唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

鬼の来訪

2006-07-06 19:29:02 | Weblog
盧杞は宰相懐慎の孫、忠臣奕の子。
すこぶる有能であり将来の宰相と目されていた。

建中年間のある日、杞は郭子儀を見舞った。

「杞が来る、準備はできておるか」

「はっ、殿様。料理も舞姫達も・・・」

「馬鹿な!!、女はすべて去らせよ、一人とて出してはならぬ」

「杞様は、女嫌いなのですか」

「もしあの顔をみて、女達が笑ったらどうする」と子儀

「奴は恐ろしく執念深く、誇り高い」
「恥をかかされたと思ったら、何年かかっても我家に仇をなすだろう」

杞の容貌は青鬼のようであり、服装はだらしないので有名であった。

子儀はただ独り、杞の来訪を受けた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

攻めるに攻められぬ

2006-07-06 15:13:10 | Weblog
葛従周は唐末の朱全忠下の勇将であり、えん州節度使と刑州節度使を
兼任していた。

従周は焦っていた。
「遅すぎる、もっと急げ」
本拠地えん州が劉鄂によって奪い取られて三ケ月になる。
刑州で河東節度使李克用の軍と対峙していた留守をまんまとやられてしまったのだ。

「よりによって俺の本拠地だけが陥落するとは」
全忠配下の中で最強とよばれた従周の城だけが・・・

やっと対峙を終わって、軍を戻すことになったのだ。
えん州にいる従周や将兵の留守家族はどうなってるいのだろうか。

州城が見えてきた。
陣営を整えるのも早々に、火が出るように攻め立てた。
しかし簡単には攻め落とせない。

戦闘が中断すると、城壁の上に人影がでてきた。
こちらに向かってなにか呼びかけている。
「従周殿とお見受けする、劉鄂でござる」

従周も陣頭にでて拝礼した。

「主命によりこの城を落としましたが、貴公になにも怨みはござらぬ」
「貴公や部下の方々のご家族は傷つけることなく大切に保護しております」と鄂

みると鄂の側には従周の母を初めとして、部下の家族が並びこちらに手を振っている。みんな元気そうである。

従周達は顔を見合わせた。

「困ったな、家族が傷つくのでは無理な攻撃はできんな」
「鄂も悪い奴ではなさそうだし・・・」
攻撃は急に勢いがなくなってしまった。

結局、えん州が開城するのは、鄂の主君王師範の降伏によるまで半年かかることになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裸の節度使

2006-07-05 18:31:12 | Weblog
「定州で軍乱が発生しました」
「乱兵は節度使の渾鎬様を捕らえています」
「徹底的に掠奪され、鎬様も家人も裸で放り出されているそうでございます」

易州刺史の陳楚の元に次々と知らせが入った。

「苦労知らずの若様だからな」と楚

鎬は建中の名将咸(かん)の子、人柄はよいとはいえ、たいした功績もなく節度使となった。しかも今度の王承宗討伐では、伏兵にあって大敗し、軍の半ばを失っていた。

「兵をいたわるこころがあればな」
「そのようなものは苦労知らずのあの方には・・」
「そろそろ楚様にご下命がおりましょう」
「この寒風の中、裸とは気の毒なことだ」と楚はくすくすと笑った。
「ほとほどにしろと兵達にも・・・」

長く易定節度使であった張一族の縁戚にあたる楚であった。

「節度使として乱を鎮めよという命令が下りました」

楚は定州城に馳せ入り、乱はたちまちに収まっていった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

罪名を問う

2006-07-05 18:28:24 | Weblog
甘露の変で宦官仇士良達は、宰相五人をすべて殺害した。その後も禁軍を出動させ
専権を極め、新任の宰相李石らは制することができなかった。

開成元年三月昭義軍節度使劉従諫は使者を送り問うた

「甘露の変に李訓等は責任があると聞いております。しかし王涯ら三相に罪ありとは聞いておりません」
「涯らの罪名をお伺いしたい」

士良ら宦官達は日頃の威勢はどこへやら、まずいことになったと顔を見合わせていた。

「従諫は近隣の諸鎮とともに入朝してお伺いするつもりです」と使者

返答を翌日に延ばして重臣会議がおこなわれた。

「従諫は本気のようだ」と士良
「禁軍が京師を横行しているような状態が続いています。これでは外鎮につけこまれましよう」と石
「禁軍は引き上げさせよう」
「もう残党狩りはやめる」と士良
「政事も宰相府にもどるということですね」と石が念を押した

