唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

酒神

2006-07-14 18:35:47 | Weblog
「今度の観察使は神様のようだ」

「今までのように手を抜けないぞ」

「ただの大酒飲みだと思っていたが」

崔咸が陝かくに赴任してから、観察府は緊張していた。

赴任した当初、毎日日中は幕僚達と酒を飲んでいる。

そのため胥吏(下級官吏)達は、なめてかかって適当に仕事をしていた。

ところが何日かたつと、担当の吏を呼び問題点を適確に指摘し、

懸案の裁判の判決を流れるように下し、間違うことがなかった。

そして終わるとまた酒宴がはじめた。

「いつ書類をみているんだろう」と胥吏達は不思議でならなかった。

宴会が終わった深夜、咸は堆積した書類を省覧し、採決をしていることを知っているのは家族だけだった。

咸の任期中、胥吏達は身を慎み、陝かくはよく治まっていた。
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子孫に美田を残す

2006-07-13 18:56:32 | Weblog
大和二年、宰相韋處厚の所に武寧軍節度使王智興より使がきた。

「自ら全軍をあげて討伐に向かいます。軍糧も当面は自弁いたしますので招討使に任命をお願いいたします」

處厚は信じられなかった。

横海李同捷が反して二年、討伐はいっこうに進まずただ金だけが消えていく状況だった。

魏博の史憲誠や義武などはいつも勝った・勝ったと報告を送ってくるが実際は馴れ合いで戦っているだけだ。

しかも智興といえば、同捷よりもっとたちの悪い反逆者だ。

彼は幽州や成徳が自立したどさくさに、節度使を逐い、周辺を荒らして自立した。
当時の朝廷はやむをえず彼を認めた。

處厚は幕僚達に計ってみた。

「武寧を子供に嗣がせられないと判断したのでしょう」

「牙軍が傲慢で、智興のような有力者でも手を焼いています。ましてや子供には統治できるわけがありません。そこで朝廷に帰順して功績を上げ、子孫繁栄を図っているのでしょう」

「それなら信用できるかもな?」

招討使の命がおりるやいなや、智興は棣州を陥落させた。

膠着していた戦況は一変し、同捷は急速に追いつめられていった。

智興は功績により太傅、忠武軍節度使となり、その子孫はあいついで高位高官にのぼった。
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檄文

2006-07-13 18:33:52 | Weblog
大和二年、賢良方正の試験が行われた。

劉賁の答案を読むにつれて、試験官の馮宿達は戦慄していった。

全文が宦官の横暴と、それによる国策の間違いを指弾した名文であった。

宿をはじめ三人の試験官は時の有名な文士であったが、答案の優秀さと
内容の激烈さにため息しかでてこなかった。

「誰が最優秀なのかはわかりきっている」

「しかし宦官達がこれをみたら・・・・」

「まして合格させたら私達も憎まれるだろう」

当時、王守澄や仇士良達の宦官勢力は非常に強く、皇帝の擁立すらおこなっていた。

「でもこれを不合格にしたら、世間はどういうだろうか」

試験官達は悩みぬいたが、宦官を懼れて不合格とせざるをえなかった。

答案は多くの人に転写され、広く流布した。

賁はその後も官職につけず、節度使の幕僚として終わった。
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羽翼を切る

2006-07-12 20:21:50 | Weblog
「全忠様の援軍は来たか」

「馬嗣勳が千人とともに婚礼道具を運ぶと称して入城しています」

「武器庫の弓のツルは切ったか」

「甲冑のひもも切断して着用できなくしております」

「よし今夜決行だ」

唐の末 天祐三年正月

魏博節度使羅紹威は部曲(直属の兵)を率いて、牙軍(節度使の親衛軍)に襲いかかった。

気にくわない節度使があると乱を起こし殺害、強迫を繰り返してきた牙軍だが
突然の内部からの攻撃に応戦できずバタバタと倒れていく。

「武装しろ、兵器庫へ向かえ」と牙兵

しかしそこには使い物にならない兵具がころがっているだけだった。

「家族も見逃すな」

援軍に来た朱全忠の兵は容赦がなかった。

女幼児を含めて数万の牙軍と家族は皆殺しになっていった。

「紹威様、城内の牙軍は一掃しました」

凶暴な牙軍はいなくなり、紹威の地位が脅かされることはなくなった。

「よし外鎮の兵達には帰順するように布告せよ」

しかし家族を虐殺された外鎮の兵達は反乱を起こし従わなかった。

全忠の強力な支援で鎮定した時、魏博にはまともな戦力は残っていなかった。

「自分で自分の羽翼を切り取ったようなものだ」
と紹威は自嘲しながら、全忠の元へ入朝して行った。
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朱温の迷い

