Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

輪島の洪水

2024-09-22 20:28:57 | 思い出

昨日から奥能登での大雨と洪水のニュースが絶え間なくながれている。お正月の地震に引き続き、こうまで天は人間に苦難を押し付けるのだろうか。

私が小学校6年生(1955年)で、輪島へ流れ込む河原田川の上流に住んでいたとき、やっぱり未曾有の大洪水が発生した。

父は河原田駐在所の警察官で、兄は2歳上の中学2年生。弟は小学4年生。河原田川は幅広い山間の平野の真ん中を流れ、夏の間中、村の子供達が集まって泳いだり魚とりに夢中になる幅10メーター未満の優しい川だった。

ある日前日から降り続いた激しい雨で、川の両側の畑や田圃はどんどん浸水し始め、私達が学校へ行く途中の川渕はあと20センチくらいで道路に水が溢れそうだった。

河原田小学校は此の川がうねって流れる河原に建てられた木造平屋の学校で各学年1クラスづつだったのを覚えているが、下級生は戦後の団塊世代、クラスも増えていたのかもしれない。

登校して授業が始まる前に体育館に緊急集合とのことで全員集まった頃には水は体育館の下を激しく流れ込んでいた。村の消防団員が駆けつけ山と学校に綱を張り私たち一人一人を背負って、山道に連れていってくれた。

家の近くの子供達がひとかたまりになって、それぞれの自宅方面の山道をたどったが、あちこち山から流れる支流が激流のため橋が流されて、自分達の在所へたどり着けない。此のときは鉄橋も流されて、電車も不通。

午後山から切り出した材木2本でやっと簡単な橋を作って我が家へたどり着けた。

帰ってみると父は風邪が悪化して高熱を出して寝ていて、こんな大事に役にたたない。家の左脇に高さ3-4メーターくらいの小さな滝?のような流れが有ったが、此のときは水は激しく落下し、我が家の床下に流れ込んでくる。

母は長靴と父の雨合羽で床への流れを止めるべく、大きな石を運んだり大活躍していた。私は玄関に出て家の前の道路下から谷間の向こうの村までが広大な川になって巨木が流れていくのをあれよあれよと見ていると、父が頭のタオルがぬるくなったと怒る。

学校から各自家へ帰る頃には雨はやんでいたが、山に降った水が満杯で川もどこも耐えきれなかったようだ。此の河原田村は学校が完全に流されたのと、村の田畑は土ごと流されてしまっただけで、各自の住宅地には被害がなかったが、川下の輪島の街は大洪水。

街の真ん中を流れる川で輪島の街は海まで平野に出来た街だった。

此の日の午後父の解熱剤をもらいに兄は鉄道の線路を伝って輪島の医者まで往復したが、20数年前、兄にその時のことをきいても覚えていなかった。

輪島の街がどのようにして復興したか、まだ自分の身の回りしか興味のなかった私は全然覚えていない。

今回の2重災害、みんなが頑張って早く復興してほしい。

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シナイ半島ーシャーム・エル・シェーク(Sharm El  Sheikh)

2021-10-19 20:08:14 | 思い出

まだカメラがデジタル化されていない時期だから1990年代の終わりごろだったろう。ヨーロッパから一番近いサンゴ礁と言えば、エジプトのシナイ半島だった。

一週間の予定で真夏のとっても暑い時期に飛行機で飛んだ。

ホテルは高台にあり自分のビーチを持っていないのでとっても安かった。海岸線のビーチ付きのホテルは高い。それで毎朝10時過ぎかスノークリングの道具だけ持って、高級ホテルのお客のようなふりをしてそこのビーチへ降りてゆく。

 

毎日青空、太陽はギラギラ、あまり暑いのでローカルの犬たちも浅瀬に浸かって涼んでいるか日影で昼寝をしていた。

このプライベートビーチは大きな入り江の左側、そこからはホテルもなく崖と岩場がずーっと続いているからあまり観光客が来ない。

毎日2人で朝の10時過ぎから午後4時頃まで休みもせずに、泳いだり,写真を撮ったり、潜ったりしていた。今思い返してみると私達本当に体力があったなーと感心する。

 

毎日同じあたりで潜ったりしていると、一日に2回廻ってくる水中観光船?が近くを通ってゆく。

この船の下が透明ガラス張りの船室になっていて、お客は座ったままで水中が良く見える。私たちも潜るとそのお客達が良く見える。それで船が近づくと潜って手を振ると、お客達も大喜び。

ある日その船が私たちの隣で止まってコークを2本くれた。観光船の船員にしてみれば、私たちは格好の見世物だったのかもしれない。

シャーメルシェークは海がきれいで魚がいっぱい。こんなイーグル・レイなどホガダでは見られない。

顔だけ白いこの魚、漫画になりそう。

 

紅海で一番多いのがこのパロット・フィシュ、赤やオレンジ、グリーンに青と色鮮やかでサイズも30センチくらいはある。鋭い歯でサンゴをかじり真っ白のサンゴの砂を排泄してゆく。最近ロンドンのエスニックなお店では死んだパロット・フィシュを並べて売っているが、多分西インド諸島の人たちが買って食べるのだろう。

 

 

ホテルの朝食に出たゆで卵をいくつかもらって、水中でつぶしたところ、一面にあらゆる魚の群れに囲まれた。しかし近くに居たダイビングボートのインストラクターからやってはいけないと注意されたので、それ以後はやっていない。

 

ある日水深10メータくらいの海底に魚のトラップを見つけた。潜って行ってみると大きなウツボがはいっている。そしてその上に彼か彼女の配偶者のやや細めのウツボがとぐろを巻いていた。

こんな魚でも相手を心配して居座っているのを見ると、魚にも感情があるのだと思った。10メーターでは息切れがしてトラップを持ち上げられない。そこで500メーターほどの海でダイビングをしているダイバーボートへ助けを求めて泳いでいった。

10メータほど手前で I need Help (助けがほしい)と言ったとたん、ボートの皆が飛びこんだ!!!

2人のダイバーがスキューバーダイビングの装具で一緒に来てくれ、潜って行った。配偶者は相変わらずトラップの上に居たけれどダイバーがシュノーケルで追い払い、トラップにダイバーの浮袋を付けて空気を入れたため簡単に浮いてきた。

船にまで引っ張っていき私たちも船に上がって、彼らはそのトラップ(金網でできているらしい)を壊して巨大なウツボを海に逃がしてやった。このウツボが500メータの海底を配偶者の元へ逃げて行ったかは判らないけど、行ったと思うことにしたい。あんなに心配して私たちが近くへ来ても逃げもしなかった配偶者のため。

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紅海の魚たち

2021-10-08 04:59:39 | 思い出

もう50年近く前まで住んでいた日本では、10年間スキーに熱中して、結婚するならスキーヤーと思っていた。ところがこの英国で図らずも結婚したのがダイバーだった。英国には山がないからスキーは余り人気スポーツではない。

ポールは彼の20代からスキューバーダイビングに熱中し、20代(1953年以降)から結婚した41歳まで世界中のほとんどの海でダイビングしていた。

私達がエジプトのシナイ半島やホガダなどでスノークリングをするようになったのは1990年代。子供たちが巣立ってしまった後は二人でシナイ半島には3回ホガダの近くでは2回そして最後に行ったマーサアラーム(Marsa Alam)に行ったのが2006年の11月だった。

2006年は私も退職して自由の身、マーサ・アラームはエジプトの最南端のリゾート地で、赤道に近いからまだ暖かいだろう。

もう15年も前のことで、当時はリゾート地と言っても高級ホテルが数軒建っているだけで、ホテルの外へ出ても周囲は荒れ果てた砂漠だった。

2週間泊まって毎日泳いでいたのがコラヤ・リゾート・ホテル(Coraya Resort Hotel)で時期外れ結構安かったのを覚えている。そしてこのホテルにはロシア人がたくさん休暇できていた。もう名前も忘れてしまったが、まるでロシアの大統領プーチンみたいなタフガイのご主人とセクシーな奥さんと友達になった。彼らはシベリアに住んでいると言った。

