1960年
投手養成の名人筒井コーチは死んだが、その追風は東映投手陣の中に流れつづけている。高野も筒井コーチの教え子の一人だった。入団当時「コントロールがない。スピードがない」と批判されつづけていた高野を筒井コーチは「あれはきっと大物になる」と三年間、親身の指導をし、現在の彼に仕立てあげたのだ。最終回杉山の二ゴロを併殺にとると、東映ナインはワッと高野をとりまいた。差し出された手が握手を求める。ずんぐりした肩をたたくもの、頭をたたくもの。高野はそれこそメチャクチャだ。「きょうはシュート、カーブがよく散っていました。いつも後半になると打たれるクセがあるのでそれを出さないように注意しました」とりかこんだ報道陣に笑顔でこたえる。日ごろ無口な高野だが、ペナント・ウイナー南海を完封、二塁を踏ませずにかちとった勝利はよほどうれしいらしく、笑顔で質問にていねいにこたえる。「完投シャットアウトは昨年の対西鉄戦(10月2日・平和台・延長14回)以来二勝目です。きょうはスピードがあまりなかったので、慎重に投げました。雨?八回ごろ球がすべって投げにくかったほかは気になりませんでした」今年の二月東映のハワイ遠征で投げすぎ、肩を痛め、キャンプでも練習が遅れていたが、もちまえの負けずぎらいな気性でそのハンディを克服した。「飯尾さんもいなくなったし、ぼくたちががんばらなければ・・・」こういい残し、一番最後にベンチを引きあげていった。佐々木信也氏はこの日の高野のピッチングについて「近鉄戦のとき前半は球の切れがよかったのに、後半疲れて球が高目に入り、打たれていた。この試合でもそれが心配だったが、最後までいいピッチングだった。イン・コースの落ちるシュートがいい。カーブが昨年より鋭くなったのもシュートの効果を増していたようだ。南海打線も打てなさすぎたが、高野のピッチングは余裕しゃくしゃくだった」といっていた。福岡京都高出身、三年間、1㍍80、82㌔、背番号18
投手養成の名人筒井コーチは死んだが、その追風は東映投手陣の中に流れつづけている。高野も筒井コーチの教え子の一人だった。入団当時「コントロールがない。スピードがない」と批判されつづけていた高野を筒井コーチは「あれはきっと大物になる」と三年間、親身の指導をし、現在の彼に仕立てあげたのだ。最終回杉山の二ゴロを併殺にとると、東映ナインはワッと高野をとりまいた。差し出された手が握手を求める。ずんぐりした肩をたたくもの、頭をたたくもの。高野はそれこそメチャクチャだ。「きょうはシュート、カーブがよく散っていました。いつも後半になると打たれるクセがあるのでそれを出さないように注意しました」とりかこんだ報道陣に笑顔でこたえる。日ごろ無口な高野だが、ペナント・ウイナー南海を完封、二塁を踏ませずにかちとった勝利はよほどうれしいらしく、笑顔で質問にていねいにこたえる。「完投シャットアウトは昨年の対西鉄戦(10月2日・平和台・延長14回)以来二勝目です。きょうはスピードがあまりなかったので、慎重に投げました。雨?八回ごろ球がすべって投げにくかったほかは気になりませんでした」今年の二月東映のハワイ遠征で投げすぎ、肩を痛め、キャンプでも練習が遅れていたが、もちまえの負けずぎらいな気性でそのハンディを克服した。「飯尾さんもいなくなったし、ぼくたちががんばらなければ・・・」こういい残し、一番最後にベンチを引きあげていった。佐々木信也氏はこの日の高野のピッチングについて「近鉄戦のとき前半は球の切れがよかったのに、後半疲れて球が高目に入り、打たれていた。この試合でもそれが心配だったが、最後までいいピッチングだった。イン・コースの落ちるシュートがいい。カーブが昨年より鋭くなったのもシュートの効果を増していたようだ。南海打線も打てなさすぎたが、高野のピッチングは余裕しゃくしゃくだった」といっていた。福岡京都高出身、三年間、1㍍80、82㌔、背番号18