プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

東条文博

2023-04-19 15:10:39 | 日記
1983年
「す、すごい選手がいる!!」-ニッサングリーンカップ全国草野球大会鹿児島県大会に、草野球離れした3人のプレーヤーがいた。鹿児島市の「義富建設クラブ」の東條文博さん(38)、中原勇さん(33)、安田泰一さん(33)。この3人のプレーたるや、ものすごい。「これはもうプロ並みの実力だ!」と関係者一同、呆然として彼らのプレーを見ていた。それもそのはず、この3人、実は元プロ野球選手なのである。鹿児島県大会には183チームが参加、4ブロックの予選を勝ち抜いた32チームが県代表をかけて戦った。「義富建設クラブ」と1回戦から相手チームにツケ入るスキを与えず、全くシャットアウト勝ち。決勝は「森永クラブ」と対戦した。投手は安田さん。初回右越えのランニングホームランを打たれたものの、以後はピシャリ。専門は外野手でも草野球では格段の球威で、相手チームのバッターをキリキリ舞いさせた。一塁を守った東條さんも軽快なフィールディングで好プレー、ファインプレーの連続。打っては鋭い打球を連発して、決勝戦勝利(6対1)の原動力となった。「これだけ差があれば、手の打ちようがありません」と相手チーム。ただただ脱帽だった。試合後、さわやかな笑顔で汗をぬぐいながら、東條さんはこう語ってくれました。「プロ野球に在籍した選手はアマチュア規定などあって、公式大会になかなか出場できないんです。ところがグリーンカップは草野球に親しむ人であればOK。いや~、久し振りに真剣勝負のムードを味わえて、本当に楽しかったです。硬式でも軟式でも、とにかくボールを握るのはサイコー!やっぱり野球はいいですネ~!!」同クラブは義富建設の社長、富迫義海さん(44)が仕事上の知人や友人たちに呼びかけて結成したチーム。監督でもある富迫さんは「練習すればもっと強くなるかもしれませんが、草野球の本文はあくまでプレーを楽しむこと」と、これまた最高の笑顔で語ってくれました。

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中西有希人

2023-04-19 10:37:04 | 日記
1995年
「不安よりむしろ楽しみ。早く一緒に練習したい」日本ハムに7位指名された東山高の中西=は込み上げる喜びに顔を紅潮させた。右の本格派。甲子園の経験はないが、昨秋の京都大会で優勝。4強に進んだ今夏は5試合35回で防御率1.28の成績を残した。181㌢、75㌔。「最速139キロ」の直球と落差のあるカーブが武器。スライダーとフォークも持つ。「桑田投手のようにコントロールをよくしたい。まず一軍に」と目標を見据えた。

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河井進

2023-04-19 10:19:43 | 日記
1972年
「若手にはない、いいスイングをしている」と青田監督のオスミを貰ったのが河井進君(23)。打撃テストでスタンドにも数本たたき込むパンチを見せていたが、こちらは172センチ、74キロのチビッコ。チビはチビでも「4年間でホームランは7本。去年の秋のリーグ戦には5割を記録した」というから超大物?こんな選手がドラフトの網からこぼれたのも不思議ではない。河井君は、首都大学リーグの二部とパッとしない城西大。それも五年生。「一年留年して、ことしは出場資格がないので、ベンチでコーチのまねみたいなことを・・・」といっていたが、首脳陣がひと目ぼれで野手でただ一人の合格者となった。

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下島勇

2023-04-19 09:53:41 | 日記
1958年
広島電々の下島勇投手を獲得した。同投手は海田市電機高校出身で六尺、十八貫五百という巨駆の持主。その左腕からの速球には、かなり見るべきものがあり、地元広島では定評のあった投手だとのこと「拝藤を広島カープにさらわれた返礼として、カープの足元からひとり投手をとったのだ」とうのが球団側の話。昭和十三年三月二十三日生というから、まだ十九才の少年投手である。

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豊村健泰

2023-04-19 09:48:33 | 日記
1962年


昨年採用の決まっていた新人が入団した。豊村健泰(18)=浪商二年中退(1㍍83、75キロ)右投右打=がそれだが、森ノ宮球場で行った新人テストで発掘された投手。名門浪商では尾崎と同級だが、野球部に籍を置いたのは一年生のときだけ。二年生になってからは、体格のよさを活かしてラグビー部に所属していた。プロ入門は「どこまでやれるか、力だめしです」というが尾崎に負けないようがんばるとファイト満々。

