1979年・ロッテ二軍コーチ時代
・プロ生活7年間で4勝7敗。しかも、ほとんどが中継ぎと敗戦処理。そして引退。彼はゴルフ場の支配人兼コーチになった。そんな彼、栗本光明さんがひょんなことからロッテ二軍投手コーチに。なんと12年ぶりのユニフォームである。
彼の球歴をたどると、決して輝かしいものは残ってない。「野球王国」広島県下の無名校、福山工を1954年卒業。同時にノンプロ、倉レ岡山に入社、ここで7年間を過ごしプロ入りしたのは1961年のことだ。成績のほうは通算95試合に登板して、
4勝7敗、防御率3,70に終わっている。175センチ、64キロとプロでは恵まれない体でがんばったが、内容のほうは、もっぱら中継ぎと敗戦処理というあんばい。当時のオリオンズは、左腕の小野正一をエースに、坂井勝二、小山正明、成田文男といった好投手がズラリ揃っていたため、栗本投手の出る幕はなかったのである。そんなプロの「失格者」がまた、どうして今頃になって、突然コーチに復帰したのか?
野球を断念した栗本は、その後、趣味だったゴルフを生かし岡山の倉敷カントリークラブに就職。ここで、アドバイザー、アシスタントとしての腕を磨き故郷の福山市で「一文字カントリークラブ」を創立したのが1972年。ショートコースばかりの9ホールというミニ・ゴルフ場だったが、ここで思わぬ人と出会う。現役時代に苦労をともにした山内一弘「現・ロッテ監督」だった。まさに偶然の再会である。山内は1970年に現役を退いた後、巨人、阪神とコーチ稼業をつづけていた矢先だった。「若い芽を少しでも大きく育て、枝葉にしていくには、どうしたらいいか」を追求し、貧欲な姿勢をみせていたときでもあった。山内は栗本のゴルフのコーチぶりを目のあたりにして首をかしげた。本来ならゴルフ初心者にはドライバーからマスターさせていくのが常道だが、栗本はパットの練習からやらせていくのだ。パットの次は短いアイアンの打ち方に入り、これをマスターさせ、豪快に振りぬくドライバーは最終コースで教えていくのである。「300メートルのドライブショットも、わずか1メートルのパットも1打に変わりはない。ゴルフも野球もスポーツというのは精神力を、いかに集中させるかが肝心なんだ」という、栗本の持論に山内は舌を巻いた。大きく派手な動きにつられず基礎をガッチリ固めてから、ジックリ教える方法は、ファームに埋もれた素材の力を出させるには最適・・・。こう踏んだ山内監督は古巣・ロッテオリオンズ再建の第一歩として、二軍投手コーチに栗本を口説き落としたというわけである。「ドラフトもトレードもままならない時代なので、若い素材を育てることが急務。基礎をみっちり仕込んで、1人でも多く1軍で通用する投手を送り込むのが私の使命でしょう」と12年ぶりにプロのユニフォームを着る栗本コーチ。控え目ながら、ユニークな指導法に自信たっぷり。今、42歳の男ざかりである。