プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

空谷泰

2016-09-25 21:42:05 | 日記
1957年

ペナント・レースもいよいよ後半戦へ入った。セは中日が、パは南海がそれぞれ首位を保ったままだが、中日は頼む杉下が悪く、スタートは伊奈で、伊奈が倒れると中山と、勝つのが不思議なくらいの投手陣だった。それも後半戦に入り、杉下が徐々に復調し、中山、伊奈も落ち着いた成績を残すようになった。あと一人の完投投手がそろえば、中日の優勝も夢ではなくなるだろう。そこで「立上りが悪い」といわれる空谷の調子はどうか。対阪神十四回戦が雨で流された十七日、大阪市堂島ホテルに空谷投手をたずねてみた。

ー右ヒジはもう痛みがなくなったか。
六月末から痛みはとれた。毎シーズンこうだから自分ではいまでも気にとめていない。昨年もそうだし、七月ごろからシーズン末までいくら投げてもなんともない。

ー今シーズンで四年目だが、調子はいちばんいいのではないか。昨年が記録的にも肉体的にも過去三年間でいちばんよかったと思う。今年は昨シーズンと同じくらいのコンディション(五尺八寸、十八貫五百)はいいが、十一日までで五敗(四勝)しているからね。これからあまり負けられない。

ーそれでは昨年(十一勝五敗)以上の成績をおさめる自信は?
十一勝以上の勝ち星を残さなければ進歩のあとは全然ないわけだ。その意味でできるだけよくばりたい。

ー進歩したと思うところは?
いままで速い球をぽんぽん投げこんでおいてドロップで勝負したところがドロップで勝負するのはいいが、コースなど頭から考えたこともあった。とにかくホーム・プレートを通過しさえすれば打たれてもぼくは満足したものだ。今年は考えるだけの余裕ができたそれだけ2-0後の球が投げにくくなった。野球がわかりかけるとほんとうにむずかしい。

ーウィニング・ショットにしている球は?
打たれない球?それがあれば苦労はないよ。それでも昨年は内角へシュートがよくきまった。ほとんど打たれた記憶はないが今年はまだそれが出てこない。カウントをかせぐにはもってこいの球だった。

ーいやな打者は?
どのコースでも打ち分けるシャープな打者。これがいちばんしまつに悪い。投手ならだれもがそうだろうが、これでせいいっぱいという速球を故意にファウルでもされると、どうにでもなれとついステバチな気になる。これがぼくの短所だ。川上さん、与那嶺さんなんかもっともいやなバッターだ。
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米田哲也

2016-09-25 20:40:07 | 日記
1957年

場内アナウンスが「先発投手は小野と米田」とつげる。試合前のあわただしい空気の中で、米田はゆうゆうと用を足して「相手は小野さんか。どちらが勝つかカケようか・・・」と冗談の中に強い自信をふくめてこういっていた。結果は苦しいながら彼の勝ちと出た。「試合の前から完投できる自信はあった。でもやらない前に必ず投げ勝つなんていえないからカケようかとほのめかしたんだ。オールスター戦前までは一、二本ほど安打をつづけられると、不安が先に立って自滅したが、最近は打たれる気がしない」というように、彼は今夜で十度目の完投勝利、オールスター戦後一ケ月ほどの間に五度も記録している。「技術的な内容は大して変化していないが、最近完投勝利が多いことは、試合のカケ引きがわかってきたためだろう。それとゆるいカーブと速球の使い分けだけを注意した。毎日はいまのところトップにいちばん近いチームだけに、それ相当の打力をみせるものと覚悟していたが、山内さんも榎本さんも葛城さんも外角カーブを目がないと思うほど見逃したり、振ってくれたりしたんで楽でした。後半になってカーブを使った」さる二十六日西鉄と2-2で十二回引き分けたときもそうだったが、疲れた様子はない。「四日休んでいたので、スタミナの点は心配しなかった夏場に投手がへばるというのは休養が少なくなるからだろう。四日間ぐらい休んで投げるのなら苦にならない」現在もっともタフネスなのが西鉄の稲尾なら、それにつぐものは米田ではないだろうか。「米田の進歩はゆるいカーブをまじえてチェンジ・オブ・ペースを会得したことに原因する。大体彼の力はこれで頂天だろうが、このうえに上手からのシンカーをおぼえるとますます威力を増してくる」と伊達コーチは得意顔でいう。米田も「シュートがまだまずい。投げ方が相手打者にわからないようにしなければ・・・」というように「シュートをふくんだ内角球をもう少し低目に、それも沈むように投げられると一流投手」(西村監督補佐の話)となる日も間近いだろう。梶本兄が左のエースなら、米田は右の大黒柱である。
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橋本力

