プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

別部捷夫

2016-09-11 20:22:50 | 日記
1965年

「ワケがホームランだって?ほんとうかい」五回で渡辺と代わり、ロッカーに引きあげた巽が腰にタオルを巻きつけたままのスタイルでとんでいった。試合が終わると別部はスラスラと口を切った。「内角ベルトへんのストレート。あの球だったらだれでもホームランを打てますよ。切れてファウルになるかと思っていた」打席に立つ前、砂押監督から「ヒットよりでかいヤツをねらえ」といわれていたそうで「たまたま監督のいうとおりなったわけ」という。ホームランは五月八日甲子園での対阪神一回戦で阪神・石川から打って以来、四か月ぶりだ。「それに孫子の兵法でみがきをかけているからな」かたわらで帰りじだくをしていた高林がこうひやかした。趣味は読書。それも孫子とか君子とかいう中国の兵法書ばかりを読んでいる。世田谷区世田谷の六畳と四畳半のアパート。その一部屋に24型の大型テレビをでんとすえてナイターまでの時間をテレビをみるか、読書で暮らす。家をたずねたチームメイトも「とにかくワケはかわっているよ。狭い部屋にでっかいテレビ。家が映画館みたいなんや」というほどた。大阪へいけば地主。大阪の北の繁華街十三大橋のそばに約二百七十平方㍍ほどの土地をもっている。「おじさんが持っているんです。共同でビルでも建てようかといっているんだ。広告会社が屋上にネオン塔をたてたといっているし・・・」「野球をやめたら?まだまだ野球でやりますよ」こういうと鼻の頭の汗をひとさし指ではじいてフロへ走っていった。
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小川健太郎

2016-09-11 17:39:06 | 日記
1965年

「オイ、健太郎(小川)をうんとノックして走らせてくれ。最近ランニングがたらん」前日(二十五日)の試合前、ベンチから近藤コーチの大きな声がひびいた。おかげで小川はこってりとしぼられた。二日の対産経戦の試合前、ノックを受けたとき左足首を痛めてからほとんど走らなかったため、65㌔の体重がみるみるうちに3㌔もふえてしまった。「ランニングは自分でもたらんと思う。だからボールの切れも悪く、きょうだってブルペンで投げたときは悪かった。それでマウンドに立ったときはていねいに投げた。それがよかったんだろうね。それに木俣が実にうまくリードしてくれた。あいつのおかげで勝てたよ」ロッカーでたばこをうまそうにすう小川は、木俣のことをやけにほめた。八月二十八日の初完封といい、この日の自己最少投球数、無四球試合といい、初ものはすべて広島からで小川にとってはまったくエンギのいい相手だ。「別に広島がやりいいわけではない。ただ広島の打者は大振りしてくるので思い切って高めで勝負してみたんだ」凡退させた二十五人の打者のうち十三人をいずれもフライで打ちとっている。アンダーシャツ、バスタオルをかかえてすぐ木俣のところにいった。「ありがとう、ほんとうにいいリードだったよ」と握手。少しはにかみながら木俣は「きょうの小川さんはスピードがあった。コンビネーションもよかったね。きょうくらいサインを出していてポンポンと気持ちよく呼吸があったことはない」とうれしそう。ピッチングばかりかこの日はバッティングも好調。四回、左中間に二塁打を放って1打点を記録。「打ったのは真っすぐ。1-3だし、まさか打ってこないと思ったんでしょうね」とニヤニヤ。
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木原義隆

