プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

田中調

2016-09-11 23:34:27 | 日記
1965年

田中はまるで高校生のようだった。「安藤さんのおかげです。サイン通り投げただけです。ついていたんですよ」なにを聞いても同じ返事しかかえってこない。グローブをベンチに置き忘れたところをみるとかなり興奮していたようだ。昨年八月二十一日の東京二十五回戦に勝って以来プロ入り3勝目。約九ヶ月ぶりの白星だ。興奮したのは久しぶりに味わった勝ちということだけではない。これまでの2勝はすべて先発。ことしはリリーフでも勝ち星がもらえるような信用される投手になりたいと、キャンプからいっていたことが実現したからだ。三年生。まだ一度も公式戦で完投したことがない。この夜の七イニングがプロ入り最多投球回数となったのもうれしさに輪をかけたのかもしれない。そのうえ六回の一死二、三塁で一、二塁間へ2点タイムリーと投打の活躍。はじめてのことがいくつもかさなった。「内容的にはよくなかった。ストレートはほとんど投げなかったし、ボールにのびもありませんでした。外人は一発があるのでシュートでカウントをとり、カーブで勝負しました。いばれるのはコントロールがよかったことです」キャンプのときから水原監督は「ことしのうちのホープは田中だよ。よくみておかないと、シーズンにはいってからハジをかきますよ」と評論家にいっていた。いままで六試合に登板して2敗と1勝もあげられなかったのは、高松でのオープン戦で左足首に白の打球を受け、以来ふんばりがきかなくなりスピードが落ちてしまったかららしい。寒いときはちょっと痛むが、きょうくらい暖かくなればもうそんなこともありませんよ」こんどは気候のせいにして、自分の力で勝ったとは最後までいわなかった。高松高の定時制三年のとき中退して東映入り。1㍍78、64㌔というかぼそいからだに似合わずシンはなかなか強い。東映入りしてから国士舘高の通信教育を受け、卒業証書はちゃんともっている。頭がちぢれ、スズメの子に似ているというところからドビンコ(四国地方の方言でいうスズメの子)というニックネームでかわいがられている。「パ・リーグには左打者が多いし、投手陣の手薄なウチは田中の台頭がこれからの大きな刺激になりますよ」水原監督は同郷の田中の好投にごきげんだった。
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巽一

2016-09-11 23:13:29 | 日記
1965年

「五回まででいい、なんとか投げてくれ」砂押監督にそういわれたのは、サヨナラ負けした十四日の試合後だった。「五回なんて欲を出すときっと打たれるでしょう。一イニングずつていねいに投げていこうと思ったんだ」ON砲に四度も対戦したのは四年ぶりのこと。ものすごく緊張したという。二人ともずいぶん成長しましたね。ぼくが三年近い駄足ぶみをしている間にものすごくえらくなったもんだ」六回、王に中堅ライナーを打たれたときは、うしろを振り向かないでマウンドにすわり込んだ。「てっきり打ち込まれたと観念したんです。中飛に終わったときは全身の力が抜けてしまったような感じだった」ジリジリと追いあげてきた巨人に、巽はヘトヘトになってベンチに帰ってきた。冷たい水を一杯、たばこを一服すってやっと口が動き出す。「最後まで苦しみの連続、八回の二死満塁なんて最高だったですよ」塩原には外角一本やりで勝負をした。それまで岡本のサインに一度も首を振らなかったが、そのときだけは外角を固執したそうだ。「彼がデビューしたとき・・・何年だったか忘れたけど、内角に投げてひどい目にあったのを思い出したんです。だてにプロのメシをくっていないですよ」肝臓を悪くして三十八、九年を敗戦処理にまわった巽は、ブルペンで打者の欠点をずっと研究していた。チームの遠征は九人だけが一等車に乗れて、あとは全部二等車に押し込まれる。二等車の中で巽は若手からアドバイスを受けたこともあった。「長島はこのごろ外角をうまく流している。だから内角に目をつぶって投げたんです」ON砲をヒット一本に押えたのが最高だったという。「巨人に勝ったのは四年ぶりですか。うれしいですね。ぼくの記録にはなんでもぶりがつきますね」もっとうれしいこともあった。巨人の先発安藤とは早慶戦で投げ合った仲。「安藤ときいたときに猛烈なファイトがわいてきたんです。あいつには一度も負けたことがないですからね。前半はストレートが久しぶりに走ったし、後半にはシュートがよく切れた。ベンチはヒヤヒヤのしどおしだったでしょうが、ぼくの胸の内はものすごく落ち着いていたんです」そしてその証拠をつづけていった。「雨が降ってきたのは七回でしょう。ちゃんとおぼえていますよ」しかし巽はやっぱりあがっていたようだ。グラウンドにカサがパッと開いたのは八回裏無死の九時十二分。巽のいった七回とは約二十分もズレがあった。
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永易将之

