プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

志村洋介

2013-12-08 15:00:06 | 日記
1978年

埼玉・所沢商の志村洋介捕手(18)(1㍍80、73㌔、右投げ右打ち)の入団を発表した。志村は、今夏の甲子園で二回戦まで進んだ強肩、俊足の大型捕手で、とくにインサイドワークがよい
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所憲佐

2013-12-08 14:50:27 | 日記
1979年

ファームの投手がブルペンに来たとき、時刻は午後一時を回っていたが、今年で入団十年目の所捕手は「さあ、いこう」と、ルーキーの左腕松本基(都立川高)に声をかけた。十日午前十時から、新浦ら一線級の球を受け始め三時間ぶっ通し。松本基の100球で一日のノルマを果たした。「今日は投げ込み日だったから全部で700球ぐらい受けたでしょうね」と言う。ただ漠然とボールを捕るだけではない。一球ごとに励ましの声をかけ、時にはフォームの欠点を指摘していた。「五年目ぐらいから、投手の細かいくせがわかるようになった。公式戦でもブルペンで受けているので、投手の状態はしっかりつかんでいかねばならない」ので、キャンプでの練習台といっても気が抜けないわけだ。「昨年の日米野球レッズ戦まで三度全日本のブルペン捕手をつとめ、阪急の山田、近鉄の鈴木さんなど、一流どころの球を受けさせてもらった。その体験を生かしたいと思う」と、進んで若手の球を受ける。チームに欠かせない縁の下の力持ちである。
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中沢秀一

2013-12-08 13:26:30 | 日記
1977年

巨人はドラフト指名外の三田学園・中沢秀一内野手(1㍍80、76㌔、左打ち)の入団を決めた。同選手は今夏の予選5試合で5割台の高打率をマークするなど、強打の大型一塁手として注目されていた。

1978年
・横浜大洋のルーキー屋鋪要のジュニア・オールスターでの大活躍で、やや出遅れた感があるのが、同じ巨人のルーキー・
中沢「三田学園出身」だ。「お前も、来年は100万円取って見返してやれ!」という先輩ナインの声に、中沢は怒って
反発。「いいえ、来年のボクは1軍のオールスターに出ていますよ」
中沢秀一・一塁手。181センチ、79キロ、左投げ左打ち。屋鋪はドラフト6位の入団だが、こちら中沢はドラフト外。
高校時代は通算10本塁打。中沢が3番で、屋鋪が4番だった。「ポスト・王」のふれ込みがつくほどバッティングは評判だったが、目下は第3軍の代表格で公式戦にもお呼びが掛からず、基礎練習の研修生といったところ。「守備は基礎からやり直し」・・・内藤コーチ、「打撃センスはいいものがある。柔軟なバッティングで、パワーさえつけば・・・」末次コーチと、攻守両面の評価が分かれているということは、一人前になるには、まだまだ時間がかかるということだ。
彫りの深いやさしい顔の持ち主だが、前かがみになるクセがあり一見、ひ弱に見える。しかし、中沢は1,2年先に勝負を賭けて見せると、なかなかのヤル気。「高校では屋鋪の方が上。プロでもスタートで差をつけられたけど、将来は必ず抜いてみせますよ」引き合いに出された「成長度」を逆転できるのは、さて何年先になるか。この同期の桜の争いも楽しみの一つだ。
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三井康浩

2013-12-08 13:22:47 | 日記
1978年

島根・出雲西高の三井康浩一塁手(17)(1㍍77、76㌔、左投げ左打ち)の入団が内定した。パワーヒッターで、一試合2ホーマーの経験もある。
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林真人

2013-12-08 10:09:56 | 日記
1974年

春は投手力といわれているうえに関東のビッグ3をはじめ好投手が多いので、今年の選抜高校野球は例年以上に投上位になりそうだ。それでも好打者は数多い。新チーム後の通算で打率4割以上をマークした選手が13人いる。東ではまず土浦日大の三番を打つ林があげられる。打率4割2分5厘もりっぱだが、本塁打3、三塁打13、二塁打14本と、長打率は実に8割を超す。しかも足が速く、盗塁数24はチーム(99)の四分の一を占める。二十日にの甲子園での練習でも、鋭い打球を放っていた。鈴木監督は「フォームは悪いが、ボールを捕えるポイントが良い」とほめる。林は「土屋(銚子商)のような本格派、松尾(柳川商)型の変則投手など、どんなタイプでも打つ自信はある」と頼もしい。
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伊藤元喜

