プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

高橋重行

2016-09-19 21:43:10 | 日記
1965年

プロ入り初勝利をあげたのは昨年の四月二日、広島が相手だった。そのときは6-0の完封勝利。それ以後広島にはふしぎに相性がよく、昨シーズンは5勝3敗。いつも別所ヘッド・コーチからこんなことをいわれた。「シゲ、一日一回は必ず肉を食べるようにしろよ。スタミナをつけるにはこれが一番ええ方法なんだ。それに、まだまだ大きくならにゃあかんぞ」町へ出ればいつも焼き肉屋のお世話になっている。だが肉は肉でもトリ肉だけは全然ダメ。「あれはみただけでたべたものが逆流してしまいそうになるんです」ウシかブタかクジラが好きだ。別所ヘッド・コーチはなんとか高橋を次期エースに仕立て上げようと技術面以外でもアドバイスを与え、気をつかったわけだ。報道陣にかこまれて「三振はいくつだったですか、四球は?」と逆に質問。ひと通り自分の成績をきいてから話しはじめた。「後半の方がコントロールがよかった。最初はちょっとおかしかった。投げ込むうちにボールにのびも出てきたでしょう。広島は変化球とスピードボールをうまくミックスさせるバッキーに弱いですね。だからバッキーに比較的似ているぼくにも弱いんでしょう」つぎからつぎへと強気な言葉が出てくる。別所ヘッド・コーチの前でも「広島、国鉄なら連投もOKです」といったそうだ。これほどまでの自信はどこにあるのか?「プロ入り初勝利が広島相手だったということが、ぼくにとっては強い自信になっているんです」と自分で説明した。「不思議です。広島にはセ・リーグで一番きらいな横溝さんなんかいるんですがね。横溝さんには昨年も痛打をしょっちゅう浴びました。それでいて広島には負けない」この日はいつもより慎重だったという。「むこうの投手が池田さんだったでしょう。昨年も池田さんと投げ合ったときはよく負けました。昨年広島に3敗しましたが、そのうち二つが池田さんと投げ合ったときです」それだけにこの日の勝利はうれしかったらしい。報道陣への言葉をマウンド上で考えていたかのように、切れ目なくどんどん出てきた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久保征弘

2016-09-19 21:18:52 | 日記
1965年

「自責点ゼロで負けたり、九回逆転ホーマーをくったり、不運がかさなったね。一年のうちには何回もあることだけど、はじめからいっぺんにきたんでやっぱりちょっと参ったなあ」初勝利。勝ち星のなかった開幕からいままでをふりかえる余裕も出た。紅潮した顔から汗がボタボタと落ちる。大きなタオルでごしごしこすり「不運もこれで落ちるでしょう」4連敗していても調子そのものは悪くなかったそうだ。久保とあたったとき、東映の坂崎が「まるで地震の中で野球をやっているようだ。球が全部ゆれてくる。とてもじゃないが打てないよ」と音をあげていたことでも「連敗中でも調子がよかった」という久保のことばがはったりでないことがわかる。「いいことがいつまでもつづかないように、悪いことも長くはつづかないと思って、じっとがまんしていたんですよ」調子がよくて4連敗。ふつうの人ならやけっぱちになって、自分からくずれてしまうところだろう。「きょうはいままでより調子はよくなかった。バックがいいところで打ってくれたんでとても楽だった。先に点をとってくれなかったら中盤でくずれていたでしょうね」まじめな性格。話し方も生まじめで、理路整然としている。「六回二、三塁で榎本をむかえたときはヤマだったね。いままで勝てなかったのでちょっと弱気になった。だけど打たれても同点と思い直して強気に攻めた。こういうときバックの得点がいかにありがたいかわかる。同点だったらあんな割りきった気持ちにはなれなかったでしょう。弱気に出て失敗、というところですよ」九回、三連安打をあびて完封をのがしてしまったが、そのことにはこだわらなかった。「そりゃ完封したかったのは本音です。でもそんなくやしさより勝ったうれしさの方が大きい。いいもんですよ。勝つっていうことは・・・」しみじみとした口調に実感があふれていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾崎行雄

