1956年
かねて大洋入りが内定していた明大関口一郎投手(21)日大三高、宮沢重雄外野手(18)県立鎌倉高、芝野忠男三塁手(18)の三選手は十八日午後一時から東京丸ビル内六階の大洋漁業会議室で木下代表、迫畑監督立会いのもとに正式契約を行なった。
関口投手は五尺八寸五分、十九貫五百と上背、体力に恵まれたサウスポーで下半身が弱くフォームも未完成ながら上手から投げ下す速球に威力があり、秋山卒業後の主戦投手であった。迫畑監督、秋山土井らの先輩を慕って入団したもの。
宮沢選手は五尺六寸、十八貫と小柄ながら左打ちで並木(阪神)とともにクリーン・アップを組んでいた強打者。
芝野選手は五尺八寸七分、二十貫四百と体力に恵まれた右打ちのスラッガーで鎌倉高の四番を打っていた。
かねて大洋入りが内定していた明大関口一郎投手(21)日大三高、宮沢重雄外野手(18)県立鎌倉高、芝野忠男三塁手(18)の三選手は十八日午後一時から東京丸ビル内六階の大洋漁業会議室で木下代表、迫畑監督立会いのもとに正式契約を行なった。
関口投手は五尺八寸五分、十九貫五百と上背、体力に恵まれたサウスポーで下半身が弱くフォームも未完成ながら上手から投げ下す速球に威力があり、秋山卒業後の主戦投手であった。迫畑監督、秋山土井らの先輩を慕って入団したもの。
宮沢選手は五尺六寸、十八貫と小柄ながら左打ちで並木(阪神)とともにクリーン・アップを組んでいた強打者。
芝野選手は五尺八寸七分、二十貫四百と体力に恵まれた右打ちのスラッガーで鎌倉高の四番を打っていた。