口だ!という確たる決め手がないので、
対向車線からその敷地に入っていけるわけがない。もし違っていたら、どうやって戻るんだ?

それで、そのまま所沢街道まで戻ってしまった。

今度は、また来た道を戻り、1つ前の交差点まで走った。今、地図でみると「青葉町1丁目」という交差点になっている。ここを左折してみる。地図には「野火止通り」と書いてある。ちょっと走って左折して、うまく行ったら資料館のほうに行けるかも?



すると、何か団地みたいなところに入ってしまった。

またもや道路が狭くなる。今、地図でみるとそこは清瀬市で「都営竹丘2丁目アパート」と書いてある。



わけのわからない道。早く脱出したい。



こんなところに出てきた。この先を左折。



ものすごい右カーブを曲がったあとで、迷走はもう限界である。
車を止めてナビを「自宅に帰る」に設定した。



そうしたら、ここに出てきた。

その時はわからなかったけど、ドライブレコーダーの画像を見ると同じ建物が写っている。
最初に資料館を通りこして北方向に左折した交差点だ。今度は右(南)方向から出てきた。
地図で見ると「竹丘3」と書いてある。
ここを左折。
また資料館の通りに出られたんだけど、やはり対向車線から右側にあるものだから、よく見えず、そこが入り口だという判断がつきにくい。
観光施設と違って「資料館駐車場⇒」などという目だった表示はないのである。

やはり、場所を確認するには反対側から走ってこないとダメだ。

そこでとりあえず、東久留米のイオンに戻って、仕切り直すことにしたのだ。

ハアハアハア・・・

自宅を出たのは、遅めの朝ごはんを食べてからだったので、ちょうど昼ごろに資料館に着くはずだったが、迷走を重ねた後に、そこからイオンに戻った。
駐車場は1~4階まで満車で、5階に置いた。
それからランチを食べようと思ったら、超満員で、フードコートのテーブルが全然空かず、ぐるぐるとフードコートの中を歩き回り続けた。
1時半くらいになってやっとテーブルをゲットし昼ご飯にありつく。

それから、イオンで調味料や菓子を買い、車に戻った。

もう、家に帰ろうかと思ったけど、ここであきらめたら進歩は無いと思って、また東村山青葉町に向かった。

もう一度、全生園東の信号を右折。そして走って行った。
資料館の敷地の中に車が数台停まっているのが見えた。

ここに違いない。



無事到着した。



しかし、着いたのは、もう3時頃だったので、時間が足りなくなってしまい、資料館の中を見るだけで、外を見ることがほとんどできなかった。

今回、運転で学んだこと。
後ろから車が来ると焦ってしまってなかなか速度を緩められない。速度を緩めると後ろからクラクションを鳴らされると思っていたからである。いつもそうやってビビっているのである。
でも、こういう時には、早めに手前で、左ウィンカーかハザードランプを点滅させて、速度を落とすか、あるいは停まってしまって、後ろの車に先に行ってもらい、その後、ゆっくりと入り口や駐車場を確認すれば良いに違いない。

とりあえず、頑張って到着してよかった!


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国立ハンセン病資料館(5)

2018-02-07 01:13:36 | 旅行・街歩き
多磨全生園

資料館の見学を終えて外に出ると、もう4時20分くらいでした。
敷地内と散策したいと思っていたのですが、閉門までわずか10分くらいしかありません。
急いですぐ近くだけ歩いてみました。



桜並木。桜の季節にはきれいなんでしょう。



まだまだ雪がたくさん残っていました。



第一面会人宿泊所。家族の人が面会に来たときに泊まれるようになっていたのでしょうか。



第二面会人宿泊所。

ここまでしか行けませんでした。



また、今度、敷地内の見学に来たいと思います。




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国立ハンセン病資料館(4)

