Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

トルコ旅行ーイスタンブル

2022-07-30 19:29:54 | トルコ旅行

英国人一般のホリデーといえば、どこかの国の海岸線の高級ホテルで、昼は海岸で日向ぼっこ、夜はバーでまたはプールサイドでアルコール漬けがほとんど。

私達にはそれができない。トルコは1989年から1990年代5回も行ったが、89年のホテルホリデー以外はいつもバックパックで安い飛行機を予約して、ホテルは行ってから、ポールが探してきた。

 

1994年の5月から2週間トルコのバス旅行。まずはイスタンブルに到着、長距離バスを利用してトルコの中央部から、西側を旅して廻った。

 

 

イスタンブルでは何といってもこのブルーモスクは見逃がせない。天井の高いモスクの中は土足禁止。窓は素晴らしいトルコ模様のステンドグラス、床は色とりどりのカーペットがひかれている。これこそまさに異国、異文化、ヨーロッパでは決してみられない。回教では人物画は壁にも紙にも描かれない、それが特に神とか始祖モハメッドなら。人物像もしかり、だからモスクの中には写真も絵も銅像一つ立っていない。その中で回教徒はメッカの方向を向いてカーッペットに頭を付けてお祈りする。

 

数年前回教寺院に改宗されたアヤソヒアは、天井近くにキリスト像とマリアが赤ん坊のキリストを抱く

絵が描かれている。今ではこれらの絵がどうなっただろうか?イスタンブルはキリスト教と回教の攻防の長い歴史がある。

 

トルコ特有のタイル。繊細かつカラフルな模様が素晴らしい。

 

 

 

トプカピパレスの宝物展、贅を尽くしたものばかり。 このトプカピパレスにはハーレムがあり、スルタンのコンキュパイン(愛妾)が100人以上も生活していた。そしてこのハーレムで働いて居た男性はすべて宦官だった。

ガイドツアーでこのハーレムを回った時、一緒に回ったグループの英国婦人にコンキュパインって何か?と聞いた時の彼女の困惑ぶり、今思い出してもおかしくなる。

 

 

このイスタンブルの大都市のど真ん中の地下には、6世紀ローマ人によってつくられた地下水道がある。コンスタンチノープルはローマ人のクリスチャンによってつくられた街を、1459年回教徒のスルタンモハメド・ザ・コンクアラーに征服されイスタンブルに改名された。

 

巨大な柱の下には水中に頭が下や横になった人頭が並べられて異様な雰囲気、いったいどんな意味があるのか判らない。その頭の上に巨大な柱が立っている。この水道は1459年回教徒によって発見され、その水はトプカピパレスの庭を潤していたという。

 

 

このイスタンブルのスークは巨大で狭い道路が縦横に走っていて、お土産を買うには最適。ありとあらゆるものがひしめいている。

 

 

 

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トルコ旅行ーカッパドキア(Cappadocia)

2022-07-28 01:46:21 | トルコ旅行

1994年はポールと2人でバックパック、1997年は日本から従姉も参加して3人でバックパックでカッパドキアへ行った。

初めての94年の時は、イスタンブルから直接カッパドキアへ行くには夜行長距離バスしかないと言われて、しぶしぶ夕方のバスに乗った。トルコの男性はほとんどがタバコを吸う。バスの中ではタバコを吸う人は後ろの座席と決まっていたが、やっぱり車の中に煙が回って非常に不愉快だった。

バスは余りリクライニングが効かなくて、眠りづらい。時々お店かタベルナの辺りで停まってトイレブレイク。

ほとんど眠れないまま明け方4時過ぎ、カッパドキアの周辺の丘に達した。

カッパドキアは周辺を山に囲まれた広大な盆地で、夜明け前のブルーの明かりの中にあちこちお家の明かりやキノコ岩にともる明かりがこの世とは思えないメルヘンの世界だった。今でもあの景色は私の記憶に刷り込まれている。

バスは途中からローカルの子供たちが乗ってくる通学バスに早変わりし、カッパドキアの大きな町(名前を憶えていない)に着いたときは、バスは超満員だった。するとトルコの生徒たちが皆で私とポールのリュックをもって降ろしてくれたり、皆が英語で話しかけてくれたり、まるでVIP の待遇。