2016-09-11 22:50:01 | 日記
1965年

「きょうはフロにはいらず真っすぐ合宿に帰ろう。えーと、ウイニング・ボールを忘れないで・・・」ベンチでグルリと囲んだ報道陣から解放され、ロッカーにもどると永易の声は実に落ちついていた。つい二、三分前のインタビューで「はい、そうですね。左打者にはスリークォーターからシュートを投げたのがききました」と応答していたのとはまるっきり違う。プロ入り初完投で初完封と二つの初めてがついたのにベテランのようにゆうゆうとしていた。「きょうはマウンドにあがる前から絶対勝てる自信があった。なぜって、二十九日の東京戦(ダブルヘッダー第二試合)で八回三分の二を投げたでしょう。あのときに自分がのぼり調子にあるとわかった。八回投げたのもプロ入り初めてだったし、こんど登板したときは必ずやれると思っていたんです」電電近畿で社会人生活をしていたせいか、いつも言葉使いはていねい。コーチのいうこともよく聞くと評判もいい。しかし「これをやると決めたら、とことんまで押していく根性をもっている」(細金トレーナー)そうだ。入団してからコントロールのよさが買われ、ほとんどバッティング・ピッチャーばかりで、昨年は内心くさっていた。今春のキャンプで多田コーチは思い切ってオーバーハンドからサイドハンドにフォームをかえさせた。「君のバネを生かすには一番いい投げ方だ」という多田コーチのアドバイスをすなおに受けとった。そしてわずか二日もたたないのに、自分にピッタリのフォームにしてしまった。それから半年。この夜のピッチングで内容の説明も実に整然としていた。「ぼくは必ずしもサイドハンドからばかり投げているのではない。三つの角度がある。スリークォーターとサイドとアンダーハンドだ。スリークォーターからはシュートしか投げないし、横手投げのときはカーブとスライダー。下からは落ちるシュート。この三つをうまくミックスしてコーナーにきめた。自分で採点したら80点でしょう」プロ入り2勝ぐらいのときは、ほとんどの投手が「夢中でした」と判で押したように答えるものだが、永易の話しぶりは20勝投手のようにサラリとしている。「城戸の投手強襲安打もとれたかもしれない。ここに当っててはねかえった」赤くなった右足首の甲をわざわざだしてみせた。多田コーチから「フロにちゃんとはいっていけよ」といわれると「はい」とまたていねいに返事して「やっぱり完封勝利というのはいいもんですね」とニッコリ笑った。
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山中巽