このホテルはコラヤ湾の砂浜に面したところにあり、ホテルの建物がぐるっと取り巻いた真ん中には温水プールがあった。エジプトとも言えども11月になると水温も下がって1時間もコラヤ湾の中を泳いでいると体が冷えてくる。

その時は温水プールは天国だった。

紅海は熱帯魚が多く地中海とは比べられない。初めて紅海で泳いだ時、私の前生は人魚だったのだと思った。いつまでも泳いでいたいと思った。

私はスキューバダイビングはしないが、中学生の時からシュウノークルで泳いでいた。だから撮影した魚たちも結構浅瀬で撮ったものばかり。

体長1メーターくらいのバラクーダー、 ここでは1匹悠々と泳いでいたが、ポールはヨルダンのダイビングセンターでそこのインストラクターと潜った時は、このバラクーダーの群れが大きな輪になって回遊しているのを見たという。

 

 

私達が金魚と呼んでいたジュールフィシュ(Jewel Fish)これらは紅海のどこでも一番多くに見られる魚で何度写真をとっても飽きない。

 

 

サンゴ礁もきれいで、小さな珍しい魚が多い。

 

初めてこの魚を見た時は本当にギョッとしたものだ。ワニみたいだねと言ってたら本当にその名もクロコダイル・フィシュと言う。

 

ファイルフィシュ。色彩がきれいで口が小さい、まるでおちょぼ口みたい。30-40センチくらいのおとなしそうな魚。体の上と下の透き通るようなひれが細かく揺れている。上から見ると一本の線ほどしかないひらべったい魚だ。

 

 

体長2-30センチくらい縞模様が美しいサージョンフィシュ、尾ひれの近くの黄色い線が非常にシャープな切れ味でサージョン(外科医)と呼ばれる。

 

 

紅海のウミガメは南シナ海のウミガメと種類が違うのか甲羅の模様が美しくない。ここでは飽きるほど居た。ウミガメの好物はクラゲで、ホガダの海ではクラゲに取り巻かれて気持ちの悪い思いをしたが、カメさんはどんなに喜んだことだろう。

 

ブルートゥリガーフィシュ【Blue Triggerfish)は体長50-60センチくらいきれい

なブルーで上下のひれと尾がそれそれ別な動きをしてとっても優雅な魚。

 

 

見るからに獰猛なタイタン・トゥリガーフィシュ。体長50-60センチくらいで強力な歯をもち、海底の大きな石を歯でくわえて持ち上げエサを探す。

シナイ半島のシャーメルシェークで二人で泳いでいる時のお話。私が先頭を泳いで水深10メーターほどにこの魚を見かけた。そのまま進んでいったその後、6-7メータ後から泳いできたポールがこの魚にアッタクされた。

このタイタンはその水底で巣ごもりしているところを私が通り過ぎて、頭に来ていたところに、またポールがやってきたため、怒り狂って攻撃に出たもの。水底からまっすぐ上ってきてポールに噛み付こうとする。ポールは必死でフリッパーで蹴りまくり何度も攻撃していたがとうとう諦めて戻って行った。私は大笑いしたがポールは本当に水を飲んでの大騒ぎだった。

 

体長1メーターを超すナポレオンフィシュ、大きい割にはおとなしい魚で人にはアタックした話は聞かない。ホガダで初めて見た時は、船に乗ったたくさんの観光客(私たちも含めて)が飛び込んで泳いでいるのに、船頭さんがくれるゆで卵が欲しくて水底をウロウロしていた。いつもゆで卵を貰っているから、慣れていたのだろう。魚でもこうして手なずけられるのは、面白い。

 

ピカソフィシュ、体長20センチくらい、本当にピカソならこんな面白い魚の絵を書きそう。

レッドシー・マックロ(Red sea Mackerel)は団体で一斉に口を開けてエサを取り込みえらでろ過する。銀色に輝いて向かってくると初めはギョッとしたものだが、見るからにおかしい。

 

ホガダ(Hurghada) の町は貧民街もあり汚い街で、観光に出歩くところはない。その町から割と近いところのホテル街では各自自分のビーチを持っている。ところがこのあたりの海にはビニール袋が大小ぷかぷか浮かんでいて、カメがクラゲと間違って食べる恐れがある。このホテルに滞在した時も、そしてコラヤリゾートホテルに滞在した時も海にはビニール袋が多く、もしかして毎朝ホテルのごみを海に捨てているのではないか?それとも貧民街から流れてくるのか?

それでいつも泳いでいてビニール袋を見つけると、中の水を出し切ってしっかり結び、次の袋の中に入れて結びだんだんビニールの塊が大きくなっていくと、陸に放り投げていた。ホガダの近くのホテルではプライベートビーチにも関わらず、水底に魚のトラップが仕掛けてあったので、しっかり結んで大きくなったビニールの塊を魚の代わりにトラップに押し込んでおいた。

コラヤリゾートホテルを去る日、ホテルのマネージャーに手紙を書いて、毎朝一人の泳げる人にビニール袋を集めるようお願いしたが、手紙がマネージャーまで届いたかも定かでない。

シャーメルシェークはエジプト人の住む町はなく、ホテル街だけのため、そしてここは海が売り物だから、ビニール袋は一度も見かけなかった。

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ロンドンマラソン その2

2021-08-13 04:54:04 | 思い出

息子は左側頭部、頭蓋内出血で開頭術をしていただいたが、血腫で圧迫された脳が回復してくるときに、激しいけいれんを伴ったため3ヶ日間薬によって眠らされていた。回復してもしばらくは右手足がマヒしていたため3ケ月のリハビリでやっと歩けるようになった。

息子が元気になってくると、やっぱりもう一度ロンドンマラソンで楽しみたい。

それで6ケ月間は朝、昼のトレーニング。

9月の申込書には過去の記録時間のコラムがあり、この時3時間半と嘘を書いた。4時間4分だとまた1万人の真ん中あたりか後ろになってしまうだろう。

その嘘が今回は好転して、Faster than Your Age(本人の年齢よりも早い)と言うカテゴリーに選ばれた。

1991年4月21日、私の46歳の誕生日、家族はグリニッチとドックランドで応援してくれるという。

貰ったゼッケンからグリニッチ公園の門の外に100名ほどのグループがあった。私の所属しているダリッチランナーの中に知った顔が2人。一人は私より1歳下の英国人女性、彼女はロンドンマラソン発足時から毎年出場しているベテランのスーちゃん。今まで何度かハーフマラソンなど一緒に走ったが一度も勝てなかった。

もう一人は70歳以上のダリッチランナーの長老、彼は外科医でしばしば海外へ出張公演に行っているという。彼は痩せて小さな人だがヨーロッパの70代のフルマラソン最速記録を持っている。

彼に挨拶して、貴方は早いから と言ったら でも僕はスタミナがないからね。とご謙遜。

出発の合図と同時に彼は消えてしまった。スーちゃんも100名の中に紛れて見失なった。でも6か月のハードトレーニング、何の心配事もなく体も足も快調。何よりも9000人の人の壁がない、皆相当早いペースで走っているから、目の前は十分スペースがあった。途中でスーちゃんを追い越した。 玲子、Go, Go, Happy Birthday !!と大声で叫んでくれた。

グリニッチのカティーサーク(古い帆船・ロンドンの観光名所)の近くで日の丸を振っている娘と息子、ポールは決して日の丸を振らない。あたりはものすごい応援の人混みで、そのあと地下鉄でドックランドへ行ったが立って応援するスペースがなかったという。

そう、ドックランドではまたもやベーコンを焼いている美味しそうな匂い、皆おなかをすかしているからオーとかアーとか嘆きの声。時々道端の応援をしている人達が飴をくれる。おなかがすいているときはなんでも有り難い。セロファンのかぶった飴を貰って走りながら剥こうとするが手袋をしている上に、手が震えていて剥けない。

やっと剥けたと思ったらポロリと落ちてしまい無念の涙。

 

 

この写真は働いて居た会社の若い人が、ドックランドの道端で待ち構えていて写真を撮ってくれた。25kmの地点だった。

胸に日の丸とユニオンジャックの小さなマークに名前をかいてあるから、道端の知らない日本人も 玲子さん頑張って  と大声で応援してくれる。

ロンドン塔の石畳もなんのその、快調に走ってエンバンクメントからトラファルガースクエアーを通って、バッキンガム宮殿へ向かうThe Mall (マルと呼ばれる大通り)へ差し掛かった。