2018-02-07 00:55:37 | 旅行・街歩き
<体験談を視聴して>

資料館の中で、ハンセン病の人の体験談の映像を見ることができる場所がありました。
何個か、ヘッドホンと画面があって、座ってみることができます。
体験談を話す人も数人あって、自分で選んで視聴できるようになっていました。

その中で、私は自分の母と同じ歳の女性を選びました。確かその人も昭和7年生まれだったと思います。

その人は、6歳の頃に多磨全生園に連れて来られたそうです。父親はすでになくなっていて、おじに連れて来られたと言っていました。普段はいつも兄弟姉妹3人で行動しているのに、その時に限って1人だけ連れて来られたので、とても心細かったそうです。
療養所の中に入り、医者の診察を受けるのも怖くて泣いたそうですが、診察を受けている最中にオジサンは帰ってしまい、さらにその後も泣き続けたそうです。

その人のお母さんは、実は先にそこに入所していたらしいですが、その人は、物心ついたときから母と暮らしていたわけではなかったので、母に親近感はなかったようです。でも、それから、母に会ったと言っていました。

子供はやはり集団生活をし、そして包帯を洗ったり巻いたりする作業をし、重症な患者さんの手伝いをしたりしたそうです。患者には耳にウジのわいた男性などもいたそうです。

同じ子どもに家族の人が面会に来て、膝の上に抱いてもらっている様子等を見ると、羨ましかったそうです。自分には親がいなかったので、と言っていました。最初、実母が療養所内に居たようなことを話されていましたが、亡くなったのでしょうか。

大人になって、療養所の中の青年と結婚したそうです。そして、夫となった男性は断種手術を受けました。

この人の話によると、療養所内で妊娠してしまった女性は、子供が生まれないように中絶手術を受けるそうですが、中には中絶してもらえなかった人がいて(そう表現していました)、赤ちゃんを生んでしまい、その子を療養所の外の町に連れていって、誰かが拾ってくれそうな場所に置いてきたそうです。その子は誰かが拾ってくれたらしく、産んだ人は安堵したと言っていました。

子供の頃に療養所に入れられ、それから結婚した人は、最初から自分の子供を産むことはまるで想定していないのですね。産んだらその子もハンセン病になってしまってかわいそうだから生まれないほうがいいと信じていたようです。

この人は、私の母と同じ年だと思うと、少女時代は第二次世界大戦があって、日本中貧しく、健常者であっても辛い時代だったと思います。うちの母も、芋の蔓などを食べ、やせ細ってフラフラしながら労働をさせられていたそうです。

それでも、戦後はだんだん豊かになり、うちの母の場合は結婚して子供を2人産み育て、仕事もして暮らしを立ててきたので、それなりの楽しい人生だったでしょう。

たまたまハンセン病にかかってしまった人々は、そういう人生を送ることができなかったのです。
子どものときから年老いるまで、旅行等にも行けず、レストランでおいしい物を食べたりもせず、ずっとせまい範囲の世界で暮らしてきたのですね。

でも、この人は、夫と人生を共に歩めたことは、幸せだったのかもしれません。
しかし、夫は、後に癌で亡くなってしまったそうです。癌だと知った時が、亡くなった時よりも辛かったと言っていました。

私の父も癌で亡くなっていますが、病院で余命宣告を受けたときが、母や私たち家族にとって一番辛かったと思います。

この人は、近隣の施設の子供たちと交流を持つようになり、その子たちを自分の家族のように思って交流し、今ではその人たちの子供が大きくなってプレゼントを持ってきてくれるほどになっているそうで、孫がいるようだと話していました。

今まで、療養所でお世話になった先輩やおかあさん(寮母さんのような人かな?)などにお返しをするつもりで、人の役にたちたいというようなことを話されていました。

「らい予防法」が廃止され、全生園から外に出て行こうと思ったこともあるそうですが、神奈川の実家は建てなおされて面影もなくなっており、故郷とも感じられなくなっていたとのこと。
そして、薬の後遺症で神経痛が出てしまったので、療養所内で暮らしているそうです。