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飯田雅司

2023-04-19 09:42:55 | 日記
1995年
打っては4安打、初回の相手失策を合わせ5打席すべてに出塁、投げては終盤3イニングをノーヒットに抑えた飯田。打撃面では「甘い球を待って自分のスイングをしただけ」と謙そんしたが、「ピッチングには満点をつけられます」県大会鯖江戦以来の投球を、満面の笑みで振り返った。試合前「4点差がついたら投げさせる」と話していた渡辺監督が、四回4点差となったところで「七回からいくぞ」と告げた。マウンドに上がった飯田はどんどんストレートで押していく。「調子は良かった。最初から飛ばしていくことしか考えてなかった」内野ゴロで二死を取り、締めは三振。「去年の借りを返せた」一年前、同じマウンドに同じ七回から登板。佐久長聖(当時佐久)にダメ押しの3点目を取られたことを飯田は思い出していた。今年は違う。「三年間、一生懸命やってきた。あとは思い切って投げるだけ」八回は微妙な判定の四球が一つあったが、三人を空振りの三振に取り、九回も三人で切って取った。「内藤がカーブで抑えていたから、自分の直球が生きた」噴き出る汗をぬぐいながら内藤のことをたたえた。「(捕手の)嶋村はどんな球でも取ってやると言ってくれたし、投げやすかった。相手もボールを振ってくれたので助かった」ナイスピッチャーの周囲の声に、飯田はチームメートのおかげと言い続けた。しかし、普段ポーカーフェイスの表情にさえ「何よりもうれしかったチームの勝利」に、ピッチングで貢献できた満足感があふれていた。


飯田投手は午前十時半ごろ両親とともに敦賀気比高で、千葉ロッテの伊藤竜彦スカウトと面会した。ロッテは、広岡GMの強い希望で飯田投手を指名したという。伊藤スカウトが「スピードがあるし、カーブのキレもいい。センスがあるので十分プロで活躍できる」と期待の大きさをのぞかせると、飯田投手は「一年目から一軍に上がるつもりで頑張りたい」と力強く抱負を話していた。今月中に条件面の話し合いを持つ予定。


昭和52年5月19日京都市生まれ。小学4年から野球を始め、中学時代には、京都田辺ボーイズのエースとして全国大会を制覇している。卒業後、京都を離れ敦賀気比高に進学。投手、打者、野手として夏の甲子園連続出場に貢献し、今年のベスト4入りの原動力となった。全日本選抜メンバーとしても活躍。まだ荒削りのフォームながら、最高143㌔を出す重い速球は魅力十分。内野守備や打撃でも抜群のセンスを持っている。188㌢、80㌔。右投げ右打ち。


1996年


右の本格派投手。荒削りだが188センチの長身から投げ込む角度のある速球には威力がある。また抜群の身体能力で内野手もこなせるセンスがあり昨夏の甲子園ではショートとしてベスト4に貢献。未知数の可能性を秘めた好素材だ。

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真木将樹

2023-04-16 15:31:10 | 日記
1997年


真木さんは東筑紫学園高時代の1993年、春の選抜大会に主戦として出場。その後も法政大学で投手として活躍した。速球とスライダーが武器の左腕で、同校からは初めてのプロ野球選手となる。


1998年


145㌔を記録した球速は、130㌔台後半に落ちていた。佐々木監督は「肩で息をしてアップアップだったからと、5回降板の理由を説明した。ところが、「疲れてはいなかった。もっと投げたかった」とドラフト1位の新人左腕は、強気の姿勢を崩さない。速球でグイグイ押す一回の投球内容は、言葉と同様強気そのものだった。球威が衰え始めると、落差のあるカーブを有効に使ってボール球を振らせる投球に切り替え、5回を1失点で切り抜けた。


立ち上がりから「腕がよく振れていた」。だから直球が打者の手元でグッと伸びた。法大時代の真木と、慶大の主力打者として対戦した西武・高木大が「あんなに速かったっけ」と驚いたほどだ。軸の直球が伸びれば、変化球も生きる。西武の打者は直球で追い込まれ、スライダーやSFFをひっかけ凡打を繰り返した。27アウト中17アウトが内野ゴロという数字が投球内容を物語る。