いつもお昼休みに一緒に伴走してくれた若者S君がたくさんの人垣の後ろに立っていた。人一倍背の高い彼の姿を見つけるなり、 ほらこのタイム と時計を指さしたら、彼は I Know,  Reiko Go, Go, Go と言いながら私のペースに合わせて人垣の後ろを走り出した。しばらく走って、セントジェームスパークの向こう側へ横切っていくからと走って行ってしまった。

バッキンガム宮殿の前で左に折れ、ビックベンの有る国会議事堂への道は、歩いている時には気がつかないが、緩い坂道の登りになっている。この辺りもびっしり人垣で埋まっている。

ほとんど疲れも感じず、ウエストミンスターの橋に着いてあと100メーターでゴールと言うところで、あの外科医のミスターGに追いついた。

彼は橋の右側をよろよろ走っていた。嬉しさのあまり彼の横へ走って行ってハローMr G と声をかけたら、Oh Well done Reiko と言うなり急に走り出した。私も遅れてはならぬと追いかけ同時ゴールイン。3時間35分59秒。

あとでMr G の奥さんから いけない人ね。手を取り合って一緒に走ったらよかったのに。ランナーのクラブの人たちは そんな時は声をかけずにこっそり追いつき追い越すものだ。と言われた。本当に負けず嫌いの人たち。

思い返すと今私は彼の年齢になっていて、3時間35分で絶対走れない。そう思うとやっぱり MrG は偉大な長老だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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ロンドンマラソン その1

2021-08-11 05:49:40 | 思い出

何時のオリンピックでも一番興味を持って見るのがマラソン・・・・と言うのは私も1990年と91年の2回ロンドンマラソンに出場したから。

それに昨日拝見した自然農法をされている方の8月9日のブログ・・・・・マラソンとの出会い【 https://blog.goo.ne.jp/vzr05670 】 で私もあの時の経験を書いてみようと思う。

ロンドンマラソンがスタートしたのは1980年、それまで全然興味がなかったのに、1989年の4月初めてタワーブリッジ【世界で有名な跳ね橋)の片隅にマラソンを見に行った。タワーブリッジはマラソンの中間点にあたるところで、走っている人たちもまだまだ元気いっぱい。掛け声勇ましくみんな楽しそうに走っていく。このロンドンマラソンは優勝を狙うエリートたちが初めに通ってしまうとあとは3万人に上るファンランナーで後ろになればなるほど仮装行列のような賑わいになってくる。

こんなに楽しいマラソンなら一度出てみたいと思ったのがきっかけで、その翌日から毎朝1時間早く起きて家の近くをジョギングしだした。するといつも同じところで出会う道路掃除のおじさんや、牛乳配達のおじさんたちと朝の挨拶をするようになり、毎日待っていると思うから1日も休めない。

そのうちに働いて居た日系の会社の昼休みにテームス河のほとりを走るようになった。その頃は会社の医務室の奥に一つあるシャワールームの使用許可を取り、数人の若者たちと走るようになった。

ウイークエンドは朝から長距離を走ったりしているうちに、知り合ったランナーがダリッジランニングクラブに入っているとのことで、私もクラブに入ることにした。このクラブは毎週水曜日夜集まって8-10kmほどのトレーニングをし、日曜日は10-20kmを走る。そしてロンドンマラソンの1か月前、出場の決まっているランナー皆が、40Kmを走るトレーニングをしてくれる。

私の出場した1990年はマラソン発足以来10年目。毎年出場者が増えてこの年は3万人を超えた。

出場申請者は7万人を超すと言われていた。20代から30代の若者の倍率が高くて10人に一人くらいしか抽選で選ばれない。マラソンは毎年4月だけれど、確か9月に出場申請をしなければならない。

私45歳日本人女性と書いて申請したから難なく選ばれた。

抽選で選ばれる人は1万人、残りはいろいろなチャリティ機関に渡され、例えば癌研に100人分、赤十字に100人分と言う具合で、抽選に落ちてもチャリティの一つに申し込めば出場権がもらえる。ただ問題はそのチャリティにお金を寄付しなければならない。

英国はチャリティの伝統が長く誰かが何かを成し遂げようとするとき、知人や仲間に寄付を募り、終わった際にその金をチャリティに寄付する。

私は出場権を持っていたが、せっかく走るなら完走した際に寄付をと会社の仲間に頼んで2000ポンド(当時の円・ポンドレート180円位)36万円近くを集めた。

さて1年近くのハードトレーニング、ロンドンマラソンは4月22日日曜日。

金曜日の夕方、皆からの激励を受けて帰宅すると、14歳の息子が頭が痛いと言って寝ていると言われた。どうして頭痛か聞いてみるとスケートボードからコンクリートの床に頭から落ちた。私の声を聞きつけた息子はベッドルームから泣きながら来て頭が割れるようだという。すぐ救急車を呼ぶから早く着替えをしてと言ったらトイレに入ってすぐ意識不明になった。

私とポールの二人付き添いで救急車でルーシャムの救急病院へ運ばれ、レントゲンの結果頭蓋内出血で緊急手術。ここではできないからグリニッチのほうの病院へ転送するという。

もう夜も遅くあたりは真っ暗。初めての病院へ、私はタクシーで救急車の後を追いかけ、ポールは車を取りに行くと行ってしまった。

誰も居ない待合室でポールと二人朝の3時頃まで座っていた。やっと手術が終わったが、意識は戻らないから帰りなさいと言われて、病院を出た時は、あたりが青みがかってちょうど小鳥たちの歌声が姦しい。これはDawn Chorus(夜明けのコーラス)と呼ばれブラックバードの歌声が強烈。

帰宅しても心配で眠ることもできない。チャリティの寄付をしてくれる近所の人達にこのことを伝え、皆からそれでも頑張ってマラソン出場してくれと激励された。

日曜日朝、9時までにはグリニッチ公園内の出発地点に立っていた。私の前には9千人近くのランナーが並んでいる。ランニングクラブの仲間たちはこれこそ競争心むき出し。各自あっという間に散らばってしまい、誰も知った人はいなかった。

9時半出発のブザーがなっても人込みはほとんど動かない。グリニッチ公園の狭い門の中に大きな水たまりができていて、だれも靴を濡らしたくないから、迂回して細々と通っていく。私がその門を通るまでには10分以上もかかった。おまけに前の9000人の人達は仲間や友達同士横1列に走っていくから、通り抜けられない。ジグザグに隙間を走り、数キロ走ったところで、ブラックヒースの出発地点からの10000人と合流。皆お互い ウー、ウーと唸りあいしながら走っている。また少し行ったところでブラックヒース端の出発地点の10000万人と合流。とにかく道路は混雑している。

タワーブリッジへ行くと例の大騒ぎ、観客がエーイ、エーイと叫ぶとランナー皆がオイ、オイ、オイと呼応する。これがとってもおかしい。

ドックランドを走っているとおいしそうなベーコンを焼く匂いが流れてくる。早朝少しの朝食を食べた身にはあの匂いは恨めしい。きっと誰かわざとあの匂いをまき散らしているに違いない。

ロンドン塔の石畳はランナーの足に非常に悪く、石畳の上にカーペットをひいてある。ところが昨夜の雨でカーペットはぐしゃぐしゃ。ここではやっぱり足にけいれんが起きた。

ちょっと止まってストレッチして走り出し、ロンドン塔の塀をグルと回ると目の前にものすごい人の壁、まるで舞台に上がったような気持ちになる。そこからエンバンクメントへ向けてたくさんの応援団観客でものすごい歓声、だれの声も聞こえず見えず、友達がせっかく応援に来てくれたのに見つけられなかった。

あともう2㎞でゴールと言うときには疲れてフラフラ、そこらの道端に横になって眠りたいと思った。2日間の睡眠不足がたたった。2,3歩歩きかけ、一度止まったらもう動けないと思いなおして、またのろのろと走り出した。