バスドライバーまで私の結婚指輪を見てから急に愛想が良くなり、にこにこしていた。

 

予習をしないで出かけたから、こんな異様の風景にびっくり、そして早速周辺を歩いて回るガイドツアーをとった。

 

 

 

 

こんな面白い岩があちこちにできたのは地球の創成期、2か所の火山からの灰が交互に堆積して、それらが風雨によって削られてこんな面白い風景になったものだという。

すべてが火山灰だから、岩は柔らかく、このようなキノコ岩を掘って部屋を作り階段を作って2階、3階と登り窓や入口を作っていた。だから一家は一つのキノコ岩で何世代も生活していたという。

 

 

村は群と言うほうが良いような、一塊づつになって生活している。

 

 

 

 

ツアーはこのような谷間(Ihlara Valley)を歩きまわり、岩壁に隠れキリシタンの小さな教会を見せてもらった。

 

どんなに小さな教会でもこうしてデコレーションがされている。

 

 

石灰岩だから数千年の間に雨に侵食されて、壁が崩れ落ちてしまう。

私達が泊まった民宿も、岩を掘りぬいてできたベッドルームでとっても感激した。

 

ここは地下都市の入り口、1963年 お百姓さんが自分の農地の巨大な石をどかしたところ、大きな穴が開いていてここが地下都市の入り口だった。今では最高のドル箱になっている。

地下都市は85メーター深い井戸の周りに何層にもなった部屋が作られ、井戸は水をくむだけでなく空気穴でもあった。その昔モンゴールや回教徒の襲撃に備え、この地下都市では食料が蓄えられ、家畜まで収容する人口2万人が生活できる大都市だった。地上から2階下フロアーには大広間があり、学校があったという。5階下には教会があった。どの部屋にも2か所の出入り口があったが、ただ一つの部屋だけは1つの入り口だけ。それは死体置き場で、その小さな部屋に入った時、もしここで地震でも起きて入り口がふさがったらと瞬間思ってゾ~とした。

 

上2枚の写真は絵ハガキで中では撮影禁止だった。トンネル内には巨大な丸石が備えられてもし外敵が襲ってきたときは、中から丸石を転がして入り口をふさいでも絶対外から開けられない仕組みになっているという。

生きるためには人々はあらゆる知恵を絞ったものであろう。ここはトルコが回教徒の国になりこの地下都市で隠れキリシタンたちが生活していたが、1923年には完全に見捨てられ塞がれ忘れ去られていた。

川で洗濯する女性たち、

牛やロバを世話する男の子。

5月下旬エーギアス山(Mt. Aergius)には雪が残っている。

 

 

トルコ人のおばちゃんが子羊を抱いていたので写真を撮ったら、私にも抱いて写真をと抱かせてくれた。

カッパドキアでは数日のんびり見て回り、マーケットで蜂蜜を買ったり果物を買ったり楽しかった。有る時二人でキノコ岩の近くを散策して歩いていたら、向こうにいたおじさんが何か言っている。いったい何を言ってるのかとニコニコしながら二人で行って見たら・・・ここを歩くな!!! と言っていた。あとで二人で苦笑い。火山灰のふわふわの土ではいったい何が植えられるかと思った。

 

 

 

ローカルの女性たちは農閑期にこんな素晴らしいカーペットを織る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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トルコ旅行ーコンヤ(Konya)からシデ(Side)

2022-07-26 19:13:15 | トルコ旅行

 

コンヤと言う町はトルコの回教徒にとっては総本山で大変戒律厳しいところ。私にとっては余りいい思い出がない。

カッパドキアからバスで数時間降りて歩き回ったけど、女性のショートパンツは受け入れてくれない。5月末の暑い時期、2時間ほどでシデへ行く長距離バスに乗った。

コンヤからシデへの道は険しい山道を通って南下するか、いったん国道をアンタリアへ向けそこから地中海沿岸道路をシデにむかうか?