士良は憎々しげに石をにらんだがなにも言わなかった。

翌日、従諫の問には返答がなく、位階が進められるとの詔勅がくだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立場の逆転

2006-07-04 14:13:07 | Weblog
「なぜだ?、なぜこんなことになる!」
襄州防禦使裴茂は喚いた。

目の前に旧上司の來填(らいてん)の軍が迫っている。

茂は宦官李輔国と組んで、填を体よく淮西節度使として追い出した。
淮西は広いけれども戦乱で荒れ果てている。
肥沃な山東は自分のものになるはずだった。

ところが填は戻ってきたし、しかもいつのまにか山東節度使に復帰している。
そして茂は反逆者扱いになっていた。

茂の兵達は填の元部下なので動揺して、敵に走ろうとしている。

前皇帝が崩じて、新帝が即位されたことによって簡単に敵と味方が入れ替わってしまった。宦官どもの勢力も逆転したらしい

みるみる軍が崩れていく・・・

茂は捕らえられ、事情を訴えることもできず誅殺された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忠臣孫徳昭

2006-07-04 13:44:18 | Weblog
「くそ! おもしろくもねえ」
「宦官どもが正統な帝を幽閉するなんて許せるのか!!」
場末の飲み屋で神策軍将の孫徳昭が今夜も喚いていた。

時は光化の末、唐もすっかり衰えて京師付近にしか勢力が及ばない

それでも昔の余光のおかげで地方の節度使からの献納はまだまだ馬鹿にならない
政府が混乱しているのに乗じて、徳昭も甘い汁をすこしは吸ってきた。

「多少の余得がないと、こんな兵隊家業なんてバカバカしくてやってられねえ」
もともとは地方からの出稼ぎである徳昭には禁軍の將の誇りなどはあまりない

ところが先頃、宦官劉季述達が昭宗皇帝を幽閉し、太子を立てて政権を握ってしまった。

それだけなら、徳昭達にはどういうこともないのだが
一味の王仲先は規律を締め、徳昭達が勝手に官物を流用できなくしてしまった。

急に忠誠心を起こした徳昭、今日も酔っぱらってわめいていた。

「その気持ちは本当ですか?」

急に暗いところにいた小男から声がかかった
ギクッとした徳昭がみると、小男は宰相崔胤の家臣石晉であった。

「もしその気持ちが本当なら、お話があるのですが」

崔胤は宣武節度使朱全忠と結ぶ反宦官派の有力者であったが、今回の変で失脚していた。

「ああ、俺には二心はない、なにをしたらよいかわからんだけだ」と徳昭は言い切った。

崔胤の指示を受けた徳昭達が、劉季述達を斬り帝を復位させたのは、一月後の寒い朝だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白紙の手紙

2006-07-03 18:59:38 | Weblog
大暦年間、宰相元載の威権はすさまじいものであった。

陸某は載の家に長く仕えていた、実直ではあったが才学がまったくなく
載も位階は与えても実職につけてやることはなかった。

ある日、某は載の子伯和に頼み込んだ。
「ぼっちゃま、私も長くお家に仕えていましたが、歳も歳ですし故郷に帰りたくなりました」
「それは残念だな」と伯和
「長い間の京師ぐらしで、すっかり家産をなくしてしまいました。故郷付近の地方官に任じていただくよう、なんとかお父上にお願いしてもらえませんでしょうか」

宰相の父より傲慢といわれている伯和も、幼少の頃より家にいる某の願いは無視できませんでした。
「某を県令にしてやってはいかがでしょうか」
「某か、某ではやっていけまい」と載
「引退するにも財産が必要ですし」と伯和

その話があってから数日後、某は載に呼び出された。
「この手紙をもって幽州節度使へ言ってくれ」
「は、どのような用向きで」
「なにも聞くな、非常に重要な事だ、手紙を渡せばよい」と載

某は分厚い手紙をもって幽州へ赴いた。

宿屋に落ち着き、明日は節度府へ行く夜だった
某はにわかに心配になってきた
「用向きはなんだと問われてもなにも答えられない」
なんとか内容の一端でもしろうと、手紙の厳封をとき開いていった。

