プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

牧勝彦

2016-09-10 23:52:47 | 日記
1965年

牧にとって小山はあらゆることの手本だ。阪神から小山を追いかけるように東京に移籍、アパートも小山の家にい目と鼻の先にある東京・渋谷にわざわざみつけた。東京にいるときは球場への往復にはいつも小山の車に便乗する。「そのときにいろいろピッチングのアドバイスをしてもらうんです。小山さんの野球に対する真剣な態度、けじめのついた私生活、そういうものをじかにみられるのでとても参考になるんです」プロ入り五年ではじめて味わう完封の喜び。孫悟空とナインからアダ名をつけられているあいきょうのある顔。だが、口調はとてもまじめだ。「小山さんは去年、阪神を見返してやるという気持で30勝したといっていました。だから、ことしトレードされたときボクも阪神が牧を出して損したと後悔するようなことを絶対しようと誓っていたんです」その気持ちが人一倍のランニングをさせ、開幕直後、全然登板のチャンスを与えられなくてもクサらなかったのだろう。「阪神のときより気持ちもからだも好調です」強くいい切った。「きょう、前半は苦しかった。でも、ショートのファイン・プレーに救われ、調子づくことができた」報道陣に囲まれている牧を小山がうれしそうにながめていった。「あいつの速球はおそろしく速い。牧はまだまだこんなもんじゃないぜ」トレードで小山、前田の二人をとり、大もうけした東京。牧と谷本のトレードも「しぶい打力をもつ谷本の方がいい」とみんなにいわれた。損といわれた巻で東京はまた得をしたようだ。
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平岡一郎

2016-09-10 23:05:34 | 日記
1965年

飾っ気がなく、のんきで、思ったことははっきりいう。度胸のいい青年。1㍍72、70㌔。プロの選手としては小柄の方で顔はタテに長く、いつもニコニコしている。あるとき遠征中の列車の中でみやげ売りの女の子が歩いてきた。「あっ、桜島(ダイコン)が歩いてきた」売り子の太い足を指して大きな声でいった。いつもタテジマのはいった紺の背広を着ている。「よっぽどその背広が気にいっているんだな」とナインにからかわれると「でも、よごれがめだたんのでこれが一番いいんだ」すました顔でいう。そんなわけでこの日のピッチングの感想もふるっていた。「先発はきょうの試合前のランニング中いわれた。あんまり急だったのでかえって落ちついちゃった。これまでは四イニング以上投げたことはなかったので、疲れたかって?ちっとも。しかし、神経が少し疲れた」神経が疲れたなどと堂々といってのける神経はそうとうふとそうだ。「巨人より中日の方がこわい。とくにマーシャルはいやだ。七回右中間へホームラン性の当たりをとばされたときはヒヤッとした」汗ばんだヒタイをユニホームのそでをぬぐった。「江藤さんはこわくない」こんな平岡を江藤本人はこうみている。「最初は球種も多く正直いって面くらった。しかしなれれば・・・」カーブを中心にスライダー、シュート、落ちる球、ストレートと球種は多い。横浜高時代はストレートとカーブ、シュートの三種類だけだった。藤井スカウトの熱心な勧誘で、すでにきまっていた会社も棒にふってこの春入団した。キャンプではパッとしなかったが、首脳部は「おもしろいクセ球をもっている。それに人間もおもしろい」と目をかけていた。今シーズンのイースタンでの成績は4勝2敗。七月十二日の中日戦以来一軍入りし、この日までの成績は十八試合で2敗だった。
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鈴木皖武

