プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

銭村健三、銭村健四、光吉勉

2017-10-27 20:27:57 | 日記
1952年

銭村健三(26)二塁、投手=フレスノ(加州)出身=州立フレスノ大卒、右投、左打、5尺6寸、16貫、背番号23、六月十日、コリンガ(加州)で行われた対コリンガ・オイラー戦に投手として出場、セミ・プロであるコリンガを10-4で破った。二月廿一日、フレスノ・オールスターに選ばれて弟健四選手とともに中堅、右翼を守り快打を放っている。

銭村健四(24)外野手=フレスノ(加州)出身=州立フレスノ大卒右投、右打、5尺7寸、17貫、背番号25、昨年八月米東部学生代表として来日、中堅手として好守、好走、強打をみせた。

光吉勉(25)投手=アモナ(加州)出身=ハンフォード・ハイスクール卒、左投、左打、5尺8寸、20貫、背番号11、ハイスクール時代から野球をはじめたが速球カーブに威力がある。
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渡辺信義 勝利日

2017-10-27 18:25:52 | 日記

1952年8月10日
   8月17日
   8月30日
   9月2日
   9月7日
   9月18日
1953年4月26日
   5月17日
   8月8日
   9月6日
1954年4月29日
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原田孝一 勝利日

2017-10-27 08:11:20 | 日記


1950年11月22日
1951年6月6日
   7月26日
1952年5月11日
   6月5日
   6月17日
   6月22日
   6月25日
   7月27日
   8月10日
   9月12日
   9月15日
1954年3月31日
   4月14日
   5月5日
   5月29日
   5月30日
   6月8日
   7月1日
   7月11日
   7月18日
   7月27日
   8月4日
   8月7日
   8月21日
   9月15日
   10月10日
1955年4月5日
   4月7日
   4月9日
   5月11日
   5月17日
   5月21日
   9月29日
1956年7月17日
   7月22日
   9月9日
   9月12日
   9月30日
1957年8月15日
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鈴木幸雄

2017-10-27 07:30:04 | 日記
1953年

奇妙なフォームのアンダースローで、阪急のプレートに立ったときは、一寸注目を引いた。浮上る球、シュートの使い方もよく、ナイターに強い。昭和廿六年入団で、今年で三年目、彼の舞台は期待を持てる。廿八回登板八勝八敗の成績。

右投右打 和歌山市 五尺六寸十六貫 光風工高ー阪急
西宮市高木高松町七四 甲武館内
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荻原隆

2017-10-25 21:03:17 | 日記
1952年

二十三年夏の関東大会に優勝した、その際、完全試合を行い、六十八投球記録を樹てた。大洋入りしたのは昭和二十五年で、シュートとドロップに見るべきものがある。最近はチェンジ・オブ・ペースも巧みになった。

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三富恒雄

2017-10-25 21:02:47 | 日記
1953年

セ倶の投手としてプロ球界にデビューしたのは昭和十五年。戦後坪内たちと金星を組織した後同一行動を取り、廿四年中日に入った。サウスポー独特のシュートとカーブが脅威。昨年は余り仂かず廿四試合五勝三敗で鳴りをしずめていた。
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原田孝一

2017-10-24 20:57:01 | 日記
1952年

原田はオーバーハンドの速球、変化球を巧みに使い分けて毎日に得点を許さず、立上りトップ呉にストレートの四球を与えたのと三回別当に投手強襲安打されて一、三塁のピンチを招いた以外は全くの快投を続け、バックの堅守に守られて三人ずつに片づけ、毎日打線を寄せつけず、最終回二本の安打でピンチを招いたものの代打片岡を二ゴロに討ちとって見ごとシャット・アウトに降した。これに対し野村も三回、戸倉に無死二塁打された危機を脱してからは好投していたが、四回トップ川合に四球を与えたのがたたって戸倉に粘られたあげく左前に痛打され、欲張った戸倉を二塁で憤死させたが、この間に川合の生還で機先を制されたこのところバテ気の毎日はこの味一点を返すのに汲々とし、余りにもあせりすぎてボールに手をだしてチャンスをつかめず原田に八回まで三安打の散発に抑えられる情けない有様だった。
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広岡達朗