私達何も知らずに直接南下する方のバスに乗った。

途中の山道ですれ違う車の量も多いが、バスの進行方向右側は切り立った崖で、がけ下100メーター以上もある下方には落ちて錆びた車が数台見える。

これだけで震え上がったのに、前方からトラックやバスなどの大型車がすれ違うと、道幅がない。バスの車掌はバスの前にしゃがんで、タイヤが崖へ落ちないよう手指で誘導している。せめて乗客を降ろしてやってくれたらいいのに。その間まるで生きた心地もしなかった。

後で聞いたところによると、やっぱりバスが落ちて大事故になり、以来この道路はバスが通行禁止になったという。

シデは海辺のホリデー観光地で、この街の周辺にたくさんのローマの遺跡があった。

 

 

 

広大な廃墟の中暑いのに歩き回った。何しろローマの遺跡に巡り合ったのは1989年クシャダシのホリデーで行ったエフェシスが初めだった。

それまでこんな遺跡があることも知らなかったし、学校で習った世界史など、ローマがヨーロッパを征服して滅んだことくらいしか習った覚えがない。こうしてトルコの無名の遺跡を巡り歩いて、ローマ人の偉大さに触れた思い。

 

 

 

 

広大なアンプシアターなどいったい何千人の奴隷が汗水流して作り上げたものだろう。

 

 

 

シデの考古博物館も一日ゆっくり見て回った。こんな子供たちが遊ぶ石棺はローマ人の偉い人の子息の死であったに違いない。

 

年中咲いているワイルド朝顔が真っ盛り。この花もこの時初めて見た。

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トルコ旅行ーアンタリア(Antalya)と周辺

2022-07-25 03:21:36 | トルコ旅行

 

アンタリアはこの南西の地方では一番大きな町で、モスクが多い。夕方のお祈り時間の5時から6時頃はあたり一面でいろいろな声のお祈りの音でまるで雑音にしか聞こえない。

 

この街は古くから開けた町で周辺にはたくさんのローマの遺跡や、私がこのトルコの旅で書いたフェシエのギリシャの墓地なども見どころはたくさんある。

 

アンタリアの民宿でとってもお世話になり親しくなったこのカップル。この民宿を中心に2-3泊の旅に出ては帰ってまた泊まったりしていたが、まるで親戚の様にバーベキューなどしたりしてもてなしてくれた。

1996年10月にも地中海沿岸をシリア近くまで旅した時に行って見たら、民宿を売って田舎へ引っ越したとのことでガッカリした。

 

 

ペルジ(Perge)は紀元前12-13世紀においてはこの地方で一番重要な都市だった。当時はリデイァンとペルシアンの支配下で繁栄し、紀元前334年アレクサンダー大王の支配下にあった。

 

このペルジが一番繁栄したのは紀元前2-3世紀ローマ人による大都市。1947年からトルコの考古学者による発掘が進められ、素晴らしい銅像が発見された。これらはアンタリアの博物館に展示されている。

2000年以上になると石器文明もこれほど破壊を受ける。多分度重なる地震のせいだっただろう。ここは巨大なスタジアムだった。

 

遺跡の一角でこのかわいい女生徒たちが音楽の練習をしていて、写真を撮った。あまり素敵だったから1996年またアンタリアに来た時に、写真のコピーを持ってきて、この制服を着ている女学生たちに、この写真の子がいるかを聞いたところまだ一人いるとのことで、写真のコピーを渡してくれるよう頼んだ。どんなに驚き喜んだことだろうか。

 

 

5-6月でも暑い国だから綿が実り、道端に積み上げられた綿が集積運搬されるのを待っている。

 

 

セラレシ(Selalesi)の滝こんな乾燥した国なのに水量の多さには感嘆。ここは有名な観光地だった。

 

民宿で聞いて一日遊んだ山間の谷川、きれいな澄んだ水で暑い日の水浴は天国!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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1994年トルコ旅行のエピソード

2022-07-23 07:06:13 | トルコ旅行

このところBBC4 では2008年に放映されたフランチェスコの地中海航海(Francesco's Mediterranean Voyage)の再放送をしている。この人ヴェニスの貴族の生まれで多彩なキャリアの持ち主。日本でも放映されたかもしれない。