2016-09-19 18:17:39 | 日記
1965年

ことしの一月十五日、尾崎は東京・青山一丁目のアパートで母親シゲ子さんから「お前もいよいよこれで成人になった。いままでと違って自分のことには責任を持たなくちゃ。わたしは大阪(泉大津)に帰るからね。あとはお前の心がけひとつだよ」といわれた。一昨年、右手指のマメなどで不調(7勝)に悩んだとき、心配したシゲ子さんは上京、アパートを借りて尾崎と生活とともにしていた。母親の愛情に守られたせいもあって尾崎は昨年20勝をマークした。シゲ子さんも安心し、同時に成人の日をきっかけに、むすこを自分から突きはなすことにきめた。チビの尾崎はもちろん母親のことばにだまってうなずいた。東映多摩川寮に引っ越し「ことしも必ず20勝はしてみせる」と心の中で誓ったそうだ。この日の尾崎はソワソワしていた。「ゲーム開始まであと一時間もあるのか、長いな」球場内の医務室でウロウロ。ちょうど部屋にあった鳥カゴから青いインコを手にのせ、しばらく小鳥と遊んだ。それから二時間半後、尾崎はベンチからおどりあがった。決勝のホームをふんだ張本に抱きつき、サヨナラ二塁打の萩原を「どこにいる?」とさがしまわった。この一瞬だけはまるでこどものようなはしゃぎぶりだった。ところがしばらくたつうちに尾崎の口調は急に淡々と静かなものにかわった。「三十一日に首スジを痛めて五日ぶりの登板だから調子が自分でもよくわからなかった。前半カーブが思うように曲がらず苦しかった。シュートでなんとか押えたが・・・。いつものピッチングにもどったのは九回をすぎたころだ。これで20勝?全然実感はわかないね。米田さんとの投げ合いでも負けるという気はしなかった」実感がわかないというのは、20勝は絶対できるという確信を持っていたからだろう。試合前と違った静かな話しぶりは「エースになった男が20勝ぐらいでさわいだら笑われる」そんな気持ちで自分を押えたらしい。最近ナインは「チビは夜あまり出かけないし、ずいぶんおとなになった」とびっくりしている。去年まで右手のマメで泣いた尾崎だが「こどものときによく皮膚がやられるでしょう。あのマメもまだ若かったからできたのだろう」マメで苦しんだときを若いころのできごとだと若いことをしきりに強調する尾崎。「エースの貫録が出てきた。人間的に成長したピッチング」という多田コーチの話をきいたら、母親シゲ子さんも20勝以上に喜ぶことだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永易将之

2016-09-19 16:42:03 | 日記
1965年

大阪工大付属高からノンプロ近畿電電にはいった永易には悲しい思い出ばかりだ。高校時代は出ると負け。優勝の味を一度も味わったこともないし、多勢の人の前で投げたこともなかった。ノンプロでは関西のエースにまでのしあがったが、三十八年の都市対抗では一回戦で優勝候補日本ビールと対戦。延長二十二回まで無失点と力投したが、惜しくも二十三回にサヨナラ・ホーマー。しかしこのピッチングをみて、東映をはじめ、阪急、西鉄がわれ先にと永易の自宅である大阪府守口市京阪通りへかけ込んだものだ。プロ入り二年目。五試合目でやっと初勝利をもらった永易はソワソワしていた。「ぼくね、うれしくて。だけど言葉にあらわそうとするとになにがなんだかわからなくなる」ウイニング・ボールを毒島から渡されてもポカン。「プロにはいってから一番長いイニングでしょう。投げ終わったら肩の力が急に抜けてしまった」次から次と持ち込まれる賞品を受け取るのもウワのそら。「ほしい人は持っていっていいですよ」中身も見ようとせず初めてもらった商品をチームメイトにみんなやってしまった。まじめな反面ユーモリストとしてもチーム一。「昭和十七年一月一日生まれだってね」「ウソではないんですよ。おかあさんが朝六時何分かに生まれて、雑煮も食べられない、といっていましたからね」まじめな顔でこたえていた。1㍍75、73㌔、右投右打。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石川陽造

