プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

木村保

2016-09-25 16:35:51 | 日記
1957年

「調子は悪くなかったが、きょうはビクビクものでした。近鉄には自信はあるし、別に十勝を意識したわけではないが、気を抜いてはダメだと思って・・・」とはいうものの十勝をあげても別に感激した様子もなく、ベテランのように落ち着いたものだった。ピッチングは少しの不安もなく、六回には中前に痛打して二点をあげるなど投打に大わらわの活躍で、近鉄戦七連勝の原動力となった。これでハーラー・ダービーのトップ。このうち四つの白星は近鉄から奪ったもの。そして二度は完投勝利とまさに近鉄キラー。「別に極め球はなかったが、速球が内外角にきまり、カーブも切れがあったのでずい分楽だった。近鉄はこの球をつまって打っていたようです。一回関根さんに打たれたのはシュートのかけそこないで、まん中に入ったものだった」六勝をあげるまでは繊細なペースで勝星をかせいでいたが、その後少しペースがくずれた。これもリリーフが多く、相手についてよく知らずに投げたのが原因だったそうだ。「今は体重もふえ、大学時代の二十一貫前後。調子もよい」とこれからうんとかせぐといわんばかり。山本監督にきょうの木村の出来を聞いてみると「立上りが少し危なかった。いつも立ち上がりが悪い。一、二回もう少し点をとられていたらダメだった。この点を直さなければ・・・」だそうだ。
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木戸美摸

2016-09-25 11:56:02 | 日記
1957年

洲本、明石のキャンプで投手陣の育成にたずさわった藤本コーチ、中尾主将はともに「いちばん早く出来上がった」といっていたのが木戸である。三回二死一、三塁のピンチをまかされた木戸は穴吹を中飛にとって軽く逃げ切った。その後は南海の誇る四百フィート打線に一歩もヒケをとらない五尺六寸という小柄に似ず度胸満点のプレート・マナーをみせる。いちばんの武器という球質の重いスピード・ボールが小気味よく森のミットにおさまる。前川八郎氏は「昨年の球威をもう十分もっている。まだ投げたあと体がうしろに残るところはない」とそのピッチングをほめていた。打っても五回二塁において右前にタイムリーして勝越し点をあげるなど大わらわの活躍、八回穴吹に打たれしぶしぶ降板したが、それでもこの小さな巨人はまだ投げたいといった顔つき。「少し高目に浮いたと思うが、南海の打者はこれをみな打ってくれた。まだ目が慣れないようだった。でも穴吹には驚いた。外角よりスピードも十分あったはずなのに・・・」とニガ笑い。「今年は早く調子を出そうと努めた。僕らは若いんですから大友さん、別所さんの出来上がるまでそれをカバーしていきます。昨年はラッキーだった。だから今シーズンはそれ以上にやらなくては・・・。キャンプではまず走ることを心がけた。僕のとりえは腰のバネのよいことなのだが、それだけに生かすために走って走って走り回った。今年はカーブをマスターすることです」という。加古川農から入団して三年目。藤田を加えた今年の巨人若手投手陣の軸となる日も間近い。
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権藤正利

2016-09-25 11:28:11 | 日記
1957年

権藤が連敗記録のスタートをした三十年七月九日から数えて、あと二日でちょうど二年になるこの夜七時十四分、最後の打者内藤を右飛にとったとき、権藤の連敗記録はストップした。七夕の夜だが空はまっくら。胴上げされる顔に細かい雨がかかる「前日からいわれてました。今夜は直球にコントロールがあったですからねーナインのおかげですね」汗と雨が涙と一しょになって、とぎれとぎれに語るその口もとを流れる。「立上りはコントロールが乱れたけれどもですねー球が低目にきまったからですね」白い歯並びの右はしに金歯が光る。「五回が一番疲れましたけれどもねー表に三点とってくれましたからね」佐賀弁のアクセントをまじえた感想がききとりにくい。「調子にも投球にもとくにかわったことはなかったです。巨人の打者が、シュートを打ってくれたのがよかったです」というが・・・。甘いもの好きのためこわした胃腸を手術し、PL教に入って精神力をつくりそして今年の秋には結婚も予定されているという。実力はたたき直され、最後に残った運もようやくまわってきた。「記念すべき日になるでしょうね」とボツリ。フラッシュの中に立つ彼に雨が降りつづける。
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拝藤宣雄