2017-10-23 20:51:23 | 日記
1965年

巨人はどたん場で広岡、長島の長短打で逆転サヨナラ勝ちした。5安打ながらとにかく苦手のバンサイドから連続安打を奪ったということが、今夜のバンサイド攻略の一つの研究資料となったことはたしかだ。試合前、南村、牧野両コーチにバンサイド攻略法をきいた。南村「いままではバンサイドに対して苦手意識をもちすぎていた。吉田勝がこんなことをいっていた。バンサイドと思うからいけないんだ。バンサイドの顔を、うちの連中が打った中日の中山、近藤の顔におきかえて、バンサイドだ、という意識をなくすことだと。ボクはなるほどと思った。これがバンサイド攻略のカギだな」牧野「バンサイドは打者の心理を読むのがうまい。打つと思えばスローカーブでかわす。だから外角直球がねらい目だ」だが、試合は八回までにヒットはわずか3本。一回、広岡の安打を足場にした一死一、二塁は長島が三ゴロ併殺。長島の打ち気を読みとった0-1後の内角カーブ。それだけに吉田勝の七回の遊撃右を抜いた安打はバンサイドの読みより、彼のいう顔のおきかえが誘った一番。しかし、ここでぜひ考えてみたいのが、広岡の好打である。このカード五回戦に巨人は、バンサイドに5安打散発のシャット・アウト負けを喫したが、その5安打のうち2本を打ったのが広岡だった。その実績をかって、この日二番に起用したベンチの読みも、結果的に勝利につながったが、それよりバンサイドに2試合で7打数4安打した広岡の読みが大きい。「一回の右前安打はシュート、九回の同点左翼線二塁打は内角へはいるカーブ。とにかくバンサイドを打つには、低めをねらうべきだ。それとモーションが普通の投手より二呼吸おくれる。そのベースを読んでかからなくては・・・」という広岡。「タマの投げ方は打者次第である。打者の構え、心理を読みとって、一番いいと思う投法を私は常に用いた」と米大リーグの大投手サイ・ヤングがいっているが、バンサイドもそのピッチングの読みを実行した。しかし、その読みにうちかったのが、この日の広岡のバッティングの読みだったのである。
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三富恒雄

2017-10-22 15:13:57 | 日記
1983年

加藤はロク膜炎、血行障害と二つの危機を乗り切ったが、三富は、それを上まわる三つの危機に襲われながら、すべて克服したのである。初めが戦前の頭部へのデッドボール。次が戦後の左腕骨折。そして三番目がロク膜炎。実をいえば、三富は、第四の危機があった。それには、このわが輩がからんでいる。27年のことだったが、所は後楽園。一塁走者の三富は二塁へ歩くようにしてフラフラとやってきた。間違いなく併殺、と観念しておったのでしょうな。滑る気配もない。ウカツにもわが輩、三富が投手であることをすっかり忘れていた。だから、いつもの顔は三塁、ボールは一塁の猛牛スロー。なんとこれが三富の顔面を直撃してしまったのだ。ワシャ心の腕が止まりしたぞなもし。ブッ倒れた三富の前で土下座して「すまん!」と謝った。謝ったって、もう遅いのですが、この時のわが輩、こうするより仕方なかったのだ。それほどショックだった。その三富が何日かあと、ホッペタに絆創膏を張ってニコニコ顔でわが輩の前に現れた時は、本当に救われた思いがした。不幸中の幸い。わが輩の送球は急所をはずれ、ホホ骨の打撲だけで済んだのだ。これがコメカミややや鼻の上だったら、とんでもないことになっていただろう。いま思いだしてもゾッとするシーンだ。こんな三富だから、少々のことでは驚かない。当時としては非常に珍しい左のサイドスローからのシンカーを有効に使って、満員の巨人戦でも度胸満点のピッチング。川上や与那嶺に「三富はどうも好かん」とブツブツいわせたものだ。当時の三富を一番よく知っているのは杉下茂。杉下によれば、まったくタイプの違う2人は「助けられたり、助けたりでいいコンビでしたよ」ともに24年に中日にやってきた。いわば同級生。杉下の豪球と三富のシンカーの組み合わせは、たしかに相手打者には厄介なシロモノでした。24年といえば、坪内、西沢が中日に戻ってきた年、29年初優勝の布石がこの年にでき上がったのである。戦前派の三富が29年を最後に引退したのは、宿願を達成、もう思い残すことはない、と考えたからでしょう。戦前派ー。それはまったく戦前の人そのものだった。戦後初めて中日で「18番」をつけたのが三富、中日は、16年まで(当時は名古屋軍)18番をつけていた村松幸雄投手が、特攻隊員として散華して以後、18番は欠番扱いとなっていた。そのエースナンバーが三富のものに。感激した三富は村松の故郷である掛川まで行き、墓前で「村松先輩、この番号をありがたく戴きます。先輩の名を決して汚すようなことはいたしません」と誓った。こういうことはおそらく、いまの若い選手には理解不可能だろう。だが、戦前の職業野球の選手とは、こういうものだった。三富は25年に16番をもらうのだが、それまでは21番。これは奇しくも、加藤の背番号と同じ。そういえば、加藤の前に21番をつけていた現日本ハムの高橋一も腰痛と闘いながら頑張っている。21番は耐える男背番号らしい。
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バンサイド