2016-09-11 13:17:46 | 日記
1965年

木原は人物という言葉をよく使う。法大の先輩高木がこのところコンスタントな打力をみせ、首位打者の座を確保しているが、本人を前にして「先輩はかなりの人物ですね」といった調子だ。南海の渡辺が1勝をマークしたときも「渡辺も人物になりよった。ワシもあやからないかんな」ととぼけていた木原だ。1勝をあげ人物の仲間入りをした木原は、ベンチに帰ってくると、まず冷え切ったお茶を口に含んで「しんどかったです。きょうの試合は四時間くらい投げたような気がしますね」先発はきのういい渡されたそうだ。本人はあと二、三日、時間をもらって調整し、完ぺきなところで野口コーチに「投げさせてください」と申し出るつもりだった。試合前の木原は緊張していた。「こんど投げるときは、ある程度ぼくの持ち味が出ると思います」といっていただけに、六度目の機会をのがしたくなかったのだろう。ウォーミングアップのためブルペンへ向かっても極度の緊張感からか、目つきがとがって見えたものだ。試合後は疲労と解放感から木原はぐったりとベンチにすわり込んだ。「球が低めに決まりましたね。カーブも大きく曲がったし、この1勝はフロックではないといえますよ。いままではフォームがまとまっていなかったし、勝てたとしてもその次の試合でまた自信をなくしていたかもしれません。こんどはそんなこともないでしょう。きょうは高倉さん、アグリーが抜けていたのでそれほど左打者に気を使わずにすみました。五回を1点で逃げてから完投を意識しました。池永正が何勝かしているのに高校組に負けられません」バルボンから渡されたウイニング・ボールをしっかりと握りしめている。強気の木原にしてみれば珍しいしぐさで、それほどこの夜の1勝はうれしそう。「1勝すればあとはトントン拍子にいきそうです」といつも口グセにする木原にやっと新人王の資格が手にはいったというところだ。「いや、まだまだですわ。人物になるにはもうちょっとひまがかかります」木原の顔は晴れ晴れしていた。
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佐藤進

2016-09-11 13:01:16 | 日記
1965年

ベンチのすみでブスッとした顔をつきだしていたのは試合前だった。「阪神は村田さんばかりをマークしている。オレという投手がいることはもう忘れてしまったのかな」昨シーズンは金田(現巨人)につぐ勝ち星の10勝。だが今シーズンはさっぱり芽がでず、負けが二つあるだけだ。その原因は野球とはまったく関係がない。典子(のりこ)夫人と結婚した昨シーズンのオフ、ボーリング場でのデートで右ヒジをやられてしまった。「大きい声じゃいえないが一日に十五ゲームもやったんだから、こわさない方がどうかしている」五月中旬にはプロ入りはじめて二軍に落ちた。「女房にニギリメシを二十個もつくらせてイースタン・リーグのために埼玉県所沢市の西武園球場まででかけていった。朝の七時に東京・渋谷の家をでたがラッシュがこんなにすごいとは思わなかったね。いい社会勉強ができたし、投げ込み不足が解決できたのだからいいクスリになりました」三日間でダブルヘッダーをいれ四連投というはなれわざをやってのけた。このときの二十イニング三分の一無失点が買われてすぐ一軍入り。この日の先発をいわれたのは三日前だ。「きのうの夜中の二時ごろ、右ヒジがうずいてきたので女房にもませたんだ」阪神打線の研究も典子夫人といっしょに考えたという。「いまスライダーとカーブがよく決まっているが阪神は球に食いついてくる打者が多いのでうまくあわされるかもしれない。ぶつけてもいいからシュートをたくさん投げよう」二回の藤井、三回の安藤にぶつけたのもこのシュート。マウンドで「スマネエ」と大きなジェスチャアであやまっていたが、夫婦で考えた予定の行動だったわけだ。登板の前日にビールをあおったり、先輩にもズケズケものをいう。ナインからずうずうしいヤツとか北海道出身であることから北海の白クマというアダ名をつけられたくらい。「安藤のはかなり痛かったはずだ。シュートがもろに左モモにぶつかったんだ」完封勝ちは昨年の四月十五日以来、相手も同じ阪神だった。「ホームラン・バッターがあまりいないので巨人にくらべりゃ、ずいぶん助かる。ストレートはよくのびたし、適当にピッチングも荒れていた。これでやっと自信みたいなものがつかめたような気がする」朝樹が中飛に終わって一勝が決まると岡本とものすごい勢いでだきあった。「女房ともあんなにきつくだきあったことはないんだが男同士のだきあいはうれしいもんだね」
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坂井勝二