2016-09-11 21:03:25 | 日記
1965年

中日ナインによると「いまの山中はバカづきしている」そうだ。六月二日の対産経四回戦以来これで8連勝。しかもチームの11連勝がスタートを切ったのは八月十九日の巨人戦で、山中が完投勝ちしたときからだ。1㍍81、83㌔というりっぱな体格でまだ二十一歳の若さ。それでいて、いつもたっぷりまる四日の休養をもらって投げている。あまり大事に使われるので中日の皇太子などとナインからいわれたこともあったほどだ。八月十九日の巨人戦に先発するまでは産経、広島専用投手だった。「ゆくゆくは投手陣の心棒になってもらわなければいけない投手だから大事に育てたい」という近藤コーチは、山中がしっかりした自信をつけるまでは絶対に巨人、阪神、大洋には正面からぶつけない方針をとってきた。「ぼくが投げるときは今夜のように理想的に点をとってくれる。だから安心して投げられます」すっかりバックを信頼しきっている。それでも「あのときカーブが真ん中にはいらなければ・・・」と七回、杉本に打たれたホームランだけはくやしそうに説明した。これがなければシーズン初の完封勝ちを飾っていたところだ。汗かきの点ではチームで一、二だが「汗が出る暑い季節にならないと調子が出ない」という。それを裏書きするようにことしのオールスター戦後、三十回三分の一投げて失点はわずかに3、防御率0.89というすばらしさ。この完投で規定投球回数に達し、防御率ー1・96で宮田(巨人)につぎ二位にはいった。15勝をかせいだ三十八年にも後半戦で9勝をあげている典型的な追い込み型だ。この年は山中のピッチがあがるにつれて中日は巨人をきわどいところまで追い込んだ実績がある。「二十試合そこそこでがっちり9勝。その倍の四十試合に出て6勝しかしていないワシからみたら、もう夢のような要領のいいかげき方だよ」七回ごろからずっとリリーフに備えてピッチングをやっていた板東がニガ笑いしながらいっていた。

先月の十九日に中日球場で巨人をひねったときは、上位打者をフォークボールで攻めて成功した。ところがこの夜の山中は、その得意のフォークボールをわずか五、六個しか使わず、速球とカーブのミックスで産経を押えた。9勝中、産経からは5勝をあげているが福富以外に左打者のいない産経打線はよけい投げやすいのだろう。走者のいないときは全力投球せず、コントロール主体のピッチング。走者が出るとサイドからシュートを投げて内野ゴロを打たせ、余裕たっぷりのピッチングだった。七回に杉本を2-1と追い込みながらブレーキのあまいカーブを投げてホームランされたが、点差が接近していればあんな球は投げなかっただろう。とにかく完投のペースを身につけているし、コントロールも完ぺきに近い。山中のほかに小川健、水谷寿、柿本、板東、近藤、門岡と中日投手陣はにわかに充実してきた感じだ。
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別部捷夫

2016-09-11 20:22:50 | 日記
1965年

「ワケがホームランだって?ほんとうかい」五回で渡辺と代わり、ロッカーに引きあげた巽が腰にタオルを巻きつけたままのスタイルでとんでいった。試合が終わると別部はスラスラと口を切った。「内角ベルトへんのストレート。あの球だったらだれでもホームランを打てますよ。切れてファウルになるかと思っていた」打席に立つ前、砂押監督から「ヒットよりでかいヤツをねらえ」といわれていたそうで「たまたま監督のいうとおりなったわけ」という。ホームランは五月八日甲子園での対阪神一回戦で阪神・石川から打って以来、四か月ぶりだ。「それに孫子の兵法でみがきをかけているからな」かたわらで帰りじだくをしていた高林がこうひやかした。趣味は読書。それも孫子とか君子とかいう中国の兵法書ばかりを読んでいる。世田谷区世田谷の六畳と四畳半のアパート。その一部屋に24型の大型テレビをでんとすえてナイターまでの時間をテレビをみるか、読書で暮らす。家をたずねたチームメイトも「とにかくワケはかわっているよ。狭い部屋にでっかいテレビ。家が映画館みたいなんや」というほどた。大阪へいけば地主。大阪の北の繁華街十三大橋のそばに約二百七十平方㍍ほどの土地をもっている。「おじさんが持っているんです。共同でビルでも建てようかといっているんだ。広告会社が屋上にネオン塔をたてたといっているし・・・」「野球をやめたら?まだまだ野球でやりますよ」こういうと鼻の頭の汗をひとさし指ではじいてフロへ走っていった。
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小川健太郎