で・・・私はこの人のことを書きたいのではなく、昨夜のテレビで、彼がトルコ南西部のフェシエ(Fethiye)へ訪れたそのことが書きたかった。

テレビを見ていたら私たちが1994年5月から6月にかけて旅した懐かしい場所が映った。

 

コピー機の具合が良くなくて、はっきり見えないが、アンタルヤ(Antalya)から西の広大な岬はリチア(Lycia)と呼ばれこの地方の人々はリチアンと呼ばれる。

1994年私たちはリュックを担いで、アンタルヤからバスでフェシエ(Fethiye)へ向かった。トルコは余り鉄道が発達していなくて、当時長距離バス会社3社くらいが毎20ー30分おきくらいに発車していた。バス道路は地図で見てもわかるように海岸の曲りくねった道を高速で走る。

片側断崖絶壁の山を切り出した道路が多く、対向車が見えない曲りくねった道をあんなに飛ばして事故を起こさなければいいがと心配になる。

約4時間くらいでフェシエに着いた。

 

 

 

 

 

 

この辺りはエジプト時代から栄えた地方で、がけに掘られたテンプル・墓地はギリシア人たちのものと言われている。紀元前2000年の遺跡がいたるところにあり、陸路よりも船で遺跡周りをする方がいいと言われた。

歴史も何も知らない私達だったけれど、こんなすごい遺跡を見て大感激。

泊まった宿は英語が話せる若い人がいて、安かった。

その夜あまりの暑さに目が覚めて、もちろん冷房などと言うものはない。とうとうたまりかねて、窓を開けることにした。

すると待ってましたとばかりに蚊の大群、防ごうにもシーツが短くて頭を隠せば足が出てしまう、脚を隠せば頭の周りですごい蚊のうなり声。

悶々としていたら早朝4時、急に大きな声で朝のお祈りが始まった。なんとこのホテルの横がモスクだった。知らなかったとは言えこれはあんまり。

5時過ぎるとホテルの前の道路を行きかうモペッツの音がドドドドドドドドド・・・・・響いてとっても寝ておれるものじゃない(泣)

本当はこの辺りに実際生きていたと言われる、サンタクロース(セント・ニコラス)が住んでいた、という教会を見てくる予定だった。

デモもう一晩このホテルに泊まりたくないと、お金を払って早朝のバスで前日来た道を帰って行った。

3時間後、ファセリス(Phaselis)の町に個人の小さなホテル( ベッド&朝食)を探して投宿した。そこで気が付いたのは昨夜のホテルでパスポートを貰ってこなかったこと。

ポールはすぐ電話してバスで送ってくれないかと頼んだ。そして二人で近くにある火の山へ出かけた。

 

ここチマエラ(Chimaera)は岩の間から天然ガスが出ていて永遠に燃えているのだという。

(1994年ごろはまだデジタルカメラがなかったから拙い写真で申し訳ない。)

珍しいものを見てきたとルンルンで帰って来たのに、パスポートが届いていない。

ポールはまたホテルに電話して聞くところによれば、バスで無くなったら困るのは私達だから、取りに来いと言われた。

それで早朝のバスで片道3時間かけてポールは出かけて行った。

私が起きて朝食をと二人分用意された食事を私だけと言っても、年より夫婦のホテルオーナーには英語が通じない。彼らはポールが私を置いて出て行ってしまったと思っているらしく、気のどくそうにテーブルのそばに座って私を眺めている。

ポールは3時間後にパスポートを貰って、彼がどこの会社のバスで何時頃に着くかを私に電話してくれと電話代を払って頼んだから、電話がかかってきた。

それであと1時間くらいで着くであろうとタクシーを呼んでもらい、私とポールのリュックをもってバス停へ。

このメインロードのバス停は3か所あって私は図を書いて真ん中のバス停へやってくれと頼んだのに・・・・。 運転手は図も見てなかったようだ。

バスは何台も来て去って行った。そしてポールの乗ったバスが来て通り過ぎた。

50メータくらい走って急停車 !!!