エンバンクメントからバッキンガム宮殿の前を左に曲がって最終はウエストミンスターの橋の上。

よろよろと走っていると国会議事堂の広場の人込みに、いつもお昼に一緒に走ってくれていた、イギリス人の若者が私を見つけて呼んでくれた。思わずよろよろと彼のほうへ行きかかり、あっちに行くんだよーと大声で言ってくれ、あと3-400メーターやっとたどり着いた。4時間4分、クラブの人たちは私の走りでは3時間半と言ってくれていたのに。

ゴールでメダルとティシャツを貰い自分の衣服をもらってからは、電車とバスで病院へまっしぐら。

息子のベッドサイドには小さなテレビが置かれ、ナースが ほらお母さんが走っているよ と息子に話しかけていたそうだ。

息子は術後3日目に意識を戻したが、頭痛が激しく入院3か月、31年後の今でも右足を引きずる後遺症が治らない。

 

余りに長くなったから1991年のロンドンマラソンは次回に書きます。

 

 

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雪割草と奥能登の思い出

2021-03-20 16:50:31 | 思い出

私が毎日楽しみにしている日本からのブログに 髭爺さんのお散歩日記(https://blog.goo.ne.jp/21434higejiisann3/e/9833eaed2b6b251aaeefa465eaf2d0d8?fm=entry_awp)がある。

毎日素晴らしいお花の写真と子供たちの絵を見せてくれる。

その記事の中に雪割草の写真があった。彼の記事によれば北陸地方の山林に自生する花とのこと。父が田舎の駐在所周りの警察官だったため、小学生1年生から高校を卒業するまで奥能登各地を転々としていた私には、雪割草は全くどこでも見られる花だと思っていた。雪解けが終わりかけの頃、ぜんまいやみずぶきなど取りに行くと、林の水気の多いところには一面花が咲いていた。そんなことを思い出し、髭爺さんのブログにお邪魔してコメントを書かせてもらった。

そして今朝5時急に目覚めて目がさえて眠れず、あの花をどこかで見たようなとコンピューターに入れてある写真(2003年から現在までの)を調べ、2013年3月ポルトガルからスペイン、フランスを経て英国へ戻る間に、一日ピレニー山脈の谷間の自然公園を訪ねた時を思い出した。

 

冷たく澄んだ雪解け水が流れる川渕を上流に向かって歩くと、道端の草むらに懐かしい花が咲いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2004年から昨年までヨーロッパのほとんどの国をキャンピングカーで廻り、見かける花をいつも写真に写していたが、この雪割草はこのスペインで見たのが初めで最後だった。

それが昨年春わが家の前庭に小さな紫の花が2輪咲くようになった。植えた覚えがないのにどこから種が飛んできたものか。

 

 

このプリムローズもこのピレニー山脈の道端で写真を撮ったものだが此花はヨーロッパ各地の道端の春を飾る。わが家の庭にも数年前から一株花が咲き始め、今では庭のあちこち石畳の間などでも大きくなって花を咲かせている。

さて奥能登での懐かしくおかしい思い出。

私が高校生2年、3年を過ごしていたのは三井駐在所、ここは中能登穴水と輪島を結ぶ深い山の中で、2両編成の電車で輪島高校へ通学していた。

海辺の町村ではあまり雪は積もらないが、この山中、雪深く三井中学へ通学する中学生たちは3-4里もある自宅から通ってこれない。それで冬の間中、駐在所の隣にある町役場に20人くらいの中学生が寄宿していた。町役場ではトイレはあるが風呂が無くて、わが家の風呂を提供して1週間に1-2回入っていた。

2歳年下の弟はこの中学へ通っていたが、勉強嫌い。雪が深くなると父と二人でかんじきをはいて兎とりに行ったものだ。早朝ウサギの足跡を追って山中に入り針金で作った罠をかける。翌朝見に行って罠が首にかかって死んだウサギを持ってきて、その夜は確実にウサギ肉のカレーになった。

ウサギは雪深くなると食べるものが無くなって、雪の上に突き出ている杉苗の上を食べる。するとせっかく植林した若い杉苗は伸びなくなるため、町役場ではウサギの耳をそろえて持って行けば100円くれた。これは弟にとって素晴らしいお小遣い、毎朝学校へ行く前、せっせと山へ入って行った。

有る日の夕食にカレーライスの肉が違う。父母はにやにやしている。聞いてみれば鶏肉だという。どうして???と聞いてやっと判ったのが・・・・

その朝も弟は罠を見に行ったが、ウサギは罠ごと消えていた。あたりには狐の足跡、弟はその足跡を追って雪山を歩き、ある木の下に雪をひっかいた後があった。

雪を掘り起こしてみると、中から出てきたのが鶏だった。狐がどこかから盗んできて隠したものらしい。それでウサギの代わりのその夜はチキンカレーだった。

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ある老人の人生。

2021-03-08 05:56:56 | 思い出

今日 Japan Foundation主催の日本映画を英国人に紹介するためのズームで、日本の若手映画監督外山文治氏のトークと質問があった。

彼の作った 燦燦(さんさん)と言う映画のホンのさわりの部分で、高齢者たちが楽しく踊っているシーンがあった。高齢者の婚活だという。

これを見ていたらEさんのことを思い出した。

1981年私たちが買った家のお隣にはEさんとBさん夫婦が住んでいた。Eさんはこの年長年勤めたカウンセルの仕事から退職し、ゆうゆう自適の生活。彼らには一人息子がいるが、息子は鉱石学を大学で学び、南アフリカで仕事に就いた。当地で結婚して孫も2人いるが、遠く離れてはそんなに頻繁に会えない。

当時はスカイプやコンピューターなどもなく国際電話は高かった。

Eさんは多趣味で昔から息子とボートを作ったり、置時計や柱時計などを手作りしたりしていた。そして彼の一番の楽しみガーデニング。庭はそれほど大きくはなかったけれど、大小の花鉢で足の踏み場もないほどだった。

そして多分退職前から奥さんのBさんと二人でグリニッチのダンスホールへ通っていた。彼が80歳になる前に私たちは引っ越しして今現在の家に居たため、彼の80歳の誕生パーティには出席できなかったが、Bさんと二人で踊っている大きな写真を送ってくれた。スマートでとっても素敵なカップル。80歳と思えないほど若々しいカップルだった。

それから数年後、私たちが旅行から帰ってきて彼の家に電話すると孫が返事して、E さんはいないという。そして数日前のローカル紙を見てほしいと言った。

BさんはEさんより2歳年下、80歳ころから老人性痴呆になりEさんが一人で彼女の面倒を見ていたそうだ。ところが彼女はしばしば激しい腹痛を訴え、そのたびに救急車で病院へ運ばれていた。この夜も病院で調べても何もわからず、救急病室で眠っているBさんをビニール袋をかぶせて殺してしまった・・・・。昔から二人一緒に死のうと話していたからとEさんは言ったそうな。 EさんはBさんが亡くなったのを見届けてすぐそのビニール袋をもって自宅に帰り、親しい友達に死の予告をして、ビニール袋をかぶった。

友達が警察にすぐ連絡して、駆け付けた警官により死を免れたEさんは、その夜警察の留置所に送り込まれた。その留置所にはドラッグとアルコール中毒の黒人ばかりがたくさん入っていて、あんなに怖かったことはないと話してくれた。

一応殺人事件だから英国第一のオールドベイリー(最高裁判所)で裁判があった。私たち夫婦も1回だけオールドベイリーへ裁判を見に行った。

裁判所もEさんが86歳にもなって奥さんを殺しても世間には凶悪犯人ではないから入牢するわけにいかず、このベッケンナムにある巨大な精神病院へ入れることにした。

その間南アフリカから息子夫婦や孫も訪れ、Eさんの家を片付けて売ることにした。息子さんは何度も南アフリカを往復していた。

私達の家から車で20分くらいの精神病院へは何度もお見舞いに行った。別に彼が狂っているわけでもないが、自殺の懸念があるからと言う理由だった。

Eさんは3-4年の看護生活から自由になり、病院でも自由はないが楽しそうだった。一年を精神病院で過ごして退院し、有料の老人ホームのような施設で生活するようになった。息子夫婦は南アフリカへきて一緒に生活をと頼んだけれど、彼は2か月くらい息子の家族と過ごしてみたけれど、やっぱり英国がいいと帰ってきた。

この有料の老人ホームは、全く自由で、毎週Eさんは以前行っていたダンスホールへ通うことになった。どこの国でも女性のほうが長生きする。Eさんの行っているダンスホールも昔から知っている友達が多くそれも彼よりも若い女性が多い。91歳まで毎週ダンスに通い、男性が少ないから彼は壁の花になるチャンスがなかったそうな。彼より若い女性と言ってもほどんどが80台。

91歳の彼は一人でショッピングに行って、町のカフェーで昼食を食べるのが楽しみだと言っていた。ある日街中の有名な衣料店でショッピングしている途中に心臓まひで倒れ亡くなった。

なんとドラマチックな人生だっただろう。幸せな人生だっただろうか?