2016-09-11 12:34:43 | 日記
1965年

「ベンチにかえったときのまわりの方がおもしろかったよ。みんななんにもいわないんだもの」坂井はそういって笑おうとしたが、完全な笑顔にはならなかった。八回一死後にが手の左打者高木に左前安打されるまでパーフェクト。矢頭が「守っていても緊張しちゃったですね。こんな経験は長い間野球をやっているが初めてだ」といった。坂井は「高木に打たれたのは沈む球、完全試合なんてやれるとは思っていなかったが、あそこまでやったらやりたかった。まだノーヒットだな、なんていってるうちに五回まできちゃった。でもいつかは打たれると思っていたので、それほどショックではなかったけどね」といったが、打たれてもめたに表情をかえないポーカーフェースの坂井が、高木の打球がソロムコの前に落ちるとさすがに両足を開いたまま肩をおとした。試合後マウンドへの往復と同じように頭をたれてホープをゆっくりふかしながらポツリポツリ話していたが、急に顔をあげニッコリした。「エノさんがね、六回ごろから一人アウトにするごとにぼくのところにきてこんどヒット打たれちゃえよというんですよ」榎本はそれをいかにも榎本らしく説明した。「記録というのは自分で求めても得られない。向こうからやってくるものだ」本堂監督はいった。「そりゃ記録もつくらせてやりたかった。しかしまだ開幕したばかりだし、むしろ高木に打たれたことがこれからの坂井にとってはよかったのではないかな。いまの坂井ならこんなチャンスはまたくるだろうからね」記録よりも、四月二十四日の東映三回戦で四回まで張本、ラーカーと二本の2ランをあび5点をとられた坂井の立ち直りを喜んでいた。坂井は「きょうくらい一球一球慎重に投げたことはいままでなかったですね」と、しんみり語っていた。
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田中勉

2016-09-11 12:06:16 | 日記
1965年

3勝(4敗)の勝ち星すべてを東京相手にかせいだもの。「おとくさいさん? そんなことはない。めぐり合わせですよ」アイヌ人のように濃いヒゲの顔に汗がいっぱいだ。四月二十二日、五月四日の連続シャットアウト勝ちについで、この日は完投勝ち。「きょうはツイていた。はじめは毎回のようにランナーを出して苦しかった。二回アグリーが強肩で三塁にいた矢頭を刺してくれたしバックもよく守ってくれた。それに東京さんが内角のボールの球に手を出してくれたのも助かりましたよ」四回一死二、三塁、八田の中前へとんだヒット性の打球を高倉がファイン・プレーして併殺。たしかにツキもあったようだ。昨年も東京とともに北海道にきた西鉄。その寒さにこりてか冬じたくをしてきた選手たちは、十四日から急に暖かくなって暑さにカゼをひくのが続出した。田中勉もその一人。「カゼがみでからだはだるいしさっぱり球が走らなかった。最低のできです。よく最後までもったという感じですね」地方球場の試合終了後どこでもみられる光景。スタンドからどっとグラウンドにとびこんだ少年ファンに押されながら、流れ出る汗をふいた。ほりの深い男性的な顔のように、田中勉のピッチングはダイナミックだ。大上段から腰を軸に快速球を投げおろす。まるでホームベース前でワン・バウンドしそうな感じだが、手もとにきてボールはぐっとのびる。それと効果的なのは金田ばりの超スローカーブを多く織りまぜることだ。まるで東京打線をバカにしたような余裕タップリの感じだ。「去年は東京にあまりよくなかった。ことしは横のゆさぶりがうまく成功しているようだ。東京のバッターはこれに弱いよ」それだけいう人ごみをかき分けるようにしてバスに急いだが「東京以外から勝たなきゃ笑えんよ」というようにニコリともしていなかった。
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柿本実