2016-09-11 17:39:06 | 日記
1965年

「オイ、健太郎(小川)をうんとノックして走らせてくれ。最近ランニングがたらん」前日(二十五日)の試合前、ベンチから近藤コーチの大きな声がひびいた。おかげで小川はこってりとしぼられた。二日の対産経戦の試合前、ノックを受けたとき左足首を痛めてからほとんど走らなかったため、65㌔の体重がみるみるうちに3㌔もふえてしまった。「ランニングは自分でもたらんと思う。だからボールの切れも悪く、きょうだってブルペンで投げたときは悪かった。それでマウンドに立ったときはていねいに投げた。それがよかったんだろうね。それに木俣が実にうまくリードしてくれた。あいつのおかげで勝てたよ」ロッカーでたばこをうまそうにすう小川は、木俣のことをやけにほめた。八月二十八日の初完封といい、この日の自己最少投球数、無四球試合といい、初ものはすべて広島からで小川にとってはまったくエンギのいい相手だ。「別に広島がやりいいわけではない。ただ広島の打者は大振りしてくるので思い切って高めで勝負してみたんだ」凡退させた二十五人の打者のうち十三人をいずれもフライで打ちとっている。アンダーシャツ、バスタオルをかかえてすぐ木俣のところにいった。「ありがとう、ほんとうにいいリードだったよ」と握手。少しはにかみながら木俣は「きょうの小川さんはスピードがあった。コンビネーションもよかったね。きょうくらいサインを出していてポンポンと気持ちよく呼吸があったことはない」とうれしそう。ピッチングばかりかこの日はバッティングも好調。四回、左中間に二塁打を放って1打点を記録。「打ったのは真っすぐ。1-3だし、まさか打ってこないと思ったんでしょうね」とニヤニヤ。
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木原義隆

2016-09-11 13:17:46 | 日記
1965年

木原は人物という言葉をよく使う。法大の先輩高木がこのところコンスタントな打力をみせ、首位打者の座を確保しているが、本人を前にして「先輩はかなりの人物ですね」といった調子だ。南海の渡辺が1勝をマークしたときも「渡辺も人物になりよった。ワシもあやからないかんな」ととぼけていた木原だ。1勝をあげ人物の仲間入りをした木原は、ベンチに帰ってくると、まず冷え切ったお茶を口に含んで「しんどかったです。きょうの試合は四時間くらい投げたような気がしますね」先発はきのういい渡されたそうだ。本人はあと二、三日、時間をもらって調整し、完ぺきなところで野口コーチに「投げさせてください」と申し出るつもりだった。試合前の木原は緊張していた。「こんど投げるときは、ある程度ぼくの持ち味が出ると思います」といっていただけに、六度目の機会をのがしたくなかったのだろう。ウォーミングアップのためブルペンへ向かっても極度の緊張感からか、目つきがとがって見えたものだ。試合後は疲労と解放感から木原はぐったりとベンチにすわり込んだ。「球が低めに決まりましたね。カーブも大きく曲がったし、この1勝はフロックではないといえますよ。いままではフォームがまとまっていなかったし、勝てたとしてもその次の試合でまた自信をなくしていたかもしれません。こんどはそんなこともないでしょう。きょうは高倉さん、アグリーが抜けていたのでそれほど左打者に気を使わずにすみました。五回を1点で逃げてから完投を意識しました。池永正が何勝かしているのに高校組に負けられません」バルボンから渡されたウイニング・ボールをしっかりと握りしめている。強気の木原にしてみれば珍しいしぐさで、それほどこの夜の1勝はうれしそう。「1勝すればあとはトントン拍子にいきそうです」といつも口グセにする木原にやっと新人王の資格が手にはいったというところだ。「いや、まだまだですわ。人物になるにはもうちょっとひまがかかります」木原の顔は晴れ晴れしていた。
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佐藤進