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1972年

2020-12-21 02:12:19 | 思い出

私が英国へたどり着いたのがこの年、1972年、京都の日赤病院で看護婦として7年働いた28歳。

早い人なら結婚して子供もいる人も多いに違いない。今考えてみるとなんて何も知らない無鉄砲な28歳だっただろう。英語もほとんどできないそして聞いても判らないこの私が訪英2週間後の6月1日英国一周のヒッチハイクに出掛けた。

初日はカンタベリーのユースホステルまで何人かの車の運転手に載せてもらってたどり着いた。何にも知らないというのは恐ろしいもの知らず、英国の気候がこんなに日本と違っていることを知らなかった。初めの予定では英国3か月でヨーロッパを一回りして南太平洋・ニューカレドニアへ行く計画だった。だからイギリスからヨーロッパは真夏の気候と思って持ってきた服も、夏の薄手の服ばかり。

この年5月、6月は雨が多く寒さが身に沁みる。小さなリュックに半そで着替えと薄いストッキング、そしてサンダル履き。初日のユースホステルで日本から持ってきたきれいで薄手のレインコートを盗まれてしまった。若い女性ばかりが一部屋でバンクベッドが並んでいたが、若い女性が人のものを盗むなんて夢にも思っていなかった。

翌日まずはレインコートを買い、親切な運転手何人かに拾われてコーンウォールのいり口付近のプリマスのユースホステルへ着いた。ここのユースで出会ったのが、カナダ人の若い男性(当時21歳)のBM君、彼も一人旅でのヒッチハイク、すぐ意気投合して翌朝から一緒に旅をすることにした。

カナダはバンクーバーの大学生のBM君 ホテル・マネージメントを学んでいる。今までヨーロッパやアメリカなどヒッチハイクで廻ったが、日本並びにアジアへは行ったことがないという。

二人で車を待っている道端では、彼は私のノートに英語のフレーズを書いてくれそれを暗記し発音なども教えてもらった。彼にはひらかなを教えた。ユースホステルでは日中にスーパーで買ったお米と野菜や肉で焼き飯を作ってBM君からは大いに喜ばれた。

この1972年は日本はオリンピックが終わって8年目、団塊の世代が20代の働き盛り、日本の経済が目覚ましく上昇気流に乗っていた時期だった。そんな時代に来た英国は経済が停滞していた時期で、カラーテレビなど無く、白黒テレビをレンタルしていた家庭が多かった。

有る時、BM君に私の実家にはカラーテレビが2台もあるのよ。1台はリビングルーム、もう1台はダイニングルームと自慢したところ、君たちは食事しながらテレビを見るの?僕たちはダイニングルームではクラッシックミュージックを聞きながら食事をする。と言われてとっても恥ずかしい思いをしてしまった。彼のカナダの家族は夏休みはメキシコへ行ったりアメリカへ行ったりする、ロンドンにお祖母さんが住んでいるから家族みんなで英国へも来る。との話。

日本が経済発展途上に有ったこの時期、夏休みの何週間を海外で過ごせる家族がいったい何組いただろうか?そう思ってみると、彼は育ちの良い礼儀正しいお金持ちの坊ちゃんだった。

6月21日が彼の22歳の誕生日、誕生日の朝食にも焼き飯をリクエストされたとこの時の日記には書いてある。金持ちの坊ちゃんでもこの旅行のために働いてお金をためて出てきたという。私もこれから先1年もヨーロッパや南太平洋を回るため、貧乏旅行をするしかない。

こうしてコーンウォールからウエールズを回ってチェスター、オックスフォードからロンドンへ出て、2週間でブライトンへ帰ったが、その1週間後またBM君とロンドンで落合いスコットランドへ向かった。もう英国の寒さには辟易した私はBM君からスペアーのセーターを貸してもらって、靴とズボンを買って出かけた。

それでもこの年は特別寒かったのかもしれぬ。親切な英国人は車に乗せてもらうと必ず 英国は好きか?と聞く。 英国は素晴らしいがこの寒さだけはたまらないと毎回答えた。 すると返事も全く同じで 今年は特に雨が多くて寒いんだよ。と異口同音。

スコットランドも2週間アバディーンからクィーンの別荘地バルモラル城を訪れ、エジンバラも見て回っていろいろ楽しい経験を積んだ。

BM君とは一度もけんかすることもなく、お互い教えあっての旅だったから、おかげでブライトンへ帰った時は英語がだいぶましに話せるようになった。BM君はその後カナダの家族がロンドンへやってきて一家全部でロシアへ旅行に出かけるとのこと。それで一月に1回は文通の約束をして別れた。

その翌年1973年3月に私はポールと結婚し、娘が12月に生まれた。1974年BM君は日本へ行き、北海道から九州までヒッチハイクで廻った。日本は素晴らしいところだと長文の手紙が来た。

その頃は私の子育ての真っ最中、日本の両親に書くのさえ大変な頃、英語で手紙など書けなくて、とうとう返事を出さなかった。

それで私たちの文通は終わってしまった。

今年11月、ちょっとしたきっかけから娘に、 フェイスブックで人探しができるかしら? と聞いたところ、探してみると言って BMと言う名前は非常にありふれていてどこにでもあるが、バンクーバーでホテル業のBMはただ一人と言う。そしてフェースブックからその人にコンタクトしたところ、3週間後に返事が来た。

同時に私のフェイスブックにBMは友達ですかと載ってきたから写真をクリックしてびっくり仰天・・・・48年の年月は彼を白髪のおじいさんに変えてしまった。それに彼は若い男性と一緒の写真が多い。なんと彼はゲイだった。

あまりのショックでその夜は眠れなかった。私もメールだけは送ったが写真は送っていない。

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ロビンソン・クルーソー と 棟方志功

2020-10-22 01:21:30 | 思い出

9月末までのコロナの感染者は毎日1500人ほどから7-8000人ほど、少しづつ増えていった。死者は少なく最低2人という日もあったが、多くて70人くらい。もう年寄りで体力のない人たちは死に絶えてしまったのかと思っていた。

10月に入ってから、コロナウイルスが大活躍し始めたらしく、毎日の感染者がうなぎのぼり、昨日の感染者数が2万人を超した。死者も100人台を保っていたがとうとう昨日は241人と発表された。最近の感染者動向としては英国の北部、マンチェスターやリバプールなどの若者に多い。若い人たちは自覚症状のないままに集団行動を好む人たちが多く、政府は感染防止に躍起になって、パブは10時までで閉めることと発表したら10時以降はパブの外でしつこく酔っぱらっている。

北部の病院は満杯で病床が足りないという。そのうちに英国南部へ移送が始まるかもしれない。公共施設ではマスクをすることが決められたが、しないと罰金100ポンドと言っても誰がその罰金を徴収するのか? いまだにマスクをしない人もちらほら見える。

 

最近身の回りを整理しようと思い、本棚からいらない本や読んでなかった本を引っ張り出した。このロビンソンクルーソーの本はもう20数年前英語の勉強をしようと買った子供少年少女向けの一冊。

若草物語や、赤毛のアンなどは当時夢中で読んだものだが、この400ページ近くのロビンソンクルーソーはどうしてかページを開けもしないで、本棚行き。

チャリティーに出す前に読んでみようと決心した。まずは前書き、作者のダニエル・ディフォーは1666年生まれ、今から534年も前の人。彼は若い時から政治揶揄する本などを書き多くの人達から嫌がられた。生前500冊以上の本を発行したが、有名になったのはこのロビンソンクルーソーだけだったという。彼は実際に海外を広く旅したことはなく、親しくなった船乗りから詳しく話を聞き、そこに彼の素晴らしい想像力をもってこの世界的に有名になった本を書き上げたとのこと。