2016-09-25 19:55:36 | 日記
1957年

第一試合3-3の同点の八回、毎日の攻撃。一死一、三塁から橋本(力)が打席に入った。黒田の一、二球はいずれも内角近目のカーブでボールだった。つぎの第三球、この試合をきめた球が投ぜられる前に橋本、黒田の二人の頭にはこんな駆引が行われていた。「二球カーブできてボールになったから、こんどは直球、よし打ってやろう」(橋本)「六日の対東映三回戦で直球に伸びがなかったが、きょうもよくない。だが歩かせて満塁にするよりは・・・」(黒田)第三球は真ん中の直球しかも低目のボール気味の球だ。橋本はこれを全身で振って左中間に二塁打を放った。直球には絶対強いという橋本にカウントを整えるためあえて直球を投げなければならなかった黒田の負けである。橋本は試合後の闘志いっぱい。「商品がいっぱい出ているでしょう。それをもらわなきゃ」二塁走者だった山内はニヤニヤ笑いながら聞いていた。
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小野正一

2016-09-25 19:37:31 | 日記
1957年

葛城をはじめ二、三年組の若手の台頭と衆樹、中野、田切、江崎ら優秀なルーキーを加えた毎日は、今シーズンぐんと若返るだろう。そのなかでとくに期待する選手を別当監督は「小野だ」といい切った。磐城高から常盤炭鉱、さらに清峰伸銅と移って昨年毎日入りした。高校時代は六尺一寸の長身を利した豪快なピッチングをみせたが、ノンプロに入ってからはもっぱら一塁手として打撃を生かして活躍、投手としてはわずかしかゲームに出なかった。毎日入りしたときは投手か野手か、球団側も本人も迷ったようだが、別当監督に「それほど経験もなさそうなのにフォームがよく出来ている」点を買われて投手としてスタートした。当時別当監督は未知数ながら五、六勝をのぞんでいたほど。そして昨年は37試合に登板して4勝1敗の成績を収めた。予想通りの成績だったが、シーズン終了時、別当監督は「もう少しかせげたはずだ」と少し不満そうだった。彼の持ち味は外角へのシュート、長身から投げおろす球質の重い速球である。夏場に強く、球そのものには威力をみせながら4勝とは少ないというのである。しかし完投なしというところからピッチングのコツ、スタミナの配分などがのみこめなかったようだ。「なにしろ一度でもいいから完投してみたかった。調子のいいときでも、あと二、三回というところまできながら打ち込まれてしまう。別にあせるという気持もないが、ムキになるところがいけないのかもしれない」という。大島、別府のキャンプで一番早く出来あがったのはこの小野だ「ピッチングのコツを修得、それと同時に手首、腰を強くしたい」という彼はキャンプ中、腕立て伏せ、跳躍運動と特殊な柔軟体操を人一倍多くやったそうだ二月二十四日(別府)二十八日(小倉)の国鉄戦でそれぞれ後半登場したが、手首のよくきいたシュートの威力は十分うかがえた。腰の回転も昨年よりグッとスムーズになり、力が入っている。ただ右打者の内角低目に入る球に少し甘さがあるようだがこれも手首がよくきいてくれば自然にえぐるような球も出てくるだろう。二十八日の試合では二イニングに4三振を奪うなど完璧に近い成績をみせた。この豪快さに「カーブを加えたい」というのが別当監督の望みである。「昨年の成績以下にはなりたくない。力一ぱい投げるだけで何勝とか目標はおかない」という小野の左腕には、荒巻和田(功)につぐ左のエースとしての期待が大きくかけられている。