2016-09-19 16:28:52 | 日記
1965年

ダルマ石川にはこんなニックネームがある。コロコロと太り手足があるかないのかわからないというところからつけられた。しかし、こんな感じとは逆に、東映一の器用ものだ。休みにはアパートの手すりのペンキを塗りかえたり家宝という十万円以上もするステレオをいじくりまわしたり、想像もつかない一面をもっている。それだけに神経質なのも人一倍。昨年七月十六日の東京戦で5勝目をあげて以来右ヒジの故障で、これまで勝ち星から遠ざかっていた。一時は再起不能とまでいわれ、別府の帯刀治療所に入院したときなどは、いっそのこと死んでしまった方がいいとまで思いつめたそうだ。今春のキャンプでは、まだ右ヒジがくの字に曲がって満足にボールが投げられず「おれはもうだめだ」こんなうわごとを何度もいっていたという。そんな状態なので練習にも熱がはいらず、これまで九試合に登板して2敗。しかも六回以上投げたことがないというみじめな成績で一軍と二軍を往復。ねむれぬ夜も何日かあったらしい。そのたびに近所に住んでいる義兄の荒井スカウト(東映)宅を訪問。「右ヒジを手術するんだ」何度もダダをこねては同スカウトを困らせた。このヒジの痛みをおしての1勝だけに、これ以上笑うところがないような顔だった。「ほんとうにホッとしました。二軍で練習していてもヒジがいうことをきかず、練習がつまらなくてさぼりがちだった」ため息まじりにいったことは、やはりヒジのことが一番だった。わずか四回三分の二だが、勝ったことより投げられるようになったという喜びの方が大きかったようだ。田中久、玉造に打たれた安打のことなどこれっぽっちもでてこない。「投げられるという見通しがついたことだけでも大きな収穫」同じことを何度もくりかえした。「ストレートはたったの五球。あとは全部シュート」ヒジに負担のかかる変化球を多投して痛みがこなかったのもうれしさに輪をかけたようだ。故障中はずっと東京・田村町クリニックでオゾン治療を受け、レントゲン検査を何度も受けている。そのたびに「君の右ヒジの骨は、とんがっているから痛むんだ」とラク印を押されていたのが自分でも信じられないようだった。この日の登板をきいて荒井スカウト夫妻、由紀子夫人が心配してちゃんと球場まで迎えに来ていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林俊彦

2016-09-19 13:43:16 | 日記
1965年

左手人さし指と中指のツメが割れたのは八月のなかばだった。バンソウコウをはりつけておく以外なんの治療法もないツメのヒビ。八月十五日西鉄を完封してから三度先発したが、一度も勝てず、チームもずるずると黒星をつけた。「思い切ったピッチングができなかったんです。痛い、痛いと思っていては、変化球を投げてもさっぱり切れず、むしろ打者の打ちごろの球ばかりになってしまった」開幕以来無傷の12連勝。杉浦に代わる南海の若いエースとハデに騒がれるとともに、どんどんふえていく勝ち星に、林の欲は5勝から10勝、そして15勝へと風船玉のように大きくふくらんでいった。そんな夢にチクリと針を突き刺したような事故だった。「林さん、どうしたんですか。前のようにもっともっと勝ってください」圧倒的に多い女学生ファンからの手紙も、こんな内容のものばかり。この日も第一試合げ先発予定だったが「ツメがまだよくなっていないから」ということで、第二試合にまわされた。「トシ、思いきっていけ。痛くなったらいつでも代えてやる」鶴岡監督のハッパを背にマウンドへあがった。結果は三安打の完封勝利。「りきまなかったのがよかったのでしょう。ぼくのピッチングにツメをかばう気持が働いていたのも完封できた原因だと思います。自分一人でうちとるというより、ただ慎重にコーナーをつくことだけを考えました。七分くらいの力だったので疲れもせず、こんな楽な試合はなかったみたいです」中原ピッチング・コーチはニコニコ顔で二重丸をつけた。「力だけで押えていきたいままでの勝ち星と違って、コントロール一本だけといってもいいきょうのピッチングを見て、トシもずいぶん成長したなと思ったよ。うれしかった」二試合でわずかに八本のヒットしか打てなかった南海打線。十八日大阪で西鉄を迎えうつ鶴岡監督にとっては、林の好投がうれしいおみやげになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小野正一