2016-09-11 13:01:16 | 日記
1965年

ベンチのすみでブスッとした顔をつきだしていたのは試合前だった。「阪神は村田さんばかりをマークしている。オレという投手がいることはもう忘れてしまったのかな」昨シーズンは金田(現巨人)につぐ勝ち星の10勝。だが今シーズンはさっぱり芽がでず、負けが二つあるだけだ。その原因は野球とはまったく関係がない。典子(のりこ)夫人と結婚した昨シーズンのオフ、ボーリング場でのデートで右ヒジをやられてしまった。「大きい声じゃいえないが一日に十五ゲームもやったんだから、こわさない方がどうかしている」五月中旬にはプロ入りはじめて二軍に落ちた。「女房にニギリメシを二十個もつくらせてイースタン・リーグのために埼玉県所沢市の西武園球場まででかけていった。朝の七時に東京・渋谷の家をでたがラッシュがこんなにすごいとは思わなかったね。いい社会勉強ができたし、投げ込み不足が解決できたのだからいいクスリになりました」三日間でダブルヘッダーをいれ四連投というはなれわざをやってのけた。このときの二十イニング三分の一無失点が買われてすぐ一軍入り。この日の先発をいわれたのは三日前だ。「きのうの夜中の二時ごろ、右ヒジがうずいてきたので女房にもませたんだ」阪神打線の研究も典子夫人といっしょに考えたという。「いまスライダーとカーブがよく決まっているが阪神は球に食いついてくる打者が多いのでうまくあわされるかもしれない。ぶつけてもいいからシュートをたくさん投げよう」二回の藤井、三回の安藤にぶつけたのもこのシュート。マウンドで「スマネエ」と大きなジェスチャアであやまっていたが、夫婦で考えた予定の行動だったわけだ。登板の前日にビールをあおったり、先輩にもズケズケものをいう。ナインからずうずうしいヤツとか北海道出身であることから北海の白クマというアダ名をつけられたくらい。「安藤のはかなり痛かったはずだ。シュートがもろに左モモにぶつかったんだ」完封勝ちは昨年の四月十五日以来、相手も同じ阪神だった。「ホームラン・バッターがあまりいないので巨人にくらべりゃ、ずいぶん助かる。ストレートはよくのびたし、適当にピッチングも荒れていた。これでやっと自信みたいなものがつかめたような気がする」朝樹が中飛に終わって一勝が決まると岡本とものすごい勢いでだきあった。「女房ともあんなにきつくだきあったことはないんだが男同士のだきあいはうれしいもんだね」
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坂井勝二

2016-09-11 12:34:43 | 日記
1965年

「ベンチにかえったときのまわりの方がおもしろかったよ。みんななんにもいわないんだもの」坂井はそういって笑おうとしたが、完全な笑顔にはならなかった。八回一死後にが手の左打者高木に左前安打されるまでパーフェクト。矢頭が「守っていても緊張しちゃったですね。こんな経験は長い間野球をやっているが初めてだ」といった。坂井は「高木に打たれたのは沈む球、完全試合なんてやれるとは思っていなかったが、あそこまでやったらやりたかった。まだノーヒットだな、なんていってるうちに五回まできちゃった。でもいつかは打たれると思っていたので、それほどショックではなかったけどね」といったが、打たれてもめたに表情をかえないポーカーフェースの坂井が、高木の打球がソロムコの前に落ちるとさすがに両足を開いたまま肩をおとした。試合後マウンドへの往復と同じように頭をたれてホープをゆっくりふかしながらポツリポツリ話していたが、急に顔をあげニッコリした。「エノさんがね、六回ごろから一人アウトにするごとにぼくのところにきてこんどヒット打たれちゃえよというんですよ」榎本はそれをいかにも榎本らしく説明した。「記録というのは自分で求めても得られない。向こうからやってくるものだ」本堂監督はいった。「そりゃ記録もつくらせてやりたかった。しかしまだ開幕したばかりだし、むしろ高木に打たれたことがこれからの坂井にとってはよかったのではないかな。いまの坂井ならこんなチャンスはまたくるだろうからね」記録よりも、四月二十四日の東映三回戦で四回まで張本、ラーカーと二本の2ランをあび5点をとられた坂井の立ち直りを喜んでいた。坂井は「きょうくらい一球一球慎重に投げたことはいままでなかったですね」と、しんみり語っていた。
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田中勉