ポールは私のかぶっていた赤い麦わら帽子がちらっと見えて、大声でSTOPと叫んだ。タクシーの運転手が降ろしてくれたバス停は左のバス停だったのだ。ポールが私の赤い麦わら帽子に気づかなかったらいったいどうなっていたか判らない。 

それ以来二人でどんなにリュックを担いで旅しても、決してパスポートを渡さず宿泊は前金で払うことにしていた。

本当に忘れられない思い出。

 

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トルコ旅行ーパムッカレ(Pamukkale)

2022-07-21 05:47:36 | トルコ旅行

1970年代マイルドセブンの宣伝広告でパムッカレの写真を憶えておられる方がおられるだろうか?上空写真で真っ青な周辺の真ん中に白く輝く小さな段々水たまり。当時の週刊誌の後ろのページに載っていた。

初めてみた時この世のものとは思えず、目を凝らしてそれがトルコにあると知って驚いたものだ。その頃はトルコがどこにあるかも知らなかった。

英国のテレビでトルコの観光推奨をし出したのは1980年代。私達夏の2週間のホリディーと言えば、キャンピングカーでフランスの海岸線か、北スペインどまりだったが1989年8月に始めてトルコへ出かけた。

当時娘は16歳、このホリデーが最後で以来一度も一緒に出掛けようとはしなくなった。息子14歳、四月にスケートボードから落ちて頭の手術をして以来初めての旅行だった。

ホテルはエーゲ海に面したクシャダシと言う町で、時々日帰りの観光バスであちこち出かけた。

この時初めてパムッカレへ行って、これがあこがれのあの写真の場所だったと気づいた。

 

 

パムッカレとはトルコ語で綿の城と言う意味で、この真っ白の水は上部から流れ出る温泉の水が数千年にわたって溜まったもの。この温泉は石灰を含み水の底も柔らかい石灰の粘土様で、人々は裸に粘土を塗ったりしていた。

この温泉は紀元前から知られていて、病気の人たちはここへ療養に来ていたという。それもローマ時代にはヒエラポリスと言う大都市になり、広大な遺跡が残っている。病気で療養叶わず亡くなった人たちの石棺が一面に有った。

1994年2週間のホリデーでは二人でバックパックでイスタンブールから、カッパドキア、コンヤ、シデ、アンタルヤ、そして パムッカレをバスで廻った。

 

この時水源地の温泉プールに入ることができ、水底に倒れている石柱や遺跡のかけらを見ながら1時間も楽しんだ。

温水だけれども余り熱くはなくて、体の周りに小さなあぶくが着く不思議なお湯だった。

この時が最後でそれ以来観光客が押し寄せたため、この水の中へ入ることが禁止された。周囲にホテルができ道路ができて、自然が損なわれたためであるという。

もう30年も行ってないから最近はどうやって保存されているか判らないけれど、あのマイルドセブンの写真のような真っ青な周辺に真珠の輝きを保ってほしいものだ。

 

 

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トルコ旅行‐エフェッソスと結婚式

2022-07-19 19:07:48 | トルコ旅行

 

エフェッソスはトルコ一番の有名な古代とローマの遺跡で、私にとっては1989年に初めて目にした石の文化だった。この有名な建築物は、ローマ時代の図書館と言われる。

 

有名なローマのモザイク、遺跡のあるところどこにでも見られる。

この巨大なアンプシアターを見た時の感動は忘れ難い。

日本がまだ文字すらも無かったころに、人々は音楽や劇を楽しんでいた。

 

ここは紀元前1世紀アントニオとクレオパトラが2年も住んでいたところ、この通りをクレオパトラが歩いたであろうと言われている。

古代にはここの道路の突き当りは海だったが、今では3㎞彼方にエーゲ海がある。

この1997年5月私達は日本からの従姉と3人でバックパックで旅していた。

このエフェソスのアンプシアターでコンサートの幟を見てどんなに見たかったことか。エフェッソスには2晩泊って翌日はパムッカレに行く予定でバスのチケットも買ってあった。

