プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

乗替寿好

2020-07-08 15:27:35 | 日記
1970年

山崎、池辺、有藤そしてロペス、榎本、醍醐…。しぶとさで名を売ったロッテ主力打者のバットが、ためらいもなく空を切った。175㌢、74㌔。小柄な愛着の左腕からひねり出される鋭いカーブは、まるで生きもののようにバットの下をくぐり抜け、宮寺のミットでハデな音をたてた。首をひねるロッテの面々。ベテランたちを手玉にとって若狭の小天狗は白い歯をみせた。すべてにひかえ目な男だから、ハデなジェスチャアはない。だが一昨年のドラフトで指名1、2位を分け合った東尾が、すでに2勝をマークした事実は重い。くやしさの重みにジッと耐えながら乗替は投げた。「どんなことがあっても、とにかく勝ちたい」それだけが頭の中にあった。それだけがマウンドの乗替のたよりだった。一年目の昨シーズンは、あせりで肩をこわした。シーズン終了前には、あわや整理選手の仲間入り?とウワサされるほど落ちぶれ果てていた。だが甲子園大会で一流の折り紙をつけられた若狭高のエースには、まだプライドが残っていた。故郷の海辺で人知れぬ猛特訓で作り直された乗替の左腕は、やがて島原キャンプで和田コーチを驚かせ、オープン戦で稲尾監督に思わず目をこすらせたほどの、すばらしいカーブを生んでいた。これまでの公式戦最長投球回は3回と3分の2(対ロッテ4回戦=東京)だがこの夜は難なく四回を切り抜けた。五回の二死二塁も浜村の美技で乗り切った。六回は二ー四番を三者凡退だ。七回、有藤に左線二塁打され、前田に送りバントを許して一死三塁のピンチを残し降板したが、リリーフの秋葉が高目球ばかり投げて大量点を失ってしまっただけに、ベンチにも悔いが残ったろう。乗替自身はどうだったか。「投球数が少なかった(88球)から疲れはなかったんです。だけど有藤さんに打たれたタマはボール1個くらい内側にはいってしまいました。きょうはスライダーがよかったんだけど…。もっとフォームが固まってきたら完投できるでしょう」と意外に明るい表情でしゃべった。インタビューの間も同僚たちから「惜しかったな」「つぎは打ってやるから」と、ねぎらいのことばが飛んでくる。そんな声にいちいちうなずきながら「とにかく精いっぱいやりました。つぎは勝ちます」すべてを包みかくして乗替は胸を張った。
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佐藤文男

2020-07-08 09:27:12 | 日記
1978年

長男が生まれたばかり。「ええーっと…」デジタル時計をじっと見て、律儀に指を折り、日を数え終ってからいった。「きょうで48日目です」その仕草、顔が純情だ。「こんどの遠征、長いでしょ。帰ったらまるで変っているでしょうね。生まれたばかりというの、日一日と成長するっていうから‥」一種のオノロケである。初々しい。初めての子に「純一」と名づけた。「純」という字が好きなんです。そして大きくなったら一番の男になるように・・」本人は3人兄姉の末っ子。すっかり有名になったエピソード道に捨ててあった新聞を拾ってみたら近鉄のテスト記事。そこで思いたって、いまに至ったーという、プロ野球選手としては異例の出世物語。「人生って、ホント、わからないものですねえ」と、いま自分でつくづく思っているところだ。新聞でテストの広告を見たーということは事実だ。だが「道に捨ててあった新聞が歩いていた足にひっかかったので、それを拾いあげてヒョイとみたらテスト広告が目についた」という小説か映画のようなシーンについてあらためて聞くと、ニヤッと笑って、「それはどうかな。新聞でテスト広告をみたというのは事実だけどね」少々マユツバの話でも「プロ」なら、それがファンをひきつける看板となるから、ワザとそれを否定しないでソッとしておく選手も多い。だが、テスト生から、人知れない苦労をつづけて一軍ローテーション組にくいこみ、リリーフの切り札といわれるようになってなお純情さを失わぬこの人、あっさりとプロならではの名ドラマを打ち消してしまった。そこがスガスガしい。広島・戸手商。先輩にプロ野球選手はひとりもいない。高校3年の秋、「同級生のほどんどは就職先がきまっていた」ひとり、佐藤だけ、くる話くる話にクビを振った。「コレダと思う仕事がなくって」しばらく野球の話がつづいたあといいなおした。「やっぱり、野球が好きだったんです。野球から離れていくことができなかったんです」近鉄のテストに合格、通知が実家にきて、驚いたのは両親だ。特に、強く反対した母親に、佐藤はいった。「ダメだと思ったら、すぐ帰ってくるんだから・・・」1年たち、2年たち、3年たち・・何度か「寝つかれない夜」が続いた。2年目、ウエスタン・リーグで4勝をあげ、3年目に一軍ベンチに入ったとき「もしかしたら・・・」という気もあった。が、くる日もくる日もフリーバッティング用投手だ。ある日、チームの四番打者が、通りすぎようとしたとき、ひとこといった言葉がある。「いくらフリーバッティングに投げるといっても、打者に好かれるような投手になったら終わりだ」そうだ、と思った。試合前の主力打者にいい気持ちで打ってもらうのがフリーバッティング投手の一つの役目ではあるだろう。だが、佐藤は、その日から、「打たせてなるものか」と思って、投げた。「カーブ、シュート。曲げたり落としたり…」苦心のピッチングは、だが、なかなか認められない。「寝苦しい夜」は5年間、つづく。「暑いし、昼叱られた日など寝つかれないし、汗でもかいて思いきり体でも動かせば気も晴れるだろうと思って」夜、ひとりで暗いグラウンドを走りつづけた。ひとりで室内練習場のネットに向かってピッチングもやった。「シャドーピッチングでは体に覚えこませることはできんと思った」からだ。昨年、4月26日、6年目の初勝利。特別、監督やコーチから例年と違う話があったわけではない。「オープン戦でよく使ってもらったから、ことしはイケるかもしれないぞ・・とは思っていたけど・・」ベンチで、いつものように応援組のひとりだった。突然、「佐藤、行け」それが、いまの「リリーフ男・佐藤文男」誕生のスタートになった。26日現在、3勝5セーブ。「勝ち星とかセーブなど考えない。いまは、起用してくれる監督の期待に応えるピッチングをしたいーただそれだけ」という。中学時代、「オレがいなければ、野球部は成り立たないだろう・・・とテングになってケンカ別れ。野球から離れた」経験をもつ。それがいまい「テスト生」という苦難の道を乗り越えて、「勝ち星やセーブの数より、自分の役目を果たすこと」に生きがいを見出すようになった。いま、「深夜のひとりぼっちのランニング」の思い出がつまっている藤井寺球場の近くに、幼なじみの宏恵夫人と純一ちゃんとの幸福な日々。テスト生時代に比べれば、給料もずいぶんあがったんだろうね、と聞くと、また律儀に計算してから、「6倍になりました」いつかプロ野球選手になるんだと夢をみている少年たちには、大洋・高木選手とともに佐藤文投手のガンバリズムは、いい励ましになるだろう‥と、思わずいったら、真剣な表情で答えた。「いえ、ボクのような無鉄砲なことは、やめた方がいい。本人はいいけど、まわりの人たちが大変だ」6年間の苦労がしのばれた。
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