プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

甲斐和雄

2020-07-28 15:54:27 | 日記
1970年

石の上にも三年。甲斐はその三年目の昨年後半に、やっとチャンスをつかんだ。待望のベンチ入りがかなった。「甲斐はなかなか見どころのあるヤツだ」と先輩の間では評判がいい。ポジションは遊撃手。島原キャンプでは軽快なプレーをみせただいま売り出し中。長所は肩が強いことだ。とくに二塁ベース寄りの打球処理と速いモーションからの送球はあざやかだ。「こんないいショートがいるとは知らなかった」と関東、関西からやって来る野球評論家を驚かせている。また、西鉄内野陣の共通した欠点は、野手の正面を襲う打球処理だが、甲斐は二軍時代に仕込まれた思い切りのいい突っ込みでうまくさばいている。「守備なら不安なし」稲尾監督もタイコ判を押しているほどだ。遊撃には一年先輩の浜村ががんばっている。「とても浜村さんにはかないませんよ」と甲斐は遠慮してみせた。それも徹底している。「なにかにつけてひっ込み思案なんです。性格なんですね。だから人を押しのけてもといった気持ちになれない。弱いのですよ。それに無口で…」そういえば守っていても、ほとんど声を出したことがない。「でも、もうそれは反省しました」という。昨年の暮れ、滝内コーチに「そんなことでは、一流プレーヤーにはなれん。せっかくの素質をお前は自身でつぶしている」とこっぴどくしかられたからだ。島原キャンプの甲斐の打力の向上を最大の課題としている。ビシッー宿舎国光屋旅館の横庭にあるサウンドバッグをにらみつけながら、力いっぱいのスイング。しかし、東田などのスイングとは随分と音が違う。「馬力のないことがうらめしい」そうだ。177㌢の身長にくらべ体重は70㌔。「少なくとも80㌔の体重がほしい。そうなれば、でっかいホームランも打てるのに…」とこぼす。馬力はいまさら望めそうにないが、足の速さはチーム一、二を誇っている。日南高時代も俊足で鳴らしたそうだ。そんなことから馬というニックネームがつけられた。「もっとも、ぼくの顔も馬に似ていますが…」よく見ればポニー(小馬)の表情。「ことしは平和台でも走りまくりますよ。だから大いに宣伝してください」プロ意識にも目覚めたようだ。「ことしは勝負の年。あつかましいけど浜村さんと競争してみます」とヤングライオンズの鼻息は荒い。
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無従史朗

2020-07-28 14:17:31 | 日記
元南海の無徒史朗選手を知ってますか?
1965年

三年前、ニキビ顔の小がらな男が南海のテストを受けた。試験官の各コーチも野球校としては無名に近い関西大倉商業出身のニキビ男をあまり意識していなかった。肩が弱いのが難点だったが、足もあり、左打者でバントさせてもなかなか器用だった。まあカベ(ブルペン捕手の意味)でもよいからとってやろうーということで無従の南海入りが決まった。あれから三年め、いまや若タカの中で、だれよりも貴重な存在となった。イモ、イモと愛称をつけられたのは真っ黒い顔にニキビの跡が多く残っていて、サツマイモに似た感じだったから、だれいうともなくいまではイモが無従の代名詞になっている。卓越した素質があったわけでもない。この三年間は二軍でずいぶんたたかれ鍛えられた。国貞ほどの図太さはないが、無従は周囲から愛された。昨シーズンは国貞が一歩先んじて一軍入りしたが、ことしはこの無従をはじめ小泉、唐崎、県らがそれぞれの場でチャンスを与えてもらっている。そのなかでも無従の働きは群を抜いている。本拠地で連勝記録を更新した夜も鶴岡監督は「イモ(無従)がラッキーボーイになっていることが連勝に大きく寄与している。泥くさいプレーだが基本に忠実や。バッティングアイもよいし、左右にも打ち分けることができる。いまのウチは若タカ連中の台頭が逆に古参選手にハッパをかけているかっこう。イモはえがたい切り札や」…と手放しに無従をほめている。無従は半田学級の優等生で半田自身がまじめなプレーヤーだっただけに、唐崎とともに基礎訓練をいやというほど仕込まれた。それがようやく花が咲き、みのってきた。いまのところ三塁のポジションを与えられたが、無従の真価は代打要員。その活躍は南海の勝利に再三再四貢献している。打数33安打12、二塁打4、本塁打1、四死球6、三振2で打点5、打率3割6分4厘というりっぱな成績、守っては華麗さこそないが無失策で堅実派。代打としてももっとも光っていたのは対東映4回戦。延長13回戦、1点リードされたその裏、好投の尾崎に痛烈な打球をぶっつけ転倒させ、逆転の糸口を切った一打がそれだ。2-1と追いこまれながら尾崎の速球を投手に打ち返した打球の鋭さ、これで尾崎はすっかり狂ってしまい、ついにサヨナラ負けを喫した。「いま調子がよいのはツイているんです。ちょっと調子がよいからとうぬぼれていたらガチンと頭をうちますからね。一打席、一打席がぼくの勝負だと思ってボックスに立ち、それがたまたまヒットになったり選んだりするだけ。三振だけはしたくないのでボールに食いついてます」…無従はうれしさのなかにも謙虚さをみせる。三振しないバッター無従はよいバッティングをしているから、その持ち味を鶴岡監督がこれからもうまく引き出すことだろう。
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テハダ