別当監督談「期待は若手全部にかけているが、そのなかで特別な意味でこの小野にとくに期待している。昨年入団したとき投手の経験もあまりないのによくまとまったフォームをみせていたし、投げさせてみたところ掘り出し物だった。スピードもあり球質も重い本格派の投手だ。手首をもう少し聞かすともっとよくなる。欠点はピッチングのコツをまだよくのみこんでいないことだ。例えば0-0と7-0の試合を同じように投げている。変ないい方だが要領が悪いのだ。だから昨年は完投できなかったのだ。左投手の少ないウチにとっては貴重な存在である。今年は10勝か12勝を期待している」
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棟居進

2016-09-25 19:01:21 | 日記
1957年

現在の巨人のウィーク・ポイントは岩本の三塁と手薄の捕手だ。もちろん捕手の方は藤尾が渡米中、森が右手人差指突指で休んでいるためだ。だから川上監督代理はまだ試合のはじめの二回一死一、二塁でスタート捕手の加藤をひっこめて代打に与那嶺を出した。この代打策は失敗したが、四回の二死一塁で二人目の捕手棟居が1-3から河村の直球を左中間深々と三塁打して勝越し点をとった。棟居の二球目に岩本にホームスチールされてお天気者の河村がちょっとガックリきているようだったが、それにしてもこの一撃はみごとだった。「インコース、ベルトあたりの球だった。やはりあのホームスチールのため河村は気が抜けているようなところがあった。しかしあのアウトコースへくるカーブ、インコースへくる鋭いシュートはよかった。とくに捕手が日比野さんに代わってからがよかったですね」と捕手らしい見方をしていた。今年の巨人はハワイから広田を呼ばず、若手捕手の成長を期待する。キャンプのはじめには水原監督は左打者の捕手森に大いに期待をかけていたが、渡米前にはかなりちがった考え方になってきているようだった。やはりプロ入り六年という棟居が平均点をとると森より現在では上だ。たしかに森は将来の好捕手になる素質を持っているが、まだ精神的に甘いところがあると見ているようだった。だから今年の棟居の比重は重くなったわけ。棟居自身も「今年こそチャンスだと自分でも思っている。藤尾の留守の間にがんばります。とくにぼくは打つことだ」と語っていた。逗子開成高出身。五尺六寸五分、十七貫、二十四歳。
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吉田勝豊

2016-09-25 18:36:37 | 日記
1957年

決勝打を打った吉田は新しい東映の四番打者である。「公式戦でも彼の四番は動かない」と岩本監督はほれ込んでいる。昨年暮ノンプロ日鉄二瀬から入団した一年生だが、東映の首脳部ははじめから大きな期待をかけていた。東京京橋の東映球団事務所は日曜日はお休み。ところが吉田の契約調印が土曜の夜終わると、さっそく日曜日にもかかわらず報道陣を招いて彼の入団を発表したほどである。その席である記者が質問した「プロでの自信は?」「自信があるから入団したんですよ」平然と吉田は答えた。その吉田はこの日はこんなことをいっている。「オープン戦では当りましたが、公式戦になると投手の投げる球が違うときいています。自信どころか、試合ごとにつぎからつぎへ出てくる投手の球質を研究するだけで精いっぱいです」彼の自信は熱心な研究心に裏うちされているのである。しかし保井コーチの話ではまだシュートが打てないそうだが、本人は「ボールになるシュートに手を出さなくなれば大丈夫です」といっていた。五尺八寸、十九貫、右投右打、二十二歳。
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中山俊丈

2016-09-25 17:38:14 | 日記
1957年

マウンド上の中山が帽子のひざしに手をやった。一球投げるごとに濃紺の帽子が右の方へ傾くからだ。中山の余りの好調さに中日ファンはかえって満ち足りない気持ちであったかもしれないそれほど中山のピッチングはすばらしかった。そのうえみずからのバットで二点をたたき出した。それでも八回西山にホームラン性の大ファウルを打たれたときは、さすがに顔の色がなかった。「あれには驚きました。ファウルさまさまですよ。入ればミもフタもありませんからね調子ですって?点をとってくれるまでは苦しかったんですが、三回以後はまずまずです」といって帽子のひざしに手をやった。点をとってくれる・・・という言葉はつい口グセになっているから、自分のバットでたたきだしたことを忘れたのかもしれない。ややあって「カーブでした。近ごろは打つのが楽しくてね。初球もカーブでしたよ。それで大崎さんはきっとつぎも同じ球を投げたのでしょう」これで、中山は七勝目をあげた。それも六連勝。報道陣からやっと解放された中山が球場の出口へ向かう。「きた、きた。中山がきた」とむらがる豆ファンは歓声をあげていた。
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大矢根博臣