2006-07-12 18:44:51 | Weblog
「降っても受け入れてくれるかな」

「俺の評判は極めて悪いし」と温

「そんな事をいっている場合ですか」
「敵軍はどんどん増えているのに、こちらには援軍はきません」
「側近どもが殿を讒言しているのですよ」
と謝瞳が叫んだ。

援軍を頼むために京師の黄巣のもとに派遣されが、まるで取り合ってもらえなかった怒りで顔が真っ赤である。

官軍に対する最前線の華州城では不穏な空気がただよっていた。

「河中の王重栄から密書がきています」
「都監の楊復光からもです」
「官軍につくなら今です」
部下達はすっかりその気になっている。

「しかしなあ・・・・、俺ではな・・・」

ひとかけらの土地もなく、農奴としてこき使われ
黄巣のもとで流賊となって久しい温には
官に対する反発と警戒心が強い

四月、温はついに決して王重栄に降った。

同華節度使として名前を「全忠」と賜る

後梁の開祖朱全忠、中和年間のできごとである。
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周岌の帰国

2006-07-11 19:52:50 | Weblog
「まさか行かれるのではありますまいね」
「節度使ご招待だ、行かないわけにはいかんだろう」
「いくら節度使とはいえ、いまは黄巣に降った賊です」
「いけば殺されることも考えられます」
「いや周岌の心はわかっているよ」

忠武監軍楊復光の館は緊張に包まれている。

節度使周岌は黄巣の侵攻時に率先して降り、忠武節度使を安堵されている。

しかし唐の監軍たる復光を拘束するのでもなく放置していた。

昨日、急に使いを寄越し招待をかけてきた。

「彼は唐に帰順したいのだ」
「巣の勢力は弱まってきたと思っている」
「岌が立場を変えやすいようにしてやるだけさ」

酒宴が始まった。

復光はさかんに往事の事を語り、岌に昔を思い出させた。

やがて岌は泣き言った
「皇帝のご恩は一日として忘れたことはありません、ただ私一人では賊に対抗できないのです」

復光も泣いて言った
「殿の忠心はよく知っています。状況は変わってきました。今なら殿は本心に立ち戻ることができます」

「帝はお赦しくださるだろうか」と岌

「帝も殿の忠義はご存じです、あとは行動に示すだけです」と復光

そしてこの夜、復光は巣の使者を攻め殺し、既成事実を作ってしまった。
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女装の宦官

2006-07-11 17:52:17 | Weblog
「俺は皇宮以外の世界を知らないんだよ」
「生まれてこのかたの宦官暮らしなんだ」
「皇帝はきっと赦してくださる」

程元振は道々そう思いながら追放されていた故郷の三原より女装して京師へ向かった。

吐蕃の侵攻により京師を陥落させるという失敗はともかく

宰相や将軍達の生殺与奪を握っていた権力者時代の余韻はまだまだ強い。

また皇帝の信任が復活することも考えられる。

彼を匿ってくれるものはたくさんいた。

途中の検問も、宦官である強みを生かして女声で答えて切り抜けた。

もとの仲間である御史大夫王昇は快く迎え入れてくれた。

誤算は出世主義に凝り固まった監察御史どもだった。

「あの元振が勝手に入京しております」
「法を無視するにもほどがあります」
「すみやかに誅殺してしまうべきです」

囂々たる非難があがった。

「なぜもう少し辛抱できないのか」と皇帝は思った。

幼時より親しんできた元振への思いはまだまだ温かい。

しかし公的な立場は崩せない。

皇帝にできる事は死を免じてやることぐらいだった。

元振は遠流されそこで死んだ。
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蕭何・曹参ありとも

2006-07-10 19:41:54 | Weblog
長慶四年三月その報せが入った。

「故山東節度使牛元翼の家族を成徳の王廷湊が皆殺しにしたそうだ」

元翼は元成徳の將、廷湊が反乱を起こし節度使田弘正を殺したときに
朝廷に帰順した。廷湊は元翼が籠城した深州を攻囲していたが、
みずからの節度使公認と引き替えにしぶしぶ脱出をゆるしたのだった。

