1971年
中日が先のドラフト会議で、二位に指名した地元電電東海の奥田和男投手(20)=右投げ右打ち、1㍍84、80㌔=の入団が二十日決定した。担当の山崎スカウトは同日午後二時、三重県一志郡一志町高野の同選手宅で母親照子さん(44)と本人に会見し、約一時間ののち快諾を得たもので、同選手はすでに会社側の了解を取ってあり、二十一日正式に退社届を提出することになっている。入団発表は二十二日午後四時から名古屋市中区栄の中日ビル内球団事務所で行われる。背番号は38。
話し合いは実になごやかだった。同スカウトがさる十一月三十日に条件提示して以来、決定まで二十日間もかかったというのに、とてもそんなふん囲気ではなかった。遅れた理由について奥田投手は「一生のことだし、じっくり考えさせてもらった」と語ったが、電電東海の伊藤監督は「いい素質は持っているが、いますぐプロ入りするのはどうか。一、二年先でもおそくない」と話していた。母親照子さんは「最後は本人の意思しだいですが、おとなしい子ですのできびしいプロの世界でやれるかどうか心配です」と正直なところ余り乗り気ではなかったようだ。指名されてからというもの奥田投手自身は「プロでやって見たい」という気持ちを固めてはいたものの、まだ二十歳の若さ。こうしたまわりの声に気持ちがグラついたのもムリはない。だが、この日は「いったん中日にはいると決めた以上、どんなにつらくてもがんばり、一日も早く一軍のマウンドを踏めるように努力します」とすがすがしい表情で、口ぶりもキッパリ。性格は非常に明るく、母親照子さんは「私が楽天家なので、子供たちも自然そうなったんでしょうね」と笑う。父親に生後六か月のとき死別したが、兄正さん(23)=新日鉄名古屋勤務=の兄弟は賢夫人照子さんの愛情一つで実にのびのびと成長した。小学校六年のとき、健康優良児の表彰を受けた。小さいころから医者にかかるような病気は一度もしたことがないという。それにいまもってムシ歯が一本もないもの自慢のタネだ。どんなタイプの投手になりたいかーの質問に「真っ向から投げ込む投手。たとえば右なら平松さん(大洋)、左なら江夏さん(阪神)のような…」と目を輝かせた。中日が奥田に目をつけたのは、ここ一、二年の成長度を買ったからだ。山崎スカウトは「すぐ使えるとは思えない。けん制がまずいし、タマがみんな高めに浮く。とにかくまだ課題は多い。でも、このからだとスピードは魅力です。それに社会人として年を追ってよくなっていたし、鍛えたらきっとモノになる」と期待している。一年先輩の堂上投手(1㍍83、83㌔、電電北陸)とは顔なじみで「堂上君には負けたくない、とにかく力いっぱいやります」と早くもライバル意識をむき出しにしていた。
電電東海のエース奥田の入団が決まった。先に入団した藤沢と同様に将来性を買われたものだが、1㍍84の長身はなんといっても魅力がある。右の本格派で、ノンプロ時代のピッチングはどちらかといえばタマが高めに浮き制球力に難があった。これは下半身の不安定からくる長身投手の共通の欠点だが、経験の浅さにも原因している。しかし年々力をつけてきているので、それを買われたと思う。球種もいまのところストレートとカーブの二種類だけだが、なまじいろいろなタマを投げるよりも、これから新しいタマを覚えるにはむしろ都合がいい。それに奥田にとって力強いのは一年先輩に堂上(電電北陸)がいることだ。おそらくライバル意識を燃やすだろうから、いい意味のせり合いはお互いに大きなプラスになるだろう。