2017-10-22 09:59:35 | 日記
1964年

阪神の対巨人戦用投手として採用されたバンサイド投手を初めて見たのは、去る二月二十八日西京極球場で阪神対阪急のオープン戦の日だった。一見してこれが大リーガーかと思えるほどの弱弱しさを感じたが、ハーフスピードで投げる球には何か秘められたものがあると直感した。球は素直でない。投球練習でも、ただワインドアップからばかりで投げない。セット・ポジションをとり、打者を想定してのピッチング。さすが考えていると感心もした。軽い投球練習でも考えての投球に徹していると見た。バンサイドの投球練習をみていた阪急西本監督にバンサイドをどう思うかと聞くと「ひよわい感じだが、やはりただのネズミじゃあない。考えて投げる投手だ。いいですよ」といっていたのが思い出される。バンサイド投手のフォームは決してきれいなものではない。昨年のワールドシリーズで快投したドジャースのコーファックス投手のような華麗さはない。左腕と上体はスムーズにいっていないし、投球のリズムというものからはやや外れているようにも見える。そのバンサイドが対巨人第一戦に登場したのでバックネット裏の第二列で彼の投球を注目した。バンサイドは1㍍90近い長身、長い左腕からの投球は打者にとっては間近に感じたろう。一回は彼もやや堅くなり、併殺でピンチを切抜けてからの彼は彼の持味を十分生かしたが、もう少し、スピード(直球)があればとも思われた。昨年前半オリオールズ、後半セネタースに移って0勝2敗、大リーグ生活で百九十六試合に出て19勝36敗の成績だが、おそらく彼は大リーグでも技巧派投手であったろう。速球があればおそらく大リーグ生活をまだつづけていたろう。しかし日本の球界には彼の変化球はまだ十分通用すると見た。やや上体よりも常に半コマおくれて出て来るような長い左腕から低目に球を集めようと努力していた。彼のよさは柔軟な上体と強いリストをうまく活用し、重心を低く持って来るように注意していたように思う。カーブも大きいのと小さいもの。これにスライダーをうまくミックスしていた。王はこの二種類のカーブを外角に落とされて打てなかった。試合後「自分は引張ることばかり頭にあって裏目と出てしまった」と頭をかいていた。内角に落ちる球もよく、時折りナックルも投げた。四球ほどわからぬ球があった。このうち三球は打者は見送っていたが、代打藤尾の三振の球は手先に来てボール圏外に云ったかに見えた時、藤尾は空振り。そのはずみでバットを投げ出してしまった。隣で見ていた巨人の内堀氏(もと巨人捕手現スカウト)も頭をひねって「一体あの球種は何だろう」と不思議顔。実はそれがスクリューボールだった。とにかくバンサイドは低目に変化球を集めようとしていたし、低目の変化で勝負する投手と見た。打者の攻め方も日本の投手とちがうように思う。対巨人戦用といわれるバンサイドではあるが、好調時のバンサイドにはセ・リーグの好打者も手を焼くのではないか。今後の彼の健闘を注目したい。
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荒砂任司