2016-09-11 11:17:21 | 日記
1965年

八回裏一死一、二塁で遠井のカウントが0-2になると西沢監督はベンチをとび出してマウンドへ走った。「代わらないか}と柿本はいわれたそうだ。西沢監督の頭の中には、おそらく十日の阪神戦(甲子園)での逆転負けのニガい思い出がよみがえったのだろう。二週間前のこのゲームもやはり八回一死後。それまでの4-1という3点リードを遠井、藤井の左コンビのバットでひっくり返されていたからだ。西沢監督は念を押すように捕手の木俣にもう一度柿本の調子をたしかめた。このとき木俣がきっぱり「いいコースへきているからだいじょうぶだと思います」といわなかったら、この今シーズン初の完封勝ちは生まれていなかったところだ。柿本がよしこれならいけるという気持ちを持ったのは四回の無死二塁で山内を外角のスライダーで三振させてからだという。「きょうの試合前の阪神のバッティング練習を見ていたら、みんな外角の球に手こずっていた。だからスライダーが一番有効だと思って右打者にはこれで押したんだ。それに一、二回に2点とってくれたので余裕を持って投げられた」柿本に自信を持たせる三振をした山内は「タイミングがどうも合わんなや」と首をひねる。阪神打線では柿本に一番強いはずの藤井まで弱気だった。「きのうの小川健よりよかったな。去年のピッチングと変わったのは落ちる球が多くなったことだ。これとシュートでやられてしもうた」六回の二死一、二塁、八回には二死二、三塁で二度も藤井にチャンスがまわっているだけにこのブレーキは大きい。戸倉勝城氏は「きょうの柿本にシャットアウトされるとは阪神打線はおそまつすぎる」と手きびしい。柿本が勝利の喜びを味わったのは、三月八日の対広島戦(広島)以来だから、実四十九日ぶりだ。しかしこの間、登板しない日はほとんど毎日のように自分から進んでフリー・バッティングに投げ、出てきた腹を少しでもへこませようとかくれた努力だけはつづけていた。「きょう一番うれしかったのは堺からわざわざ見にきてくれた女房のねえさんにウイニング・ボールという、またとないプレゼントができたことだ」遠征に出ると毎日のように名古屋の輝子夫人のもとへ電話をかけ、長女香ちゃん(一つ)のようすを聞いている柿本だが、この夜の電話はさぞ長かったに違いない。
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大羽進

2016-09-11 10:48:16 | 日記
1965年

先発が予定されていた池田が腰を痛めたため、急にオハチがまわってきた。「ひょっとしたらリリーフで使ってくれるかもしれない」と胸算用して球場へ着いたので、先発を申し渡されても顔色一つ変えなかった。驚かなかったばかりか、ベンチをとび出しながら「さあ、試合前だけの練習をやるか」と冗談をいう余裕があった。ことしはこれが初先発。六試合投げたのは全部ショートリリーフで、それも一ニング以上投げたことはない。おまけに半月前まではヒジを痛めてウエスタン・リーグへ約一週間いっていた。「ヒジが悪かったことよりフォームがくずれていたからだ。手首の返しが早すぎて、スピードが死んでしまっていた」と長谷川コーチはいう。一軍に呼び戻されたのは五月十五日の中日戦からだった。広島は川本スコアラーが中心になって、細かく他チームのデータを集めている。三連戦単位でまとめられたそのデータは親会社、東洋工業にある巨大な電子計算機でさらに細かく分類、集計されて、ベンチに送り返されてくる。長谷川コーチはこのデータをもとにして巨人の打線を徹底的に分析し直した。「くわしいことはいえないが、第一に低めに落ちる変化球を有効に使うことだ。そのためにはまず高めいっぱいをついて、手元でのびるストレートがなくてはならない。きょうの大羽のピッチングは巨人封じの見本のようなものだ」と長谷川コーチはいう。川本スコアラーも「六割が変化球。前半はフォークボールを、後半はカーブを主体にしていた」と裏づけている。昨年巨人戦に十二試合投げて4勝2敗。この勝ち星がシーズン全部の勝ち星でもあった。「ONにはフォークボールをたくさん使ったけど、王にはカーブを二球ほど投げた。長島?歩かせてもいいからベルトより上には投げないように気を使った。シュートでカウントをとって追い込んでからフォークボールを落としたのがよかった」九回、安仁屋にバトンを渡してコーラを飲みにベンチを抜け出してきた。サロンのドアはもうしまっていて、とうとうコーラは飲めずじまいだったが、笑いながらいった。「きょうのピッチング採点?まだ勝てるかどうかわかんないからなんともいえません」ことし初の1勝をあげたこの日の昼間、おにいさんが結婚式をあげたことはバスに乗り込むまでいわなかった。