(この映像は数年前のものでした。)

1つの時代は終わった。
ハンセン病の人もみんな同じ人間で、誰しも同じように感情を持ち、同じように生きがいを求める。たまたまそんな病気にかかってしまい、こういう人生を歩むことになったのだ。
政府は、わるぎがあって法律を作ったわけではないだろうけど、その内容は結果として良いとは言えなかった。それに、療養所内では、もっと細やかなケアができなかったものかと思う。

とにかく、医学が進歩して、ハンセン病は撲滅に近い。
世界ではまだ発病者の多い国もあるようだが、治療すれば必ず治せる病気となった。

何にでも、真心を持って真摯に向き合って行きたいものだ。
ハンセン病以外にも、今現在進行中の患者や弱者の問題や人権問題があるかもしれない。
過去の失敗を踏まえて、そういう問題に、きちんと対処しないといけないと思う。


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国立ハンセン病資料館(3)

2018-02-06 23:57:03 | 旅行・街歩き
なかなか簡潔にまとめることができないのですが、とりあえず忘れないうちに記録しておこうと思います。

資料館を見学してわかったこと。

ハンセン病にかかってしまった人々は、「らい予防法」に基づき、警察等によって、全国各地にある療養所に隔離され、一般社会との往き来が禁止され、一生涯療養所の中で暮らすことになったそうです。

療養所の中には医者や看護婦などの健常者も少しはいますが、症状の軽い人々が、重い人を看護するというような形でした。患部に巻く包帯を洗ったり巻いたりする作業も患者たち自身の仕事でした。
また、療養所の中で病人たちが、農業をしたり、物を作ったり、豚を飼ったりして、生計をたてており、病気の身でありながら、過酷な労働をしなければなりませんでした。
そのため、さらに病気がひどくなります。ハンセン病は、とてもゆっくりと進むもので、この病気によってすぐに死に至るものではないそうですが、栄養が足りず不健康な生活を送ることによって衰弱し、別の病にかかったりして亡くなる人も多かったとのことです。

住まいは、男性は男性、女性は女性の宿舎があり、1つの部屋に何人もが寝るような共同生活でした。
そして、若い男女は、ハンセン病の人同士で結婚することはできましたが、住まいや食事などは、やはり男女別々の建物の中で生活し、夜、寝るときだけ、夫が妻のところに通っていくという風な通い婚であったそうです。女性の部屋には未婚の女性もいるので、そういう人と夫婦が同じ部屋に何人も寝るというような驚くべき状況でした。
そして、もし子供ができれば、その子がまたハンセン病になると考えられていたため、男性は断種(パイプカットでしょうか?)、そして、万が一女性が妊娠してしまった場合は、中絶してしまったそうです。そのため、療養所の中で子供が生まれて育つということは無かったそうです。

外の世界に出るという想定がないので、お金も一般世間の紙幣や硬貨ではなく、療養所の中だけで使う特殊なものが用意されていました。
また、下水も外の世界に流れないで、敷地内に溜めて浸透して行くようにしていました。
それも、外の世界に流すと、らい菌によって汚れるなどといって、一般の人がいやがったからだそそうです。

また、栗生療養所という、群馬のほうの療養所では、反抗的とされた患者が、独居房のような暗く狭い部屋に監禁されていたそうです。窓はわずかな明かりとりが高い所に細くあるだけで、冬でも暖房がなくてマイナス十数℃に冷え込むようなところで、3重の扉によって隔離されており、そこでは多くの患者が凍死してしまったそうです。そんな悲惨な待遇を受けていた人々もいました。

療養所には子供の患者もいるため、学校のようなものもあります。親から離れて暮らしているので、お雛さんや絵本なども用意されていたようです。

療養所の中の人々は、お互いに助け合い、また祭りをしたり文化的な行事などもして、コミュニティーを作って暮らしていました。外の世界に出て楽しむということもあり得ないわけなので、療養所の中ですべてが行われることになります。