2016-09-25 17:26:13 | 日記
1957年

つるべ落としに沈みかける秋の日がグラウンドのところどころに黒く影をおとした。内野手のような小さなモーションで健投をつづけてきた大矢根が、最後の打者浅越を遊ゴロにうちとった瞬間、思わず両手を高々と差し上げた。こおどりし槙野と抱き合って喜び合う姿が、雲ひとつない秋空を背景にして何か絵のように見えた。完全試合をのぞいてノーヒット・ノーランの記録が生まれたのはこれで六度目。金田(国鉄)真田(元阪神)大友(巨人)杉下(中日)大脇(国鉄)とそして大矢根。「調子としてはこの間の巨人戦(十月三日・中日球場)の方がよかった。スピードがなくほとんどシュートで勝負した。スピードがなかったことがかえって記録が生まれた原因かもしれない。三、四回から意識しはじめたが、まさかと自分で自分を慎重に持っていったこともよかったようだ」とホオを紅潮させながら語る。幾本ものマイクが彼につきつけられ、鉛筆がサラサラと紙の上を走るのを眺めながらも、われを忘れたような目の色だった。しばらく中日ベンチはざわめいていた。ただ一人杉下だけが無表情のまま「コントロールがよかったようだね。別にいつもとかわったピッチングではなかったようだ。試合前慎重に投げろとはいっておいたが、こんな大記録をつくるなんて・・・彼は偉大なピッチャーだ」となにかもの悲しげな微笑をみせる。天知監督は「勝負なんて頭に入りませんでしたよ。ヤネ(大矢根のこと)に記録をつくってもらいたくてね」としわだらけの顔を笑いでくずしている。中日の選手が引揚げる。阪神の選手も・・・。だれにいうともなく長身の小山投手がつぶやくように「ナイス・バッティング」といいながら大マタに去っていった。この自嘲めいた一言は、阪神ナインのだれの胸にもあったに違いない。
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田中照雄

2016-09-25 17:09:57 | 日記
1957年

「ぼくは後楽園で投げるのがきらいでね。よく打たれるんですよ。きょうもプレートから本塁が遠く感じられて、どうも・・・」新人西本についで大映の二勝目をあげた田中照雄投手である。田中のゆるいカーブにペースを乱された南海の四百フィート打線は不発に終わった。わずか野村が二回左翼へ三百四十FTの本塁打をたたいただけであった。「野村は3の3(三打数三安打のこと)だからな。立ち上がりどうも球がとどかない感じがして・・・野村に打たれたのは高目のカーブでしたよ」控室の横から保坂捕手が「あれは失投だよ」といっていたが、この日はユニホームを着ずに見学していた三浦投手が「オイ、勝利投手、きょうはカーブのコントロールがよかったぞ」と握手を求めた。その横で松木監督が「まだ打力が思うようにふるわないので」とぼそぼそ話していた。試合前の南海ベンチでは山本監督が「きょうは田中だ」といったが、彼の登板を全然気にしていないようすだった。近鉄武智(文)の実弟で、もと阪急浜崎監督のさそいで阪急へ入り、その後高橋ユニオンズに移籍され今シーズンから大映に加入、もう六年目になる。五尺七寸たらずで身長がほしいが、腰のバネをきかしたピッチングを熱心に研究してきた。南海は武智(文)がニガ手だが今シーズンは弟の田中にも痛めつけられるのではないか。
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島原幸雄・和田博実