この本は12歳前後の子供向きと思って読み始めたが、言葉が古い、まるで日本でいうなら中世の古書を読んでいるみたい。それに文章もあまりうまいとは思えない。ストーリーの展開が遅く、海上シーンが長々と続く、チャプター(章)ごとに分かれていないからいったいこの文章がどこまで続くのか判らない。2日目にしてお手上げ。

子供の頃に読んだ血沸き肉躍る冒険談は、彼の本をいやいや読んだ人が、上手に抜粋して子供向けに書き直してくれたものだと初めて分かった。今でも忘れられないのが無人島にたどり着いたロビンソンクルーソーが食べ物を探して、パンの実をとって食べたところ。子供心にいったいパンの実とはどんなものだろうかと不思議に思っていた。ここ英国のルーシャムのマーケットでそのパンの実なるものを見つけすぐ買ってみた。大きなグリーンの外側が固い実で半分に切ったものを買ってオーブンでローストにしてみた。特別おいしいものでもなく澱粉の塊と言ったところか。ただ一度だけの試み。

この本、心おきなくチャリティーショップへ上げることができる。

 

昨日 Japan  Foundation (日本基金)の 主催で棟方志功の作品の説明会がインターネットで有った。毎年このJapan  Foundation では日本の映画を見せてくれて、楽しみにしていたものだ。今年はコロナの影響で、会場に集まっては無理だが、今最高の技術 Zoom が素晴らしい。

説明は日本の棟方氏のお孫さんに当たる中年女性(名前を憶えていなくて申し訳ないがとってもきれいな人だということを記しておく)が日本からスライドを使ってお話しし、英国側ではその日本語を若い女性が的確に英語に翻訳して話される。

青森県出身の棟方氏(1903-1975)は子供のころから弱視で遠くが見えない。小さい時から絵が好きで、紙がない時は地面に絵を書いていたという。若くして絵描きになろうと上京して西洋画を学ぶが、弱視のため遠近法ができなくて、西洋画をあきらめ、昔からある日本の芸術、版画に目覚めて独学で彼独特の技法を確保した。

この本は私の本棚に長い間眠っていたもので、いつ頃手に入れたのかも覚えていない。

実際昨日の説明で感動し、改めて一枚づつ見てみたがこんなにコンパクトな本に入りきれないほど巨大な版画だと知ってなお感激。

この版画など一枚づつの版画の板が60cmx60cmでこの絵は6x7枚(42枚)の版画板からなる。これとて全部ではないはずだから、その巨大さは現物を見てみなければわからない。

彼の子供の頃のあだ名が世界一で彼はいつも世界一になるのが夢だったという。本当に日本だけでなく世界一になられた棟方氏でした。

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コロナウイルス拡大その後4月6日

2020-04-07 06:35:18 | 思い出

昨日は今年初めての暑さ、20度を超えたがコロナウイルスの蔓延はとどめを知らない。昨日は英国首相ボリス・ジョンソンが10日間の自宅隔離でも症状が好転せず、セント・トーマス(国会議事堂の川向)病院へ入院、今日は症状が悪化しているため、ICUに入ったとのニュース。このウイルス誰かれ構わず感染し、今では若者や子供は大丈夫などと言っておれない。

今朝は昨日と打って変わって薄暗く小雨が降り出し、傘をさして我が家から一番近い駅へ無料の新聞メトロを取りに行った。道端には3台の車が停まっていたが人には一人も出会わなかった。

この駅近くに昨年から新しいフラットを建築中だが、とうとう今週は建築中止になっていて、辺りは静まり返っていた。

駅へ着いてみると、メトロの新聞は無くて何時も行く次の駅迄歩こうと思って歩きかけたら、ロンドンからの電車が入ってきた。本当は歩けば運動になるだろうが雨の中を歩くのはあまり楽しくない。その電車で一駅すぐ飛び乗って2分でNew Beckの駅へ行った。車両は私一人、チケットを持っていなかったが、検査に来る人もいないし両方の駅も閉まっていて全く無人。ロンドンでは現在65歳以上(以前は60歳以上)はフリーダムパスと言うバス、電車、地下鉄が無料のチケットを貰っていて、どこへもただで行ける。

このいつも行く駅には確実にメトロがあって5部を持って帰った。

ロックダウンになった2週間前からごみの収集は生ごみ毎週一回、リサイクルできないごみを2週間に1回集めに来る。通りの各家の前庭には2週間前リサイクル用に出したプラスチックのごみが幾箱にも山積みになっておいてある。

ある家などワインのボトルでいっぱいだったり、ある所はソフトドリンクのボトルでいっぱい。こんなプラスチックのボトルは踏んで平らにすれば一箱にもっと入るのにと思うが、誰もいない。

最近の英国の住宅街の車のスピード規制は厳しくなって、時速20マイル(約30Km)ほとんど人も車も走っていないから、たまに走ってくる車は、異常なスピード。

私たちの通りへ入る4つ角は、最近交通事故は起きていないが、以前は4つ角の塀が壊されているのが普通だった。だからあのスピード、あの交差点で停まるだろうかと危ぶみながら歩いて行った。

毎週医療従事者に感謝の拍手をするようになったが、これはフランスで始まったものと言う。フランスに住んでいる日本人女性のブログhttps://blog.goo.ne.jp/junon57/e/80858c19d657d1b65b233eda9c5a1bcf

で知った。今日のメトロの新聞では医療従事者だけでなく、バスや食料運送の運転手、葬儀社の人たちにも感謝の気持を!!!。バスの運転手が5人もコロナで亡くなっている。

今日の英国の死者439人トータルで5373人も亡くなっている。これでもまだスペインやアメリカの半分、感染者も5万人を超えた。毎日の感染者数が減ってくるとやっと暗闇の先に明りが見えてくると言う。英国はまだまだらしい。

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ドラゴンボートレース

2019-11-01 23:08:28 | 思い出

私がまだ日系の会社で働いていた90年代の終わりころ、毎年ファン・ランと称してセントポール大聖堂の近くの川渕からウエストミンスター(ビックベン)の橋を渡って、南の川渕を一周するチャリティランニングをやっていた。

これは会社とは関係なく自然にできたクラブ活動で、その時に押されてキャプテンになったデビットG によそのチャリティ企画からドラゴンボートレースに参加要請が舞い込んだ。

ボートでこぐ人20人にボートの前で太鼓をたたく人ひとりの最低21人が必要。

ランニングで知っている若くて力のありそうな男性を集めたが、その時会社にできていたラグビークラブの男性10人ほどにも声をかけて出てもらうことにした。

 

 

ドックランドのドック(船が停泊するところ)はもう使われなくなって数十年。サッチャー首相が音頭取りしてこのドックランドをモダンなオフィイス街に変えた。

このドックの一つで日曜日の朝からレースが行われる。

若い独身の人たちが多く、総勢30人を超えた。太鼓をたたくのは私。男性群の中では紅一点何しろ私が一番軽い。

対戦するのはシティの会社や銀行など4社が集まった。

 

大きな男性20人と私が乗り込んで、出発点500メーターくらいのドックの反対に向かった。乗った初めからボートは水際迄10センチくらいしかなくちょっとの揺れでも水が入ってくる。

ちなみにこのドックの水は緑色をしていて、落ちたらやばいなーとは思っていた。

案の定50メーターも行ったところで船は沈んでしまい、皆救命具を付けているから水面に浮かんで、ワン。ツー、ワン。ツーと言っている。

応援に来た友達や家族は腹を抱えて大笑い。

 

 

助けのボートが来るまで、皆水の中で結構楽しんでいた。

 

さてもとに帰って乗組員の再編成。キャプテンのデビットGは皆を一列に並ばせ、”体重100㎏を超える人は右に出よ ””と言ったらラグビー部の6人が並び出た。それで対戦4回のうち一回に二人づつ載せあとはトータルで18人に絞った。