2020-07-28 13:42:13 | 日記
1970年

遠いパナマからスカウトしてきた近鉄の新戦力テハダの来日第一号本塁打が五回に飛び出した。来日9打席目に出た快打、勝ち越しをきめる2ランだった。白い歯を見せながらダイヤモンドを一周するテハダ。ナインの手洗い祝福に悲鳴をあげる。試合後、どっとつめかける報道陣に目をパチクリ。ヒーローになるのも、多くの記者に取り囲まれるのも、これが初めてのこと。「きょうは本塁打を打ててうれしい。チームの勝利に貢献できたしね。打ったのはストレートの外角寄り高めだった」つまようじを口にくわえながら、山本通訳を通じてのインタビュー。人なつこい顔に終始笑みがのぞき「グッドラック」を連発する。本当にうれしそうだ。来日当時は練習不足で打球が飛ばず、首脳陣を心配させていたが、このときから三原監督は「タマのとらえ方がうまい。野球センスもある」と見込んで使い続けてきた。やっとその三原監督の期待にこたえたこの日の一発だった。「日本の投手は変化球が多いし、タマのタイミングをとるのがむずかしい。はじめはとまどったが、やっといいタイミングをとれるようになってきた」カナダ・リーグで活躍、通算3割を記録、うまいタイプの中距離ヒッターというふれこみだった。須古社長室付きがことしの二月中旬、中南米に単身出かけ獲得してきた選手。パナマには家族五人を残してきたが「すぐ呼びたいのはヤマヤマだが、渡航手続きやいろいろの事情があり、今シーズンはむりに呼ばないつもり」だそうだ。テハダは他球団の外人選手と違い、いまは気楽な合宿生活。「いまのところ申し分ないね。カナダ・リーグのときは料理もセルフサービスさ。いまの生活は何もいうことないよ」若い仲間と一緒の藤井寺合宿所の毎日は、テハダにとって楽しいそうだ。「ビフテキが一番うまいね」野球と同様、日本の生活をたんのうしているようなテハダだった。
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藤本和宏

2020-07-28 11:44:44 | 日記
1968年

十一月二十八日で満二十歳になったばかりの藤本は、ライオンズ道場の一室で、同室の金子投手と細々と誕生祝いをしたが、来年の誕生日にはもっと多くの人から祝福されるに違いない。もともと力のあった投手だがめきめき頭角をあらわした左腕。わずか一年のあいだに、ガラリと評価はかわり来季のホープさんといわれている。別に実績があるわけでない。ウエスタン・リーグでも2勝しただけだが、期待のウラには、シーズンオフからの相つぐ好投がある。内輪同士ながら、シーズン終了後の紅白戦で、一軍主体の紅軍を1点に押さえたのが十月十二日。つづいて巨人とのオープン戦では3イニングだったが、巨人打線をぴしゃりと押え「自分ながらやっとマウンドなれしてきた」と自信のほどをのぞかせた。175㌢、77㌔。投手としてはチビッ子ながら、力のあるストレートが武器。タマの切れは、巨人へ移籍した井上以上だ。プロ野球の投手は農村育ちより海浜で育ったものが成功する。豊後水道で小さいときからロをこいだ稲尾しかりだし、池永もそうである。藤本が「子供のときからてんま船をこいでいた」というのも奇妙な共通点だ。実家は光市の近くで近海漁業の漁師である。光市の聖光学園の一年まで柔道をやりはね腰を得意ワザとしていたためか、腰はめっぽう強い。ただ、腰の強さに比べて、ヒザが弱かったために、いままではコントロール不足だった。見かけあ横着な人間にうつりがちだが、本当はライオンズ道場の規則でも一番守っているのが、この藤本である。大阪遠征にユニホームを忘れて同行した失敗談もあるが、シンはしっかりしているといえそうだ。「いまは野球するのが楽しくてしようがない」と張り合いも出てきたようだ。入団のときから藤本を見守った武末コーチは「ひとりっ子で、わがままな面が随分とあったが、最近は練習に身が入ってきた。うまくスタートすれば来季は相当勝ちますよ」と、その左腕にユメを託している。
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岡村佳典

2020-07-28 09:09:19 | 日記
1968年

岡村の特徴はズバリ小器用なことだ。なにをさせても小器用にソツなくこなすが、この器用さは運動神経の発達と通じる。浜田高時代、野球のほかにバスケットボール、卓球、水泳、スキーをやっていたという。のみこみも早いほうで、自分でも「野球に関しては人並みのことはできる」といっている。高校時代にすでにフォークボールを習得していた。現在の岡村のピッチングについても、器用さが表面に出ているといえそうだ。藤本にしても伊東にしてもだいたい二軍の投手は、場あたり式のピッチングだが、岡村だけは例外。「ピシャリと押さえる力はないが9イニングスをまとめる点では、かれの右に出るものはない」といわれている。シーズン前半は肩を痛めて休んでいたが、この器用さが買われて、ウエスタン・リーグの公判では、あけても暮れてもマウンドにかり出されたものだ。しかし、はっきりいって、いまのままだったら、もの足りない。「肩を痛めてから思いきって投げるのがこわい」その点は多少差し引くにしても、まだまだスピード不足であり、初登板の対南海最終戦では野村という相手も悪かったが、左翼上段に一発たたかれた。かれ自身が「もう少し身体の横幅がほしい」というのも、そのへんの自覚だ。横幅がないために、浜村と同じ180㌢、75㌔の身体ながら、とてもそうはみえず、その点でも損をしている。岡村と同じ浜田高出身のプロ野球選手に阪急佐々木誠投手、中日新宅捕手がいる。両者とも岡村とはちがい無器用なタイプだが、粘り強い点では共通したものがある。まだ一軍への道程はかなりあるようだが、独特の粘りで、ぜひカベを突き破ってほしいものである。無類の野球好きである父親勲さん、母親登喜子さんは、わが子の成長を楽しみに、平和台でも広島、大阪でも、ウエスタン・リーグの西鉄のゲームを、ひまさえあれば追いかけている。
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小室光男

2020-07-28 09:09:19 | 日記
1968年

小室は背だけのことを聞かれるのが一番ニガ手だ。メンバー表には170㌢とあるが、本当は2㌢ほどたりない。もちろんライオンズで一番チビッ子。実際の身長を本人も聞くのがいやで、高校二年のときから、はかったことがない。いわばチビッ子コンプレックス。比較的、底のあついクツをはいたり、ツマ先で歩くのも、背たけを大きくみせるための、涙ぐましい努力のあらわれだ。こういうタイプの男は、ピリッと辛いものを持っているが、小室も例外ではない。石井茂が調整に登板したウエスタン・リーグの阪急戦で、3-1とリードされた九回、チビッ子小室はありったけの力をふりしぼって逆転の3ラン・ホーマー。大男の荒武や竹之下(今シーズン退団)を脱帽させた。一事が万事というわけでないが、たしかに実践的な選手である。一軍へ登用しても、まともに使えるものが少ないファームの選手のなかで、コツコツと当てるバッティングはうるさいし、遊撃、二塁のどこを守らせても小まわりのきく内野手として及第点をとっている。かれに一軍の二塁、遊撃にアナがあいた場合、無難にアナ埋めするのがこの小室。そして、それが持ち味でもある。しかし、いくら世にあげてのミニ時代でも、絶対的な力にかけるのはどうしようもない。非常にまじめで、練習熱心だが、努力とか練習で補ったところで程度ものである。名遊撃手として鳴らした阪神吉田もチビッ子だったとはいうものの、かれには上背を補うヒップがありそれが馬力の源だった。昨年からめきめき腕をあげた巨人黒江もまたヒップの大きい点は吉田と同じである。小室もやや小太りの70㌔ということだが、もう少し横ハバをたくましくして、吉田なり、黒江を目標にしてほしい。
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甲斐和雄