その後、時代が流れ、ハンセン病の治療薬も開発され、この病気は治る病気となりましたが「らい予防法」が廃止されなかったので、療養所の中の暮らしはずっと続いていきました。

その後、患者の待遇は改善され、患者が患者の面倒をみるということはなくなったそうです。

そのような中で、音楽・手芸・絵画・陶芸・文学などの活動も生まれ、芸術作品も創作されています。

また、ハンセン病の人たち自身が人権問題に取り組み、活動を初めて、自分たちの意思を表明し、ついに「らい予防法」が廃止に至り、自由の身になったということです。

しかし、長年に続く隔離政策で故郷の地からは離れ暮らすうちに、家族とも離れ離れになり、いきなり一般世間に出て暮らすことも難しいでしょう。
引き続き、療養所であったこの地で暮らし続けている人もいるようです。

多磨全生園では、この場所を史跡として、過去の歴史を忘れぬように保存しているということです。(全国各地にあった療養所も同様にして残されているようです。)

敷地内を見学したかったのですが、夕方になってしまって少ししか見ることができませんでした。

(続く)
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国立ハンセン病資料館(2)

2018-02-06 00:36:43 | 旅行・街歩き


入り口には、お遍路さんの親子の銅像がありました。
「ハンセン病」は、昔は「らい病」と言われていて、皮膚や末梢神経が「らい菌」によって侵され、斑紋ができ知覚麻痺も起き、侵された肉体に変形等が起きてしまい醜い姿となり、一生治らない病気とされていました。
ハンセン病になった人は、治療法もなかったので、遺伝的なものであるとか、信仰が足りない等という間違った認識のもとで、お遍路さんになって放浪するようなことも多かったようです。人目に触れずに家の中にひっそりとこもって暮らしている人もあったようです。



このようなハンセン病の人を放置しているのはよくないということで、政府によって昭和6年に「らい予防法」が施行されました。
らい病の感染力は非常に弱いもので、簡単に人から人に移るものではないそうです。
主に乳児がらい病の母親から大量の菌を浴びてしまい感染し、栄養状態などが悪く抵抗力がないとその後発病してしまいます。感染しても、すぐに発病するのではなく、何年も経ってから症状が出るそうです。

発病すると、治療法がなかったので、らい病を撲滅するには、らい菌を持った患者を、世間から隔離して感染しないようにするしかないとされました。
そこで、療養所にすべての「らい患者」を強制収容することになり、家族からも引き離して連れていかれました。
また親から子に移らないように、この法律によって、ハンセン病患者は子供を生まないように断種がされたそうです。

療養所に入った患者は、一生涯そこで暮らすことになります。全国の各所にありますが、多磨全生園もその1つでした。



国立ハンセン病資料館は、かつての療養所である「多磨全生園」の敷地の一角にあり、「ハンセン病療養所」についての状況が、時代を追って展示されていました。
それは、壮絶なものもあり、非人間的なしうちもあり、一方入所者たちのコミュニティーでささやかな楽しみや文化もありました。

今現在、ハンセン病は必ず治る病気で、全生園にハンセン病の治療中の人は居ないそうですが、今もこの地に完治している人が暮らしているということです。
昭和初期から続いていた「らい予防法」が平成8年に廃止された以後は、療養所の人々も、当然自由に出入りできますし、普通に暮らしていることはもちろんです。
しかし、完治したあとも後遺症が残ったり、他の疾患や老化等によって体調が悪い人もいるでしょう。
世間では、長年の隔離政策ゆえに、ハンセン病だった人に対して、今もまだ差別意識が残っているとのことです。

なんかまたもや支離滅裂になってしまい、肝心な資料館の展示について書いていませんが、次の記事で書きたいと思います。
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国立ハンセン病資料館(1)