2016-09-25 16:58:20 | 日記
1957年

島原は九回二死後広瀬を三振にしとめて南海をシャットアウトにはふったが、ホーム・ベースをたたいて残念がる広瀬に笑みを送った後は、和田のところへ走り寄って固い握手。立ち上がり少し浮き気味だったが、それでも得意のスライダーを縦横に駆使した島原のピッチングは二回の先取点という好条件におかれてひときわ冴えた。三原監督は「最高の出来」とほめていたが「自分ではけっして最上とは思いません。カーブにコントロールがなくて苦しかった」という。そういえば一、二回の投球数は35球と多い。「二、三日前から右人さし指にできたマメがつぶれたところなので少し気になった。後半はシュートが決まり出してきたが、やはり早く先取点をあげてくれたのが大きくプラスしましたよ」と和田をほめる。その和田は「二回は監督さんに右翼をねらえといわれたんです。代打を出されるかなと思っていたのが、打てといわれ、発奮したわけです。打った球は外角へ逃げるスライダー。あのときは球が止まっているようによく見えましたよ」といっていた。島原=五尺九寸、十九貫五百、二十四歳、右投右打、プロ入り六年目、勝山新中。和田=五尺七寸、十八貫、二十歳、右投右打、プロ入り三年目、臼杵高。
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小野正一

2016-09-25 16:49:08 | 日記
1957年

「六尺一寸、二十貫、あれだけの体があるのに完投できない。まして連投はきかないから・・・」と別当監督は今シーズンの小野に対する期待の裏の不安を語っていた。だがこの日は一回宮本のホームランでとられた一点だけで、七回まで四安打に巨人をおさえた小野である。巨人藤本コーチは「まだ未完成だが大型投手だ。スピードもあり、カーブの切れもいい。コントロールのないのが欠点だがうまい」といっている。一回トップの樋笠を歩かせたが内藤の三ゴロで併殺、そのあとも内野の好守に助けられながら巨人の打者を片っ端からうちとった。二年生だが、長い腕をプラプラさせゆうゆうとマウンドに向かう態度もにくいほど。だが「一回はかたくなって肩に力が入りすぎた」という気弱い面もあり、福島県磐城市から父親をちゃんとスタンドに招いている彼でもある。二十四歳。腰の神経痛であまり好調でない。しかし「今シーズンは西鉄、南海戦にどしどい使う」と別当監督はそのねらいで小野をこの日起用した。一年目の去年は四勝一敗。サウスポー。
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木村保

2016-09-25 16:35:51 | 日記
1957年

「調子は悪くなかったが、きょうはビクビクものでした。近鉄には自信はあるし、別に十勝を意識したわけではないが、気を抜いてはダメだと思って・・・」とはいうものの十勝をあげても別に感激した様子もなく、ベテランのように落ち着いたものだった。ピッチングは少しの不安もなく、六回には中前に痛打して二点をあげるなど投打に大わらわの活躍で、近鉄戦七連勝の原動力となった。これでハーラー・ダービーのトップ。このうち四つの白星は近鉄から奪ったもの。そして二度は完投勝利とまさに近鉄キラー。「別に極め球はなかったが、速球が内外角にきまり、カーブも切れがあったのでずい分楽だった。近鉄はこの球をつまって打っていたようです。一回関根さんに打たれたのはシュートのかけそこないで、まん中に入ったものだった」六勝をあげるまでは繊細なペースで勝星をかせいでいたが、その後少しペースがくずれた。これもリリーフが多く、相手についてよく知らずに投げたのが原因だったそうだ。「今は体重もふえ、大学時代の二十一貫前後。調子もよい」とこれからうんとかせぐといわんばかり。山本監督にきょうの木村の出来を聞いてみると「立上りが少し危なかった。いつも立ち上がりが悪い。一、二回もう少し点をとられていたらダメだった。この点を直さなければ・・・」だそうだ。
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木戸美摸

