プロ野球 OB投手資料ブログ

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若林弘泰

2025-02-15 13:01:12 | 日記
1991年
指名順位にはこだわっていません。テレビ中継も終わったのでもう(指名は)あきらめていたのです。指名されたことはすごくうれしい。喜んで中日に行きます。中日は打線がいいので投手には安心感があります。自分の球種はまっすぐ、カーブ、スライダー、シュート。どちらかといえばまっすぐで押して行くタイプです。


「大喜びで入れてもらいます。順位にこだわりはありません」と、4位指名の若林弘泰選手は声を弾ませた。テレビ中継が終わった段階では自分の名が出てこず「あきらめかけていた」ところへ入った朗報の感激は格別。「来月十五日に結婚式を挙げるんです。フィアンセも、好きなようにって言ってますし」とまで言う。東海大三年の夏、右ひじを手術しているが、それは過去の話。打者にガンガン向かっていくタイプで、今年の都市対抗では145㌔をマークしている。「変化球がちょっと甘いので、それが課題。目標は先発完投ができる投手になること」と早くも課題と目標を掲げた。


東海大相模高ー東海大時代から本格派投手としてプロからマークされていた。日立製作所に入社して3年目。肩痛に不安があったが、力の投球からかわすピッチングへ変ぼうして、安定感を増した。都市対抗には3年連続出場。


1995年


ロッカールームに郭の声がこだました。「若林、若林はどこ?」いったん囲まれた報道陣の輪から抜け出し、若林弘はプロ最初の勝利球を郭から受け取った。プロ12試合目は、おそらく最も緊張した場面でのマウンドだった。1-1の八回裏二死三塁、打席にはこの3連戦打ちまくって、まさに手がつけられないという状態の落合。「あの八回が始まるところで、ピンチで落合さんがきたらいくぞ、と言われてました」もちろん一塁が空いている。落合には「四球でもOK」という条件があった。1、2球目、外角のきわどい直球がボールになると事実上の敬遠。だが若林弘は一つ工夫をした。「中途半端な力で投げると次に悪影響を及ぼすといけないから」と全力で外角ボールを投げたのだ。二死一、三塁で迎えた広沢にはファウルで粘られ四球。満塁にとピンチは広がったが、続く後藤を平凡な中飛に仕留めた。持てる力を全部ボールにつぎ込んで、サヨナラ負けの危険を背負った九回は簡単に三者凡退。流れをグッと引き寄せ、延長十回表の大量点を呼んだ。即戦力の期待を受けてプロ入りするも、昨年まで三年間は一軍経験ゼロ。米・アリゾナキャンプに抜てきされた今季、五月十三日の阪神6回戦(ナゴヤ)、0-5と大量リードされた三回二死満塁がプロ初登板の場面だった。ところが最初に対した投手・葛西に押し出し四球の痛恨デビュー。六月二日に出場選手登録抹消、同二十九日には再登録されたが三日後の七月二日にはまた二軍行きを命じられた。「三度目(の降格)となると、もうチャンスはないでしょうからね」プロ4年目とはいえ二十九歳。社会人・日立製作所勤務時代に知り合った祐美子夫人との間に二人の子供もいる。中山の腰痛によって八月五日に巡ってきた三度目の一軍は、生活をかけたものだった。「これまではきわどいところに投げなきゃと思いすぎて自分を苦しくしていた。でもきのう(9日)の野口なんかを見てても、ストライクさえ入ればそんなに打たれるもんじゃない、と分かった」過去の失敗を生かして、若林弘は白星をつかんだ。その目には感激の涙などない。生活のためには、四年目の初勝利に浮かれているわけにはいかないのだ。

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