長島選手「大羽がよすぎた。落ちる球にやられた。八階の三振は完全にボール。フォークボールだった。ああいう変化球はもっと引きつけて打たなければいけないな」

王選手「大羽はそんないいできとは思わなかった。ただ高低の変化でうまく攻めてくるのでポイントがつかみにくかった」

吉田勝選手「大羽は打てない投手とは思えない。六回の三振はカーブだった」
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田中調

2016-09-11 10:31:01 | 日記
1965年

田中には大きな望みが一つある。「10勝を一度でいいからあげてみたいことだ。父親の鹿市さんから「おまえが10勝できるようになるまでは東映の試合をみない」といわれ、いまだに一度も自分の晴れ姿をみてもらえない。東京にも一度も出てきたことがないし、郷里・高松でやったオープン戦にもガンとして球場へこようとはしなかったそうだ。鹿市さんはがんこで有名。中学時代(井草中)にもこんなことがあったそうだ。郡(香川県木田郡)の大会の決勝で負けたとき「負けた投手なんか家にいれるか」田中がいくら戸をたたいてもあけてくれず、しかたなく学校にもどって合宿でゴロ寝した。それだけに田中にとっては、一日も早く10勝へ到達することがなによりの親孝行と考えている。「あと2勝とやっとせまりましたね」勝ち星がふえるたびに「マグレ、マグレ」といっていた言葉がやっとこんなふうにかわってきた。六月二十七日からの福岡遠征で腰を痛め、いまだに直り切っていない。病院で精密検査を受けたし、いまでもバスの振動でしびれる。「いつもバスの一番うしろに陣どって正座しているんですよ。背中をピンとしていないと痛くってね」今シーズン東京からこれで3勝目。東映の勝ち星(対東京戦)は四つだから、ほとんど一人でかせぎまくっているわけだ。もっとも3点をとられて、東京キラーは小さくなっていた。「前半カーブを多投して打たれたので、後半はストレート主体にかえたのがよかったのでしょう」尾崎にたすけられた8勝目だけに手放しでは喜べないようす。完投勝ちをのがすきっかけとなった西山の代打ホームランをくやしがった。「西山さんにはきのう(六日)真ん中からはいるカーブを打たれた。だからきょうはカーブ以外をねらってくると思ったので、種茂さんがカーブのサインを出したときすぐうなずいたんだ。でも西山さんはからだを開いてやっぱりカーブにヤマをはいっていたんです。それにしても代打連続ホーマーだなんて・・・」西山にやられたお返しというわけでもないだろうが、田中は「あと二つ完封で勝ってオヤジをムリヤリにも球場へつれ出しますよ」と白い歯をのぞかせた。
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鵜狩道旺