2016-09-10 22:30:35 | 日記
1965年

大柄なナインにかこまれるとどこにいるのかわからなくなる。メンバー表には1㍍73、64㌔とあるが、正確にいえば1㍍70、63㌔。実に無口だ。ことしの一月十四日、高校時代(愛媛県宇摩郡土居高)机をならべていた千代子夫人とこっそり結婚式をあげたことをまだ知らないナインもいる。そんな男が、四回の打席にむかうとき豊田にいった。「絶対に打って決勝点をあげてみせる」鈴木にはそれだけの確信があったそうだ。「稲川さんはスライダーを多く投げていた。あの球なら打てるような気がしたんです」これが今季初ヒットだ。七回から石戸にバトンをわたし、すずしい顔でベンチに引きあげてきた。「調子はよくなかった。こんな寒い天気だし、十二日の阪神戦(神宮)でやった右ヒザ打撲や、持病の腰の神経痛が出て苦しかった。だから七回監督さんに一発打たれると困るので代えてくださいと頼み込んだんです」全部リリーフで3勝目。プロ入りしてから昨シーズンまで5勝しかあげていないのだから、ことしはすごいハイピッチだ。リリーフをいいわたされるとき、いつもこう考えるそうだ。「ていねいに。打者の気迫に負けちゃいけない」これまで八イニングを投げたのが最高。スタミナをつけて九回をまかせてもらうような投手になりたいというのがこれからの目標だ。ダブダブのアンダーシャツは巨人へ移った金田の置きみやげ。金田によくさそわれた。「キヨ、そんなやせたからだじゃりっぱな投手になれんで。どや、メシでも食いにいこうか」だが鈴木にとって世の中で一番こわいのはこの金田だという。「仙台へきた晩見た夢は、一生懸命カネさんのバッティング投手をつとめていることだった。コントロールに気ィつけや、という声までつくんだから、ためになる夢ですよ。そのせいかグラウンドでも、コントロールはずば抜けてよかった。低めをねらったのが成功したと思います。いままで広島と巨人にしか勝てなかったが、これであとは中日と阪神だけになりました」六日の巨人戦(広岡)七日の巨人戦(船田、広岡、城之内)、八日の阪神戦(遠井)、十二日の阪神戦(朝井、辻佳、バッキー)と、四試合にわたって、ショート・リリーフするたびに全打者を三振にとり、連続8奪三振というセ・リーグ・タイ記録をマークした。十八日からの巨人戦(後楽園)で、金田と会うのをたのしみにしている。ネット裏でメモをとっていた巨人の小松スコアラーのノートには鈴木の欄に赤エンピツで要注意と書き込まれていた。
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妻島芳郎

2016-09-10 22:11:15 | 日記
1965年

昨年はオリオンズの最終ゲームで規定の投球回数にすべり込み最優秀投手になった。敗戦処理的登板でも慎重に投げつづけた積み重ねが、じみな妻島の存在に脚光を浴びせた。ナインのなかにいても、どこにいるのかわからないほど静かな男だ。ピッチングも力で押すタイプではなく計算ずくめ。「ぼくは直球のほかシュートとカーブしか武器はない。はじめその三つを適当にまぜてテストしてみる。それで打たれた球はその日は切れが悪いからなるべく投げないようにするんだ」といったぐあいだ。この日はシュートが悪かったのでほとんど直球とカーブだけで勝負した。「シュートは落ちなかったが直球はわりにのびたし、カーブもよく切れた。それと前半に点をとってくれたのでりきまず楽に投げたのがよかった」四月十五日の近鉄戦に先発して負けて以来二度目の先発。初めての勝利だけにさすがにうれしそうだ。「去年のシャットアウト勝ちは二度とも近鉄から。近鉄以外のチームに完封勝ちしたのは初めてです。つまり三度目というわけですね」と細い目をなおいっそう細くして笑った。一番苦しかったのは中盤だったそうだ。「ちょっと疲れましてね。いままでがずうっと悪かったので、きょうも後半は打たれるんじゃないかと心配していた。でも西田がパーマのホームラン性の打球をとってくれたしついてましたね」このパーマへの一投だけが慎重だった妻島が勝負にでたシュートだった。最優秀投手の実績から、ことしは第三の投手に期待されながら、新鋭迫田に先を越された感じだっただけに、この1勝は価値がある。「そうですね。やっと片目があいたから、これからは楽にやれますね。最優秀投手なんていうことは意識していなかったが、いままではどうしても相手を押え込んでやろうと、りきんでいたのがいけなかったんですね。これからはきょうみたいに力を抜いて投げますよ」どうやら妻島は自分本来の慎重な投球のカンをこの試合でとりもどしたようだ。
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羽里功