2016-09-25 10:15:37 | 日記
1957年

立大の拝藤投手は数日前から上京中の父親や元近鉄の次兄聖雄さん(25)らとプロ入りについて相談した結果、六日セ・リーグ広島入りを決めるとともに、同日大洋を断った。しかし辻監督はいぜん大洋入りをすすめており、正式決定は立大野球部のスケジュールが終ってからになるものとみられる。同投手のプロ入りについては近鉄、阪急、大洋、広島の四球団が交渉。阪急は同投手の出身校鳥取境高から米田投手をとっている関係で丸尾スカウトが交渉したが、諸種の事情から途中であきらめ、近鉄も入団条件が折り合わなかった。大洋は早くから有村コーチが立大辻監督を通じて大洋入りを工作、広島は次兄聖雄氏を通して勧誘をつづけていた。そして慶立戦のときに上京した家族と相談したときは、契約条件が大洋よりいい広島入りをいったん決めたが、辻監督に反対されて一時は大洋入りを考えていた。しかし五日夜次兄を通じて先輩と相談したうえ六日朝広島入りをきめたものである。

広島河口代表の話 「家族は本人を郷里(島根県境市)の近くにおきたいことなどから、広島へ入れたいといっている。今シーズン立大野球部の全日程が終了したとき本人が広島入りを希望するならぜひひきとりたいと思っている」

拝藤投手略歴 二十九年境高から立大入学二十八年には東中国代表として甲子園に出場している。大学では恵まれず、三年生までフリー・バッティング投手をつとめていたが、これで得たコントロールを武器に今春からデビュー、杉浦投手とともに立大連覇の立役者であった。カーブとナックルが武器。五尺七寸五分、十六貫五百、右投右打。文学部四年、昭和十五年五月二日生まれ。
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阿南準郎

2016-09-25 09:30:45 | 日記
1957年

三塁のコーチス・ボックスから水原監督が顔をふせ、クチビルをかみしめ、重い足をひきずりながら一塁側のダッグ・アウトに帰って行く。その横を広島の全選手がダッグ・アウトをとび出してマウンドにかけよる。巨人最後の打者岩本が三振にうちとられた一瞬だ遊撃を守っていた阿南もとぶようにしてマウンドに急ぐ、そして長谷川の右手をおしいただくようにして喜びの言葉をかけた。一点リードされた八回二死二塁、巨人の切り札藤田から右翼席へ逆転の2ラン・ホーマーを打って広島に勝利をもたらした殊勲者阿南はヒーローの珍客といってもいいほどこれまであまりパッとした活躍をしていない「低目の外角球、ストレートだった。藤井さんをかえしさえすればいいと思ってシングル・ヒットをねらっていた。藤田の球はそれほど威力がなかった。2-2と条件は悪かったが、不思議に打てるような予感がした」と自信のほどを披露してくれる大分県の佐伯鶴城高から西野スカウトにひっぱられ広島入りして二年目。これまでは守備だけの選手だったが、最近金山選手などのアドバイスで高目のボールに手を出さないようになってから打撃にもどうやら自信が出て来たという。これがプロ入り二本目の本塁打。四人兄弟の長男。父は佐伯市役所に勤務している。名前は「アナン」と読む。五尺六寸五分、十七貫五百、右投右打、二十歳、背番号50。
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高橋重行

2016-09-25 09:03:18 | 日記
1965年

「ゆうべ午前二時まで眠れず、やっと眠ったと思ったらもう朝の九時ごろには目がさめてしまった。いやんなっちゃった」これは前日、この日の先発をいいわたされて緊張したからではなかった。このところ原因はわからないが、毎晩寝つきが悪く、寝起きがいいそうだ。そんな睡眠不足気味の翌日、今シーズン三度目の完封価値をやってのけた。「眠れないわりにはからだの調子がすこぶるいいんです。そのため変化球にたよらず、ストレート中心の力でぐいぐい押しました。それが自分でも気持ちがいいほどアウトローへ決まりました」高橋は汗ひとつなく、まだまだ続投できそうなケロッとした顔をしていた。「ここのマウンドはとても投げやすいんです。調子が悪いとき、この球場へやってきて投げるとふしぎに調子がよくなる。それほどぼくはこのマウンドが好きなんです」マウンドの傾斜がなだらかだからだろうか。昨年、スワローズを5勝1敗とカモにしていたが、ことしはこの日の完封勝ちを入れて2勝2敗。「ことしの産経にはこれまでよく打たれ、防御率も二・五七と悪かったので、きょうははじめから仕返しをしてやるつもりで投げました」それも完ぺきなピッチングでカタキをとった。「少しできすぎの感じがします。こんな投球をしたつぎの試合のピッチングは大事なんです。気をつけなければ・・・」つぎの登板は阪神戦か中日戦。どちらにしてもロードであることは間違いない。高橋はマクラが堅いと夢ばかりみて眠れないというクセがある。遠征先の旅館のマクラはたいていモミガラ入りの悪いヤツ。「だからぼくはこんなことを考えたんです。遠征先の各旅館に高橋用マクラを置いておくことにしたんです。きのう二個千円の、中がラバーのやわらかいマクラを三つ買ってきました。こんどの遠征からこれをもっていって旅館に置いておくことにします」

