プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

芝正

2020-07-29 16:18:45 | 日記
1982年

四国球界では球道クン(高知商・中西投手、現リッカー)と並ぶ本格派投手として評判を取った。1㍍85、78㌔と恵まれた体格から投げおろす速球は、マッハ・田中(電電関東)と比較しても決してヒケを取らない。今シーズンも5月19日の西武5回戦では11奪三振でノーヒットノーラン。チームの11連敗を救い、ファームのエース格にのし上がった。だが、この試合でも7四球を許すなど、「課題の制球力をつけること」(宮田二軍コーチ)は、まだ解消されていなかった。昨年は6試合に登板、防御率2.45だった成績が、今シーズンは16試合に登板。79回で三振は60個を記録しながら、四死球もほぼ同数の59個。このため防御率も4.67と悪くなっている。「結局は、まだ下半身が出来ていない、ということです。下が安定していないので、ボールを放す位置がバラバラになるわけです」岩下二軍監督が指摘するように、スタミナ不足で、いま一つ精彩を欠いた、というのが今シーズンだ。性格もどちらかというと真面目過ぎるほど真面目で、仲間には新宿二丁目(おカマっぽい)といわれるほどだ。だがマウンドでの図太さは持ち合わせている。「自分としては、逃げ腰にならず、気合を込めた全力投球だけを心掛けている」そうで、昨年のヤンキースの教育リーグでは堂々と3勝をマークしている。持ち味はストレートにカーブに、今季から手掛けているシンカーがある。宮田コーチにいわせれば「厳しさも足りないし、もっと欲を出してほしい」とのこと。それが、いいものを持ちながらも川本、荻原らの先輩を抜ききれない最大の原因となった。「今覚えているシンカーをものにできれば、一軍でやれる自信はある。とにかくじっくりと走り込んで下半身を作ることが先決」と密かに夢をふくらませている。果たして第二の岡部、工藤までに飛躍できるかどうか楽しみだ。
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橘健治