山東節度使となった元翼は家族の引き渡しを求めたが、廷湊はなかなか
渡そうとせず。元翼が死ぬとこれ幸いとばかり虐殺したのだ。

皇帝はさすがに衝撃を受け、事態を解決できぬ宰相達の無能を嘆いた。

しかし学士韋處厚は言放った
「陛下は宰相の無能を言われますが、いくら蕭何や曹参[前漢の名宰相]など能臣がいても用いることができないようではいけません。裴度は有能ですが、陛下はそれすら登用されないのです」

皇帝は不快そうに沈黙していた。
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潮時

2006-07-10 17:54:50 | Weblog
「潮時ですな!」
「潮時かな?」と武俊

時は興元元年正月、朱の反乱で京師を失った皇帝は大赦を発して、おのれの間違いを謝した。
自立して反乱を起こしていた王武俊も赦されたわけではある。

「これ以上戦っても利益はありませんし」
「ここ数年間の戦乱で成徳六州は荒れ放題です」
「金も米もほとんど残っていません」
武将達も戦いに疲れて厭戦気分である。

李宝臣が死んで以来、三年間の戦乱が魏博・成徳の管区では続く。
武俊もその中で成徳節度使の地位を求めて戦い続けてきた。

「魏博の田も戦いをやめたいでしょう」

「しかし幽州の朱滔が納得しまい」と武俊

「奴の所は戦場になっていませんからな、蛮族を引き込んでこちらの土地を荒らすばかり」

「河東の歩兵や昭義の弓兵と組めば、滔を破ることはむつかしくありません」
「騎兵にはこちらも自信があるしな」

「今なら皇帝はこちらの自立を認めます」
「同じ主君なら遠いほうが良いというではありませんか」と息子の士眞も賛成した。

「潮時だな」と武俊はつぶやいた。
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命を奉じる

2006-07-09 12:44:16 | Weblog
「ならんと言われるのか!!」
河東節度使李載義は怒りに震えていた。

三年前幽州節度使であった載義は、楊志誠の裏切りによって逐われた。

幸い、朝廷に忠義を尽くしていたので山西節度使として拾われ、その後河東へ転任してきた。

今。楊志誠もまた軍乱に逐われて京師へ逃亡して来るという。

載義はその途を襲い怨みをはらそうとしていたのだ。

「志誠、不忠とはいえ朝臣です。法の裁きがなければ殺してはなりません」と使者

「きゃつが俺の家族に加えた陵辱や、部下達の家族を虐殺したことを我慢しろとおっしゃるのか」
「たとえ免官となろうとも、怨みをはらさねば、部下達にあわせる顔があろうか」

とはいいつつもも、載義は助けてくれた朝廷の恩との間で迷っていた。

使者は「勅命をよくお読みください、志誠を殺すことはまかりならんと」と繰り返した。

「志誠を・・・・・」

やがて載義はにっこりして言った。「臣、確かに命を奉じます」

そして部下達に命じた「襲え、だが志誠を殺してはならん」

襲撃され、志誠の家族や部下のほとんどは虐殺された。

ただ数人の部下とともに志誠は京師にたどりついた。

その後志誠は有罪とされ嶺南に流され、途次に殺された。
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藪をつついて

2006-07-09 08:40:10 | Weblog
「横暴な武寧軍の兵士を抑えるには・・・」
「単なる進士出身の者には・・・」

先ほどより帝前では、大府卿崔拱(こう)が滔々と論じていた。

王智興が転じた後、彼がさんざん甘やかせた武寧軍の兵士達は
新任の節度使高禹(う)を追い出したのであった。

禹も他の地域の節度使としては有能なほうであったのだが!

「兵士の集団を扱うときは・・・」まだまだ拱は調子に乗って論じていた。

「三年勤めると大金持ち、五年勤めると孫の代まで」といわれる
実入りの良い嶺南節度使を約束されて気持ちが高ぶっていた。

皇帝はすっかり感心してしまった。
「朕はそなたを武寧軍節度使にすることにした。嶺南は王茂元にでもやらせよう」

拱は愕然としてやりすぎを悟った。

しかし今から引くことはできない。

「承知しました。武寧をしっかり抑えてみせましょう」

そしておのれのおしゃべりを悔いながら退出していった。
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劉總の願い

2006-07-08 14:10:32 | Weblog
今日もたくさんの僧達が読経をつづけ、寺院ともおもいかねない邸宅
僧達に混じって幽州節度使の劉總もまた一心に読経を続けてきた。