2018-02-05 23:43:42 | 旅行・街歩き
<国立ハンセン病資料館に行くきっかけ>

いつも読ませていただいているブログで、ハンセン病の療養所「多磨全生園」の存在を初めて知りました。行き方も教えていただいたので、日曜日にさっそく行ってみました。

ハンセン病については、1月に「船の科学館」に行ったときに、笹川良一の銅像があったのですが、それをきっかけにウィキペディア等で調べ、この人が生前、世界を巡ってハンセン病の制圧に取り組んでいたことを知りました。
また、笹川良一の息子である笹川陽平氏も、父の影響を受け、WHOでハンセン病撲滅や人権問題の活動を熱心にしているということを知ったのです。

また、ハンセン病に対する国の施策が間違っていたことを、菅直人氏が厚生大臣の時に認めたというのも記憶にありました。

さらに今回知ったことは、平成8年、小泉総理の時に「らい予防法」がやっと廃止されたことです。「らい予防法」は、昭和の初めにできたもので、これによって、らい病(ハンセン病)の患者は一生涯、一般社会から隔離され続けたわけです。この法律が廃止されたのはあまりにも遅かったと言えますが、廃止されてやっと縛りが解けたということです。

多磨全生園の存在を知ったときは、漠然と「ハンセン病の人は、集められ隔離され差別されていたらしい」と思っただけでした。

それから、パソコンで国立ハンセン病資料館のHPを見た時は、ハンセン病の人たちは、全生園の中で一生を終える運命にあり、園内には解剖室や火葬場などがあったと知り、納骨堂などもあり、とても怖い印象ばかり受けました。

そんな怖いところには近づきたくないとさえ思っていたのですが、そういうことを避けてはいけないのではないか、過去にあった現実や、現在を見るべきではないのか、と思い、今、この情報に巡り合ったのは、これも何かの縁だろうと思って出かけていったのです。

長くなるので、続きは次の記事で。
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豊洲PIT(ドライブレコーダー)

2018-02-05 01:00:21 | 車・運転・道路・駐車場2018


映りが悪いのですが、1月21日にお台場目指して走っていたときのドライブレコーダーの画像です。

「あっ、豊洲pitだ!」と独り言を言ってるところです。(私の目のほうが断然性能が良いですね。)

ここは、2016年8月7日にライブを見に行ったところです。

その時の写真。↓


この時は、豊洲から新豊洲まで「ゆりかもめ」に乗って行って、ライブが始まる前に、晴海大橋を途中まで歩いてみました。


「はるみおおはし」と書いてあります。



そのとき、ここを走っていた車の写真がありますが、今回はこの車のように自分が車で走ったんだな~~

しかも、予期せず・・・

自分がどこを走るのか知らずに走ってるので・・・・

ところで、1月21日のドライブレコーダーは、往きはほとんど上書きされて消えちゃってました。
なぜかこの「晴海大橋」のところの映像が一部残っていたのです。
道路の凹凸かなんかで衝撃があって保存されていたのでした。

ラッキーです。

しかし、前半消えちゃったので、海を渡る前までは、どの道を走って行ったのか、復習できませんでした。残念。

追記:

あっ、ドライブレコーダーの画像で、走ってる道路に沿って右側上に高架の道路が写ってますね。
これ、2016年にはまだ工事中でしたね。
上の車の写真にも写ってますが。



これ、なんだろうなと思って写してありました。

高速道路かな?