2013-12-08 00:46:57 | 日記
1979年

硬式のボールを握りたい一念から、巨人のテストを受け合格したのが伊藤元喜投手(20)である。昨年十月、加藤スカウトから電話で「テスト合格」を知らされて、彼の野球人生は大きく変わった。冷暖房設備のメーカーの日本電装で軟式野球をやっていたがもともと愛媛伊予農高では硬式の投手だった。夢がかなって巨人の一員となった彼は「体のふしぶしが痛い。今が最高につらい時です。でも、なんとかみんなについてやっています」と、緊張したキャンプ生活を送っている。プロとアマの力の差が開く一方の現在、果たしてテスト生がプロでやっているのか。岩本二軍監督は「いい球を投げていますよ。今年の新人投手と球の威力という点では、少しも見劣りしない」と、伊藤の将来性を買っている。巨人には、テストで入団して大成した大友投手の例がある。1㍍81と体格にめぐまれた右の本格派。「時間がかかるかもしれないが、必ず一軍で投げてみせます」。雑草の強さを持つ投手だ。
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松本基淳

2013-12-07 20:56:30 | 日記
1979年

「友だちに話しても、初めはみな、冗談だろって信用してくれなかったんです」と苦笑いする。無理もない。都立高校出身のプロ野球選手は、新宿高ー東大ー中日の井手峻投手などわずかな例はあるが「ストレートで入団したのはおそらくはじめて」といわれる。しかも、都内有数の新学校となればなおさらだ。その左腕から繰出す速球一本ヤリの投球は、巨人、大洋、ロッテのスカウト陣お注目を浴びたが、本人にとっては、プロは甲子園よりさらに遠い存在だった。今度中日入りしたスラッガー川又米利君のいる早実との練習試合で、「こんなすごい投手が都立にいるのか」と和田早実監督の舌を巻かせたというのに当人は「ヘンだな、早実は嬉しくなかったのかなあ」と首をかしげた。そんなノンキな性格を心配して父健一さん(44)はプロ入りに反対だった。が、ある日、後楽園球場で「五万の大観衆の前で投げたい」とポツリ。息子のいとことでプロ入りをOKしたという。1㍍80、75㌔、十八歳。中学時代の成績オール5.高校三年生の今、中の上。これまでは「本を読んでみようみまね」のピッチング。が、巨人の内堀スカウト顧問は「進学校で練習は少なかったが、みがけば光る」とその素質に期待する。年々隆盛の一途をたどる都高校野球。参加校が二百校を突破した昨年夏の都大会を彩ったのは、都立高の活躍だった。西東京では立川、東大和、小金井工、世田谷工の都立四強がベスト8入りするなど話題をにぎわせたが、その最後を飾るのが松本君の巨人入団となった。といって、すんなり巨人を選んだわけではない。「仲間は大洋の方が左投手層が薄いから、チャンスがあるぞ、というし。迷いましたが、結局、実力をつけなければ同じだと思い、子供のころから身近に感じていたジャイアンツにしました」。ファンレターはまだ二通。これがドッサリ届くのは、松本君がその晴姿を後楽園に見せる時だ。
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山岡実

2013-12-07 20:06:52 | 日記
1966年、1967年

山岡捕手は大型。夏の県大会で三試合連続本塁打といった離れ技をやっている。
山岡は進学希望。プロは自信ない。もしゆくにしても、ワンクッション置いてという気持ちのよう。
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緒方勝

2013-12-06 21:44:25 | 日記
1961年

電電九州

南九州代表

日鉱佐賀関からの補強選手

緒方は二度目の後楽園出場。シュートとカーブの切れ味のよい力投派。森田監督は第一線は経験を買って森山、ナイターにはスピードの緒方、そして救援に技巧の宮本という構想を抱いている。
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中谷賢平

2013-12-06 21:43:05 | 日記
1973年

打たせてとるエース中谷

大商大付

攻守走ともよくない。気力、精神面も甘い。これといった頼りになる打者もおらず、長打力もあまりみられないので、大量点はむずかしい。三番松下、四番島津、五番中谷もムラがある。エース中谷は走者をおいてのバッティングはうまく、打たせてとる投手。新チーム編成後の戦績は7勝11敗。多くはのぞめないが、悔いのないゲームが合いことば。
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栗本光明