2020-07-29 14:21:32 | 日記
1980年

橘は柿8年の9年目で実を結ぼうとしている。47年のドラフト3位。同期の1位佐々木、2位梨田、4位羽田、6位平野は、いわばV1の中心戦士たちばかり、そんな中でたった一人の落ちこぼれ組。かつて東京(現ロッテ)-阪神と渡り歩いたG・アルトマンそっくりの風貌から、入団2年目ごろに伊勢(現ヤクルト)らからジョージとアダ名を頂戴した橘。コワ面の風貌の中にどこか気弱な面をチラつかせ、184㌢、87㌔の恵まれた体格に右打者の胸元をえぐるシュートを持ちながら、出世が遅れていた。そんなジョージが今季、目を輝かせ口元にも厳しさが加わった。入団3年目に2勝をあげながら、以後、4年間は鳴かず飛ばず。ファーム暮らしが続く中でいつしかしみ込んでしまったアカ。埋没しかけていた大器に、二つの救いの手があった。一つは、同期の羽田、梨田であった。人もうらやむ猛牛の仲良し三人組。私生活では、行動をともにすることがほとんど。かつては海外旅行も一緒に行ったこともある。高校から実社会に出て巡り合った気の合う仲間は、ときとして師となり、先輩となる。羽田、梨田とともに正面だって「何をしてるんや、がんばらんか」とはいわない。相手を気遣うことを知っている好青年2人は、ちょっとした機会をとらえて、激励を送るのである。橘も温かい言葉に、耳を傾けた。だが、それ以上に、胸にズシーンとくるのは、彼らが意識せずに送る無言のシッタであった。3人がよく寄り合うおスシ屋さんが、大阪の京橋にある。例えば、地方遠征などがあると、梨田、羽田などは手土産をさげてそこへ寄る。だが、橘には、持つべき土産などない。藤井寺のファーム暮らし。仲良しに会う楽しさはあっても、そこには一つの越えられない壁があったのだ。「寂しいというか情けないというか、そんな気は、よくしましたよ。オレも、いつまでもフラフラしていてはいかん。もう新人なんていうトシじゃないですからね」男のプライドをちょっぴり傷つけられて、きっとオレも…とようやくソノ気になり出したころ、二つめの救いの手が現れた。53年、ピッチングコーチに就任した真田氏が、橘に目をつけたのだ。「こいつを何とか一本立ちさせたい」とジョージの馬力にホレ込んだのだった。友の激励と投手コーチの熱い視線。四人兄弟の末っ子でどこか甘さ、ひよわさが残っていたジョージに、最後の勝負を賭けるハラが固まる。昨年の最終戦、プレーオフが終わった後のロッテ戦でプロ入り初完封、そして日本シリーズは、わずか1イニングながらも無失点で抑えた。遅咲きの大輪を生かす土壌はできた。オフになって真田コーチから「正月から走ってキャンプからブッ飛ばせよ」とアドバイスを受けたが、いわれなくても橘はそのつもりであった。もう9年もプロでやっていれば、一軍スレスレの選手にとって、一番大事な時期がいつであるのか…。早くも自主トレから飛び出した。「仕上がり№1だな」と報道陣に冷やかされて「すぐメッキがはげますよ」と冗談にごまかしていたが、目の色の違いは、長い間、橘を見てきた担当記者間でも「今季のジョージはひと味違うな」と囁かれたものだった。4月27日の阪急戦。チームを6連敗でストップさせる完投勝利。「ただ1イニングでも多く投げることだけを考えた」とヒトミを輝かせる橘の横で西本監督は「いまウチで、最も安定しているピッチャーを先発させたが、よく期待にこたえてくれた」と相好を崩した。一時的にせよ、ジョージは、近鉄№1の評価を御大からもらったのである。あの鈴木、井本、柳田をさしおいて…。「もう、今年が最後だと思って、必死にやってきましたよ。今年が一番、一生懸命やったでしょうね。いままでは、野球は野球、遊びは遊びと間違った割り切り方をしていた。もう年齢的にも若くはないし、やれるだけのことをやってやろうと、思っているんですよ」野球以外のことに、目を奪われたこともあった。しかし、いま二つの救い手に支えられて、ただただボールを投げることに全精神を集中させている橘。「最近ネ、よる野球の夢を見るんですよ。この間もネ、リリーフに出て逆転負けされてしまった夜なんですけど、羽田がサヨナラヒットを打ったんですよ。やった!と思ったら、夢だったんですよ。朝起きて、ガックリきましたけどね」夢にまで野球が出てくるとはもはや、その情熱たるやいうことなし。3DKで家賃3万円のアパートで独り身。いまだ一軍最低保証の360万円にも届いてないジョージの前途に、光が射し始めてきた。
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田中勉

2020-07-29 11:36:18 | 日記
1965年

張本の暴行事件を知った田中勉は「鬼のいない間にひとつかせぐか」と宿舎で冗談を飛ばしていたがその予言どおり東映を1点に押え完投勝利をおさめた。最近の田中勉は勝運に恵まれず去る六月十二日の対阪急六回戦に五勝めをあげてから連敗している。しかしその間、田中は新しいタマを身につけた。それはフォークボールである。「まだ武器とはいえない。当分はカウントをかせいだりファールを打たせたりするとき使うつもりです。ランナーがいるときは投げられない」と田中勉はいっていたが一カ月間の努力がこの試合で実った形だった。女房役の和田の弁では「立ち上がりのタマが走らなく苦しかったが途中からスライダー・フォークボール、直球などいろいろなタマをミックスして投げ込んでいるうちタマが走り出した。前半はともかく後半はいいピッチングでしたよ」とほめていたが田中勉は「アグリーの一発がきいた。その裏の田中久さんの好守も助かりましたよ」とバックの援護に感謝する。しかし最後には「これでツキが回ってきたようです」とニッコリ笑ってつけ加えた。
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緒方勝