さらに追記:2/5

首都高速10号晴海線らしい。



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相変わらずへたくそ

2018-02-03 22:04:18 | 車・運転・道路・駐車場2018
雪が積もっていたので、2週間も運転できなかった。
今日は、近所のスーパーまで、ちょこっとだけ運転してきた。

駐車場スペースはいくつも空いていたので、右に1台分空けてその隣にバックして入れていた。
すると、これから帰ろうとする車が、左から右へ出て行こうとしていたので、あわてて、いいかげんな位置にとりあえず下がって行った。
そうなると、左にずれすぎだから位置を補正しないといけない。

もう一度前に出て位置を直そうとしていたら、左から新しい車が走ってきた。その車は、私が帰ろうとしていると思ったらしく、停まって待とうとするので、私は行け行けと手で合図をしたが、進んでこないので、また後ろにバックしたら、進んできた。

そして、ささ~っと、通り過ぎるかと思いきや、ひゅっと私の右隣の1台分だけ空いているスペースにバックしていれると、さっさと車を降りてスーパーに入っていったのだった。

ひえ~、そこに入れる?
まあ、普通の人間だったら当たり前だろうが、1台分だけしか空いていないところに入れるのを極力避ける私にとっては、他に10台分くらいまとまって空いているのに、わざわざ1台分のところに車を置こうと考える人間には驚くのである。

しかも、一発で所定のスペースに駐車すると、あれよあれよという間にスーパーに入っていったのだ。

私は、それから気を取り直して、他の車が通路を通らないのを確認しつつ、
また前に出して、恐る恐るバックしてやっと位置を直した。
そのときも、タイヤがどっちを向いているのか、窓から前輪の角度をのぞいてみないとわからない始末である。

そして、やっと車の窓を閉め、車のドアを開けて降りたのだった。
どんだけ時間かかってる~?

そして、買い物を済ませて戻ってくると、駐車場は以前と変わらぬ車の配置で、私の左隣は何台分も空いているのだった。

右隣をみると、入れた時と同じ色の同じような車が置いてあったが、さっきは確かにホンダの車だったのに、今度は日産になっているではないか!
あれま、別の車になってるよ。

やはりよその車は、1台分しか空いていないところをあえて選んで入れるものらしい。(スーパーの売り場入り口に近い場所。)

こちらが、とろとろしているまに、次々に出入りして、事を済ませて行くもんだな~
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昨日の皆既月食

2018-02-02 01:03:56 | 日記2018
将来の記憶のために、一応記録しておこうと思います。

昨日(31日)は、皆既月食を少しだけ見ました。

10時過ぎに母と電話をしてたら、母がテレビで皆既月食のことを中継しているというので、スマホで母と話しながら外に出て行ってみました。

母からどっちの方向の空だなどと聞いて、東の空を見ると、かなり高いところに、赤黒い月を発見しました。

高い位置なので、ひさしがじゃまで見えず、外階段のほうまで行かないと見えませんでした。

そして、あまりにも寒いので、ちょっと見たら、家の中に戻ってきました。

皆既月食を見るのは初めてかもしれません。ほとんど記憶がありません。

昨日は、さらにスーパームーンだったそうで、確かにサイズも大きかったです。

皆既月食はめずらしいものですが、私はやはり黄色く煌々と輝く月の方が好きです。

昔の人は、不吉なものを感じたそうですが、私もどちらかというと、あんなにまんまるなのに、どす黒い月がちょっと恐ろしい感じを受けるように思いました。

今はなんでそうなるのか分かっていますが、昔の人は月がいきなりあんな色になったら、不気味だったかもしれませんね。

このごろは、実家の母から月の情報を得ることも多いです。

母は80代後半なので、何年に1度のスーパームーンや皆既月食のことを想うと、次回のチャンスのときにも元気でいてくれるかなと思います。

スーパームーンの皆既月食は35年ぶりだそうなので、そんなに間隔があったら、私の寿命も尽きています。ちなみに次は2037年だそうです。私は生きてるかな。

普通の月食ならば、次は今年の7月28日らしいですが、明けがたなのでそんなに早くは起きられないかもしれません。

今回も寒いので、変化なんかは見ないでさっさと戻ってきてしまいました。

せっかくのチャンスなので、しっかり見ないといけませんね。
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エアコンが止まった

2018-02-02 00:37:03 | 日記2018
外は、すでに雪に変わっているようですが、つい今しがた、エアコンが急に停止してしまいました。

おそらく、室外機が凍ってしまったのでしょう。

しばらくは、送風状態ですね。

布団をかぶって寝るしかないな。

お風呂に入って温まってから寝ることにします。


追記:
お風呂から出てきたら、エアコンが復活していた。
なぜかすごい勢いで温風が出ている。
設定した風速と温度じゃないぞ。?
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あれっ、ここ新宿?