2016-09-11 12:06:16 | 日記
1965年

3勝(4敗)の勝ち星すべてを東京相手にかせいだもの。「おとくさいさん? そんなことはない。めぐり合わせですよ」アイヌ人のように濃いヒゲの顔に汗がいっぱいだ。四月二十二日、五月四日の連続シャットアウト勝ちについで、この日は完投勝ち。「きょうはツイていた。はじめは毎回のようにランナーを出して苦しかった。二回アグリーが強肩で三塁にいた矢頭を刺してくれたしバックもよく守ってくれた。それに東京さんが内角のボールの球に手を出してくれたのも助かりましたよ」四回一死二、三塁、八田の中前へとんだヒット性の打球を高倉がファイン・プレーして併殺。たしかにツキもあったようだ。昨年も東京とともに北海道にきた西鉄。その寒さにこりてか冬じたくをしてきた選手たちは、十四日から急に暖かくなって暑さにカゼをひくのが続出した。田中勉もその一人。「カゼがみでからだはだるいしさっぱり球が走らなかった。最低のできです。よく最後までもったという感じですね」地方球場の試合終了後どこでもみられる光景。スタンドからどっとグラウンドにとびこんだ少年ファンに押されながら、流れ出る汗をふいた。ほりの深い男性的な顔のように、田中勉のピッチングはダイナミックだ。大上段から腰を軸に快速球を投げおろす。まるでホームベース前でワン・バウンドしそうな感じだが、手もとにきてボールはぐっとのびる。それと効果的なのは金田ばりの超スローカーブを多く織りまぜることだ。まるで東京打線をバカにしたような余裕タップリの感じだ。「去年は東京にあまりよくなかった。ことしは横のゆさぶりがうまく成功しているようだ。東京のバッターはこれに弱いよ」それだけいう人ごみをかき分けるようにしてバスに急いだが「東京以外から勝たなきゃ笑えんよ」というようにニコリともしていなかった。
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柿本実

2016-09-11 11:17:21 | 日記
1965年

八回裏一死一、二塁で遠井のカウントが0-2になると西沢監督はベンチをとび出してマウンドへ走った。「代わらないか}と柿本はいわれたそうだ。西沢監督の頭の中には、おそらく十日の阪神戦(甲子園)での逆転負けのニガい思い出がよみがえったのだろう。二週間前のこのゲームもやはり八回一死後。それまでの4-1という3点リードを遠井、藤井の左コンビのバットでひっくり返されていたからだ。西沢監督は念を押すように捕手の木俣にもう一度柿本の調子をたしかめた。このとき木俣がきっぱり「いいコースへきているからだいじょうぶだと思います」といわなかったら、この今シーズン初の完封勝ちは生まれていなかったところだ。柿本がよしこれならいけるという気持ちを持ったのは四回の無死二塁で山内を外角のスライダーで三振させてからだという。「きょうの試合前の阪神のバッティング練習を見ていたら、みんな外角の球に手こずっていた。だからスライダーが一番有効だと思って右打者にはこれで押したんだ。それに一、二回に2点とってくれたので余裕を持って投げられた」柿本に自信を持たせる三振をした山内は「タイミングがどうも合わんなや」と首をひねる。阪神打線では柿本に一番強いはずの藤井まで弱気だった。「きのうの小川健よりよかったな。去年のピッチングと変わったのは落ちる球が多くなったことだ。これとシュートでやられてしもうた」六回の二死一、二塁、八回には二死二、三塁で二度も藤井にチャンスがまわっているだけにこのブレーキは大きい。戸倉勝城氏は「きょうの柿本にシャットアウトされるとは阪神打線はおそまつすぎる」と手きびしい。柿本が勝利の喜びを味わったのは、三月八日の対広島戦(広島)以来だから、実四十九日ぶりだ。しかしこの間、登板しない日はほとんど毎日のように自分から進んでフリー・バッティングに投げ、出てきた腹を少しでもへこませようとかくれた努力だけはつづけていた。「きょう一番うれしかったのは堺からわざわざ見にきてくれた女房のねえさんにウイニング・ボールという、またとないプレゼントができたことだ」遠征に出ると毎日のように名古屋の輝子夫人のもとへ電話をかけ、長女香ちゃん(一つ)のようすを聞いている柿本だが、この夜の電話はさぞ長かったに違いない。
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大羽進