2016-09-10 21:30:26 | 日記
1965年

また新しい大洋キラーが出現した。八回伏兵林に一発を浴びて竜に助けを求めたものの、それまでの六イニングは完ぺきだった。ブンブン振りまわす大洋打線を下手からの浮きあがるカーブでキリキリ舞いさせ、桑田、松原、伊藤らからは文句のない三振までとった。ベンチの冷たい水でゴシゴシ何度も顔を洗ってからロッカーへもどった羽里はオデコから湯気をたてていた。「公式戦ではめったに出るチャンスがないので一生懸命投げました。大洋の打者はみんなこわかったけど、なんかちょっとー」おかしな調子だったといおうとしてあわてて言葉をにごし、そして恥ずかしそうに笑った。プロ入り三年目でやっとつかんだ初勝利。去年はファームでさえ勝ち星なしの2敗。それがことしはウエスタン・リーグで一躍5勝(2敗)をマーク、こんどのジュニア・オールスターに出場が決まった。これが大きな自信をもたせたようだ。「ウエスタン・リーグでは手もとから浮きあがるカーブを武器にして成功したので、きょうもそのカーブをきめ球に使いました。ただこっちはごまかしのきかない一軍プレーヤーばかりなので、そのカーブの前に落ちるシュートを投げて、なるべく変化をもたせるようにしただけです。コントロールがよかったのでなんとかもったのではないですか」公式戦には昨年二試合、ことしもまだ二度目の登板だ。しかし林に打たれたホームランを「カーブが真ん中にはいった。失投でした」とズバリといいきるあたり、気も強そうだ。徳島海南高ではことし西鉄入りした尾崎投手の二年先輩。一年までは上手から投げていたが、二年のとき「投げやすいから」という理由だけでかってに下手投げにきりかえた。もしそのとき野球部の市川監督が「やめろ」といっていればこの日の大洋キラーは出現していなかっただろう。ついこのあいだまで「変則型なのでつなぎに使える投手になればめっけもの」といっていた白石監督も、この1勝で羽里を見直したようだ。球宴を出ながらうれしそうにいった。「ちょっとようすをみるつもりでだした羽里がねえ・・・。こんどは・・・」二十歳、1㍍79、75㌔、右投右打。
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菱川章

2016-09-10 21:16:54 | 日記
1965年

スタンドから「ウーン」といううなり声がおこった。それほど、七回の3ランは豪快な当たりだった。しかもこれがプロ入り初安打。ロッカーへもどってくると、江藤がポンと肩をたたいた。「あきら、あの感じを忘れずにつかんでおけ」すなおに何度もうなずく菱川には型破りの新人とキャンプの当時いわれたごうまんなふんい気はまったくない。この夜も試合前「気持ちよく投げてもらわなければいけませんからね」と先発予定の柿本の肩をもむサービスぶりだった。「内角寄りの低めのストレート。なんとかしてヒットを打ちたいと夢中で振った。そうしたら実にいい感じで当ったんです。これも試合前杉山さん(二軍監督)にいわれた注意をよく守ったためです」杉山二軍監督が与えたアドバイスとは「バックスイングのときバットがさがり気味になるから少しあげてみろ」だった。二、三か月前の菱川だったらこんな注意にも耳をかさず「フーン」とソッポを向いていただろう。試合後、西沢監督も「なんといってもここが落ちついてきたからね」と胸のあたりを押えた。「キャンプのときの言動と比べたら雲泥の差だ。それもボックスにはいってものおじしないで思い切って振るところがいい。ベンチにすわっているうちにみようみまねでレギュラー選手のいいところを吸収しているようだ。素質がある証拠だね」名古屋にいるときは連日午後三時から特訓を受け、二百本以上フルスイングをしているという。からだはこんがりとやけてよくしまり、日ごとにたくましさを加えているようだ。
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エディ・武井

2016-09-10 09:38:13 | 日記
1960年

「武井、オマエは攻守のヒーローだ」スタンドから声がかかったが武井は日本語を知らない。武井が九回をつとめたのは四月二十四日以来十日ぶり。鳴りもの入りで入団したが打てない武井のトレード・マークさえついた武井である。内角を徹底的につかれて武井の起用は日とともに少なくなっていった。しかしこの日の逆転打は武井のもっともニガ手の内角シュートだった。バットが折れて打球が左翼手山内の前にポトリと落ちるテキサスだった。大さわぎのベンチをよそにとぼとぼと一人でロッカーへ帰った武井は「ラッキーね」と一言いっただけ。武井は日本語がわからぬから無口なわけではない。二世選手だけのパーティーが東京で開かれるときも「隣の人から話しかけなければ彼はしゃべらない」(ビル西田の話)といったぐあい。だから試合に出られないようになっても通訳係スタンレー・橋本にもグチひとついわないという。「なに考えているかわからない人」と橋本はいうがこんな一面もある。「試合中捕手の交代があるとき、つぎの捕手の支度が終るまでだれよりも先にミットを持って投手の球を受けるのが武井です。ベンチのすみからあっという間にミットを持って出ていく。キャンプではいつも報道陣の中心だったのに、いまはだれ一人惚れる人のいない男ーそれだけにそういう武井の心づかいがいじらしいんです」(神谷マネの話)ベンチのすみから内角打ちをひそかに研究していたのかもしれない。「武井はこれで自信がついただろう」岩本監督は大声で報道陣にいっていたが、武井はそんな言葉も知らずにロッカーで相変わらずだまってみんあの喜びある姿をみていた。
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