2018-02-02 00:15:54 | 車・運転・道路・駐車場2018


このあいだ、お台場に行って来た帰り道。

左側に「ニュウマン」があり、あれっ?バスタのところにあったお店と同じお店?と思って通過し、信号待ちの列で停まったところ。

右を見ると、
ああ、ここ新宿じゃん。
ルミネと書いてある。

新宿南口は電車で行って徒歩で歩くことはあるものの、車の立場で走ったことはないので、雰囲気がだいぶ違うのだった。

それにしても、自分がどこを走っているのかわからないんだから、どうしようもないね。

だが・・・

子どもの頃、自分が将来東京に住むとは夢にも思っていなかったし、東京で車の運転をするとは、夢にも思っていなかった。大人になってからも、東京で運転免許は不要だし、クルマ生活は考えたこともなかった。

だから、新宿駅の前を車で走るなんてね、と思う。

東京にいるうちに、東京駅の前も走ってみたい。

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有料アプリの解約

2018-02-01 22:51:25 | 日記2018
昨年の夏、知らない土地の目的地に行くときに、スマホの有料道案内のアプリを使うことにした。
それからは、毎月300円ずつスマホ料金と一緒に引き落とされていたのだが、このアプリを全然使わない月も結構あった。

スマホには無料の道案内や乗り換えのアプリも入っていて、どれが有料のアプリのアイコンなのかもわからなくなり、結局は無料のアプリを開いて目的地に到着したりしていたのだ。

ただ、有料のアプリだと、それなりに高度な情報が得られるらしいのだが、それを使いこなす能力もないのだった。

そこで、今度こそ解約しようと思っていて、1月31日に解約すべくスマホの画面を操作していた。

すると、「月末まで待ったらどうですか?」のようなコメントが表示されるのであった。

いや、本日、月末なんですけどね~

なので、「月末まで待たずに今すぐ解約する」なんていうのを選び・・・

さらに、「便利な機能を使ってみましたか?」

なんていう質問画面も出てくるのだが、

いや、使ってみないけど、今後も使わないだろうし、
なによりも月300円なんか払うのはもったいないんだよ~~

そのたびに、なんだかんだ、いろんなコメントが出てくるのだけど、

それでも断固「解約」します、ということで、意志を強く持ち、やっと解約に至ったのだった。

思えば、このアプリは、最初の1か月はお試しで無料とか書いてあったのだが、
○○の場合は無料には該当しないとか、申し込み方法にいろいろと条件があったらしく、
私の申し込み方だと、最初から「お試し」ではなく「有料300円コース受け付けました。」みたいな表示が出てしまい、ええ~~?と思ったのだった。

最初の月に引かれたかどうかは、不明であるが、そのまま自動的に毎月、スマホ料金に加算して引かれている。
ある人に聞くと、同じアプリが期間限定で無料で申し込める時期があり、その時に申し込んだ人はずっと無料なんだそうである。

別の人に聞いても、有料でアプリを入れるなんてバカではないか、無料のものはいくらでもあるとのことだ。

本当に、物事に疎いからダメだなあ。
確かに活用すれば価値のあるものだろうけど、知らない場所に行くことは滅多にないので、使用頻度が低すぎて毎月定額ではもったいない。
それに、行こうとした施設名がちょっとでも違っていると「存在しません」と出てきて、結局調べられないことが多かった。

とにかく、無事解約いたしました。
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