Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

ポールのお葬式 その2

2020-08-19 15:44:27 | 日記

明日はポールのお葬式が行われる日曜日、私一人でもう3-4年も運転していなかったトヨタの自家用車を運転して娘の家は行った。日曜日の昼間、道路はすいて一度もエンストもせず無事に往復してこれた。今まで一人で運転したことがなかった。

これで自信をもってブライトンから来る息子を連れて葬儀場へ行ける。この葬儀場はわが家から車で20分ほど、もう2度も行っているから行程もよくわかっている・・・と確信していた。

月曜日の午後1時ころにやってきた息子を連れて、近くのスーパーへ行ってきた。息子のほうも私の運転を信頼してくれた。

7月31日から英国も熱帯気候になりロンドンは日中気温35-37度、英国の一般家庭には暖房は完備していても冷房装置はない。

私は母が77歳で未亡人になった時着ていた喪服をもらってきた。日本のワンピースは半そででも生地は厚く裏がついているから、まるでサウナに入っているみたい。

近くだからと3時15分に家を出た。息子に真っ赤なバラの花束を持たせて、お棺の上に飾るつもりだった。

私の地域からメインロードで、本当は左折そして右折するところを右折・左折してしまった。道を知っていると思い込んでいる私は葬儀場の名前や場所も覚えていない。行けども行けども葬儀場は見当たらず、車の中は窓は開けてあるが(車の冷房は壊れて効かない)暑さと焦りで全身汗みずく、顔から流れる汗を拭くこともできない。とうとう途中で止まって娘に電話して元来た道を引き返すことにしたのは3時40分、途中の道から息子とパトリックが電話で道案内してくれ、葬儀場に停車したのが4時5分前だった。

とにかく事故にも会わず、遅れずに間に合ったのはポールが見守ってくれていたに違いない。焦っていったい何度エンストしたことか。

お葬式は30分だけ、宗教の一切入っていないお葬式で、棺桶が祭壇に安置されるまではボッチェリとセーラ・ブライトマンの Time to say good bye の歌声がながれている。参加者は私を入れて5人だけ、それでもマスクをしなければならない。

お葬式の進行係の女性がポールの人生行路を説明する。これは1週間前に彼女からの要請でコンピューターでおおよそを話し、彼女の書いたストーリーを私が訂正したもので、悪ガキだったポールの子供時代や、私たちのなれそめ、それに二人でバックパックやキャンパーでの旅行のことなどを話してくれた。

次に娘婿のパトリックがポールのことをスピーチ、娘がマスクをしたまま詩の朗読、彼女はそれまでに泣いていたらしく鼻をすすっていたから、いったい何を言っているのか聞こえなかった。

私と言えば全身汗みずく、相変わらず頭や首から流れる汗と完全に車の運転で狂ってしまった頭ではこれがポールのお葬式と判っていても、感情がついていかず、孫と私だけが涙も流さずシレっとしていた。

式の真ん中ではポールが知っているただ一つのクラッシックミュージック・Fingal's cave が流れた。彼が子供時代の音楽の先生がこの曲をレコードで何度も聞かせてくれたという。

お棺の上には娘がオーダーした白の蘭と白のカーラー、グリーンのアジサイの花が立派に盛られ、私の真っ赤なバラの花はみすぼらしいくらいだった。

お棺が祭壇から消えていくときには、戦時中英国人が鼓舞奮起した英国人女性、ヴェーラ・リン(Vera Lynn)の We'll meet again の歌声が流れた。

斎場を出ると、葬儀社の人がお花はここに置いても枯れるだけだから持っていきなさいと言われ、もらってきた。

帰りはパトリックが私の車を運転してわが家に帰り、息子が夕食においしいご馳走をクックしてくれた。私は帰ってサウナのような喪服を脱ぐことしか考えられなかった。

娘たちは8時過ぎ帰り息子は9時半に帰って行った。

この夜暑さと疲労で参っているのに眠れず3時過ぎまでテレビを見ていた。やっぱり一生で初めてのポールのお葬式、そこで大変なへまをやったのがいつまでも応えている。

 

 

お葬式から一週間後、友達がまた彼女の庭のお花をもって会いにきてくれた。

毎日電話やFacetime, Skypeで友達が安否を気使ってくれ、おしゃべりしている。お葬式後もう10日目になるのに、ポールの遺灰はいまだに持ってきてくれない。

 

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ポールのお葬式 その1

2020-08-19 13:52:26 | 日記

7月11日にポールが息を引き取ってからお葬式までの30日間、いったいどうしてこんなに長くと誰もが思うだろう。これもコロナウイルスのせい。亡くなった最初の一週間は家庭医(GP)に全部をゆだねられた。一週間後にGPからはポールを一度も見ていないから、死亡診断書が書けないといわれた。

次の一週間は検視官に一任され、2週目の終わりに検視官からの死亡診断書が発行された。この死亡診断書は政府機関に連絡され、年金や運転免許の取り消しなどが行われる。その後死亡診断書は私たちが決めた葬儀社に送られ、やっと葬式の日取がきまった。それがポールが亡くなった日から30日後の8月10日だった。

コロナのせいで普通には病院で亡くなる病人たちも、自宅で亡くなった人たちが多いのだろう。GPも検視官も葬儀場もどこも満員。

 

このお花は近所の人がポールの死を知って、私を慰めるために持ってきてくれたもの。

そしてケントの親しくしている日本人の友達が自宅の庭で咲いているお花をたくさん持ってきてくれた。

 

高さが2メートルにもなるユリの花だそう。

ダリアもコスモスも全部彼女の庭で咲いているそうだ。

 

とうとう置き場所が無くなってキッチンに飾ったお花。

 

これは日本人の友達から送られたアリストメリアの花束。

通常こちらのお葬式には親せきや友人、近所の人達からお花とカードが送られてくる。しかし有り余る多くのお花も葬儀場の広場に置いて枯れていくのを見るともったいない。

それでポールの死後、娘がセント・クリストファー・ホスピスへのチャリティの一環として、葬式にお花はいらないから、その花代をホスピスに上げてほしいとホスピスの寄付ホームページを立ち上げた。

 

たくさんの弔辞のカードにホスピスの寄付も1500ポンド(21万円)近くになっている。本当に有難いことだ。

 

昨年は9月に咲いた月下美人が7月末に3つも咲いた。ポールは見てくれなかったけれど近所の奥さんに来ていただいて、夜10時過ぎまで花が満開になる間、おしゃべりした。

ポールの死後2週間ほど娘の家で食事をしたり泊まったりしていたが、彼女の家では眠れない。だんだん睡眠不足になって、それ以降は自宅で眠れないときは真夜中に起きてテレビやDVDを見ていたり朝寝坊しても誰にも気兼ねすることがないと分かった。それでもポールは葬儀社の霊安室(冷暗室)で眠っている。

お葬式が終わるまでこの世にいるポールのことを思い、友達や知人からのたくさんのe-mailのメッセージに涙していた。

毎晩夜遅くから過去の旅行の写真を開け、ポールのファイルを作った。その写真集も500枚近くになった。その写真集を見ると昔二人で楽しんだことが思い出され、もう2度とあの楽しみは帰ってこないと胸が痛くなってくる。

 

 

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