2017-10-22 09:38:05 | 日記
1956年

投手 19 荒砂任司

昨秋、西宮球場に於いて、鐘紡渡米壮行試合で好投、西村監督の目にとまって、阪急入りとなった選手である。シュートボールに特徴がある。

京都水産高ー福知山鉄道ー阪急
五尺八寸 十七貫五百 二十才
右投右打 京都府 合宿
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ニューカム

2017-10-21 23:47:49 | 日記
1956年

私は今度ナショナル・リーグの最優秀投手でしかも「最優秀選手」に選ばれたドジャースのエースのドン・ニューカムに大きな期待を持っていた。彼は試合前の投球練習を正確に15分間行った。美しいリズミカルな投球フォームからくり出す速直球とブレーキの鋭いカーブを投げていた。6尺4寸の彼の投法は文字通り堂々たるものである。しかし、練習中から少しコントロールが悪いように見えた。試合となってから与那嶺四球後、豊田が第一球を右翼スタンドに本塁打し、つづく中西、川上、山内と連続安打を放ち、無死でKOされてしまった。おそらくワールド・シリーズにおける不調で自信を失ったことが未だに回復しないためであると思うが、それにしても不思議に思われることは彼が一つもカーブを投げなかったことである。かわった新人投手のローバックはその後よく押えたが、五回に中西に2点ホーマーされた。ローバックはよいカーブを多投していた。ニューカムの不調があったとはいえ、日本の打者は実によく打った。とくにパ側の打者たちが快打していた。ドジャースの打者は島原のカーブに押えられ、四回にようやく1点を返したが、代わった大崎、三浦も打てなかった。この試合はまったく、主客転倒の感があったが、ドジャースの不調もさることながら日本の選手が攻守ともに立派な健闘をしたことは絶賛されてよいと思う。これは漫然の結果ではなく、近年日本の球技が異常の向上進歩をとげたことを証明するものであると思う。

オルストン監督「この日のゲームでは日本の投手の方がニューカムよりはるかに出来がよかった。ニューカムはワールド・シリーズ以来まったく不調で、この日見たところでは今までのフォームとちがい、わたしの判断では肩を痛めたのではないかと思う。本塁打を打った豊田、中西の二人とも力があるし、いいバッターだった。日本の投手の目だったところはカーブのコントロールがきわめていいことだった。キップはナックルやチェンジ・オブ・ペースでよく投げたがわたしは彼を今春のキャンプとハワイで見ただけで、この日でなんと三度目だ。これからもどんどん投げさせてよく観察する」

豊田選手「一回の本塁打は真中の速球でやや遅れ気味だったのではないかしら」

中西選手「「ローバックから奪った本塁打は真中高めの球だった。2ストライクだから山をはって待っていた。ニューカムはブルペンではものすごく速かったがプレートに立つと特別速いとは思えなかった。球筋がきれいなんだ」

川上選手「ニューカムはカーブをあまり投げずシュートと速球を主に投げていた。日本の投手よりやや速いという程度だがスピードを苦にしないであれだけ打ったのはこちらの力が毎年大リーガーの来日によって向上しているからだろう。ニューカムの腰を引いた異様なフォームは右の打者にはやや脅威だったらしいが、わたしは左なので平気だった」
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武内和男

2017-10-21 22:23:36 | 日記
1958年

37 武内和男

投手 左投左打 5.75尺、18.5貫 26才 愛媛県 音楽
松山南高ー大映ー近鉄(33年) 合宿

左投手特有のシュートとカーブには見るべき球威を持っているが、体力がなくまだ実績がない。
第一線にはまだ鍛えなければならない。
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大津守

2017-10-21 21:54:30 | 日記
1955年

西鉄大津は大きく割れるカーブと切れのよいシュート、それに低めをえぐる快速球をビシビシときめ近鉄打線を寄せつけず二塁を踏ませたのはただ一度だけという快投をみせ、ついに無安打、無得点試合を完成した。この夜大洋の投球数は百十一、与えた四球四、奪った三振八、内野飛球四、外飛六、内野ゴロ七、犠打一という完全なものだった。大津の好投に応えた西鉄は三回仰木の左飛が電光二塁打となって先取点をあげ四回には大下の簡単な一ゴロをあとにそらした武智の凡失から中谷が左翼線を破ってなんなく追加点を加え、七階には豊田の走者一掃の二塁打と中西の久々にみせた左翼場外への大ホーマーで試合を決定づけた。

大津投手「今夜はシュートと直球、それにカーブをおりこんで近鉄のタイミングをはずしたのがよかったようだ。五回ぐらいから無安打ということを意識してボールが多くなったが、たしかに今夜は調子もよく、ついていた」

1958年

西鉄は最終回一死二塁で一打同点の好機をつかんだが冷静な大津に後続を断たれてついにシャット・アウトされた。安打、残塁とも3という文句なしの完敗ぶりだった。これより前五回加藤の左翼本塁打に近鉄が1点を先行するとその裏西鉄は河野がすかさず遊撃右を抜く安打をしたがつづく仰木との間に行ったヒット・エンド・ランは仰木の一撃が鋭い当たりの遊撃ライナーとなって一瞬のうちに併殺につぶされた。西鉄が反撃に出ようとしたとたんだっただけに仰木の一打は勝負の分かれ目となった。大津はカーブこそよく決まらなかったが丹念にコーナーをつくスライダーとシンカーがすばらしくよく西鉄の強打線をほとんど内野ゴロに終わらせた。その投球にはかなりのスピードがありしかもよく低めにコントロールされたのが好投の因となった。見事なカムバックぶりであった。
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大津守

2017-10-21 20:19:35 | 日記
1958年

近鉄の大津投手は、今シーズン西鉄から近鉄へとトレードされたのだが、その大津投手が四月九日、四月二十日と二回にわたって西鉄を破る殊勲を樹てた。まず四月九日の二回戦は、河村投手と対戦したのだが、大津投手は散発の三安打に封じこの強打チームをゼロ負せしめた。つづく二十日は、四回戦であったが、西村ー島原のリレーでくる西鉄と対して、六安打で1点を失ったのみ、2対1で快勝した。今シーズン西鉄は九勝して三敗(四月二十三日)だが、そのうち二敗が、この大津投手というのだからライオン狩りの大津という異名がつきだしたのも、むべなるかなである。今シーズンの大津投手はキャンプを訪れた記者の報告によると、近鉄の黒馬だった。つまり武智、伊藤、というエース級の投手が、昨年ぐらいに活躍すれば、大津は十勝はするだろう、そうなると相当に波乱を呼ぼうというのだ。大津投手はペナント・レース開始以来、実によく頑張って、まず二勝をあげ、近鉄投手陣の黒馬どころか、主役として活躍をつづけている。大津投手のピッチングは、いわゆるクロスファイアーでもある。三塁側のプレートを踏んで内角一杯のシンカーのような球(小さく落ちる?)一塁側に踏みかえて外角をあざやかによぎるカーブと速球で、打者の打ち気を巧みに誘い込んでいる。西鉄のバッターにとってみれば、大津は、七年間も同じチームにいたので、急に昨年の同僚が矢面に立って投げてくると、気分的に多少は同情的になっていたかも知れぬが、それにしても、球を徹底的に低目に集めて成功したピッチングは天晴れだった。「西鉄時代には二十勝をマークしたこともある好投手なのだから、今シーズンは大いにやってくれるものと期待している」とキャンプで加藤監督がいっていたが、まさかこれほどやるとは本人でも思っていなかったそうだ。それにしても皮肉なのはトレードで、これから大津がどのくらいまで勝星をかさねるか興味深い。
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