ところが出てくるのは白紙ばかりだった。
ただ末尾に載の自筆で署名がしてあった。
某は真っ青になった。
「こんな手紙をもっていったらどんなことになるんだ」
「馬鹿にするなといって殺されるかも」
といって無能な某には策がわいてこなかった。

翌朝、怯えながらも節度府に趣き、掌書記の劉に手紙を渡した。
宰相からの使者とあって、丁重な待遇を受けながらも某は落ち着けなかった。

「これはどういうことだ」
劉も手紙を開いてみて呆然としていた。
あわてて節度使の朱の所に行き報告したが、朱も首をひねるばかりだった。

「もしかしたら、あの事がばれたのでしょうか」と劉
「すべてわかっているぞという脅しか」と朱
「あれなら手紙にかけるような内容ではありませんしな」と劉
「署名は間違いないのか」と朱
「はい、宰相の手跡なのは確かめてあります」
「どうする、まずいぞこれは・・・」
「贈り物をしてみのがしてもらうしかありませんな」と劉
「これは相当出さねばならんな・・・」と朱

某は丁重な饗応を受けたあと、載宛に数十駄の贈り物をもらって帰途についた。
もちろん使者の某にも莫大な物が贈られていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

譲馬の功

2006-07-03 18:09:13 | Weblog
安禄山との潼関の戦いで皇帝軍が敗北し、將王思禮は乗馬を失い危地に陥った。その時騎兵の一人が自分の馬を提供し逃れることができたが、兵の名前を知ることはできなかった。

その後思禮は軍功を重ね河東節度使[山西省付近]に昇進した。

当時、部下となる代州刺史辛雲京は、思禮に疑われており、申し開きをするすべがなく苦慮を重ねていた。

「節度使は私を疑っている、会ってもくれない」と雲京
「私が思禮様の所に言って申し開きをしましょう」と將張光晟
「なにか伝手があるのか」と雲京
「大丈夫です。必ず話を聞いてくれます」と光晟

そして光晟は太原府の思禮のもとに出頭した
「あのときの兵ではないか、なぜ今まで名乗りでてくれなかったのか」と思禮は身分の差をかえりみず、手をとって喜び
「あのとき馬を譲ってくれなければ、現在の私はないのだ。なんでも願いをかなえよう」と兄弟の盟を結んだ。

光晟のとりなしで雲京の事も了解しすべては無事に収まることとなった。

後、雲京は河東節度使となり、光晟も代州刺史となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕固懐恩の涙

2006-07-02 11:37:44 | Weblog
僕固懐恩は、蛮族である鉄勒の酋長の末であり朔方軍の將として勇名をとどろかせてきた。

安史の乱には郭子儀に従い功績が多く、郭子儀が宦官に疑われて排斥されると、代わりとして副元帥となり援軍のウイグルとともに史朝義を討滅した。

しかし乱の終了とともにやはり宦官から猜疑され反乱に追い込まれてしまった。
懐恩は慰留に来た宰相裴遵慶に泣いて訴えた。

「この戦いで一門を46人もを戦死させてしまいました。しかも敗走してきた我が子を軍律のため自ら斬りました。援軍を得るために娘をウイグルにさしだし、苦しい戦いを重ねること数年、やっと乱を鎮めたのに、功を賞せられることなく、かえって叛逆者扱いをされるのはなぜですか、私が蛮族だからそのような扱いをうけるのですか」

遵慶はひたすらなぐさめ入朝をすすめたが、納得させるような方策を示すことができなかった。

しかし結局、反乱者とみなされることになり憤然として北辺に去った。

翌永泰元年に懐恩は吐蕃・ウイグルなど蛮族二十万を率い来寇したが途次に病死した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

威嚇と贈賄

2006-07-02 08:36:04 | Weblog
大暦3年幽州盧龍軍節度使[現在の北京付近]李懐仙は横暴であったため、部下の朱希彩らに殺された。
懐仙はもともと反将史朝義の部下であったが、最後に裏切って降り幽州を与えられていた。

朝廷は幽州を回復しようとして宰相王縉を節度使に任命した。

しかし縉が赴任すると、希彩らは途中の道に大軍を配置し威嚇させた。
文官の縉はただ恐懼して狼狽していたが、逃げ帰ることだけはさけなんとか幽州に入城した。

やがて諸将の謁見がおこなわれ、希彩らは極めて恭謙な態度で、多量の金帛を献上した。

縉はこれが潮時と感じて、数日後に希彩を留後[節度使代理]に任命し、献上物をさらえて立ち去った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