2016-09-19 13:19:57 | 日記
1965年

先発は二日前、別所ヘッド・コーチからいわれた。とたんに思い出したのは四月二十四日の後楽園。大事な対巨人第一戦に先発しながら、三回に大量5点をとられたみじめな自分の姿だった。こんどこそ勝つ何度も自分にいいきかせていたら、とうとう前夜は興奮しすぎて寝つかれず「織田信長」を読んでしまったそうだ。そのかわり球場にはだれよりも早くきた。五時集合なのに愛用のベンツが着いたのはまだ四時半。中古に百五十万円を出したというだけあって、この五八年型ベンツはなかなか快適らしい。「実によく動く。オレもプロ入り十年目になるが、いつもこうありたいと思っている」笑いながらマウンドへとび出していった小野の表情はゲームが終ってから少しも変っていなかった。「巨人は強い、という先入観を捨ててマウンドにあがった。とにかく思い切って投げたよ。一回にバックが5点もとってくれたのでもっと逃げのピッチングをしてもよかったのだが、あくまで向かっていったんだ」大きなカーブを使わず、速球とスライダーで押したった。しかし八回に王、長島を歩かせてマウンドをおりたことについては、それほど残念がってはいなかった。「オレは決してONに負けたとは思っていない。風をみたらホームラン風だし、あの二人には徹底的に低め低めをついた。それがちょっとはずれて四球になっただけなんだ。正直にいって勝敗よりも自分の力の限界を巨人にぶっつけてやるようなつもりで投げたんだ。巨人に勝てるなんてほんとにめっけものさ」確かにそうかもしれない。小野はもともと投手ではなかった。福島県磐城高時代には打率六割近くを維持した四番打者。ノンプロ清峰伸銅時代も一塁手として一年目四割、二年目三割をマークした打者だった。「右でも左でもねらったところを抜いたものさ」とはいまでも小野の自慢のタネ。投手に転向した理由は「打てなくなったから、しかたなく」だった。しかもプロ入り(毎日)するまでの投手成績は二試合で1勝1敗。当時の別当監督(現評論家)が誘っていなければ、いまごろどうなっていたかわからない。大きなタオルを汗でふきながらロッカーへはいろうとすると、前日の殊勲者森から握手の手を差し出された。「ありがとう」小野もすぐ手を差し出したが、森は二本の指しかにぎってくれなかった。「こんど完投で巨人に勝ったらがっちりにぎってやるよ」森の申し入れに大きくうなずいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石井茂雄