2020-07-29 11:16:24 | 日記
1970年

シートバッティングで緒方が好投。ノーヒット・ノーランの目前で西園寺、長井に打たれたが、カーブ、スライダーがコーナーいっぱいにスイスイ。新人捕手大矢とのコンビもぴったりだ。RC砲、宮原はノーヒット。桑田が初安打。新人では長井、大矢が期待どおりの好打で、一軍入りを早くも手中にした感じ。
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奥宮種男

2020-07-29 11:04:43 | 日記
1969年

大洋を突き放した奥宮の一発はプロ入り二年めの初ホーマーだった。九州工業出身。ホームランの快音を地元九州で聞けたのだ。「よくあそこまでとんだと思う。地元で打ててうれしい。これを機会に打ちまくりたい」と素直に喜んだ。岡島コーチは「奥宮は捕手として守りはうまいが、バッティングが劣る」と欠点を指摘しているが、初ホーマーで気をよくした奥宮は「きっかけはつかんだから、こんごはバッティングの研究に力を注ぎたい」と意欲を燃やしていた。
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成重春生

2020-07-29 10:39:01 | 日記
1982年

野球バカーいまでは死語のようになっているこの言葉を成重春生さん(34)は、思い出させてくれた。九州のまったく無名の高校生が、「プロ野球に入りたい!」という執念だけを頼りに、どんな逆境にもめげず、プロ入りを果たし、日本シリーズでの1勝をあげるまでの軌跡は、まさにドラマである。このドラマは、多額の契約金を積まれてプロ入りした選手には決して作れないものだ、それだからこそ、成重さんはそのドラマを大事にする。

大分高田高の成重投手は、3年になっても、先発させてもらえない投手だった。2年生が先にマウンドに登り、打たれると成重投手の出番である。高校時代の戦績はゼロに等しい。だが、プロでやりたい!ヤクルトのテストを受ける。中日も受けた。しかし、結果は「残念ですが…」それなら社会人と松下電器のセレクションに。「ちょうど加藤英(阪急)が受けにきてました」(成重さん)福本(阪急)は、すでに1年前に入社していた。プロ顔負けの社会人チーム。当然のごとく不合格。が、成重さんは諦めない。今度は静岡まで足をのばし、大昭和を受けた。ここでようやく「内定」の通知をもらう。静岡で1年、北海道で4年、だが、ほとんど試合で投げることはなかった。会社から「野球をやめて、現場に戻れ」の指示が出る。野球を取り上げられたら会社にいる理由はなくなる。すぐに辞表を出し、九州まで帰るみちみち、手当たり次第にプロのテストを受けてみることにした。その最初が、ロッテだった。「ボストンバッグ一つぶらさげて、知合いのタオル屋さんの倉庫にころがり込んだ。そこから東京球場でのテストに通いました」(成重さん)木樽、村田らの剛速球にド肝を抜かれる。「ちょうど雨続きでね。雨天練習場で投げてる。だから、よけい速く感じたんでしょうねえ」シッポを巻いて退散…が、成重さんは合格だった。46年の11月のことだった。狭き門を通り抜けると、あとは案外楽だった。といっても、何勝もあげたわけではない。だが、成重さんはプロで投げるだけで、うれしかったのだ。ファームと一軍の往復も苦にならなかった。そんな中で、とんでもない幸運が舞い込んだのが49年の日本シリーズ。阪急とのプレーオフにはベンチ入りしていない。当然、日本シリーズもはずれ。打撃投手をやらされた。が、中日との第一戦、先発KOされた金田留が、第2戦のベンチ入りからはずれた。成重さんは、いわゆる員数合わせでベンチに呼ばれた。がなんと、その員数合わせの男が勝利投手になる。「6回の一死二、三塁で出ましてね、なんとかうまく切り抜けた。次の回もノーヒット、まあ、ホッとしましたけどね」この時点、3対5で中日のリード。しかし、8回に一気に引っくり返し、同時に、成重さんに勝ち投手の権利がころがり込んできた。「忘れられそうになると現れる、というのがボクの人生ですネ」と成重さんは笑うが、このとき26歳、テスト生上がりの野球バカは最高の青春の思い出を作ったのである。西武、巨人と歩いて55年に引退、現在は船橋市で焼き鳥屋「野球鳥」の主人。いかにも野球バカ・成重さんらしいネーミングではないだろうか。
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幸田優