2016-09-11 10:48:16 | 日記
1965年

先発が予定されていた池田が腰を痛めたため、急にオハチがまわってきた。「ひょっとしたらリリーフで使ってくれるかもしれない」と胸算用して球場へ着いたので、先発を申し渡されても顔色一つ変えなかった。驚かなかったばかりか、ベンチをとび出しながら「さあ、試合前だけの練習をやるか」と冗談をいう余裕があった。ことしはこれが初先発。六試合投げたのは全部ショートリリーフで、それも一ニング以上投げたことはない。おまけに半月前まではヒジを痛めてウエスタン・リーグへ約一週間いっていた。「ヒジが悪かったことよりフォームがくずれていたからだ。手首の返しが早すぎて、スピードが死んでしまっていた」と長谷川コーチはいう。一軍に呼び戻されたのは五月十五日の中日戦からだった。広島は川本スコアラーが中心になって、細かく他チームのデータを集めている。三連戦単位でまとめられたそのデータは親会社、東洋工業にある巨大な電子計算機でさらに細かく分類、集計されて、ベンチに送り返されてくる。長谷川コーチはこのデータをもとにして巨人の打線を徹底的に分析し直した。「くわしいことはいえないが、第一に低めに落ちる変化球を有効に使うことだ。そのためにはまず高めいっぱいをついて、手元でのびるストレートがなくてはならない。きょうの大羽のピッチングは巨人封じの見本のようなものだ」と長谷川コーチはいう。川本スコアラーも「六割が変化球。前半はフォークボールを、後半はカーブを主体にしていた」と裏づけている。昨年巨人戦に十二試合投げて4勝2敗。この勝ち星がシーズン全部の勝ち星でもあった。「ONにはフォークボールをたくさん使ったけど、王にはカーブを二球ほど投げた。長島?歩かせてもいいからベルトより上には投げないように気を使った。シュートでカウントをとって追い込んでからフォークボールを落としたのがよかった」九回、安仁屋にバトンを渡してコーラを飲みにベンチを抜け出してきた。サロンのドアはもうしまっていて、とうとうコーラは飲めずじまいだったが、笑いながらいった。「きょうのピッチング採点?まだ勝てるかどうかわかんないからなんともいえません」ことし初の1勝をあげたこの日の昼間、おにいさんが結婚式をあげたことはバスに乗り込むまでいわなかった。

長島選手「大羽がよすぎた。落ちる球にやられた。八階の三振は完全にボール。フォークボールだった。ああいう変化球はもっと引きつけて打たなければいけないな」

王選手「大羽はそんないいできとは思わなかった。ただ高低の変化でうまく攻めてくるのでポイントがつかみにくかった」

吉田勝選手「大羽は打てない投手とは思えない。六回の三振はカーブだった」
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田中調