2016-09-19 10:38:34 | 日記
1965年

「これで20勝できたな」と四回、石川がホームを踏んだとき、ネット裏の伊勢川スコアラーはニンマリした。東京は小山。悪いできではない。まだ前半というのに伊勢川スコアラーは自信ありげにこういいきる。「スライダーがこんなにきわどいコースに、しかも角度をつけてきまれば打てっこないよ」石井茂の好、不調をみきわめるのにいつもスライダーのスピードと角度をみて決める。十二日の対西鉄戦(西宮)で三回KOされたときも伊勢川スコアラーは初回に「きょうのシゲ(石井茂)はだめだ」といったそうだ。だが、回が進むにつれて伊勢川スコアラーの顔が次第に緊張してきた。「スライダーがこれだけのびているんだ。直球ものびるはずだが、一球も使わない。おかしい」十球のうち七球までがスライダー。そしてあとはカーブ。昨年プロ入り初の20勝をあげるまでの六年間、下積み生活をつづけてきた石井茂のつきっきりだった伊勢川スコアラー(当時コーチ)。石井茂の顔色をみただけで好、不調がわかろうというものだ。伊勢川スコアラーが首をかしげたのもムリはない。試合前の練習で中指のツメを割った。「中指に力がはいらないのでまっすぐがどうしてもほうれない。苦しまぎれにスライダーを多く投げたが、小山さんに投げ勝てたのはコントロールがよかったからだな」オールスター後7連勝。西鉄戦(十二日)にKOされて、一度はつまづいたが、自分でも連続20勝は計算どおりだという。「きょうは涼しかったのでなんとかなったんだな。からだがだるくてしようがなかった」十七日、飛行機で上京した。台風24号の激しい集中豪雨でアパート住まい(西宮)の石井茂はほとんど寝ていない。「宮田さん(代表補佐)にきょう西宮のようすをきいてやっと落ちついたんだ。小さいこどもが二人いるし、アパート前はすぐ川だ・・・」レギュラー選手のほとんどが奥さんから朝、宿舎(本郷)に無事だという電話がはいった。「きょう先発するのは女房も知っているし、勝てば20勝ということもわかっているので、十時半に大家の家に電話することになっているんだ」と足早にバスに乗り込んでしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須崎正明

2016-09-19 10:16:38 | 日記
1965年

勝利投手賞のビール二ダース、電気カミソリが須崎の手に押しつけられた。「とっておいてくれよ」勝利投手渋谷からの贈りものだ。次から次へとさしのべられる太い腕。勝利投手賞をかかえて握手を受けた。いまにも泣きだしそうな口もと。昨年暮れ、近鉄を自由契約、そして産経に拾われたいままでの苦しみが胸の中をかけめぐっていたのだろう。「小淵さんが代打に出たとき、次はぼくだと思いました。打った球?外角、シュートだったと思います。ねらっていたんですよ。その前内角を攻められたので、次はアウトコースだと確信していました」ゆっくりと、ひとことひとこと、味わうようにいった。吹き出る汗をぬぐおうともしない。「何年ぶりだろう」ポツンといった。近鉄入りした三十七年の初安打は、南海の杉浦から奪った本塁打。デビューは花やかだった。「二打席目だったと思います。二年目の春、左足首を骨折して・・・」苦難の道はそこから始まる。多摩高時代から関根(近鉄ー現巨人)の熱烈なファン。東京生まれの東京育ちだというのに在阪球団の近鉄にはいったのも、関根といっしょにプレーしたいためだったという。川崎の関根選手宅に日参して、やっと入団したものの、故障、そして自由契約。ハデなデビューに似合わぬさびしい退団だった。「去年の暮れだって、まさかクビになるとは思っていもいなかった。でも、関根さんがやめてしまって・・・。お前もクビだというので・・・」とおりがかりの豊田が声をかけた。「どうや、ワシのいった通りやってよかったろう」豊田のアドバイスは「バットを短くもて。あとは死に物狂いでボールに当てろ」という乱暴なもの。「でもあれで気分が落ち着きました。トヨさんのいう通りにしたんですよ」こわばった横顔にやっと笑いが浮かんだ。前日決勝のホーマーを打った同室の福富が、須崎の横をウロウロしながら「よかったな、よかったな」とくりかえしていた。「14号室は連日ヒーローづいているな」というナインのことばに二人は顔を見合わせた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤進