2020-07-29 09:08:17 | 日記
1982年

プロ野球の珍記録もここにきわまった、という感じがするのが幸田優さん(43歳)の「一イニング4三振」だ。振逃げがあったために三振が4個になったが、それだけ、幸田さんの変化球は鋭く変化した。その魔球を武器にさあこれからという時に、幸田さんは右側頭部に打球を受けた。これがもとで幸田さんは球界から身をひいた。が、中年以上のファンの脳理には、このひとの魔球のすばらしさが強く焼きつけられている。

「もう20年になるんですね」船橋市にある「船橋水産」のオフィスで幸田さんはこうつぶやいた。37年限りで引退してから、もうふた昔になるのだ。が、幸田魔球の伝説は20年後も生き続けている。それほど、このボールはよく変化した。幸田さん自身の口からこれを語ってもらう。「とにかくおもしろいようにクルクル回ってくれた。いまの日本ハムのコーチをやってる宮田さんの落ちる球に似てたかなあ」その魔球の威力が百パーセント発揮されたのが34年7月5日の広島戦大和田空振り三振(振逃げ)、藤井空振り三振、横溝空振り三振、上田左前打、そして興津が4個目の見逃し三振、これが大記録の中身だった。上田(現阪急監督)にタイムリーを打たれ、1点を献上したのはご愛敬というところ。この記録、注目されたのはよほど後になってから。「注目されたころは、誰からどう三振を取ったか、すっかり忘れてました。なにせ、あの時、キャッチャーの土井さんに振逃げなんかさせやがって、バカタレと叱られたのばかり記憶に残ってましたから」と幸田さんはニガ笑い。とはいえ、50年近くプロ野球の歴史で、一イニング4三振はこれ一度だけ。大記録であることは間違いない。しかし、幸田さんにはツキがなかった。37年のキャンプ中、打撃投手を務めている時、打球が右側頭部を襲い、骨折する重傷。マウンドに復帰したのは8月。だが、言葉がもつれたり、左手の握力が「小学生並み」(幸田さん)に落ちる後遺症に悩まされ、この年いっぱいで球界を去った。実働わずか5年だった。が、幸田さんに悔いはない。「何万人というファンに注目されるなかで何時かを成す、なんてことは野球やってなければ味わないもの。やはり野球選手をやってよかったと思います」むしろ、悔いといえば、こちらの方に悔いが残った。「プロでやるにしろ、やらないにしろ大学へいっておけば、と思うことがあります」東京・荏原高で成績優秀だった幸田さんは、慶大志望で、合格の自信もあった。セレクションにも参加した。が、家庭の事情で、受験日の10日前に進学を諦めた。もちろん、すでに2月である。それからあたふたと鹿児島キャンプへとかけつけた。18歳の少年には、幸い選択だったに違いない。「大洋の選手の名前なんかほとんど知らなかった」という。プロ野球音痴が、50年に一度の記録を作るところが人生の妙だ。プロ野球は見ない。テレビでも滅多に見ない。理由は、現在の仕事にある。船橋市中央卸売市場内に会社があるため、出社はなんと早朝の4時半。どうかするともっと早いときもある。だから夜ふkしなどできる相談ではない。「もっぱらお年寄りや子供相手に草野球を楽しんでますよ」と幸田さんは笑った。
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