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川口知哉

2023-04-16 12:37:08 | 日記
1997年


今夏の甲子園準優勝左腕。140キロ台の速球と落差の大きいカーブ、フォークを操り、強気な投球を見せる。1メートル83、75キロ。

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藤江清志

2023-04-15 15:35:05 | 日記
1953年
関学から南海に投じた藤江君は関西六大学では鳴らした投手だが、昨年八月の全日本大学野球選手権以外には神宮のマウンドを踏む機会がなかったので東京のファンには馴染みの薄い選手である、藤江君のピッチングは廿四五年ごろ五井(現近鉄)大沢(現熊谷組)両君とともに立大の投手陣にあって活躍した実兄藤江重幸君(現富士製鉄室蘭)を思い出してもらえばわかる、実に兄弟ともよく似かよったフォームで、サイド、アンダースローの技巧派投手である。私の見てきた範囲内での藤江君は初対面の打者には成功するが、二度目ではだめだったり、試合前半は好投していても、後半あえなく潰れ去るといった種類の投手のように思われた。それは彼が非常に多種類の球を持っており、しかも配合よろしく投球するので一度は必ず打者を幻惑することが出来ても、あまり多くの球を投げるため、球そのものの威力にとぼしく、ために一たびなれられると全く無力なものとなってしまうからだ、それにもう一つあまり多くの球を投げようと無理をするため知らず知らずのうちに身体に無理をさせ疲労を早めてしまっているのだ。彼は身長こそあれ、ヤセ型でいかにも弱弱しい感じを与える、大投手となるには体力的に大きなハンディキャップを背負っている、彼はこの自分の体をよく知っているからこそ、あのように多種類の球を投げるのだろうが、このようなピッチングにも体力が絶対条件だということを悟っていなかったことが、これまで彼が永続きのしなかった原因だと私は断言する。私はサイドスローからのクセのあるシュート、あるいは沈む球、浮く球と投法、球道、球質の技巧のあらゆる限りをつくして投げ込んで来る藤江君の現在のピッチングをもってしてもここ当分は十分プロの世界で通用すると思う、しかしそれだけでは先にいったとおり一度は成功しても二度、三度するにはきっと失敗してしまう。南海の投手陣をみるとエースの柚木君をはじめ中谷、大神と技巧派型の人が多く、またその人たちが効果をあげているようだが、決して先輩たちに追随する必要はない当分の間はただ一途威力のあるウィニング・ショットを投げ得るよりに努力してもらいたい、そうすることが藤江君の大成への正しい道であろう。

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佐藤公男

2023-04-15 13:01:05 | 日記
1953年


仙鉄に佐藤投手ありと天下の注目を浴びたのは廿六年の全国鉄道野球大会で、巧みなコーナーワークとブレーキの鋭い曲球を駆使して仙鉄を優勝に導くとともに、自らは最優秀選手に選ばれて以来である。宮城県の白石高出身であるが高校時代の戦績にはさして見るべきものもなく、最終学年の廿五年の高校大会の如きは県予選一回戦で敗退しているくらいだった、廿六年四月に仙鉄就職以来長足の進歩を示し六月に行われた都市対抗予選ではたちまちにして県代表となり東北大会に出場、まず一回戦は秋田旭友を、準決勝では釜石製鉄を破って決勝戦に臨んだが、ついに福島日東紡のために三日間の連投のすえ刀折れ矢つきて涙をのんだ。国鉄大会はそれから間もなく名古屋市八事球場に展開され、一回戦は不戦勝、二回戦は秋田鉄道で8-0のシャットアウト勝ち、次ぎは準決勝で志免と対戦3-1を以ってこれをほおり、決勝戦は四国の三門投手とわたりあい、3-0で全国制覇をなし遂げたわけである、全三試合を通じ連日完投し、いささかの疲労をも見せず奪った三振は対秋田で七対志免で六、対四国で六と計十九を数え与えた安打はわずか一、三、三の計七本に過ぎなかった最高殊勲選手になったのも当然であろう、これが彼の球歴における戦果の最大のものであった。それが二年目を迎えた廿七年は佐藤遊撃手(国鉄へ)を失ったのをはじめ、バックが極度に弱体化し彼の手腕も存分に発揮されず成績もあまりパッとしなかった、ことに新潟で行われた国鉄大会は関東代表の高崎鉄道に完膚なきまでに打ちのめされ、計十七本の安打を被っている。秋の産別大会では対いすゞ戦に先発投手として登板しているが早くも三回で交代している、これは彼にとって試練の年であったともいえよう、これによって彼が発奮し、健投するときこそ真の大投手となり得るときである。前述のように一昨年の好投時は実にコントロールもよく特にアウトコーナーぎりぎりの低目に入る球にノビがあって効を奏していた。もっとも彼のウィニング・ショットは鋭いアウト・ドロップであるがこの球をより効果あるものにしたのは実にいいシュート・ボールがあったからこそだ。昨年は不思議に打たれたと自身述懐しているようだがこれは前年ほど得意のノビのある球がなかったからである、投手の球にノビがなかったらあたかもフリー・バッティングの球に等しい、なぜ打たれたか、自らもその原因の発見に努めることももち論だが、こんなときこそ良き指導者がほしいものである。比較的やわらかい良いフォームであるが、ただ投球の際に腕をあまりにも後ろに引きすぎるため、腰の回転が乗らずとかく体重が後ろに残り、球の手離れが早くなるきらいがある、言葉をかえてこれを表現すれば、投手としてのモーションが非常に大きく、体の重心がかからない。指導者にこと欠かぬプロ野球で大いに基本的に訓練し出直す覚悟で精進することが大切である幸い猛烈な闘争心に富むと聞くが、ああmりファイトを燃やしすぎてムキになることのないよう闘志満々のなかにも、内に冷静さをもつことが投手として特に必要であることを心すべきである。