2016-09-11 10:15:45 | 日記
1965年

アンダーシャツを一枚しか用意していなかった。「どうせすぐマウンドをおりてくるからね」というのがその理由だ。「ゲリして最低のコンディションだった。牛乳をがぶ飲みしたのが悪かったのかもしれない」だから試合前の鵜狩は「完封できるなんて思ってもみなかった」という気持ちの方が先走って、しきりにテレた。「球の種類もスピードもいつもと変わらない。完封できたのが不思議なくらいだよ」人のいい笑いが顔じゅうに広がった。「いつもとかわったピッチングといえば、シュートを多く使ったことかな。フォークボールはもうよまれているので、ほとんど使わなかった。投げたのは二球かな」フォークボールをほとんど投げなかったのは長谷川コーチのアドバイスがあったからだ。低めで勝負していたのを、高めにしてみろっていわれた。低めに強い小淵、豊田はそれですっかり面くらったようだ。二人さえマークしていれば、産経打線はそれほどこわくないからね」対産経戦にはめっぽう強い(今シーズン20回2/3投げ失点1防御率0・43)自信がちょっぴりのぞいた。「四回に1点追加してくれたのでずいぶんらくになった。あれでいけると思ったね。こっちもようしという気になったものね」牛乳にあたったというのにベンチのスミにある水道からなま水をうまそうにがぶがぶ飲んだ。人がよく、マージャンをやってもいつも負けてばかりいる。親友の竜に「もうやめろ」といわれて、ことしからきっぱりマージャンと縁を切った。ことしで十一年目。既定の試合数に満たないため十年目のボーナスはことしになる。
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牧勝彦

2016-09-10 23:52:47 | 日記
1965年

牧にとって小山はあらゆることの手本だ。阪神から小山を追いかけるように東京に移籍、アパートも小山の家にい目と鼻の先にある東京・渋谷にわざわざみつけた。東京にいるときは球場への往復にはいつも小山の車に便乗する。「そのときにいろいろピッチングのアドバイスをしてもらうんです。小山さんの野球に対する真剣な態度、けじめのついた私生活、そういうものをじかにみられるのでとても参考になるんです」プロ入り五年ではじめて味わう完封の喜び。孫悟空とナインからアダ名をつけられているあいきょうのある顔。だが、口調はとてもまじめだ。「小山さんは去年、阪神を見返してやるという気持で30勝したといっていました。だから、ことしトレードされたときボクも阪神が牧を出して損したと後悔するようなことを絶対しようと誓っていたんです」その気持ちが人一倍のランニングをさせ、開幕直後、全然登板のチャンスを与えられなくてもクサらなかったのだろう。「阪神のときより気持ちもからだも好調です」強くいい切った。「きょう、前半は苦しかった。でも、ショートのファイン・プレーに救われ、調子づくことができた」報道陣に囲まれている牧を小山がうれしそうにながめていった。「あいつの速球はおそろしく速い。牧はまだまだこんなもんじゃないぜ」トレードで小山、前田の二人をとり、大もうけした東京。牧と谷本のトレードも「しぶい打力をもつ谷本の方がいい」とみんなにいわれた。損といわれた巻で東京はまた得をしたようだ。
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平岡一郎

2016-09-10 23:05:34 | 日記
1965年

飾っ気がなく、のんきで、思ったことははっきりいう。度胸のいい青年。1㍍72、70㌔。プロの選手としては小柄の方で顔はタテに長く、いつもニコニコしている。あるとき遠征中の列車の中でみやげ売りの女の子が歩いてきた。「あっ、桜島(ダイコン)が歩いてきた」売り子の太い足を指して大きな声でいった。いつもタテジマのはいった紺の背広を着ている。「よっぽどその背広が気にいっているんだな」とナインにからかわれると「でも、よごれがめだたんのでこれが一番いいんだ」すました顔でいう。そんなわけでこの日のピッチングの感想もふるっていた。「先発はきょうの試合前のランニング中いわれた。あんまり急だったのでかえって落ちついちゃった。これまでは四イニング以上投げたことはなかったので、疲れたかって?ちっとも。しかし、神経が少し疲れた」神経が疲れたなどと堂々といってのける神経はそうとうふとそうだ。「巨人より中日の方がこわい。とくにマーシャルはいやだ。七回右中間へホームラン性の当たりをとばされたときはヒヤッとした」汗ばんだヒタイをユニホームのそでをぬぐった。「江藤さんはこわくない」こんな平岡を江藤本人はこうみている。「最初は球種も多く正直いって面くらった。しかしなれれば・・・」カーブを中心にスライダー、シュート、落ちる球、ストレートと球種は多い。横浜高時代はストレートとカーブ、シュートの三種類だけだった。藤井スカウトの熱心な勧誘で、すでにきまっていた会社も棒にふってこの春入団した。キャンプではパッとしなかったが、首脳部は「おもしろいクセ球をもっている。それに人間もおもしろい」と目をかけていた。今シーズンのイースタンでの成績は4勝2敗。七月十二日の中日戦以来一軍入りし、この日までの成績は十八試合で2敗だった。
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鈴木皖武