夜が来るのが恐ろしい
読経に疲れ果てて眠るわずかな睡眠だけが總の休養だ
毒殺した父、暗殺した兄や弟の亡霊が總を苦しめている。

「朝廷にお願いした件はどうなった」
「殿は天平節度使に御転任です。幽州には張弘様が来られます」
「天平などは不要だ、ただ出家の許可が欲しいのだ」
「殿の功績を考えると一挙に僧というのはと・・・」
「早く僧となって心の安静を得たい、地位や封爵など未練はない」

魏博・成徳が帰順したあと、残った幽州も朝廷の支配下に戻ろうとしていた。
しかし總には朝廷のやり方ではすぐに破綻することは目に見えていた。

幽州も三分して統治すべきたなど数々の献策をおこなってきた。

しかし今は一刻も早く安静が得たい・・・・。

長慶元年四月、義武節度使は奏した
「總は出家し、幽州を出ようとし、義武との境界に於いて亡くなられました」

七月幽州軍乱・八月成徳軍乱・二年正月魏博軍乱、河北三鎮はすべて失われた。
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監軍の嘘

2006-07-08 09:10:47 | Weblog
「ついては李説を解任し、李景略を留後という勅命がくだった」
河東監軍の王定遠(宦官)は壇上で甲高い声をあげていた。

壇下の諸将は不満げにざわめき、お互いに顔をみあわせていた。

説は節度使として有能ではないが、けっして嫌われてはいない。

定遠は説を無視して専権を振るい、軍内の評判は極めて悪い。

先日も逆らった軍人をひそかに殺して馬糞の下に埋めさせていた。

説にそのことを責められてかえって怨み、勝手に解任しようとしていたのだ。

諸将が納得していないのを見て取った定遠はさらにいった。

「おまえ達の昇進の命令もここにたくさん来ている」
そして横においてある書類箱を指さした。

さすがに諸将は関心をもって命を奉じようとした。

その時

定遠の背後にいた大将馬良輔は叫んだ

「こいつは大嘘つきだ、箱の中は古い告示文だぞ」

定遠は自分の嘘がばれたことをしり逃げだした。

そして塔にこもって部下を呼んだが、誰も応じようとはしなかった。

やがて身を投げて自殺しようとしたが死にきれず崖州に流された。
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太子の権限

2006-07-07 19:09:37 | Weblog
貞元の末、徳宗皇帝は老い、人事は停滞し姑息な政策が続いていた。

現状に飽き足らない少壮官僚達は皇太子の周囲に集まり議論を重ねていた。

「特に宮市の件は深刻だ、宦官どもの押し買いに民の不満は大きい」
「殿下、殿下から陛下に申し上げていただけませんか」
「そうだな、強い民の願いだからな」と太子
「よろしくお願い致します、さすがは殿下だ」
と若手官僚達が喜ぶ。

しかし待詔の王叔文だけは沈黙していた。

やがて官僚達は下がっていった。

太子は叔文が黙っているのが気になっていた。

「おまえは反対なのか」

叔文は答えた
「太子の地位は高貴ではありますが、なんの実権もございません」
「即位されるまでは御自重されませ、誰が穴をほるかわからないのです」

太子はハッとした。

「おまえだけが、私のことを考えてくれているのだな」

叔文に対する信任はこれより重くなっていった。
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輔国の首

2006-07-07 17:59:07 | Weblog
肅宗の死後、張皇后が推す趙王を排して代宗を立てた輔国は得意満面だった。

宦官としては前例のない三公の一つ司空や宰相職の中書令となり、代宗から「尚父=父と思う」という称号まで得ていた。

だがいくらおとなしい代宗も

「政事はすべて私がやります。帝はだまって座っていればいいんです」
とまで言われては不快な気持ちを抑えきれなかったが、
禁軍を握っている輔国に逆らずどうにも打つ手がなかった。

「あいつにばかり甘い汁をすわれてはたまらん」
「馬鹿が舞い上がっているぜ」
宦官仲間の程元振らにとっても、輔国の態度は腹に据えかねるものがあった。
「帝も嫌気がさしておられるようだ」
「いっちょうやるか」
と元振達が動き出した。

突然輔国に
「元勲として博陸郡王に進み、禁軍の職と中書令を免ず」の命がくだった。
愕然とした輔国、禁軍はすでに元振が握っていてどうにも動きがとれなかった。

「もう私の功績なんかお忘れでしょう、先帝に死んでお仕えするつもりです」と憤然と別れをいう輔国に、帝は「苦労をかけた、尚父にはゆっくり休んで欲しいというのが朕の願いだ」と白々しく答えた。

数日後、盗賊が輔国の邸宅に侵入しその首を切って去った。

帝は木で首を作らせ葬らせた。

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