2020-07-28 08:51:44 | 日記
1968年

上背が179㌢ある甲斐は、チーム内で大きいほうだが、これほど目立たない選手も少ない。ユニホームよりも背広が似合いそうな色白の美青年。そんな外見的なものより、性格的におとなしいからだ。あまりにも一般的になるが、まじめな努力家。同僚のなかには「おとなしすぎる」と評するものもいる。だが、おとなしいだけなら、甲斐のいまの成長はない。かれ自身がいう「ファイトを持っているつもり」という言葉を信じよう。ことしの七月、大阪球場で行われたウエスタン・リーグの南海戦、6-6の同点で迎えた延長10回に、バントのサインを二度見のがし、長谷川コーチから「なにを、ぼやぼやしているんだ」とどなりあげられたあげく、バントの構えからヒッティングに転じ、こんどはサインを見落とさずに、みごとにセンターオーバーの大三塁打を放って、逆転サヨナラを演じたのである。甲斐はもともと遊撃だが、プロ入り後、三塁を守っている。不慣れなポジションで、失策が多く、ウエスタン・リーグの罰金支払い王だった。しかし、いまでは「守備範囲がぐーんと広くなった」と長谷川コーチからほめられるほど。一軍首脳陣からも「ヒザがもう少し柔らかくなれば、いい三塁手になる」と期待されている。これからの課題は、もう少しバッティングに力をつけることと、内に秘めたファイトをもっと外に出すことだ。バッティングの力をつけるために、もう少し体力をつちかうことだが「いまはだんだん太っている」という割りに68㌔しかない。今シーズン途中、神経性胃炎にかかったそうで、もっと図太い神経を持つことが体力の強化につながるかもしれない。いまのままでは、ファームきっての俊足も宝の持ちぐされになりかねない。
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小坂敏彦

2020-07-28 08:33:19 | 日記
1970年

「変わったフォームで投げるでしょう。ああいうフォームは左バッターには打ちにくいでしょうね」ピッチング練習をしている小坂を見ながら、川上監督はこう言った。腕を振りかぶり、右足をあげたあと、投げる直前にあげた右足を一度うしろに引いてから踏み出す。そこでワンポイント、タイミングがずれるというわけだ。「ショートリリーフにはおもしろい」というのが小坂への評価である。173㌢、68㌔は投手として小柄。プロにはいってまず感じたことは「みんなからだが大きいなあ」だったそうだ。しかし、自主トレから多摩川キャンプ、宮崎キャンプと続くと「もうからだが小さいことは気にならなくなりました」と言うから、しだいにプロの水にも慣れてきたということだろう。「初めてプロのキャンプに参加して、やはり違うと思った。守備練習や連係プレーなどいろいろやるでしょう。大学ではやらなかったことで、やはりあのような練習は必要でしょうね」高松商ー早大と野球のエリートコースを歩いてきた小坂は、巨人にきて新しい野球を発見したようだ。金田が引退して、左腕投手は高橋一だけになった巨人投手陣。小坂は貴重な左のルーキーだ。「からだは小さいが、大学時代四連投した経験があるというし、思ったよりスタミナはあるらしい。なんといっても腰の切れ、タマの切れがいいのが特長だ」投手陣の責任者・中尾二軍監督の評価は高い。「ショートリリーフだけでなく、先発にも使えるのではないかな」早大のエースとして22勝8敗の記録を残した実績を買っている。大洋からロッテに移籍された平岡に似たピッチング・フォーム。しかし、平岡ほどひねくれダマは投げない。「からだが小さいので相手打者に威圧感を与えないし、タマ筋が素直だ。カーブはいいものを持っていて、右打者のふところに食い込んでくるが、どうもこぢんまりとまとまっている感じ。ショートリリーフならともかく先発はとても無理ではないか」とみるのは評論家の野口正明氏。小坂は「ショートリリーフでもなんでも、とにかく試合に使ってもらえるようになることが先決。そのためには、コントロールと、もう少しスピードをつけることが課題」と言っている。いっしょに巨人入りした阿野は早大時代の女房役。「かれがいっしょなので、寂しくなくて助かった」と笑うが、阿野に言わせると「小坂みたいな気の強いヤツはいない」となる。サインが気にいらないと、いつまでも首をタテに振らなかったというし、一度決めたことはあくまでやり通すシンの強さもある。「いや、本当は気が小さいから大きくみせようとしているだけです」話していても愉快な男である。「この前も話したのだけど、谷沢(早大ー中日)と顔を合わせたら、お互いにやりにくいでしょうね」と言いながら、谷沢との対戦を楽しみにしているような感じも受ける。小坂ー谷沢の対決はファンを喜ばせることだろう。
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後藤清

2020-07-28 08:15:20 | 日記
1971年

昨年の五月中旬、中西ライオンズは球団史上またとないピンチに立たされていた。五月三日の東映戦から四十四日の阪急戦にかけて、球団創設いらい二度目の9連敗。チームの機運もどん底で不名誉な10連敗は免れぬものと予想されていた。五月十五日、西鉄は案のじょう、阪急に振り回されて大苦戦。先発の益田が退き、そして永易がめった打ちされるしまつ。だが、ここで救世主が出現した。それがことしプロ入り四年目を迎えた後藤だった。「あの時は死にもの狂いで投げました」と振り返る。「確か救援したのは七回からで、2点リードされていた。そしたら同点にこぎつけ、そして逆転です。最後まで投げぬいて思わず勝ち星がころがりこみました結果は8対6。「あの豪快さは絶対に忘れられません」というのも無理はない。後藤にとっては夢にまで見たプロ入り初勝利だったからだ。その後、後藤はただ一人でさわやかに祝杯をあげたそうだ。「あまり飲めないほうですが、むしょうに飲みたくなって…。でも、やはり飲めなかった」というのは「どうしたわけか、母親のことばかりが頭に浮かんだ」からだそうだ。母親カズさん(50)は郷里の多治見(岐阜)で一人住まい。「父親はぼくの子供のころになくなった。母親は働いてぼくを育ててくれた」親一人、子一人の生活が続いただけに、なおのこと母親思いとなるのかもしれない。「できれば、あの日の試合を母親に見てもらいたかった」後藤は当時の心境を素直にこう語ってくれた。「あの1勝で、ずいぶんと気分が楽になりました」ところが、せっかくのチャンスも芽を出したままで昨シーズンは終わっている。「こうやったらどうか、ああやれば、とにかく先にいろいろと考え過ぎてしまうのです。高校時代はそんなに考えたことはなかったのですが…」多治見工業時代は校内で一、二を争うけんか好き。激しい気性がそのまま投球にも現れて向こうところ敵なしの心意気だった。「ところが、ノンプロ(電電東海)に入社してちょっとおとなしくなったようですね」三年間のサラリーマン生活が後藤の性格をがらりと変えてしまったようだ。「目下やや消極的です」そんなことから、もう一度、高校時代のあばれん坊に性格を戻したいそうだ。「すばらしい速球を投げることがある」というのはマスクの目からみた村上捕手。稲尾監督も「もうひと押しすれば一本立ち」と推奨株の一人にあげている。そのためには「持ち味を最大限に発揮できるよう努力すること」という。「自分ではやっているつもりなのですが…。でも、やっぱり性格的な弱さが災いしているようです」技術的には一応のものを持っているのだから、あとは気力だけである。「ことしはきっとやってみせます」後藤はこう誓う。いつもは温厚な表情の後藤だが、話すうちに本来の強気が出てきて「絶対に売り出してみせますよ」とまで言い切った。「母を福岡に呼び、楽な生活をさせてやりたい」という孝行者の願いがかなうのはいつだろう。
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