2016-09-19 09:58:29 | 日記
1965年

芦屋の宿舎、竹園を出て甲子園へ向かうとき、大ツブの雨が貸し切りバスをシャワーを浴びたようにびっしょりぬらした。「ちきしょう。きょうはやりてえな」前日に先発をいい渡された佐藤進はしゃくな顔をくやしそうににらんだ。十一日に阪神を完封してから六日ぶり。若い力のはけ口を持てあましていた。だが、グラウンドにつくと雨は小降り。佐藤進はうれしそうに空を見あげた。「おれは心がけがいいんだ。絶対いい天気になるぜ」マウンドを踏んだときは六甲の山がきれいな夕やけを見せ、試合は八回まで佐藤進の考えていたとおり進んだ。ピッチングも、完封を飾った日とはガラリと変えて、シュートからスライダーに切りかえたそうだ。「びっくりするくらいスライダーがよく決まった。五回の一死二、三塁のピンチはトヨさん(豊田)が遊撃からアドバイスしてくれ、歩かせてもいいからくさいコースをつけといわれたときは、なんとなくホッとした感じだった」2勝は全部阪神相手。阪神にはものすごい自信を持っている。「ホームラン・バッターがいないから、コースさえ間違えなければまずだいじょうぶだ」コントロールはだれにも負けないという。北海高時代、雪におおわれ、ボールを握れない長い冬にたっぷりランニングをしたおかげだそうだ。雪がジャンジャン降る中をとび出して学校のまわりをたっぷりランニング。全身雪を浴びてナインの前にぬっと顔を出したときから、北海の白クマというニックネームがついたくらいだ。「いくら投げても疲れない」とタフが売りものだった。佐藤進も、九回はエネルギーがからっぽになったという。「スピードが急に落ちてしまった。吉田さんに二塁打を打たれたあとはもう頭がカッカしちゃってなにがなんだかさっぱりわからなかった。岡本さんのサインなんか一度も見ずじまいさ。ほんとうにヒヤヒヤもんだった」このピンチにも佐藤進は二つの自信があった。北海高の五番打者兼投手で甲子園の土を踏んだとき準決勝まで進んだ四年前の記録と、相手が阪神だという余裕。五色の花吹雪を浴びてベンチに立ったときは北海の白クマというにはあまりにもはでな紙吹雪が熊をつつんでいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大羽進・山本一義

2016-09-19 09:26:30 | 日記
1965年

「どうしてなんだろう。いつも聞かれることなんだけど・・・」巨人に強い理由を聞かれて大羽は首をかしげた。「巨人だから勝てるとか、投げやすいとか、少しも思ったことがない。一時一時息を抜かないで投げているだけなんだ」困ったような表情をした。納得できないような顔をする報道陣をみてまたすまなさそうな顔をした。「対巨人七回戦(六日)のときとまったく同じコンビネーションで投げただけなんだ。カーブ、シュート、フォークボール、それに二、三球スライダーをまぜた。でも、完封できるなんて・・・。結局ツイているだけなんです。五回無死一、二塁で三重殺ですからね。あの場面では当然送りバントをしてくると思って気を抜いて投げたフォークボールでした。最後までヒヤヒヤの連続です」青白い顔を何度もごしごしタオルでぬぐった。その下からまたうれしそうな顔がのぞく。「九回は長島さんにてっきりやられたと思った。半分観念していたんですよ」長島の大きな左飛がでる前に長谷川コーチがこわい顔でこんなアドバイスをしたそうだ。「高めは絶対ダメ。長島をだしたらすぐ安仁屋と交代させる」その長谷川コーチが笑って大羽に声をかけた。「ナイス・ピッチング」「巨人の打者は全体に低めの変化球に弱いんですよ。とくにフォークボールが効果的だった」という。一方ロッカーでは「このあたりで打たないとね」山本のごきげんな声がひびいていた。「産経戦3連敗の責任はみんなオレにあったんだから、ここで打たないと申しわけなくてみんなに顔向けができないところなんだよ」ユニホームを着がえようともせず、ロッカーの中をいったりきたりしている。「真っすぐだった。手ごたえが十分だったのでホームランだとばかり思っていた。二塁打とはね」記録は単打だ、と聞いてまたしきりにくやしがった。「ボールがかえってくる前に二塁へ走っていたぜ。ひどいよ」そういいながらも笑顔はくずさない。そして相手の投手をほめることも忘れないでこうつけ加えた。「高橋明はこの間のとき(七日・後楽園)よりよかった。チェンジアップなどいれてコンビネーションが最高だった」フロからあがった大羽に「ありがとう」と肩をたたかれ、あわててユニホームの着がえをはじめた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする