1970年
西鉄ライオンズはかねてから明大・倉田晃遊撃手(22)=身長173㌢、体重69㌔、右投げ右打ち=の獲得交渉をしていたが、七日、城島スカウトが上京、明大野球部の島岡総監督と会い、倉田獲得の了解を求めて、その同意を得た。同選手は、すでに西鉄入りを決意しており、城島スカウトが帰福しだい、八日にも正式契約。九日には正式入団発表の運びとなろう。同選手は昭和三十九年春の全国高校選抜大会に博多工の遊撃手として出場、同校は準決勝で尾道商に惜しくも敗れたが、当時から倉田選手の軽快なプレーはプロ球界からマークされていた。明大に進学してからはプレーにみがきがかかり、昭和四十三年春の東京六大学リーグ戦では34打数、15安打と打ちまくり、4割4分1厘の高打率をマークして早大の谷沢、荒川、法大の田淵(現阪神)を押え、首位打者の栄誉に輝いた。「地元選手を獲得する」という方針を打ち出している西鉄ライオンズとしては、一石二鳥の逸材を獲得したことになる。青木球団社長。稲尾監督は「ツキを持っている選手」と同選手の活躍を大いに期待している。倉田選手は昨年暮れのドラフト会議で、どの球団からもリストアップされていない。その理由は、選手がリストアップされるのを好まない明大島岡総監督の強い意志があるからだ。プロ球界でも明大選手のスカウティングではこうしたことを十分に心得ている。当然、ドラフトとは別な舞台裏のスカウト合戦が行われることが多い。倉田選手の場合も「リストアップすると、逆に獲得しにくくなる」という心配があった。どの球団ともドラフト会議後は、懸命なハラの探り合い、そんななかで西鉄が見事に倉田選手を射止めたのだ。
西鉄の城島スカウトは、徹底した隠密行動だった。西鉄にとって有利だったのは、同選手が地元福岡の出身ということである。昨年の暮れ、冬休みで帰福した同選手宅=福岡市宝来町=を訪れた城島スカウトは、稲尾体制で再起を期す新生ライオンズの姿勢を説明して、西鉄入りを決めた。その後も再三の交渉。こうした城島スカウトの努力が功を奏して新春早々父親清長さん(54)=福岡漬物株式会社専務取締役=から西鉄入団の了解を得た。しかし、同選手はノンプロ鷲宮製作所(埼玉)への就職が内定していた。七日、城島スカウトが上京したのは、この問題の円満解決と、明大島岡総監督の了解を得るためだった。明大島岡総監督は倉田選手の西鉄入りを「西鉄入団は地元ということからもいいことだ。こころよく了承した」と喜んでいる。「なにしろ人柄がいい。やはり野球は技術だけではない。倉田のような努力家はきっと報われるだろう」とも付け加えている。
根性の島岡野球をたたき込まれた倉田選手は、西鉄ライオンズで元気いっぱいのプレーを披露してくれるだろう。かくれた逸材というにしては、倉田選手の球歴はりっぱすぎる。昭和二十二年四月十四日生まれ。父親清良さんの話によると、当時から野球選手に育てようと決めていたそうだ。野球好きな博多っ子として、千代中学時代には早くも近所の人気もの。市内少年野球大会ではバンビースのエース、四番打者として、最優秀選手に選出されたこともある。天分は順調に芽を出し、博多工の佐藤野球部長に鍛われた高校時代には、晴れの甲子園出場を果たしている。三十九年の選抜大会では3割7分5厘、同年五月の新潟・国体・初優勝では、3割6分3厘の好打率をマークした。一、二番を打ち、チャンスメーカーとして大活躍、守っては軽快なステップスローの名遊撃手として定評があった。「高校を卒業するときプロ入りしようと思った」そうだが、当時父親清良さんと交友のあった大下弘氏(元西鉄)のすすめで明大入り。西鉄はこのときから倉田選手をマークしていたともみられている。明大では一年生の春のリーグ戦からベンチ入り。だが、博多工時代にみせた俊足好打のリードオフマンも、最初はケガに悩まされてチャンスをつかめなかった。二年生の春、高田(現巨人)との黄金の一、二番コンビとうたわれながら肩と足を負傷したのがつまずきとなり、その秋に戦列復帰はしたものの通算無安打。だが、三年生の四十三年春、対立大二回戦での三塁線突破三塁打が好打者倉田をよみがえらせた。初安打に気をよくした倉田は、そのシーズン15安打を放って首位打者の栄冠を獲得。「果報は向こうからやってきた」とユーモラスに語った倉田のことばは神宮記者の話題にもなった。谷沢、荒川との首位打者争いは、最後の早慶戦で谷沢、荒川がつまずいた。他人任せのリーディング・ヒッターと倉田は控えめだが、同年秋のリーグ戦では二塁、三塁、遊撃の各ポジションをこなして、明大の優勝に貢献した。東京六大学での通算打率は2割7分5厘。ホームランは四十三年秋、早大小坂投手から奪った一本だけだが、小回りのきく守りと、シャープな打法は、逸材というにふさわしいものがある。稲尾監督は「特長を生かして、貴重な戦力に仕上げたい」と語っている。ホームラン打者のタイプには長打をねらわせ、シャープな打者には好打に徹してもらうというわけだ。倉田選手の場合は後者。「内野ならどこでもやりこなせる」選手だが、西鉄では本職の遊撃を浜村と争うことになりそうだ。
倉田選手の話 西鉄入りを決心しました。小さいときからライオンズは大好きだし、その希望がかなっただけに、期待にそえるよう努力します。
明大島岡総監督の話 西鉄入りはいいことだ。プロ野球で大いに力を発揮してもらいたい。倉田は努力家だ。
父親清良さんの話 お世話になった人には、筋道を立てて理を通さねばなりません。幸い、明大島岡総監督が了承してくれましたので、むすこを西鉄にお願いすることにしました。
城島スカウトの話 きょう明大の島岡総監督と会って西鉄入りを了解してもらった。倉田選手と家族の方には了承してもらっているので、正式契約後の九日に入団発表できると思う。地元福岡の選手ということでもあり、地元ファンの力強い応援をお願いしたい。
西鉄ライオンズはかねてから明大・倉田晃遊撃手(22)=身長173㌢、体重69㌔、右投げ右打ち=の獲得交渉をしていたが、七日、城島スカウトが上京、明大野球部の島岡総監督と会い、倉田獲得の了解を求めて、その同意を得た。同選手は、すでに西鉄入りを決意しており、城島スカウトが帰福しだい、八日にも正式契約。九日には正式入団発表の運びとなろう。同選手は昭和三十九年春の全国高校選抜大会に博多工の遊撃手として出場、同校は準決勝で尾道商に惜しくも敗れたが、当時から倉田選手の軽快なプレーはプロ球界からマークされていた。明大に進学してからはプレーにみがきがかかり、昭和四十三年春の東京六大学リーグ戦では34打数、15安打と打ちまくり、4割4分1厘の高打率をマークして早大の谷沢、荒川、法大の田淵(現阪神)を押え、首位打者の栄誉に輝いた。「地元選手を獲得する」という方針を打ち出している西鉄ライオンズとしては、一石二鳥の逸材を獲得したことになる。青木球団社長。稲尾監督は「ツキを持っている選手」と同選手の活躍を大いに期待している。倉田選手は昨年暮れのドラフト会議で、どの球団からもリストアップされていない。その理由は、選手がリストアップされるのを好まない明大島岡総監督の強い意志があるからだ。プロ球界でも明大選手のスカウティングではこうしたことを十分に心得ている。当然、ドラフトとは別な舞台裏のスカウト合戦が行われることが多い。倉田選手の場合も「リストアップすると、逆に獲得しにくくなる」という心配があった。どの球団ともドラフト会議後は、懸命なハラの探り合い、そんななかで西鉄が見事に倉田選手を射止めたのだ。
西鉄の城島スカウトは、徹底した隠密行動だった。西鉄にとって有利だったのは、同選手が地元福岡の出身ということである。昨年の暮れ、冬休みで帰福した同選手宅=福岡市宝来町=を訪れた城島スカウトは、稲尾体制で再起を期す新生ライオンズの姿勢を説明して、西鉄入りを決めた。その後も再三の交渉。こうした城島スカウトの努力が功を奏して新春早々父親清長さん(54)=福岡漬物株式会社専務取締役=から西鉄入団の了解を得た。しかし、同選手はノンプロ鷲宮製作所(埼玉)への就職が内定していた。七日、城島スカウトが上京したのは、この問題の円満解決と、明大島岡総監督の了解を得るためだった。明大島岡総監督は倉田選手の西鉄入りを「西鉄入団は地元ということからもいいことだ。こころよく了承した」と喜んでいる。「なにしろ人柄がいい。やはり野球は技術だけではない。倉田のような努力家はきっと報われるだろう」とも付け加えている。
根性の島岡野球をたたき込まれた倉田選手は、西鉄ライオンズで元気いっぱいのプレーを披露してくれるだろう。かくれた逸材というにしては、倉田選手の球歴はりっぱすぎる。昭和二十二年四月十四日生まれ。父親清良さんの話によると、当時から野球選手に育てようと決めていたそうだ。野球好きな博多っ子として、千代中学時代には早くも近所の人気もの。市内少年野球大会ではバンビースのエース、四番打者として、最優秀選手に選出されたこともある。天分は順調に芽を出し、博多工の佐藤野球部長に鍛われた高校時代には、晴れの甲子園出場を果たしている。三十九年の選抜大会では3割7分5厘、同年五月の新潟・国体・初優勝では、3割6分3厘の好打率をマークした。一、二番を打ち、チャンスメーカーとして大活躍、守っては軽快なステップスローの名遊撃手として定評があった。「高校を卒業するときプロ入りしようと思った」そうだが、当時父親清良さんと交友のあった大下弘氏(元西鉄)のすすめで明大入り。西鉄はこのときから倉田選手をマークしていたともみられている。明大では一年生の春のリーグ戦からベンチ入り。だが、博多工時代にみせた俊足好打のリードオフマンも、最初はケガに悩まされてチャンスをつかめなかった。二年生の春、高田(現巨人)との黄金の一、二番コンビとうたわれながら肩と足を負傷したのがつまずきとなり、その秋に戦列復帰はしたものの通算無安打。だが、三年生の四十三年春、対立大二回戦での三塁線突破三塁打が好打者倉田をよみがえらせた。初安打に気をよくした倉田は、そのシーズン15安打を放って首位打者の栄冠を獲得。「果報は向こうからやってきた」とユーモラスに語った倉田のことばは神宮記者の話題にもなった。谷沢、荒川との首位打者争いは、最後の早慶戦で谷沢、荒川がつまずいた。他人任せのリーディング・ヒッターと倉田は控えめだが、同年秋のリーグ戦では二塁、三塁、遊撃の各ポジションをこなして、明大の優勝に貢献した。東京六大学での通算打率は2割7分5厘。ホームランは四十三年秋、早大小坂投手から奪った一本だけだが、小回りのきく守りと、シャープな打法は、逸材というにふさわしいものがある。稲尾監督は「特長を生かして、貴重な戦力に仕上げたい」と語っている。ホームラン打者のタイプには長打をねらわせ、シャープな打者には好打に徹してもらうというわけだ。倉田選手の場合は後者。「内野ならどこでもやりこなせる」選手だが、西鉄では本職の遊撃を浜村と争うことになりそうだ。
倉田選手の話 西鉄入りを決心しました。小さいときからライオンズは大好きだし、その希望がかなっただけに、期待にそえるよう努力します。
明大島岡総監督の話 西鉄入りはいいことだ。プロ野球で大いに力を発揮してもらいたい。倉田は努力家だ。
父親清良さんの話 お世話になった人には、筋道を立てて理を通さねばなりません。幸い、明大島岡総監督が了承してくれましたので、むすこを西鉄にお願いすることにしました。
城島スカウトの話 きょう明大の島岡総監督と会って西鉄入りを了解してもらった。倉田選手と家族の方には了承してもらっているので、正式契約後の九日に入団発表できると思う。地元福岡の選手ということでもあり、地元ファンの力強い応援をお願いしたい。