2016-09-25 11:56:02 | 日記
1957年

洲本、明石のキャンプで投手陣の育成にたずさわった藤本コーチ、中尾主将はともに「いちばん早く出来上がった」といっていたのが木戸である。三回二死一、三塁のピンチをまかされた木戸は穴吹を中飛にとって軽く逃げ切った。その後は南海の誇る四百フィート打線に一歩もヒケをとらない五尺六寸という小柄に似ず度胸満点のプレート・マナーをみせる。いちばんの武器という球質の重いスピード・ボールが小気味よく森のミットにおさまる。前川八郎氏は「昨年の球威をもう十分もっている。まだ投げたあと体がうしろに残るところはない」とそのピッチングをほめていた。打っても五回二塁において右前にタイムリーして勝越し点をあげるなど大わらわの活躍、八回穴吹に打たれしぶしぶ降板したが、それでもこの小さな巨人はまだ投げたいといった顔つき。「少し高目に浮いたと思うが、南海の打者はこれをみな打ってくれた。まだ目が慣れないようだった。でも穴吹には驚いた。外角よりスピードも十分あったはずなのに・・・」とニガ笑い。「今年は早く調子を出そうと努めた。僕らは若いんですから大友さん、別所さんの出来上がるまでそれをカバーしていきます。昨年はラッキーだった。だから今シーズンはそれ以上にやらなくては・・・。キャンプではまず走ることを心がけた。僕のとりえは腰のバネのよいことなのだが、それだけに生かすために走って走って走り回った。今年はカーブをマスターすることです」という。加古川農から入団して三年目。藤田を加えた今年の巨人若手投手陣の軸となる日も間近い。
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権藤正利

2016-09-25 11:28:11 | 日記
1957年

権藤が連敗記録のスタートをした三十年七月九日から数えて、あと二日でちょうど二年になるこの夜七時十四分、最後の打者内藤を右飛にとったとき、権藤の連敗記録はストップした。七夕の夜だが空はまっくら。胴上げされる顔に細かい雨がかかる「前日からいわれてました。今夜は直球にコントロールがあったですからねーナインのおかげですね」汗と雨が涙と一しょになって、とぎれとぎれに語るその口もとを流れる。「立上りはコントロールが乱れたけれどもですねー球が低目にきまったからですね」白い歯並びの右はしに金歯が光る。「五回が一番疲れましたけれどもねー表に三点とってくれましたからね」佐賀弁のアクセントをまじえた感想がききとりにくい。「調子にも投球にもとくにかわったことはなかったです。巨人の打者が、シュートを打ってくれたのがよかったです」というが・・・。甘いもの好きのためこわした胃腸を手術し、PL教に入って精神力をつくりそして今年の秋には結婚も予定されているという。実力はたたき直され、最後に残った運もようやくまわってきた。「記念すべき日になるでしょうね」とボツリ。フラッシュの中に立つ彼に雨が降りつづける。
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拝藤宣雄

2016-09-25 10:15:37 | 日記
1957年

立大の拝藤投手は数日前から上京中の父親や元近鉄の次兄聖雄さん(25)らとプロ入りについて相談した結果、六日セ・リーグ広島入りを決めるとともに、同日大洋を断った。しかし辻監督はいぜん大洋入りをすすめており、正式決定は立大野球部のスケジュールが終ってからになるものとみられる。同投手のプロ入りについては近鉄、阪急、大洋、広島の四球団が交渉。阪急は同投手の出身校鳥取境高から米田投手をとっている関係で丸尾スカウトが交渉したが、諸種の事情から途中であきらめ、近鉄も入団条件が折り合わなかった。大洋は早くから有村コーチが立大辻監督を通じて大洋入りを工作、広島は次兄聖雄氏を通して勧誘をつづけていた。そして慶立戦のときに上京した家族と相談したときは、契約条件が大洋よりいい広島入りをいったん決めたが、辻監督に反対されて一時は大洋入りを考えていた。しかし五日夜次兄を通じて先輩と相談したうえ六日朝広島入りをきめたものである。

広島河口代表の話 「家族は本人を郷里(島根県境市)の近くにおきたいことなどから、広島へ入れたいといっている。今シーズン立大野球部の全日程が終了したとき本人が広島入りを希望するならぜひひきとりたいと思っている」

拝藤投手略歴 二十九年境高から立大入学二十八年には東中国代表として甲子園に出場している。大学では恵まれず、三年生までフリー・バッティング投手をつとめていたが、これで得たコントロールを武器に今春からデビュー、杉浦投手とともに立大連覇の立役者であった。カーブとナックルが武器。五尺七寸五分、十六貫五百、右投右打。文学部四年、昭和十五年五月二日生まれ。
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