李忠臣の諫言

2006-07-01 21:05:50 | Weblog
湖南観察使辛京杲の横領事件は悪質でしかも規模の大きいものであった。
皇帝は激怒し死刑にする決意を固めていた。

ある朝、武将仲間で宰相の李忠臣が特に拝謁を求めてきた。

皇帝は忠臣が京杲の父と親しかったことを知っているので、さては命乞いにきたなと察し「いかに宰相の願いでも許せるものではない」と身構えて待っていた。

忠臣はいかにも武臣らしく訥々と挨拶をはじめいくらたっても京杲の事など持ち出す様子はなかった。
皇帝のほうがじれて「京杲は許し難い」と先制した。

忠臣は「京杲は当然死刑です。早く刑を執行すべきでしょう」と言い放った。
これには皇帝は二の句が継げなかった。

さらに忠臣は「京杲の父は安史の乱に国に忠誠をつくしました。兄弟達も国事に死にました。名誉ある辛家の中ではあいつだけが生き残り、いまも恥をさらしています。はやく奴を処刑して辛家を絶やしてしまうべきです」

皇帝は黙然とし、やがて言った「京杲は殺さず、左遷することにしよう」。

それを聞いて忠臣は深く拝して退出していった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郭子儀と魚朝恩

2006-07-01 20:58:12 | Weblog
大暦年間、外軍を握る郭子儀と、親衛軍を握る宦官の魚朝恩、宰相の元載は互いに牽制しあっていた。

「宦官ずれが信用できるものですか、お行きになるのは・・・」
「少なくとも200騎はお連れください、そして予備として・・・」
 子儀の屋敷では家臣達が口々に諫めていた。

ある時、子儀は朝恩宅を訪問することになった、
載は二者の結託を懼れ、「朝恩が子儀を謀殺しようとしている」という噂を広く流させた。

しかし子儀は「皇帝の命がないのに私を殺そうとするような朝恩ではない」と言い出かけていった。

朝恩はこのような騒動を予期していなかったため、「内乱になるかもしれない、そうなったら・・・」と狼狽してなにも手がつかないほとだった。

「子儀様がおこしになると先触れがありました」

おそるおそる朝恩が門に出迎えると、数人の平服の供をつれただけの子儀が馬上でにこにこと笑っていた。

「悪い噂が流れていましたのでおいでくださるかと・・・」と朝恩
「お互い皇帝陛下を支えるものどうしですからな」と子儀
朝恩は感激し、協力を約した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

崔寧と妾

2006-07-01 10:08:04 | Weblog
大暦年間の剣南西川節度使(現在の四川省西部)崔寧は、もともと反乱して自立した武将だが、弱気の朝廷から追認されたあとは一応忠誠を誓っていた。

大暦3年には入朝していたが、その隙に元の武将仲間の楊子琳が決起して治所である成都府を奪ってしまった。

留守役の弟はなんとか奪回を図るが、子琳は強く、四ケ月たっても成都府を回復できなかった。

それをみていた寧の妾の任氏は「あんたがけちけちしているから、兵士達が本気にならないんだよ、金はこんな時に使うもんだよ」と言い、家財を総ざらえにして強兵を募集し、それを率いて、一気に成都府を回復した。

その後寧は外敵の吐蕃の侵攻を防ぎ、長く西川に君臨することになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郭子儀と墓荒らし

2006-07-01 08:29:41 | Weblog
大暦時代、副元帥郭子儀は京西で大軍を掌握していた。

ある時、子儀の父の墓が曝かれる事件が発生したため、子儀は急遽入京してきた。

世間では仲の悪い宦官の魚朝恩のしわざという噂が流れていたため、皇帝以下諸臣は子儀の怒りを懼れていた。

「もし子儀が、朝恩の罷免を要求したら」
「京師を見捨ててかえってしまったら、誰が吐蕃よりここを守る」
「父親の事だから、あの温厚な子儀様でもただではすまないな」

しかし皇帝に謁見した子儀は
「私は軍隊の掌握が十分にできず。今まで兵達は諸家の墓を暴いてきました。今回の我が家の変事はその報いでしょう」

と言って泣き、墓を収復しただけで戻っていった。

皇帝以下はほっと安堵した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする