プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

望月卓也

2020-07-25 17:28:57 | 日記
1977年

望月卓也、二十一歳。広島・竹原高出、四十九年のドラフト2位。182㌢、69㌔、右投げ。ほとんど名の売れていない望月が、巨人相手に初勝利をあげた。広島は一回の守りで、エースの池谷がOHに連続本塁打され、早々と3点を失った。二回からは望月がマウンドへ。古葉監督にすれば「ほんの中継ぎ」のつもり。ところが、望月は好調だ。二、三回を三者凡退。五回二死二塁で打者王という場面でも、0-2から内角をついて一ゴロに仕留めた。その投法たるや、一風変わっている。ノーワインドアップで動作を起こし、走者がいない時は左足をあげたところで、いったん動きをとめる。そして、やおら横手からシュート、カーブの変化球を投げる。だから打者はタイミングを合わすのが難しい。王などはじめは一本足を、あげたりさげたり。結局、三打席凡退。「きょうはシュートがよかった。水沼さんのいう通り投げました」と望月。両手でウイニングボールを握りしめていた。
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山内嘉弘

2020-07-25 16:53:46 | 日記
1988年

「山内がもっと早く出てくれていたら、ウチは、上位で西武と対等に戦えていた」とは上田監督の嘆き節、一軍昇格は6月13日と遅くはなかったが、首脳陣が先発でいくかストッパーでいくかを検討。敗戦処理としてプロ初マウンドを踏んだあと、二度目の登板まで2週間と間が開いてしまった。この間、二度先発を雨で流しており、首脳陣は抑え不在のチーム状態を踏まえ、ストッパーとして断を下した。その理由は、度胸満点のことと自由自在にコントロールできるフォークを持っていること。しかし、心配な点がなかったわけではない。大学時代に痛めた右肩の後遺症。実際、ファームで迎えた開幕直後、兵庫県竜野市の「信原病院」で診察を受けたほどだ。「筋肉が硬いっていわれました。登板前には十分、筋肉をほぐしてから投げるようにって」ケガの功名とはこのこと。ストッパーなら毎日ベンチ入りしてブルペンで投げなくてはならない。知らず知らずのうちに筋肉がほぐれていったのだ。山内がシュート、スライダーの揺さぶりを武器とした投手なら、今のような成績を残せたかどうかはわからない。彼の場合、タテの変化で牛耳るタイプ。しかもフォークとSFF球を巧みに投げ分ける。スピードガンの数値でも違いが現れる。速球派138~143㌔。SFFは132㌔前後だ。反対にフォークなら125㌔前後。それに大きな110㌔程度のカーブが加わる。上田監督は山内を評して「投げるだけでなく、駆け引きにもたけた投手」という。例えばウルサイ打者なら「セーフティー・バントを考えて」(山内)甘いカーブでストライクを取ることもある。決め球はフォークと見せかけて、内角にズバッと速球を投げ込む。当初、山内はストッパーをいやがっていた。「ボク、アマ時代から連投の経験が少ないし、調整の仕方がわからないんです」とむしろ尻ごみ。だが、ここへきて「勝ち星よりセーブの方がいい。ゲームセットで監督やナインと握手するのが一番気持ちいい」とさえ、いうようになった。それでも問題点がないわけではない。肩のスタミナだ。アマ時代の右肩痛もあって、それほど投げ込みに精を出してきた方ではないからだ。「4連投目になると、極端にスピードが落ちるのが自分でもわかる」と山内は課題を口にする。ともあれ、ストッパーとしての資質は十分で、来季は「開幕からいきます。感覚はだいたい、つかめたし」と山内は頼もしい言葉で締めくくってくれた。

1995年

今年、オリックスからトレードされた山内にとって忘れられない一日は1月17日、阪神大震災の日。東京への引っ越しのため、神戸市西区の自宅の荷物を運びだし、一夜を過ごした車中で体験。「怖かったですね」家の壁がはがれ落ちる地震だったが、幸いにも家族は全員無事。山内は新チームで心機一転、頑張ろうと誓った。近畿大時代には古田と関西学生野球で戦って来た仲。「知り合いがいてチームにも溶け込みやすかった」4月27日、福岡ドームでの阪神戦では気心の知れたバッテリーで見事、復活を果たした。打者6人をパーフェクト、MAX146㌔を記録するなど、持病の右ヒジ痛を感じさせない活躍で、チームに新風を吹き込んだ。
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迫田七郎

2020-07-25 16:35:10 | 日記
1965年

迫田は二年生だが研修制度のおかげで新人王の資格が残っている。6勝4敗と成績もいいが、内容がすばらしい。78回1/3で自責点は16、防御率1・85。これは現在パでは三浦、林の南海勢、近鉄の田辺につぐ好成績。もちろん小山、坂井ら先輩よりもいいし、昨シーズン防御率第一位の妻島をも上回っている。完封勝ちも二回、内容では池永以上だ。無名のテスト生から第一線級にのし上がろうとしているだけに根性もある。池永のような正統派ではないが、サイドぎみのフォームから鋭いクセダマを投げる。騒がれて入団した池永、テスト生からの迫田、態度も池永とは対照的に謙虚。興味深い新人王争いだ。
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中居謹蔵

2020-07-25 16:27:37 | 日記
1983年

ナインの拍手を受ける中居の背中がふるえていた。福島・小高工高出身で昨年までの三年間はファーム暮らしの男が今季三試合の好救援を認められ、初先発したとたん6安打1点の完投勝利。「まさか完投で勝てるなんて…。うれしくて胸がいっぱい」と声を詰まらせた。186㌢、84㌔の長身。プロ入り後は下半身が使い切れず、肩、ひじを痛めがちだった。ファームでも投げられるようになったのは昨年(五勝六敗)だったが、今年のキャンプで急に制球力をつけ一軍入りした。持ち球も豊富だがこの日はシュートが抜群。ピンチに4併殺と踏んばれた。山本監督、若生コーチは「先発ローテーションに入ってもらう」と口をそろえる。防御率1.69で一躍トップに。年棒は一軍最低ラインの四百八十万円に達しない三百八十万円(推定)である。登板する度にもらえる三万円の手当は故郷福島の病身の父親へ仕送りするとか。
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橘健治

2020-07-25 16:17:41 | 日記
1977年

選手の気力が盛り上がらない凡戦だったが、近鉄・橘は変化球の制球がよかった。3点を失ったものの、風安打と内野の失策によるもので、切れのいいカーブとスライダーは武器になりそうだ。

1982年

近鉄が延長にもつれ込んだ十回、吹石の今季初本塁打で勝ち越し、三位に浮上した。六回一死二塁からハリス、羽田の連続二塁打、二死後には島本兄、小田の連続二塁打と集中長打で4-1と逆転。先発の橘はキレのいいシュートを決め球に、八回まで76球、落合の内野安打1本と完ぺきなピッチングだった。しかし、九回、勝ち急いだか落合にタイムリーを浴びたあとレオンに同点の2ラン。吹石は十回二死後、この回から救援した倉持の内角高めのボール球を左翼席にほうり込んだ。

1983年

先発投手の明暗が試合を決めた。一回、南海の山内新は四球と盗塁などで二死三塁、栗橋に左中間を破られた。この先取点で近鉄は勢いに乗り、六回相手エラーも絡んで2点をあげてとどめを刺した。橘は今季二度目の先発で今季初勝利。南海は2引き分けをはさみ二度目の6連敗。順位が入れ替わり、近鉄四位、南海は五位に。

近鉄・橘は「絶対完封出来る自信があったのに…」と7イニングで交代させられたことに不満。「縦横のカーブがよかったし、ストレートも走っていた」。しかし、今季初勝利に「夏場は好きだし、これからスパートします」
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梅野哲徳

2020-07-25 16:01:16 | 日記
1970年

午後八時、百道寮の雨天練習場で梅野選手はバッティングマシン相手に打撃練習中。身長172㌢、体重65㌔で、どちらかといえば小柄なほう。だが、打球は鋭い。たった一人の練習。変な当たりが出ると小首をかしげては、また打つ構えをみせる。「ボクのことが新聞に出るのですか」食堂で梅野は恥ずかしそうに、そしてうれしそうに言った。スキーのヤッケを正してカメラをにらんだ。「笑うのだよ。チーズと言えよ」先輩小野が助け舟を出してもなかなか笑顔がつくれない。「ぼく笑うのヘタです」これには小野のほうが笑った。梅野はテスト生だ。「そんなこと、入団したら同じことだと思います」ひけめは感じないという。「努力すればボクだって認めてもらえるときがあると思います」南海の野村、元近鉄の小玉、そして西鉄では基もそうであることを知っている。自信は?「あります」別府大付属高では一年生からレギュラー。「一年生のときは河原さん(大分商)に負けました」その河原のタマをうけて勉強するという。「和田さんのように打てる捕手になりたい」そのためには人一倍、それ以上の練習をしなければと心に誓っている。趣味は「一人で本を読むことだが、いまは野球だけ」同室の春日、稲津両先輩が「野球の話のほかにはなにもしない」という徹底ぶり。まじめ人間となかなか評判もいい。細い目が稲尾監督に似ているのも同じ別府出身だからだろうか。「梅野!」二階からの声に「はい」若さをはずませながら階段をかけのぼって行った。
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古屋哲美

2020-07-25 15:51:38 | 日記
1970年

九州産大の職員になる予定が、一転して西鉄入りとなった。「投げてみたい」と軽い気持ちでテストを受けたところが合格。「ほんとうに認めてくれたのかな?」通知があったころは、希望と不安が半々だったという。そのテストでは竹井渉外相談重役、城島渉外課長の目をクギづけにした。「ほう、うまくなったもんだ」昨年の十二月七日は、小雪まじりの天候で、とても投球などできたものではない。そんなとき古屋投手はビュンビュン速いタマを投げたからだ。古屋投手は高校ー大学を通じて異色の投手として注目されていた。ただ「やや力不足」というのが難点で、それが印象を弱めていたようだ。ところが、いつの間にかからだもたくましくなって、ユニホームを着ると大型選手なみ。「長身からの下手投げだけにおもしろい」と買われての西鉄入り。くせダマに期待といったところだ。高校は博多工。甲子園にはエース橋本の控え投手として出場したことがある。「倉田とは同期」-明大から西鉄入りした倉田とは子供のころから友だちだった。「趣味というほどのものはありません」休みの日は市内向野町の自宅で「一日中、寝ころんでテレビを見ている」そうである。性格的には激しさがなく無口だが「負けるのがきらい」という意地っ張りだから、ピンチでのマウンドさばきには期待できそうだ。

西鉄の新人古屋投手(九産大出)が初登板、八、九回を無失点に押えた。「タマもよく走っていたし、相手打者はちっともこわくなかった。左打者も気にならなかった」と、こともなげに言ってのけたあと「テスト生で入団した年、すぐに公式戦で使ってもらえるなんて…。やはり西鉄に入団してよかった」と、幸運に感謝していた。

1965年

博多工

大黒柱の橋本投手が抜けたが、倉田、日下部、上田と甲子園経験者を中心とした攻守は、やはり優勝候補の力がある。倉田、日下部、古屋、藤井の中軸打者は打率3割台をマーク、佐藤監督も「打力は昨年のチームに劣らない」と自信を持っている。問題は投手陣だ。主戦の古屋は速球、スライダー、カーブを武器とする本格派だが、春からヒジを痛め、練習では100球ぐらいしか投げられないといわれる。
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