そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

「寝ながら学べる構造主義」 内田 樹

2006-12-29 00:53:48 | Books
寝ながら学べる構造主義

文藝春秋

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内田樹氏のブログは、独特の切り口がたいへん興味深いので愛読している。
が、著作を読んだのはこの本が初めてであった。
タイトルが示すとおり、「構造主義」に関する平易な入門書。
内容はわかりやすいし、構造主義がどんなものかイメージは掴めた気になるが、じゃあ自分の言葉で構造主義を説明してみよ、と言われてもなかなか難しい。
でもまあそれでいいのかな、という気もする。
なんたって「寝ながら学」んでもいいんだから。

構造主義の辞書的な定義は以下の通り(大辞泉より)。

《(フランス)structuralisme》人間の社会的、文化的諸事象を可能ならしめている基底的な構造を研究しようとする立場。ソシュール以降の言語学理論を背景に、レビ=ストロースの人類学でこの方法が用いられて以来、哲学や精神分析など、主として人文・社会科学の領域で展開されている。

これだけ読んでもサッパリである。
簡単に言うと、「思い込み」を廃して物事を見ること、その前提として、我々がどのような「思い込み」のもとに世界を認識しているかを認識すること、というふうに解釈した。
客観的になること、相対化すること、価値中立的になること、といったイメージと親和するだろうか。

フーコーによる進歩史観の否定あたりは非常に分かりやすい。
が、レヴィ・ストロースによる「親族の基本構造」仮説、あらゆる親族関係を「社会システム上の『役割演技』」と位置付け、「親族システム」の存在理由を「近親相姦の禁止」に求め、さらに掘り下げて「女の交換」「贈与システム」に辿りつくあたりの論旨には、そのあまりの鮮やかさに驚愕する一方、ここまで割り切ってしまっていいのか、という気もする。

構造主義で語られると非常に頭が良さそうに聞こえる。
内田氏のブログにおける論理展開がとても鮮やかに感じられるのも、これをバックボーンとして持っているからに違いない。
が、一方で、凡人である自分はちょっと不安になってくる。
こんなにも価値中立的になってしまっていいのだろうか?
ここまで世の中を「構造化」できるのであるとすると、人間が持つ「価値観」や「嗜好」はどう位置づけられるのだろうか?

本書の冒頭部分によれば、今我々が生きている時代は「ポスト構造主義の時代」であるとされる。
「ポスト構造主義の時代」とは、構造主義の発想が「自明なもの」になっていまった時代、と著者は解釈しているという。
そして、次のように語る。

本書はそのような構造主義の時代の「終りの始まり」を示す徴候のひとつとみなしていただければよいかと思います。私は別に進んで構造主義の「死期」を早めるためにこの本を書いているわけではありませんが、本書を読み終わったころには、おそらく読者のみなさんは、「システム」とか「差異」とかいうことばにかなりうんざりし始めているでしょう。

まさにそんな感じだ。
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