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山田貴志

2023-04-14 21:19:23 | 日記
1996年
中日の5位指名に、「地元の球団に認められ、うれしい」と喜ぶのは東北福祉大のエース山田貴志投手(22)=本庄中、東邦高出=。183㌢、80㌔、右投げ・右打ち。一年生からベンチ入りし、仙台六大学リーグでは春、秋を合わせ、防御率1.51と素晴らしい成績を残した。MAX145㌔の直球とスライダー、カーブが武器。「ドラゴンズの門倉(健)先輩=東北福祉大出=を目標に頑張ってきた。同じ道をたどれて光栄です」と話した。

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馬渕隆雄

2023-04-14 21:14:04 | 日記
1996年
「最近の試合にはスカウトの方も来られず、プロはあきらめていた。突然のことで驚いています」と緊張気味なのは、西武から5位で指名された同朋大のエース馬渕隆雄(22)=美濃加茂高出=。180㌢、72㌔。右投げ・右打ち。140㌔台の直球を武器に、大学に入ってから覚えたフォークを織り交ぜ、三振が取れる投手に成長。同大の9シーズンぶりの一部昇格の原動力となった。社会人への内定を取り付けていたが、「本人の意思を尊重したい」と戸田大介同大監督。また高校時代の恩師・片島一廣元監督は、「野手から投手にコンバートしたのは高校三年春。投手のキャリアはなかったが運動能力は抜群だった」と振り返った。

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安原達佳

2023-04-09 10:58:31 | 日記
1954年
巨人(ジュニア・ジャイアンツ)すでに松田、大友、笠原と優秀投手を一軍へ送り出したが、この三人に続くものとして、最も期待されるのは安原(倉敷工)だ。五尺九寸、十九貫の巨体から投げ下ろす剛球に中国筋の各打者を恐れさせていた。腰のバネが強く直球はよくのびるが、高めに浮くことのあるのは欠点。ドロップも鋭い。


1958年


安原はスピードもあり、内外角低めにシュートとスライダーがよくコントロールされ、五回まで2安打、無四球と中山に劣らぬ好投ぶりだった。


中山は速直球とブレーキのよいカーブで、安原は速い低めのカーブで打者を苦しめた。

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安原政俊

2023-04-07 14:30:14 | 日記
1998年


エース安原は長身から140㌔の直球とカーブを投げおろす。


安原投手は、スリークォーターぎみに投げ込む百四十キロ台の直球と大きく切れるスライダーが武器。今夏の東千葉大会では同校のベスト4進出の原動力となった。

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宇高伸次

2023-04-07 14:25:21 | 日記
1998年


右横手からの140㌔の直球に加え、スライダー、シンカーの切れも抜群。関西学生で通算20勝。175センチ、72キロ。

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