この前年働いて居た会社の同僚が、このエフェソスから素晴らしい温泉へタクシーで行ったことがあるという。私も行って見たくて、ローカルのバス停へ行って聞くと、そこへ行くという。

午後3人でそのバスに乗って出かけた。

バスは人気もない片田舎で停まり、ここが終点、温泉はここから川を渡った所にあると言われ、途方にくれた。バスの運転手が タクシー代を出すならそこまで連れて行って迎えもしてあげる。 と言ってくれたので、もちろんOK, 温泉へ送ってもらった。

 

 

 

この温泉破れ窓からツバメが出入りしているひどい所、お湯は熱くてゆっくり浸かっておれない。入って10数えて飛び出すくらい熱かった。

それでも約束のバスドライバーが小型のバスを運転して迎えに来てくれ、エフェッソスの町に着いたときはもう日が暮れていた。

するとバスドライバーは片言の英語で、村で結婚式があるから行かないかと言う。こんなチャンスはめったにないから大喜びで行くことにした。バスドライバーは途中で奥さんと子供たちを乗せ、真っ暗な道を暗い森の中へ連れて行った。

 

 

 

森の中の結婚式は周囲に並べられた花茣蓙にちゃぶ台のような低いテーブルとローカルの人たちがクックした焼き肉や野菜が載せられアルコールを飲んだ覚えがないところを見るとなかったのかもしれない。宴たけなわでは激しい音楽に合わせて若者たちが輪になって踊っている。音楽はトルコもギリシャもほとんど同じ様な曲に聞こえる。

 

結婚式のお祝いには新婚カップルの胸にお札をピンでとめてあげる。日本では考えられないような風習だった。

 

パーティの最後は新婚カップルのダンスがハイライトでもう夜も10時近く、バスドライバーが家族を連れて帰るという。私達もそこで帰るつもりだったが、バスドライバーが自分の家へ来いと誘ってくれた。

 

 

アパートの2階テレビも家具も立派な物、床のカーペットは奥さんが自分で織ったものだという。トルコの屋内は日本と同じように床に直接座る。

スイカをいただいて奥さんとおしゃべりして話がはずんでいる時に、そのご主人が電話を3回もかけた。自分の甥か従兄(?)が日本に住んでいて日本人の女性と結婚している。彼と話してみてくれと従姉に言った。わざわざ日本へ電話して従姉が話したところによれば、大変上手な日本語だったという。

そして従姉に日本へ帰るなら、僕の甥か従兄(?)に1㎏のスープパウダーとトルコの新聞を持って行ってほしいと言った。今日一日楽しくいろんなアドベンチャーでルンルンの私と従姉、もちろんOK で明日朝バスでパムッカレに行くときに受け取ることに話を決めてホテルへ送ってもらった。

 

ホテルでポールがここから日本へ電話をすると電話代は高いだろうに、スープの粉など小包で送った方が安いだろう。どうして?3回も電話した中にパムッカレ・イスタンブル・ロンドン・ジャパンと言ってるのが聞こえた。 もしかしてあれがドラッグだったらどうしよう。明日朝バス停で開けてみたところでドラッグかどうかなど私達には判らない。もしそれがドラッグだったと判って断ったとしても、私達イギリス人の男一人に日本人の女2人ではどこに行っても目立つから、いったいどんな報復をされるか判ったものじゃない。

それ以来この夜は怖くて眠れなかった。

 

 

 

 

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トルコ旅行ーペルガモン(Pergamon)とトロイ(Troy)最終回

2022-07-01 05:14:12 | トルコ旅行

さてバスドライバーと約束した朝、ほとんど眠っていなかったから早朝から起きて、二人で相談の結果、パムッカレはやめて反対方面へ逃げることに決めた。別室で寝ている従姉に伝えると、あんなに親切な人たちが、ドラッグなどに手を出すはずがないと信じてくれない。

パムッカレは私達2回も行っているからいいけど、まだ行ったことの無い従姉には気の毒だった。

このエフェソスにはバス会社だけでなくイスタンブルへの電車が通っていて、朝一番の電車で北へ向けて発つことにした。あんまり慌てて駅について電車を待っていると、ホテルの若い男の子が走ってきて、ホテル代を払ってないという。 確かに考えてみればいつもは宿泊と同時に払うホテル代をこの時は2泊したため払ってなかった。・・・・ホテル代未払いで警察に捕まったらもっと悪い。

この時期トルコはインフレが激しく通貨も次々増刷していた。ここに1996年の換金レシートがあるが、1ポンドのレートが15万462.9リラという。60ポンド換金して9百2万7774リラという天文学数字になる。だからこの時は百万リラ、10万リラ、1万リラ、千リラなどのお札があった。ゼロがたくさんついていて、一目でいくらなどと判らない。トルコ人はお札の色分けで知っているようだった。

観光客相手のガイドなどはドル支払いを要求するが私たちが泊まる安宿は現金払い、3百万リラ以上も支払った。こんな百万単位の通貨が有っても10リラとか5リラなどの小銭が使われていた。これは貧しい人たちが買うパンが100リラであってもポンド換算すれば1ペンスにも満たない。

早朝の電車で途中からバスで着いたところはペルガモンの遺跡だった。

 

 

ペルガモンは高い丘の上にあり、眼下に現代家屋が見える。

これはペルガモンの絵ハガキ、私の写したペルガモンのアンプシアターは、全体を入れるのにカメラの撮り方が悪かったせいか、アンプシアターがこの絵ハガキよりももっと急斜面に見える。

この絵ハガキでも相当な山の斜面を削ってアンプシアターを作ったものだ。

私にとっても初めて来た処だが、多くの観光客が来ていた。今まで見た遺跡と違うのはやっぱり高い丘?山?を利用して作られた所だったから。

 

眼下にこんなきれいな湖が広がっていた。

 

 

 

町のカーペット屋さん兼お土産屋さん。

 

珍しい野生の花 が熱い太陽にめげずに咲いていた。

2時間ほどペルガモンの遺跡を巡り写真を写してすぐ、バスでトロイへ向かった。昨夜のことが気になってまるで追われているような気持だった。

トロイの町でまず買ったのが日本語のトロイの説明書。このガイドのムスタファ・アシュクンが英語で出版したのを日本人が翻訳したもの。実は今回このブログを書くにあたって、探し出してみればとっても詳しく書かれてあり、トロイ神話など面白そう。これからしっかり読もうと思う。

これがかの有名なトロイの木馬。 本当にこんな木馬に人間が隠れて見つからないほど、太古の人はバカだっただろうか?

 

こんなに荒れ果てた遺跡の間を飾る真っ赤なポピーが印象的だった。 もう一度この説明書をしっかり読んで、訪れたいものだ。

 

トロイの町の想像図。こんなに壊れていない古代の町が目の前に現れたらどんなに素晴らしいことだろう。

 

 

このトルコの旅の初めに載せた地図で一つの間違いがあった。トロイからカナッカレ(Canakkale)で一泊してフェリーでイスタンブルへ行ったのだった。

 

 

カナッカレの町でポールがホテルを探しに行っている間に、私たち2人に興味を持った中学生くらいのトルコの学生10人以上も周りを囲んで英語であらゆる質問をしてきた。

ポールがホテルを探してくると皆ぞろぞろホテルまでついてきた。よっぽど外人が珍しかったみたい。

私の高校生の修学旅行で、初めてイギリス人の女性と話したときと全く同じ感じだった。

こんな思い出もあのドラッグの一件ですっかり忘れていた。

 

帰国してすぐ ミドナイトイクスプレス と言う映画を見た。ドラッグでトルコの監獄に入れられた若者の恐ろしいストーリーで震え上がった。それ以来トルコへは行っていない。

従姉はそれでも半信半疑、帰国の際トルコの新聞とターキシュ・ディライト(お菓子)ひと箱買って、バスドライバーの甥か従兄?へ送った。

あんなことがなかったら毎年トルコへ行っていただろう。何しろどこかの片田舎に家を買って、若者向けのホステルを作りたいと思っていた。すると何億リラになっただろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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