2013-12-06 21:33:33 | 日記

1979年・ロッテ二軍コーチ時代

・プロ生活7年間で4勝7敗。しかも、ほとんどが中継ぎと敗戦処理。そして引退。彼はゴルフ場の支配人兼コーチになった。そんな彼、栗本光明さんがひょんなことからロッテ二軍投手コーチに。なんと12年ぶりのユニフォームである。
彼の球歴をたどると、決して輝かしいものは残ってない。「野球王国」広島県下の無名校、福山工を1954年卒業。同時にノンプロ、倉レ岡山に入社、ここで7年間を過ごしプロ入りしたのは1961年のことだ。成績のほうは通算95試合に登板して、
4勝7敗、防御率3,70に終わっている。175センチ、64キロとプロでは恵まれない体でがんばったが、内容のほうは、もっぱら中継ぎと敗戦処理というあんばい。当時のオリオンズは、左腕の小野正一をエースに、坂井勝二、小山正明、成田文男といった好投手がズラリ揃っていたため、栗本投手の出る幕はなかったのである。そんなプロの「失格者」がまた、どうして今頃になって、突然コーチに復帰したのか?
野球を断念した栗本は、その後、趣味だったゴルフを生かし岡山の倉敷カントリークラブに就職。ここで、アドバイザー、アシスタントとしての腕を磨き故郷の福山市で「一文字カントリークラブ」を創立したのが1972年。ショートコースばかりの9ホールというミニ・ゴルフ場だったが、ここで思わぬ人と出会う。現役時代に苦労をともにした山内一弘「現・ロッテ監督」だった。まさに偶然の再会である。山内は1970年に現役を退いた後、巨人、阪神とコーチ稼業をつづけていた矢先だった。「若い芽を少しでも大きく育て、枝葉にしていくには、どうしたらいいか」を追求し、貧欲な姿勢をみせていたときでもあった。山内は栗本のゴルフのコーチぶりを目のあたりにして首をかしげた。本来ならゴルフ初心者にはドライバーからマスターさせていくのが常道だが、栗本はパットの練習からやらせていくのだ。パットの次は短いアイアンの打ち方に入り、これをマスターさせ、豪快に振りぬくドライバーは最終コースで教えていくのである。「300メートルのドライブショットも、わずか1メートルのパットも1打に変わりはない。ゴルフも野球もスポーツというのは精神力を、いかに集中させるかが肝心なんだ」という、栗本の持論に山内は舌を巻いた。大きく派手な動きにつられず基礎をガッチリ固めてから、ジックリ教える方法は、ファームに埋もれた素材の力を出させるには最適・・・。こう踏んだ山内監督は古巣・ロッテオリオンズ再建の第一歩として、二軍投手コーチに栗本を口説き落としたというわけである。「ドラフトもトレードもままならない時代なので、若い素材を育てることが急務。基礎をみっちり仕込んで、1人でも多く1軍で通用する投手を送り込むのが私の使命でしょう」と12年ぶりにプロのユニフォームを着る栗本コーチ。控え目ながら、ユニークな指導法に自信たっぷり。今、42歳の男ざかりである。
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松枝三男

2013-12-03 20:43:01 | 日記
1970年
・大洋きっての異色ルーキー松枝がイースタンの東映戦「5月14日」に勝って早くも2勝目をあげた。183センチ、84キロの巨体は大男ぞろいの大洋ナインの中でも、ひときわ目を引くが、この、ごつい体の上に乗っかっている顔が、人一倍にらみがきくもので愛称は「シャイアン」。
熊本第一工高出身「トヨタに3年在籍」の九州男児らしく、ピッチングも速球でグイグイ押して行く荒っぽさ。「カーブの他、特に球種がないかわり、あのいかつい顔で打者を威圧しているのだろう」というのが専らの評判。
今年、刊行された大洋イヤーブックにも「ヘイズを思わせる投法はダイナミックで柔軟な体と上背を利しての速球は威力十分」と紹介されてる。
年々、個性派が少なくなっているプロ球界だけに、松枝のような豪快なキャラクターの台頭は大歓迎だ。
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