2016-09-10 22:30:35 | 日記
1965年

大柄なナインにかこまれるとどこにいるのかわからなくなる。メンバー表には1㍍73、64㌔とあるが、正確にいえば1㍍70、63㌔。実に無口だ。ことしの一月十四日、高校時代(愛媛県宇摩郡土居高)机をならべていた千代子夫人とこっそり結婚式をあげたことをまだ知らないナインもいる。そんな男が、四回の打席にむかうとき豊田にいった。「絶対に打って決勝点をあげてみせる」鈴木にはそれだけの確信があったそうだ。「稲川さんはスライダーを多く投げていた。あの球なら打てるような気がしたんです」これが今季初ヒットだ。七回から石戸にバトンをわたし、すずしい顔でベンチに引きあげてきた。「調子はよくなかった。こんな寒い天気だし、十二日の阪神戦(神宮)でやった右ヒザ打撲や、持病の腰の神経痛が出て苦しかった。だから七回監督さんに一発打たれると困るので代えてくださいと頼み込んだんです」全部リリーフで3勝目。プロ入りしてから昨シーズンまで5勝しかあげていないのだから、ことしはすごいハイピッチだ。リリーフをいいわたされるとき、いつもこう考えるそうだ。「ていねいに。打者の気迫に負けちゃいけない」これまで八イニングを投げたのが最高。スタミナをつけて九回をまかせてもらうような投手になりたいというのがこれからの目標だ。ダブダブのアンダーシャツは巨人へ移った金田の置きみやげ。金田によくさそわれた。「キヨ、そんなやせたからだじゃりっぱな投手になれんで。どや、メシでも食いにいこうか」だが鈴木にとって世の中で一番こわいのはこの金田だという。「仙台へきた晩見た夢は、一生懸命カネさんのバッティング投手をつとめていることだった。コントロールに気ィつけや、という声までつくんだから、ためになる夢ですよ。そのせいかグラウンドでも、コントロールはずば抜けてよかった。低めをねらったのが成功したと思います。いままで広島と巨人にしか勝てなかったが、これであとは中日と阪神だけになりました」六日の巨人戦(広岡)七日の巨人戦(船田、広岡、城之内)、八日の阪神戦(遠井)、十二日の阪神戦(朝井、辻佳、バッキー)と、四試合にわたって、ショート・リリーフするたびに全打者を三振にとり、連続8奪三振というセ・リーグ・タイ記録をマークした。十八日からの巨人戦(後楽園)で、金田と会うのをたのしみにしている。ネット裏でメモをとっていた巨人の小松スコアラーのノートには鈴木の欄に赤エンピツで要注意と書き込まれていた。
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妻島芳郎