2016-09-11 10:31:01 | 日記
1965年

田中には大きな望みが一つある。「10勝を一度でいいからあげてみたいことだ。父親の鹿市さんから「おまえが10勝できるようになるまでは東映の試合をみない」といわれ、いまだに一度も自分の晴れ姿をみてもらえない。東京にも一度も出てきたことがないし、郷里・高松でやったオープン戦にもガンとして球場へこようとはしなかったそうだ。鹿市さんはがんこで有名。中学時代(井草中)にもこんなことがあったそうだ。郡(香川県木田郡)の大会の決勝で負けたとき「負けた投手なんか家にいれるか」田中がいくら戸をたたいてもあけてくれず、しかたなく学校にもどって合宿でゴロ寝した。それだけに田中にとっては、一日も早く10勝へ到達することがなによりの親孝行と考えている。「あと2勝とやっとせまりましたね」勝ち星がふえるたびに「マグレ、マグレ」といっていた言葉がやっとこんなふうにかわってきた。六月二十七日からの福岡遠征で腰を痛め、いまだに直り切っていない。病院で精密検査を受けたし、いまでもバスの振動でしびれる。「いつもバスの一番うしろに陣どって正座しているんですよ。背中をピンとしていないと痛くってね」今シーズン東京からこれで3勝目。東映の勝ち星(対東京戦)は四つだから、ほとんど一人でかせぎまくっているわけだ。もっとも3点をとられて、東京キラーは小さくなっていた。「前半カーブを多投して打たれたので、後半はストレート主体にかえたのがよかったのでしょう」尾崎にたすけられた8勝目だけに手放しでは喜べないようす。完投勝ちをのがすきっかけとなった西山の代打ホームランをくやしがった。「西山さんにはきのう(六日)真ん中からはいるカーブを打たれた。だからきょうはカーブ以外をねらってくると思ったので、種茂さんがカーブのサインを出したときすぐうなずいたんだ。でも西山さんはからだを開いてやっぱりカーブにヤマをはいっていたんです。それにしても代打連続ホーマーだなんて・・・」西山にやられたお返しというわけでもないだろうが、田中は「あと二つ完封で勝ってオヤジをムリヤリにも球場へつれ出しますよ」と白い歯をのぞかせた。
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鵜狩道旺

2016-09-11 10:15:45 | 日記
1965年

アンダーシャツを一枚しか用意していなかった。「どうせすぐマウンドをおりてくるからね」というのがその理由だ。「ゲリして最低のコンディションだった。牛乳をがぶ飲みしたのが悪かったのかもしれない」だから試合前の鵜狩は「完封できるなんて思ってもみなかった」という気持ちの方が先走って、しきりにテレた。「球の種類もスピードもいつもと変わらない。完封できたのが不思議なくらいだよ」人のいい笑いが顔じゅうに広がった。「いつもとかわったピッチングといえば、シュートを多く使ったことかな。フォークボールはもうよまれているので、ほとんど使わなかった。投げたのは二球かな」フォークボールをほとんど投げなかったのは長谷川コーチのアドバイスがあったからだ。低めで勝負していたのを、高めにしてみろっていわれた。低めに強い小淵、豊田はそれですっかり面くらったようだ。二人さえマークしていれば、産経打線はそれほどこわくないからね」対産経戦にはめっぽう強い(今シーズン20回2/3投げ失点1防御率0・43)自信がちょっぴりのぞいた。「四回に1点追加してくれたのでずいぶんらくになった。あれでいけると思ったね。こっちもようしという気になったものね」牛乳にあたったというのにベンチのスミにある水道からなま水をうまそうにがぶがぶ飲んだ。人がよく、マージャンをやってもいつも負けてばかりいる。親友の竜に「もうやめろ」といわれて、ことしからきっぱりマージャンと縁を切った。ことしで十一年目。既定の試合数に満たないため十年目のボーナスはことしになる。
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