こうして4回戦、4連勝。

友達や家族は大喜び、もちろん戦ったクルーも大満足で、キャプテンのデビットGは習慣にのっとって胴上げされ、ドックの中に放り投げられた。懐かしい思い出、写真はまだデジタルになっていなかった時代の話。

 

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ラグビーワールドカップ

2019-10-26 18:33:59 | 思い出

私が英国へ来た1972年、ロンドン北部の亭主の友達の家にしばらく滞在したことがあった。

その家の16歳の少年は、母親がウエールズ出身で当時ウエールズはラグビーが強かったのだろう。

それまでラグビーなどというスポーツは聞いたことも見たこともなかった。

その年、日本からウエールズに日本の大学ラグビー部が親善試合にやってきてテレビで中継してくれた。その時のキャプテンは1979年私が日系の銀行に働き始めたときに、ある課の係長をして日本から派遣されていた宿沢氏。英国職員からヒーローと呼ばれ慕われていた。

テレビではウエールズのクラブが勇壮なクラブの歌を歌った後で、日本組は My Bonny lay Over the Ocean。と合唱して、16歳の息子から大笑いされた。おまけにその時のスコアーも目も当てられない数字だった。・・・・今でも思い出すと悔しい。

あれはいつのラグビーワールドカップだったのか。2人の日本選手が大きな外国人選手の両腕にぶら下がっているのにボールを持ったまま走っていたのは。その時のスコアーも90数対5 だったか。テレビのラグビー解説者が、もう一度でいいから日本がトライを決めてほしい。と言っていたのが思い出される。

4年前の日本が南アフリカを破った後、英国のメディアはこぞってGiant Killer (巨人殺し)と書き立てた。今回の8強まで残っての対戦も英国メディアは好意を持って書き立ててくれた。

2003年、私と亭主はオーストラリアへ3週間のホリディーに出かけた。

ヒースローの空港で搭乗を待つ間、設置してあるテレビの前は大変な人だかり。この時英国とオーストラリアの決勝戦が行われていたのだ。

結果を見ないうちに搭乗になって、それまでラグビーに興味を持っている様子に見えなかった亭主が, ”今日ほど飛行機が遅れてほしいと思ったことはない” としぶしぶ搭乗したのだった。

飛行機が離陸してしばらくして、キャプテンのアナウンスで ”今英国が優勝した。”

飛行機中が沸き立ったことは言うまでもない。

今日英国対ニュージーランド・オールブラックの対戦。こんなにエキサイティングで面白い試合を見たことがない。4年前の英国は初めの4回戦でも勝てず、あんなにみじめなチームは無いと思われた。、だから世界の名コーチ エディージョーンズ氏を起用したのだね。

私も亭主もオールブラックに勝てるわけがないじゃないか。と言ってたのに素晴らしい成績。

来週が待ち切れない !!!

 

 

 

 

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穴水町住吉の思い出

2019-07-08 07:09:29 | 思い出
昨日7月7日から大相撲名古屋場所が始まった。昨年あたりからNHK world (英語版)でも大相撲のある日曜日にはライブで見せてくれる。
朝9時10分から始まったライブではちょうど栃ノ心と遠藤の取り組み準備で、ベィビ―フェイスの遠藤がはにかみながら、石川県穴水町出身 と自己紹介していた。
穴水は私の心の故郷。この地で育った4年間は決して忘れられない。
 
石川県松任市(当時は松任町)から穴水に引っ越ししたのは私が小学校1年生の10月だった。
そのいきさつは下記のブログを読んでいただきたい。
 
https://blog.goo.ne.jp/reikoh6/e/9448ca5537e7dce6e2604b6b9f9f0a20
 
まだ昭和20年代、日本全体が貧しかった。
父は家財道具と一緒にトラックで来ることになっていて、私たち、母と3人の子供たちは石炭を焚いて走る蒸気機関車の汽車で穴水までたどり着いた。当時松任から穴水まで4-5時間はかかったと思う。
 
穴水からはバスで住吉の村はずれのバス停に降り立った時は、辺りは真っ暗。波の音が聞こえるほかは物音一つも聞こえない。遠くに住居らしき明りがぽつぽつ付いて、そこへ行くまでの道が見えない。
2歳年上の兄と5歳の弟と私7歳、母にしがみついて恐怖に震えていた。あの時の情景は一生忘れられない。
どれ程このバス停に突っ立っていたか、遠くの村のある辺りから、貨物3輪車がやってきた。ただ一つの明りが道路を照らしてあんなところに道があると判った。
 
足探りで村の方へ向かっていき一番最初の道端の一軒家で、母は駐在所の家内ですと案内を請うた。
その家から長いお蔵橋(長いと思ったのは私が小さかったから)を渡って駐在所についた。
近所の人たちが居間に薪をくべて煙もうもう、目が痛い。夕食を御馳走になっているころ父が着いた。
この駐在所は昔前田藩の米蔵だったところを改造して駐在所にしたもの、トイレ迄のガラス戸や天井に白いヤモリが張り付いていて、慣れるまではトイレへも母についていってもらった。
 
翌朝、真っ青に晴れ渡った。駐在所の前は道路を挟んで丸く青い入り江になっていた。山に囲まれた、小さな入り江と入り江に流れ込む川があった。家の後ろは垂直に切り立った崖で、そこの岩をくり貫いて滴り落ちる水を竹の樋を通して大きな水がめに溜まるようになっていた。
 
その水際に小さな赤いカニがいつもいて、あまりの可愛さに手で摘まんでは指をカニのハサミで挟まれて泣いたものだった。
 
駐在所の横の空き地の隣は米田さんという豪農のお家でその裏山は私たちの裏の続き、その山の崖にアケビが紫色に熟れて下がっていた。
トラックの運転手とその助手は昨夜我が家に1泊し、そのアケビを見つけて大喜び、若い人たちだったから崖をよじ登り、木に登り、たくさんのアケビをとってきた。
アケビなるものを見たのは初めて、真っ黒の種が多いが実は甘く、自然にとれるものは素晴らしい。後日このアケビは米田さん地の山のだと判ったけれど後の祭りだった。
入江は遠浅でお蔵橋の上からはサヨリの群れや、ボラが泳いでいるのが良く見渡せた。小さなタコは父がタコ釣りに行って毎日数匹捕まえてお弁当や夕食のおかずになった。裏山や入り江の向こう岸から山へ入ったところではキノコが毎年たくさん採れて、母は冬のお菜の為に樽に塩漬けにしていた。春にはふき、ワラビ、ぜんまいなどどっさり採れてこれらも一年中食べられるように塩漬けにしていた。
入り江にはトンビが舞って居て、大きなボラを直撃して両手で引き揚げ山へもっていこうとするが、ボラが暴れて誰かの家の屋根に落とし、トンビの落とし物と話が伝わってきた。
半農半漁のこの村には自動車が7台、どれも荷物を運ぶトラックや軽4輪、3輪トラックなどで、乗用車などどこにもなかった。当時5歳の弟は自動車狂い、家の中で見ないでもエンジン音だけで誰の車かが分かった。
 
入り江の向こうの山際に住吉小学校があった。初めて学校へ行った日の国語の時間にすぐ教科書を読まされた。母によれば上手に読んで、先生がほめてくださったとのことだが、その夜いつまでも同じところを読んでいる夢を見て長い間トラウマになっていた。
当時絵本も物語の本も買ってもらったことはなかったから、4年生を終わるまでに図書館の日本の民話や西洋の童話などほとんどの本を読破してしまった。
 
この住吉駐在所と穴水本署出勤の父は,当時民主警察を上げる日本政府の推薦で、若い警察官(父は30台)の民主教育のため、大阪の警察学校へ2-3か月づつ送られていた。帰宅前の1週間は毎日おやつに出るジャムパンを食べないでためておき、お土産に持って帰ってくれた。
それと2-3年生の時父が大阪から買ってきてくれた絵本美女と野獣は今でも絵を覚えているくらい、愛読してボロボロになってしまった。
 