2016-09-10 22:11:15 | 日記
1965年

昨年はオリオンズの最終ゲームで規定の投球回数にすべり込み最優秀投手になった。敗戦処理的登板でも慎重に投げつづけた積み重ねが、じみな妻島の存在に脚光を浴びせた。ナインのなかにいても、どこにいるのかわからないほど静かな男だ。ピッチングも力で押すタイプではなく計算ずくめ。「ぼくは直球のほかシュートとカーブしか武器はない。はじめその三つを適当にまぜてテストしてみる。それで打たれた球はその日は切れが悪いからなるべく投げないようにするんだ」といったぐあいだ。この日はシュートが悪かったのでほとんど直球とカーブだけで勝負した。「シュートは落ちなかったが直球はわりにのびたし、カーブもよく切れた。それと前半に点をとってくれたのでりきまず楽に投げたのがよかった」四月十五日の近鉄戦に先発して負けて以来二度目の先発。初めての勝利だけにさすがにうれしそうだ。「去年のシャットアウト勝ちは二度とも近鉄から。近鉄以外のチームに完封勝ちしたのは初めてです。つまり三度目というわけですね」と細い目をなおいっそう細くして笑った。一番苦しかったのは中盤だったそうだ。「ちょっと疲れましてね。いままでがずうっと悪かったので、きょうも後半は打たれるんじゃないかと心配していた。でも西田がパーマのホームラン性の打球をとってくれたしついてましたね」このパーマへの一投だけが慎重だった妻島が勝負にでたシュートだった。最優秀投手の実績から、ことしは第三の投手に期待されながら、新鋭迫田に先を越された感じだっただけに、この1勝は価値がある。「そうですね。やっと片目があいたから、これからは楽にやれますね。最優秀投手なんていうことは意識していなかったが、いままではどうしても相手を押え込んでやろうと、りきんでいたのがいけなかったんですね。これからはきょうみたいに力を抜いて投げますよ」どうやら妻島は自分本来の慎重な投球のカンをこの試合でとりもどしたようだ。
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羽里功

2016-09-10 21:30:26 | 日記
1965年

また新しい大洋キラーが出現した。八回伏兵林に一発を浴びて竜に助けを求めたものの、それまでの六イニングは完ぺきだった。ブンブン振りまわす大洋打線を下手からの浮きあがるカーブでキリキリ舞いさせ、桑田、松原、伊藤らからは文句のない三振までとった。ベンチの冷たい水でゴシゴシ何度も顔を洗ってからロッカーへもどった羽里はオデコから湯気をたてていた。「公式戦ではめったに出るチャンスがないので一生懸命投げました。大洋の打者はみんなこわかったけど、なんかちょっとー」おかしな調子だったといおうとしてあわてて言葉をにごし、そして恥ずかしそうに笑った。プロ入り三年目でやっとつかんだ初勝利。去年はファームでさえ勝ち星なしの2敗。それがことしはウエスタン・リーグで一躍5勝(2敗)をマーク、こんどのジュニア・オールスターに出場が決まった。これが大きな自信をもたせたようだ。「ウエスタン・リーグでは手もとから浮きあがるカーブを武器にして成功したので、きょうもそのカーブをきめ球に使いました。ただこっちはごまかしのきかない一軍プレーヤーばかりなので、そのカーブの前に落ちるシュートを投げて、なるべく変化をもたせるようにしただけです。コントロールがよかったのでなんとかもったのではないですか」公式戦には昨年二試合、ことしもまだ二度目の登板だ。しかし林に打たれたホームランを「カーブが真ん中にはいった。失投でした」とズバリといいきるあたり、気も強そうだ。徳島海南高ではことし西鉄入りした尾崎投手の二年先輩。一年までは上手から投げていたが、二年のとき「投げやすいから」という理由だけでかってに下手投げにきりかえた。もしそのとき野球部の市川監督が「やめろ」といっていればこの日の大洋キラーは出現していなかっただろう。ついこのあいだまで「変則型なのでつなぎに使える投手になればめっけもの」といっていた白石監督も、この1勝で羽里を見直したようだ。球宴を出ながらうれしそうにいった。「ちょっとようすをみるつもりでだした羽里がねえ・・・。こんどは・・・」二十歳、1㍍79、75㌔、右投右打。
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