天知俊一 高橋のピッチングはテンポが早い。きびきびとしたモーションで、連発式に投げ込んでくる。オーバースローの速球派おどろくほどのスピードはないが、コントロールがいい。ヒザの辺によく決まる。そのうえに数多くの変化球をもっている。シュートもいいがスライダーも鋭い。もっとも効果的なのは落差の大きいややスピードを落としたカーブ。産経打者はこのカーブにタイミングが合わず、下位打者はきりきり舞いさせられた。三安打は許したが、安打らしいのは九回の丸山の一本だけ、全然あぶなげのない堂々としたピッチングであった。それにしても産経打者は気力がない。また高橋に対するくふうもなかったようである。高橋のあの早いテンポに調子を合わせて打つ手はない。あのテンポをくずしにかかれば高橋のリズムにのった快調のピッチングにも狂いが出たかもしれないのである。無四球の奪三振9。みごとな高橋のピッチングであった。
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中山俊丈

2016-09-24 22:17:20 | 日記
1957年

連休を利用して後楽園のこの一戦を見に来たが、ヒヤヒヤさせられたうえに好天候でノドがかわいてしようがなかった。巨人を四連覇した中日の活躍を見ただけに私には印象の深い試合になった。このなかからヒーローを選ぶとなると私はためらいなく中山をあげる。空谷もよかった。身体全体でピンチの苦悩を表現する空谷は力感あふれていた。しかしその空谷が一点を取られた六回の満塁を、みごとにリリーフした中山のピッチングこそヒーローたるにふさわしいものにちがいない。名古屋から後楽園へ来たのははじめてであるが、彼中山が後楽園のマウンドをふむのもたしか今年はじめてだろう。中山があのとき(六回)巨人の打力を不発に終わらせることに失敗していたらどうなったか。それを考えると私は中日ファンとして中山よくやったといいたい。伊奈以外にたよれぬという中日投手陣に空谷、中山の活躍が見られたことはうれしい限りである。ことに中山が六回の危機に老練の代打平井、樋笠を三振させたの試合のヤマは圧巻というべきであった。外角シュートがきまった瞬間の平井のあの苦しい表情、空振りした樋笠の鬼のような顔、これは巨人側には無念の表情だろうが、私には痛快なひとときであった。今夜名古屋へ帰る私によい土産が出来た。試合後の中山は「リリーフの用意をするようにいいつけられていたが酒井(捕手)が速球の切れがいいから心配ないといっていた。だからカーブに限らず直球で勝負した。なんといった感じもない。ただホッとしたという感じですね」といい、天知監督は「まだカーブの切れが悪い。満足すべき出来ではないが、彼は夏場から調子の出る投手だ」と楽観している。中山は五尺八寸、十七貫五百、昨年は20勝11敗。
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石川良照

2016-09-24 21:39:25 | 日記
1957年

東京のファンにはあまりなじみのない顔。試合終了後ごった返すベンチの中でつめかけた報道陣も彼を見つけるのにひと苦労二回に2-0から先取点を取ったタイムリーを「あのコースは野球選手ならだれでも打てますよ」といい、四回宮本に左翼場外本塁打された球を「イン・コース高目の直球です。2-3になってからだから、いい球だって仕方がない」という。それをきいて「巨人ではだれがコワかった?」という質問を口に出せなくなった報道陣。そんな強気の割切った言葉がもっともふさわしい濃いマユ、強く引きしまった口もとを持っている。「だれにどんな球を投げたのか覚えていない」ともいう。巨人川上監督が「ウチの別所のような厚い腕と広い肩をもったいい投手だ。球も速い。これからの投手にはスピードがなければいけない」とつくづくいったがっちりした体格。「どうも球をはなすポイントが横の方におりてしまいがちなので、意識して上から投げるようにした。やはり甲子園のマウンドの方が投げいい。きょうはほとんどシュートを投げた。カーブはよく曲がらないから・・・。岩本選手にはイン・コースのストレートを投げて打たれた(七回)てっきりホームランだと思ったが・・・。ぼくには七回が限界、完投は出来なくても小山さんのリリーフなら安心だ」今シーズン急によくなった理由に率直にいって「チャンスをつかんで、自信をつけたのがよかった」のだそうだ。五尺八寸、十八貫、堺工高出身、二十一歳、右投右打。
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石川良照

2016-09-24 20:49:52 | 日記
1957年

無造作に大きくふりかぶってぐいぐいと速球を投げ込む。試合前藤村監督が「中日とやる時はどうしても投手戦になる。お互いに攻撃力が弱いからだ。だからエースをぶつけるんだ」と語っていたが、そのエースが石川。石川は岡島、井上を中心とする中日打線をわずか三安打に抑えて今年地元甲子園で初めて中日から勝ち星を奪った。「速球にコントロールがあったので打たれるとは思わなかった。シュートとカーブも使ったが、まず速球だけで勝負したといってもいいね」雨と汗でぐっしょりにぬれたユニホームに肩の冷えるのを気にしながら落ち着いた口調で語る。この夜の先発は二十六日の大洋戦が雨で流れたときにきまっていたそうだ。「この前の十回戦で岡島さんにサヨナラ・ホーマーされていますからね。仇討ちのつもりでしたよ、今夜は」自信に満ちた言葉。三十七日ぶりの白星。勝負師藤村監督に見込まれた不敵な勝負度胸が売物の彼である。
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円子宏

2016-09-23 22:40:19 | 日記
1957年

円子は第二試合約九ヶ月ぶりに上ったマウンドを七回から野母にゆずると、さっそくサロンへー。ジュースを注文すると一息に音をたててのみほした。この夜の彼は六回まで大映を3四球の無安打、無得点に抑えた。七回に安打を二本つづけられたがこの回を無得点に切り抜け昨年から通算三つ目の勝ち星をあげた。「安打されたのはストレートが高目に浮いたからだ。ノーヒットなんてぜんぜん意識しませんよ。どんな球がよかったかなあ・・・」とそんなことを考えるヒマもなかったというように首をかしげた。野村捕手は「直球、それも外角のいいコースへ入ったのがよかったんです」という。柚木コーチは「二週間ほど前から投げられる状態になり、一週間前に一軍にあげた。いいコースをついていたね。だが後半カーブの切れもスピードも悪くなった。まだ上位にはムリだよ」と手ばなしではほめない。昨年十月以後右ヒジを痛めて以来すっかりファンにごぶさたしていた彼も、この夜の勝ち星がカムバックのきっかけになりそうだ。もう一つのニュース。三十年プロ入り以来この夜の四回まで、実に五十八打席連続無安打のパ・リーグ記録を持っていた彼が、六回の五十九打席目に太田投手から一、二塁間を破ってこのかんばしくない記録に終止符をうった。この試合、円子にとっては投打にわたる記念すべきものだろう。
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馬場正平

2016-09-23 22:28:25 | 日記
1957年

「この日のお客さんは馬場君が集めたようなものさ」とだれかが冗談をいったが、優勝がきまったあとの試合だから二百勝をかけた杉下のピッチングより六尺四寸近い身長をもつ馬場の方に人気があったのもムリはない。プロ入り三度目の登板で先発はむろんはじめて。「いままで二度のリリーフはパーフェクトで通してきましたから・・・」と威張っていたが、それは一回トップ岡島の投手左強襲安打で簡単に破れた。「体重が左足にかかってしまって動けなかったんだ」という。その体重は二十四貫。一回一点はとられたが、しかし二回から五回まで三安打散発におさえてしまった。「シュートがとってもよく切れたから」だそうである。中日の西沢選手は「球が速かった。はじめは大リーガー相手のつもりで打てばいいと思ってたんだが、やはり威圧感がない。身長の割には大リーガーのようにマウンドが近く感じられなかった。もっとも一昨年きた大男ヤンキースのラーセンなんかとくらべる方がムリだが・・・」といっていたが、それでもボックスに立った身長六尺の西沢選手がさほど大きくはみえなかった。
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梅本正之

2016-09-22 23:26:56 | 日記
1957年

国鉄は当っているねと藤村監督がきいていたが、国鉄は試合前から元気がなかった。巨人に三連敗したシコリが残っているのかもしれない。田所は意外に球の伸びがなかった。はじめて打たれたヒットが三回一死後の山本の左前安打であったが、梅本のバントで送られたあと、吉田を敬遠して勝負した白坂の中前安打されて山本の生還を許した。吉田もチャンスに強いが、ベテラン白坂と勝負した田所の負けであった。これは五回一死梅本の右前安打のあと、田所が吉田と勝負して左翼席へ2点ホーマーされたのでもわかるとおり、田所は吉田がニガ手なのだ。阪神の先発梅本は一回鵜飼、箱田の安打を受けて不安を感じさせていた。しかし二回から長身からの外角スライダーを生かしてうまいピッチングに入った。三回鵜飼をスライダー、佐々木を内角シュート、箱田を外角低目の速球でそれぞれ三振にうちとる好調さ。今年で三年目だし、プレート度胸も満点、ゆうゆうとしたものだった。六回二死から佐藤、谷田に連安打されたのもまるで気にしていない。国鉄は梅本にのまれたみたいで、さっぱり意気が上がらなかった。阪神は六回代わった北畑にも一死二、三塁で三宅が左中間を深く破る三塁打し、この三宅も山本のスクイズにかえるムダのない攻撃ぶり。七回大島から田宮が右中間三百五十FTのホームランをたたき込み一方的に勝った。国鉄は八回箱田が左翼席へ本塁打しただけだった。

ー耐久(たいきゅう)高というのはあまり知られていないね。
「ええ、珍しい名前だよとよくいわれます。和歌山にある相撲の強い学校です。ぼくは高校のときから野球をやり投手をやっていました」
ープロ三年生といってもいままで公式戦にはあまり出なかったね。
「昨シーズン、大洋相手に二試合、合計五イニング投げただけです。ウエスタン・リーグでは昨シーズン三勝三敗ですが、公式戦でははじめての勝星です」
ー後楽園のプレートの感じは?
「そうですね、観衆が多いのでアガりました。一回佐々木さんのライナーを三宅さんが止めてくれなかったら、あそこでくずれていたでしょう」(気が弱いんです=具井マネージャー談)
ー昨年は下からも投げていたようだが・・・。
「上からも下からもおまけに横からも投げました。しかしフォームは一定した方がいいと思って、今シーズンからスリークォーターになおしたばかりです」
ーきょうの試合では球が外角にコントロールされていたところがよかった。
「外角へ入るカーブがよく曲がったのですが、内角のカーブは思うように曲がらなかった。きょうはコントロールがあまりよくなかったので、かえってよかったように思います」
ースピードはあったと思う?
「さあ、自分では、はっきりわかりません。二軍で投げればもっと速い球が投げられると思うのですが。-あのう、もう帰ってもいいでしょうか」
五尺八寸五分、十八貫、二十一歳。
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江崎照雄

2016-09-22 22:35:42 | 日記
1957年

後楽園で二度目のマウンドを踏んだ江崎は、この日はあまり好調ではなかった。「今年大学を出た南海の木村君がもう三勝をあげているので、気分的に少しあせっていたようです。どうも思うように球がいきませんでした」しかし八回一点を取られ、なお二死二塁のピンチに代打塚本を迎えたときは、2-3から全力投球でみごと三振に倒した。「あのときは夢中でした。球はスライダーです。ボールだったのかもしれません。ウチの打線が点を取ってくれたので初めて気が楽になりました」とホッとしたように笑顔をみせる。東映はルーキーに自信をつけさせたらいかんぜと九回の最後の打者松岡に保井コーチがベンチでゼスチャアたっぷりに秘策をさずけていたが、その松岡も振り遅れのファウルを連発したあと三ゴロに終わった。「プロ入り初の一勝ですからやはりわすれられないピッチングになるでしょう」という彼を大島(毎日のキャンプ地)からわざわざ応援にきた数人のアンコさんがとり囲んで大喜びだった。
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伊奈努

2016-09-22 19:12:21 | 日記
1957年

「ツキの神様や」伊奈投手は六勝一敗、ハーラー・ダービーのトップを切っている現在の調子をこんな短い言葉で表現した。「昨年よりスピードが出たわけでもないし、フォームだってたいして変わらない。球の種類だって同じや。中山の方がぼくより防御率がいい。(1・80)ぼくは2・60)。ただ勝てる試合、勝てそうな試合に出してもらっているだけやないか」という。やわらかな声、やや面長な顔に光るロイド・メガネ。ゆったりとイスに体を沈めて語るところはちょっとした英国製の紳士。「ぼくは小さいときからアマノジャクだった。人が騒いでいるときは静かにしていて、騒ぎがおさまってからワイワイやった」話の中にもそのアマノジャクぶりがちょいちょいとび出す。だがいまの好調は、たんに運にめぐまれたわけではない。もちろんみんなが調子が悪いから、逆に調子のいいところをみせてやったのでもない。フォームにも力んだところがなく触発の危機をはらんだ場面にのぞんで、たんたんとしてのびのびと投げている今年の伊奈投手には安定感がある。彼に聞いてみよう。

ー安定したピッチングをみせているが。
「昨年、一昨年とスリー・クォーターの投法が、シュートの多投から横手に代わりコントロールがなくなって苦しんだ。今シーズンはその点心配ない」
ースタミナの配分は?
「初めから全力をつくしているがただプレートの踏み変えに注意している。ぼくの場合、全力投球でインコースの低目へきまる球が武器だから、プレートの真ん中を踏んで全力投球してみて、そこへ球がきまればプレートを踏む位置が真ん中が中心になる。後半疲れてきて球が右にそれるようだったらプレートの左ハシと適当に変えていく」
ー今後マークされる不安はないか。
「別にない。ぼくが投げられなくなってもウチには大投手がいっぱいいる」
ーこれからの目標は?
「コントロールとスタミナの配分だ」
ーニガ手のチームは?
「上位球団ほど投げやすい。小細工せず力いっぱい投げられる。打たれたって伊奈なら仕方がない。ぐらいに思ってくれるだろうしね」
プロ入り五年目、もう打たれる悲しさも勝った喜びお、それをどう受けとったらいいのかちゃんと身につけている。この無感動が彼の最大の武器なのかもしれない。
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田沢芳夫

2016-09-22 18:38:30 | 日記
1957年

試合前のベンチで南海山本監督は悩んでいた。「今夜は米田だろう。野母がダメ、皆川を使ったし木村で負けるとあとが苦しくなる」というのである。そして柚木コーチと相談してメンバー表に田沢と書きこんだ。同時に戸川、中村にすぐ投げられるような肩ならしを命じた。しかし田沢は四回十二人目の打者岡本の二ゴロを野手のエラーから生かしたのがはじめての走者。九回二死後まで3四球を出しただけでノーヒットである。打者は代打滝田。南海ベンチはもう一人だ。がんばれと自分のことのように力を入れている。しかしその大記録の夢は滝田の一撃で破られた。田沢は気の抜けたような顔をしたが、それ以上にベンチは残念がった。だがこの好投で南海は首位毎日にゲーム差なしとつめよったのである。渡辺を三振にうちとった田沢は左翼の堀井がかけよってくるまでマウンドでヒザをついたままだった。ナインに肩を抱かれるように帰ってきた田沢は皆川と肩ならしをするのもつらいようだった。「とにかくこんなに疲れたことはなかった。ノーヒットとわかったのは七回ぐらいでした。九回滝田さんが代打に出てきたときはいやな予感がしたんですよ一球目外角低目に速球でいくつもりだったんですか、逆に内角の高目に入った。やはりかたくなったんでしょうね。あんなことははじめてですからね」アセを拭きながら早い口調でいう。興奮もあるだろうが、やはり九回を全力で投げとおした疲れがあるのだろう。「カーブが悪かったので思い切って直球で勝負したんです。それに内角に入るシュートをみなつまってくれた。蔭山さんなどの好守のおかげですよ。あれだけ投げられれば満足です」昨年は十五勝をあげたが、今年はまだこれで二勝目。(二つとも阪急)しかし「夏場には自信があるので、これからはがんばりますよ」
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