学校へ行くのに海辺の脇を歩きながら,きれいな貝が欲しくて、腹ばいになって手を伸ばし、遠浅の海におちてしまい、着替えに帰ったことも在った。
学校の帰り山道をたどって歩くと小鳥の巣を見つけて、小さな雛の入った巣事持って帰り、母にこっぴどく叱られて、元にもどして毎日小鳥が巣立つまで通ったものだった。
学校側の山には開拓団が入り新しい村を作り開墾していた。時々道端に子ヤギが捨てられていた。真っ白の子ヤギはかわいく、どんなに飼いたいとねだって
も許してもらえなかったが、開拓団の人たちが引き取ってくれると安心したものだ。
夏は村の子供たちが皆集まってお蔵橋のたもとで泳いだ。秋には裏山の神社の森の椎の木に上って椎の実を沢山集めたことも在った。
真っ赤な赤とんぼの大軍を見たり、井戸に落ちたタヌキをみつけたり、村の半ばにある高い階段の上の神社は境内が鹿の子百合で覆われた。
駐在所にはお風呂がなかったけれど、村の風呂屋さんは村人が皆行っていたから、友達も多かった。
ほとんどすべての人が自給自足の生活をしていたから、村にはお豆腐屋さんと酒屋、米屋があっただけ。肉は穴水まで行かないと買えなかったが、新鮮な魚には事欠かず野菜も自家製、鶏を飼って新鮮な卵はお弁当のおかずになった。
 
私が小学校4年生を終わった3月に父は奥能登へ転勤になった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ポルトガルで思うことー2019年1月1日

2019-01-01 15:59:10 | 思い出

今から72年前の今日、弟が生まれた。

私はその時2歳8か月、この日のことをよく覚えている。まだ戦後2年しか経っていないその頃は、日本中が貧しかった。

国民のほとんどが飢えていた。父は戦争から帰って警察官として復職し、家族皆で松任市の片隅の汚い長屋に住んでいた。

お正月のこの日、私は誰からも説明されもせず、家の前に放りだされた。

何もわからないまま、家の中から聞こえるのは母の叫び声で、怖くて怖くて泣いていた。

近所のおばちゃんたちが、忙しそうに我が家の玄関を出入りしている。

誰も私のいることを気にかけもしなかった。

どれほどそこに居たのかは覚えていないが、どこかのおばちゃんが彼女の家に連れて帰ってくれた。

 

これが私の一番初めの記憶、今でも鮮明にあの汚い長屋や2部屋だけの家に土間の暗い台所とその横の臭いトイレを覚えている。2歳年上の兄はその時何処へ行ったのかは知らない。父は当時敗戦で無事帰還したものの男たちがほとんど陥る無気力症だったらしい。後で聞いたところでは、酒浸りで家には弟のおむつを買うお金もなかったという。

父の母、私の祖母に当たる人は金沢に住んでいて、こんな我が息子を見て泣いていさめたそうな。

そのおばあさんは私が5-6歳のころに亡くなっていて、祖母の記憶はないものの、お葬式だけは覚えている。

その界隈で、ポンポン菓子と呼ぶお米を膨らませてお菓子にして売っていたお家があった。ご主人はペンキ屋さんで宣伝の看板などを描いていた。その家のおばあさんが産婆さんで、弟をとりあげてくれた。

そんな縁からこのおばあさんにとっては、弟は彼女の孫とも思われたらしい。私や兄がお菓子欲しさに行くと、すごく意地悪そうな目をした小さなおばあさんは、”何しに来た ” と怒ったけれど、弟が行くと相好を崩して喜び、お菓子の崩れたものなどいつも呉れて可愛がっていた。

金沢の祖母がたまに我が家に訪れても弟はなつかず、私の孫なのにと泣いたというから、孫の取り合い、年寄りばあさんが張り合っていたのかもしれぬ。その頃の弟はカーリーヘアーに目が大きくて、とっても可愛かった。

両親にとっても末っ子はかわいかったのだろう。私や兄が何か悪いことをしたら、父からこっぴどく叱られたものだ。食事中におしゃべりしたとか、こぼしたというだけでも、父の象牙の箸の太いところで頭を叩かれた。弟だと全然叱られない。それで、私も兄も何かを壊したりしたときは弟がやったことにした。

 

今考えてみると当時の教育や育児は幼児虐待と言ってもいいかもしれない。同じ兄弟でも両親の子供に対する取り扱いがあんなに違っていたから。ただ父に関しては、愛情の表現ができなかったというのが本当のことだったろうと思う。

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ポルトガルで思うことー福井

2018-11-27 21:38:26 | 思い出

先日これもNHKWorldで福井県について、外国人に知られていないのは何故かという特集をやっていた。番組では福井県は味覚も冬のカニやとろろ昆布、和紙作りや鯖江市の眼鏡のつる、勝山市の平成大仏や永平寺など見所いっぱいという。

私は18歳から21歳までの3年間、福井日赤病院の看護学院で過ごした。当時の看護学院は全寮制で、一部屋に5-6人の学生が寝起きし、勉強していた。

私の年齢昭和19年生まれは、戦時中で出生率も最低だったから、田舎の中学では一学級のみで34人、高校生でも輪島周辺からの全生徒で5学級250人(200人かも?)しかいなかった。

看護学生もご多分に漏れず16人だけだった。 私が看護学生3年生の時の1年生(昭和21年生まれ)は急激な戦後のベビーブームの走りで生徒数も急激に増えた。

私ともう一人奥能登出身のKさんは金沢赤十字病院からの委託生で、卒業後金沢赤十字病院で最低1年は働くべく義務付けられていた。

当時の寮の一部屋は15畳の和室で真ん中に小さな囲炉裏があり、寒い冬など囲炉裏の周りに布団を敷いて炬燵にして眠っていた。部屋の一方は小さな机と扉のついた棚が人数分だけ並び、反対側は布団と私物を入れる押し入れが並んでいた。

今思い出してみるとあの冬の寒い中でも、白衣の下の白のセーターと白い毛糸編の膝までのパッチで寒い冬を乗り越えてきたのは、我ながらすごいと思う。特に風邪をひいて寝込んだなどということもなかったから、若いということは環境に適応できるものだ。

看護学生も3年生になると、一日の半分は実習と称して病室や、外来患者との接触が始まる。そして午前中は教室での勉強に、一週間に一度毎週木曜日は試験があった。

それで水曜日の夜は全員徹夜で復習することになる。だから毎週水曜日だけは消灯時間がなかったが、1年生、2年生の時は消灯10時と決められていて、3年生の週番が見回りに来たものだった。

この毎週水曜日も徹夜と言っても机に向かって居眠りしている時間の方が多かったかもしれない。

ただ水曜夜だけは誰も布団を敷いて眠るということがなかった。

ある水曜日の夜、あまりの眠さに私たち一部屋の学生全員ひと眠りすることにした。両隣の同級生の部屋ではもちろん誰も寝ないで、机にしがみついている。両隣に明け方5時には起こしてもらうよう頼んで5人とも布団に潜り込んで寝てしまった。

はっと目を覚ましたのは朝の7時、誰も起こしてくれなかったのだ。

試験が始まる9時までもう必死。誰も一言もしゃべらず、動かず、ノートや教科書とにらめっこ。

この日は産科学の試験だった。当時の先生は産科の主任医師で、非常に教育熱心な田中先生だった。

試験は日ごろの成果?が上がって20分で全部書き終えた。もう何もすることがない。書き終えてすぐ教室を出ていくとの発想はそのころにはなかったから、じっと試験用紙を眺めているのも飽きた。それで試験用紙の下の空白に昨夜の同級生の裏切りや、いかに2時間を過ごしたかを書き綴った。空白の足りない部分は裏を参照と書いて、裏一面にその夜のことを書いて時間つぶし。

その田中先生は私の作文を大いに楽しんだらしい。それ以降試験には別に白紙を添付し、なんでも感想を書くようにとのお達しだった。

卒業後も田中先生とは何度か連絡し、ご自宅まで伺ったこともあった。もう20年ほど前消息を探してもらった時に他界されているのを知った。たった16人の同級生ももう3人も他界し、一番親しくしているただ一人の友達は椎間板ヘルニアで4月から寝込んでいたという。やっと最近両手に杖を突いて歩けるようになったと聞き、私たちもおばあさんになったものだとひとしきり感慨にふけった。

 

 

 

 

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