プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

高野一彦

2016-09-03 22:53:42 | 日記
1960年

投手養成の名人筒井コーチは死んだが、その追風は東映投手陣の中に流れつづけている。高野も筒井コーチの教え子の一人だった。入団当時「コントロールがない。スピードがない」と批判されつづけていた高野を筒井コーチは「あれはきっと大物になる」と三年間、親身の指導をし、現在の彼に仕立てあげたのだ。最終回杉山の二ゴロを併殺にとると、東映ナインはワッと高野をとりまいた。差し出された手が握手を求める。ずんぐりした肩をたたくもの、頭をたたくもの。高野はそれこそメチャクチャだ。「きょうはシュート、カーブがよく散っていました。いつも後半になると打たれるクセがあるのでそれを出さないように注意しました」とりかこんだ報道陣に笑顔でこたえる。日ごろ無口な高野だが、ペナント・ウイナー南海を完封、二塁を踏ませずにかちとった勝利はよほどうれしいらしく、笑顔で質問にていねいにこたえる。「完投シャットアウトは昨年の対西鉄戦(10月2日・平和台・延長14回)以来二勝目です。きょうはスピードがあまりなかったので、慎重に投げました。雨?八回ごろ球がすべって投げにくかったほかは気になりませんでした」今年の二月東映のハワイ遠征で投げすぎ、肩を痛め、キャンプでも練習が遅れていたが、もちまえの負けずぎらいな気性でそのハンディを克服した。「飯尾さんもいなくなったし、ぼくたちががんばらなければ・・・」こういい残し、一番最後にベンチを引きあげていった。佐々木信也氏はこの日の高野のピッチングについて「近鉄戦のとき前半は球の切れがよかったのに、後半疲れて球が高目に入り、打たれていた。この試合でもそれが心配だったが、最後までいいピッチングだった。イン・コースの落ちるシュートがいい。カーブが昨年より鋭くなったのもシュートの効果を増していたようだ。南海打線も打てなさすぎたが、高野のピッチングは余裕しゃくしゃくだった」といっていた。福岡京都高出身、三年間、1㍍80、82㌔、背番号18
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梶本靖郎

2016-09-03 22:06:02 | 日記
1960年

阪急は五日前の対南海戦(姫路)にことしはじめて登板(リリーフ)した梶本(弟)を出した。太っ腹な戸倉監督らしい投手起用だ。兄をひとまわり小さくした体、肉づきはよくない。小さいモーション、はやいテンポから上手から投げる。体が貧弱だからフォームに打者を圧するだけのすごみがない。だが投球の内容はよかった。コントロールが非常にいい。沈むシュートでカウントをととのえてから速いカーブで勝負、なかなか味のあるコンビネーションだった。一回内藤を三振させたので皮切りに三回まで三人ずつ。阪急は蔦から一回にバルボン、三回に岡田、四回に呉山が安打。一回はバルボンがすぐ二塁、三回の岡田は無死で右翼線、梶本(弟)のバントで二進、先取点のとれるチャンスだったがあとがつづかない。梶本(弟)のピンチは六回にきた。矢ノ浦に中前安打、一死後内藤のゴロを人見が後ろにはじいて一、二塁、関根に2球目を左翼線ギリギリに打たれた。わずか50㌢はどのところでファウル。そのあと二ゴロ併殺にとった。阪急はやっと八回に先取点した。岡田が三塁線に三本目の安打(二塁打)梶本(弟)の三塁バントは安打になって一、三塁、本屋敷が1-1から内角低目の打ちにくいコースをきれいにすくいあげて左中間に二塁打して二者をかえした。梶本(弟)は八回に打たれた。一死後関森に打たれた。バックしたバルボンと前進した呉山の間に落ちて二塁打、梶本(弟)は二死をとってから代打斎田のライナーを左足にたたきつけられ強襲安打、一、三塁。梶本(弟)はビッコをひきながらベンチにかえり、すけだちは兄の梶本だ。梶本は代わりバナを内藤に右中間二塁打されて一点をとられたが、関根を三振にとり、一点差で逃げきり、弟に初の白星を贈った。これは阪急は近鉄に八連勝、またこの試合はパ・リーグ今季二度目の無四球試合だった。

本屋敷選手の話「八回の二塁打は内角のシュートだ。それまで三度シュートで凡退させられているので、こんどもシュートだろうと待っていたんだ」

梶本(弟)が入団したのは昭和三十一年。体が大きいわけでもなくどこといって特徴のない投手だった。その当時兄隆夫投手がバリバリ働いていたから兄貴の七光りとかげ口を聞かれたこともある。プロ入り五年目、一勝をあげるまでの彼はいいつくせぬ数多くの苦労を味わったそうだ。入団した年は二軍生活、ウエスタン・リーグの広島遠征では投手を断念して三塁を守ったほど。昨年の八月は野球生活はじまって以来の肩の痛みがついてまわり、約二か月の別府で治療、それでもなおらず「兄に迷惑をかけてはいけない」と荷物をまとめて合宿を引きはらい、郷里(多治見)で家業(ミシン販売業)を手伝うかたわらノンプロ関係の就職口をさがしたこともあったという。またことしのキャンプでも五月までランニングばかり。トス・バッティングもやらせてもらえなかった。それがつい最近西村コーチが戸倉監督に「ウエスタン・リーグで好調だから・・・」と進言したことで今夜の喜びがやってきたわけ。「三回まで投げられれば満足と思って出ていったんだが・・・戸倉さんの自己のペースでいけといわれたので、直球のサインであってもスライダー気味のものを投げた。ぼくの直球は右手をすこし下げると自然にスライドするんだ。小玉、関根あたりのいやな打者はそれを使った。そのほか兄隆夫投手から「いつでもリリーフしてやるからいけるところまでいけ」とはげまされたのも気力の上で大きなバック・アップだったという。八回二死後斎田の強烈な打球を左ヒザ上部に受け引っ込んだがあとを兄隆夫投手がしめくくって初の一勝をあげた。「兄貴にはかえってから合宿でゆっくり礼をいいますよ」と笑いながら引きあげていった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする