ポルトガルを去るこの日3月11日朝8時に目覚めと同時に日本での大地震、大津波のニュースがBBCで報道された。この2日前、アメリカのテレビニュース(CNN)を見ていたらニュース速報で東京沖大地震とテロップが入り、大騒ぎであらゆるニュース番組のチャンネルを回してみたがそれっきり音沙汰なし。東京で大地震だったら日本崩壊だと心配していた。だから2日後のこの朝のニュースを見て"ああやっぱり”という思いが強かった。私は英国に落ち着いてもうすぐ40年、ワールドカップやオリンピックなど英国を第一に応援するのにこの朝ほど自分が日本を愛していると自覚したことは無い。
それから2時間NHKのニュースを涙ながらに見ていたが、いつまでも見ているわけには行かぬ。
グアルダからスペイン国境まで40Km、高速道路でスペイン国境を越え、国境からサラマンカまで112km、そのまま無料の高速道路をひた走る。途中に駐車休憩所が在り、道路わきの林にたくさんのコウノトリの巣があった。今までコウノトリは煙突や教会の屋根、電柱の上などに巣を作るものと思っていたがやっぱりコウノトリといえども鳥だ。集団でこの林にコミュニティを作っている。それにしてもやっぱり巣の大きさが違う。夫婦でせっせと木の枝を運んできて巣作りにいそしんでいた。
途中から道路わきにカラフルな等身大の牛の置物が見られるようになった。これらは数年前ロンドンの街角に飾られた模様入りの牛で、オークションで売っていたことは知っていたが、まさかこんなところでこの牛たちを見かけるとは思いもよらなかった。
キャンプサイトはサラマンカの郊外で町へはバスでしか行けない。午後二時ころにはサイトに落ち着き、何はともあれ衛星放送を最優先で設置してもらい丸2日間釘付けだった。
スペインの内陸は英国と気温も変わらず、アルガーヴや南スペインで1月中花盛りだったアーモンドの花が今を盛りに咲いている。
サンタンデルから英国へ向かうフェリーを予約する際、帰国前にビルバオへ行くつもりで計画を立てたが、途中で変更したため出港までにまだ3泊も過ごさねばならぬ。ゆっくり北へ向かうのに冬でも開いているキャンプサイトを探し、コミスタ(Comista)から高速道路を降りて田舎道をキャリオン・デ・ロス・コンデスへ向かった。
高速道路の両側はピンクのアーモンドの花が満開であたり一面が白っぽく見える。この風景は1月末から2月にかけ、スペイン、ポルトガル南部でよく見たものだ。一月遅れの春がスペイン北部へやってきた。
コミスタから西へまっすぐ伸びている道路わきには、舗装されていない土の道が平行に伸び、通り過ぎる村々には大きな教会や修道院が見える。そしてこの土の歩道にリュックを担いだ人たちが一人だったり、グループだったりが歩いている。この日は小雨が降っていて、ほとんどがビニールのカバーをかけたリュックを背負って同じ方向へ歩いてゆく。
キャンプサイトへついた午後、町の探索へ出かけた。この町にはサンタマリア教会ほか7-8軒の教会が散らばり、立派なホステルが立っていた。ちょうどインターナショナル・ホステリングのマークのある立派な建物の前に来たとき、この疲れきった男性がホステルへ入っていった。
彼らはフランスのSt-Jean_De-Port からピレネー山脈を越え、スペインの西サンティアゴ・デ・コンポシテーラ(Santiago de Compostela)までの800Kmを歩く巡礼なのだ。この町はカミーノ(Camino)と呼ばれる巡礼道の中間に当たりサンティアゴまであと400Kmのサインがあった。
下のホステルは女性用のホステルで尼僧修道院が運営している。
私がロンドンの日系会社で働いていた頃、同僚の日本人女性と彼女の英国人夫は休暇の度にこの巡礼道を歩くのを計画していた。今回この町に興味を持ってインターネットで調べてみたら、ヨーロッパ全土から巡礼が訪れるという。それにブラジル人作家パウロ・コエロ(Paulo Coelho)の巡礼(Pilgrimage)が有名になりブラジル人に巡礼者が多数見られるとのことだ。完歩するのに30日はかかるというからせっかち日本人にはとっても無理。
サラマンカの3日目、雨の日曜日朝10時のバスで町の見物に行くことに決めた。バス停で急に思い出したのはスペインはポルトガルと一時間差が在るということ。丸2日間テレビはNHKばかり見て、誰とも話していないから今だにポルトガルの時間だった。バスは2時間に一本しか来ないから後一時間待たねばならぬ。
12時のバスで町のメインバス停についた。ストリートは長い石廊になっていて雨が激しい今日はとってもありがたい。
石廊の途切れたところで前方に巨大な教会が見えた。ここはサン・エステバン(女子)修道院でちょうどお祈りの時間だった。教会で祈ったことの無い私だが、この日は日本の為に心から祈った。
この旧市街には教会や大聖堂、修道院がひしめき合っている。それぞれ12世紀から18世紀までの歴史的建造物で、雨の中でも観光客と教会で祈って出てきたスペイン人で賑わっていた。
旧市街の車禁止の道路わきには、お土産屋さんとレストランそれにこの巨大なハムを売る店が軒を並べている。
マヨール広場は四方がアーケードになっているスペイン一美しい広場といわれる。ここは18世紀の建物で、北側は市役所になっている。この日雨のためもあってアーケードが込み合いアーケード内のレストランもひどい込みようだった。
二匹の犬を連れた婦人はかわいい犬たちがぬれてはかわいそうだと思うのか小さな帽子に傘までかぶせて、道行く人がみんな立ち止まってみていた。こんな人は死んでも愛犬に遺産を全部残すのだろうなー。
カテドラルは新旧隣り合っていて古いほうは12世紀建立、新しいのは16世紀に図案作成から18世紀に完成したというから気の長い話だ。正面ドアの彫刻は当時では超モダンな図案といわれたそうだ。残念ながらどちらも閉まっていて内装が見られなかった。
この大聖堂の近くスペイン一古い大学が在るというが、雨と2時間に一本のバスでは帰りが心配で、あせって4時のバスで帰ってきてしまった。又いつかここの近くへきたときはゆっくり周ってみたいものだ。
スペインの北部には西から東に向けて、2200から2500メーター級のコーディリエラ・カンタブリカ山脈がそびえ、どの山の峰も3月といえども白銀が輝く。気温は低く南スペインとは10度以上の温度差があった。それでこの夜キャンプしたアグイラ・デ・キャンポーのサイトは松林の中で色を添える花一つなかった。
スペインのキャンプサイトはポルトガルよりも各段に高いが、値段に比して設備はよくない。このサイトも19.1ユーロもしたのにシャワーもなく、食器洗い場も洗面所にもお湯も出ない。夜間はトイレの電気もつかず、これならどこかの空き地で野宿するのも大して変わりない。ただ電気をひいているからテレビが見られ真夜中までNHKを見ていた。
このサイトの犬はかまって欲しいのかキャンパーの周りをうろうろし、外に出てみると入り口で脱いだ突っ掛けが片一方だけ無い。”あのいたずらめ”と追いかけていったら50メータほど離れた彼の住処の前に放ってあった。キャンパーの窓から洗濯物を干したら飛び上がってティーシャツを引き落とし、どこかへ引きずってゆこうとする。私が怒るものだからこのいじけた目つきがおかしい。
このアグイラーの町は城下町で城のふもとに城砦で囲まれた旧市街が見えた。しかし天気が悪く寒くて観光どころじゃない。サンタンデル目指して風雨の中を走った。
サンタンデルの郊外にあるキャンプサイトへ行ってみた。受付が閉まっていて英国ナンバーのキャンパーが4台停まっていた。たまたまシャワールームから出てきた婦人が、”こんなに高くてひどいところは無い’”電気代4ユーロで電圧が低くてお湯も沸かせず、シャワーはコントロールが利かなくて熱湯か冷水、そして一泊27ユーロもする”という。
諦めてサンタンデルの町の中心へ行くことにした。
途中に犬を預かるホテルなのかそれとも捨て犬の収容所なのか金網の向こうにたくさんの犬が居ていっせいに吠え立てた。捨て犬にしてはどの犬も立派だけれど、預かっている犬をこんなに一緒くたにして置くのはおかしい。
帰国の前夜はこの宇宙船のようなスポーツセンターの駐車場でキャンプして、翌日夕方サンタンデルから出航した。豪華なフェリーだけれど、24時間のうち20時間くらいは寝ていたから、あまり思い出が無い。
翌日18日の夕5時半にポーツマスの港に着き、一目散にロンドンへ向かった。あたり一面桜と水仙が満開で久しぶりの夕焼け、やっぱり英国はいいなーと感無量だった。
4ヶ月半にも上る今回の旅でも帰宅してみれば、まるでどこへも行かずにずーと生活していたような気がする。まずは無事に帰って来れたことに二人で乾杯!!!
8月26日一ヶ月の予定でアイルランドへのキャンプ旅行に出発した。日本は7-8月は猛暑で熱帯夜が続いているとの事、ロンドンの8月は一日中晴天の日が5日しかなかった。Tシャツで歩き回れる日が少ないのは毎年のことだけれど、家庭に冷房装置が要らないことだけがよいことかも知れない。それにしてもこの日の天気はひどかった。
ロンドンから西にまっすぐ高速道路で210マイルの南ウエールスの最突端ペンブロークまでほとんど雨、午後4時過ぎペンブロークの港に一番近いキャンプサイトにたどり着いた。ほんの少しの晴れ間に海岸へ行ってみたが強風、寒風で数分で帰ってきた。海岸は砂浜が長く伸びて、晴天ならば夏休みの終わり前、最後の夏を楽しむ家族連れでにぎわうはずであろう。
此の夜のテレビニュースでは英国のあちこちで洪水、スコットランドの北ででマイナス2度になったとの事だった。
いつもキャンプ旅行の前には持ってゆくものすべてのリストをチェックするのだけれども今年7月に4週間の南英国(デボン、サマーセット、ドーセット)へ行った時に飲み水の容器を忘れ、当地へ行くまでお茶も飲めなかった。今回は忘れないよう容器をキャンパーに積んでおいたが、水を入れるのを忘れ、高速道路の休憩所でお茶を作って休憩するのに、水が無かった。3箇所目の休憩所でやっと水道を見つけ、昼食休憩をすることができた。こんなことは今まで無かったので,慣れとは恐ろしいものだと思う。もしかして年のせいか?
翌朝は打って変わった青空でペンブロークから南アイルランドの東南のロスレアの港までフェリーで3時間半、海は凪いで船酔いをしなかった。
5年前10月から11月の1ヶ月北アイルランドから南アイルランドまでを一周した。その時はウエールズの最北端のホリーヘッド(Holyhead)から首都のダブリン(Dublin)までフェリーで渡ったのだけれども、港を出た途端から激しい揺れで3時間半をひどい船酔いで、洗面所から一歩も出られなかった思い出がある。元船乗りだった亭主は今まで一度も船酔いしたことが無く、同情心も無い。それ以来両手首のつぼを圧迫すると船酔いしないというサポーターを使っていて、北欧やアイスランド、ギリシャからイタリアのフェリーには必ず使っている。それでひどい船酔いをしないのだと思うが、亭主は笑ってあんな池のように波の立たない海で揺れないもの、酔うわけ無いじゃないかという。
ペンブロークの港からアイリシュ海に乗り出すまでは、大小の島や半島に囲まれた静かな内海を通り、ウエールズのきれいな町並みや、岬の灯台、小島の城砦などを楽しみながら通り過ぎた。アイリッシュ海ではソファーで寝ていったので、時間は意外と早く過ぎた。
一番最後の写真がロスレアー(Rosslare)のフェリー港でまったく田舎の港だった。ペンブロークでもロスレアーでもパスポートを一度も提出することなく通り過ぎた。
ロンドンのボンドストリートの裏側にアイルランドの観光局のオフィスがある。出発の前日ここでアイルランドに関する資料をもらいに行って、キャンプサイトのガイドブックをもらった。
9月に入ればキャンプ場もシーズンオフの料金になる。それでも英国やフランスの盛夏の頃よりも高い。おまけにほとんどのキャンプ場がシャワーも別料金を払わねばならない。
アイルランドも英国と同じように経済危機で物価が高く、特に食料が高い。スーパーマーケットも小売店も値段は変わらない。これというのも小売店を保護するため大量仕入れで値段を安くできるスーパーがダンピングできないようになっているとか。
5年前にここアイルランドを回ったときは、値段がユーロとアイリシュ・ポンドの二本立てで書かれていた。ユーロもすっかり定着して今ではどこにもアイリシュ・ポンドの表示は見えない。相変わらず頑固なイギリスはEU 加盟は長いながら通貨をユーロに変えない。
アイルランドは日本や英国と同じように右運転だが、ガソリンやディーゼルの値段だけはずいぶん違う。燃料タンクを満タンにすれば毎回10ポンド近くの差が出てくる。これというのも英国では燃料に対する税金がやたらと高いせいだ。
さて初日のキャンプ場はロスレヤーの港から近いSt Margaret'sというところで過ごしたが、そこまで行く道路のひどいこと。一車線の田舎道で一応舗装はしてあるのだが、いたるところに大きな穴が開いていてキャンパーの中の家具がばらばらになりそうな音を立てていた。サイトの周辺は海岸や湖があってウオーキングには最適と言われたが、帰りのフェリーに乗る前ここで2泊して歩くことにして、今日はティポラリーを目指した。
港とティポラリーの中間あたりにアイルランドの有名なウオーターフォード・クリスタルの町がある。後に残るようなお土産は買わない主義だから見に行くつもりも無かったが、そのウオーターフォードの手前数十Kmにあるニューロス(New Ross)の町にロスタペストリーがあるとガイドブックにあった。
通り道で特に先を急ぐたびでもないから、駐車場にキャンパーを停めて行った所がこれらの写真だ。
タペストリーと謳っているが実際は精巧な手刺しの刺繍でこの地域の歴史を10枚の絵に現しそれを刺繍して展示してある。これらの写真は玄関広間の展示室で一部を見せてくれるだけで、実際の10枚の絵は入場料を払い、奥の部屋で絵の説明をイヤホーンで聞きながら見て歩くのだが撮影禁止で残念。
アイルランドは太古の昔からゲーリック人の住む農業国だったが、9世紀から12世紀はバイキングの侵略、12世紀から16世紀にかけノルマン人の侵略台頭、19世紀から20世紀は英国の支配下にあった。
これらの刺繍は色彩の美しさといい、デザインの大胆さといい、将来観光地の重要な見ものになると思う。まだ10枚の絵のうち5枚しか刺繍画が完成していなかった。
このロスタペストリーの建物の向かいの川淵に停留してある帆船は、英国がアイルランドを支配していた頃に発生したPoTato Famine(1845-1852)で、多数のアイルランド人がこの船でアメリカに移民したものだ。
ポテト・ファミン(Potato Famine)というのはヨーロッパ人の主食のジャガイモが薯の病原菌に犯され腐ってしまい、主食が入手されず何百万人の貧民が餓死したという。この時期支配していた英国はビクトリア女王の時代でアイルランドは英国に搾取されていたため、生き残った貧農はほとんどアメリカに移民したものだ。アメリカの人口の多数はアイルランドの末裔で今回の旅でも多くのアメリカ人旅行者に会った。
私がアイルランドのポテト・ファミンを知ったのは今から15年程前だった。一年に一度開かれるロンドン北部の陶芸展でアイルランド人の女陶芸家の作品は小さな人間の頭をぎっしり並べたもので、いろいろな顔が天を向いて叫んでいる。
これはいったい何かと聞いたところ、ポテト・ファミンの話をしてくれた。あの小さな人形たちの表情は忘れられない。
ウオーターフォードのバイパスからティポラリーのりんご園(Apple Camping)に着いた。ここは政府の農業プロジェクトの一つで、ティポラリーの山に囲まれた盆地の平野に何十エーカーも果物が植えられている。特に多種類のりんごの木が植えられていて、今がその収穫時期。キャンプサイトはこのりんご園の真ん中に巨大な小屋が3つ並んでいてその中の一つにオフィス、トイレ、シャワー、洗濯場、皿洗い場までが設置されていて、アイルランドのキャンプ場では一番安かった。
小屋の一つはこの地で取れた、野菜、果物それにりんごジュースの瓶詰めやりんご酒などを売っており、絶え間なくショッピングに訪れた人たちで賑わっている。
キャンピング客はこの中の敷地を自由に歩き回って、りんごや果物を試食してもよいとの事で、いろいろな種類のりんごを試したりプラムや梨などもとって楽しんだ。小屋の中にはりんごを圧搾してジュースを作る大きな機械があり、絞ったジュースに(そのままでは味が薄いから)クエン酸を加えて瓶詰めにしている。このりんご園で売るだけでなくあちこちに出荷されている。
りんごの木はどれも私たちの手の届く大きさで,収穫時の人手を考えればすばらしいアイディアだと思う。小さな木に鈴なりのりんごで、作業員に聞いたところ、アイルランドは雨が多くて根元は水に強い種類の木に幹はほかの種類を接木し、高さ1メータくらいでまた違う種類を接木して小さいままで多収穫を図っているそうだ。だからりんごの根元が象の足のように太い。
イチゴも地面に直植えでなく、摘みやすいように高く長い橋のうえに並べた箱(写真右下)の中に植わっている。そして長いホースが走っていて水と肥料を供給している。さすが政府の研究機関だと感心することしきりだった。
小屋の天井はツバメが飛び交い、雛にえさを持ってくる親鳥が巣に近づくときの雛の大騒ぎで日中はとってもにぎやかだ。ロンドンではツバメを見ることが無い。
一日りんご園の周囲の農道を散歩に行った。野うさぎが飛び出したり、羊や牛の群れが広い牧場いっぱいのんびり草を食んでいる。動物たちの冬の飼料のための牧草が刈られ丸められて転がっているのはいまどきヨーロッパ全部の農地で見られる風景だけど、この草をおにぎりのように丸める作業はここアイルランドではじめて見た。どこも巨大な機械作業だった。
この春生まれた牛の赤ちゃんはやっと乳離れして母牛から離され、耳に身元証明書をつけていてまるでイヤリングのようでかわいい。
りんご園を去るこの朝、まだ8月30日だというのにこの寒さはどうだ。スリーピングバッグの中で体が冷えてくる。今年初めての電気ストーヴを入れた。リンゴ園から車で20分ほどのカヒアー(Cahir) の町に古城があるので寄り道してみた。観光バスでの団体はアメリカ人であろう。駐車場がキャンパー禁止で駐車できなくて、城の外側だけ写して急いでリメリック(Limerick)へ向かった。アイルランドの建物はカラフルで通り過ぎる町や家々は写真を写すにはとってもいい。
下の赤い木枠にわら屋根の建物はパブ。どんな小さな町や村にもパブの無いところが無い。それにこの南西のあたりはほとんどが一戸建てのBBできれいな平屋建てがぽつぽつ建っている。
ゴルウエー(Galway)に行く途中から海岸線へ向かい今夜のキャンプサイトはドゥーリン(Doolin)を目指した。海岸線の細道で対向車が大型キャンパーやトラックだとひやひやする。Doolinは私たちの地図には載っていない小さな田舎の村で、アイリシュ観光局のキャンプ場リストにあったもので、何度も道に迷った。
アイルランドも英国もほとんど高い山が無く、きれいに企画された丘やフィールドは牧場が広がっている。道端はいたるところにCrocosmia (姫扇水仙)のオレンジ色で染まっている。
ドゥーリン(Doolin)は海岸の最先端がアラン島(スコットランドのアラン島とは違う)へ行くフェリーの発着場になっていて、観光バスが狭い道をやってくる。このフェリー発着場のすぐ近くに石垣で囲まれた相当広いキキャンピングサイトがある。シーズンオフに近いこの時期キャンプサイトには10台に満たないキャンパーやキャラバンが停まっていた。そのすぐ横の駐車場にもキャンパーが数台停まっていて、夜間のキャンプ禁止の立て札があるにもかかわらず、ドイツや英国車がキャンプしていた。
この海岸は波が荒く多くの若者がサーフィングしている。これらのキャンパーは彼らのものらしい。
周囲の巨岩は正方形や長方形でまるで石切り場のようだが、天然自然の妙味だ。これらの石が6角形だと観光客がぐんと増え世界遺産になるところだが、これほど平らでは人目を引かないらしい。広大な海岸線が平たく、まっすぐに亀裂の入った岩棚になっている。
海岸と牧場の仕切りは岩を積み上げた石塀で(写真右下)このような芸術的な石塀が延々と続いている。こんな作業をした人たちの苦労がしのばれる。
ドゥーリンの村はこの岬やキャンプサイトから2Kmほど内陸に入ったところで、きれいなBBがあちこち点在し、お土産店が3軒パブも3軒、アイルランドで一番有名なパブと宣伝しているから行ってギネスを飲んだ。パブのギネスは缶のギネスとは比較にならないおいしさでこれだけでもアイルランドへ来た甲斐ありというもの。
パブの庭で日本人女性2人に会って話した。私くらいの年齢で、日本でゲーリック(アイルランド語)を習っているので10日の個人旅行だと言う。英語ではなくゲーリックとはなんと珍しい人だ。ゲーリックは読めるけれど、言っていることはぜんぜん聞き取れなく会話はできないとのこと。
土地の観光バスで一日観光に来たそうだが、ここドゥーリンのパブは休憩地であるらしい。
村を流れる小川は一見どこにもある普通の川で何気なくこの写真を撮ったものだが、後にここクレア州の一番の観光名所Cliff of Moher(モヘアの崖)の観光案内によれば、この川底の下に長い洞窟が延びているそうだ。
英国へ帰るフェリーの出航日までまだ9日もある。いつもは片道切符なのだけれど今回は一ヶ月と決めて往復の予約をしてあった。後は2箇所を行けば予定のコースを全部見ることになるので日日が余る。せっかく釣竿を買ったことだし・・・とまた50マイル北のベア半島へ戻ることにした。
お昼にはゴルフコースのキャンプサイトに落ち着いて午後1時ごろが満潮とて、初めて自分の釣竿で釣ってみる。この日は40匹ほど釣り上げた。針は疑似針で5つ下がっていて、いっぺんに5匹がかかったことが2回あった。とにかく興奮する。こんなにエキサイティングなことを長い間忘れていた。
キャンパーの横で鯖をさばくと汚れと匂いがひどく、翌朝はあたり一面に真っ黒の大きな蝿が群がっていた。消毒剤を撒いてやっときれいにしたので、今回は海辺の岩の上で3枚に下ろして頭や中骨、内臓を海辺に投げ捨てた。目の鋭いカモメたちは、私を遠巻きにして狙っている。全部処理して、海水で洗い流し、そこを離れた途端のかもめの奪い合いは、壮観だった。
翌日は慣れないことをしたものだから右肩や腕が痛い。それでも50匹ほど釣り上げ、小さいのは海に返して30匹ほどを冷凍にした。キャンパーの冷凍庫がほとんど鯖で埋まってしまった。
アイルランドに来て6日目、珍しくよい天気が続いて今朝も晴天、風は身を切るように冷たい。今日はこの州で一番の観光地Cliff of Moherへ向かった。ドゥーリンからずっと上り坂の道を南下し、下り坂にさしかかって”さては通り過ぎたか”と不安になった頃に道端の大きな看板が目に付いた。
広大な駐車場で入場料を払い冷たい風をまともに受けながら崖に向かった。(8月の日本の避暑地にぜひお勧め)幾重にも岬が突き出し、一番近い岬には城砦が建っている。この寒風の中幾重もの岬へ歩く人たちの姿が点のように見える。
歩道はよく管理されて、石切り場から切り出してきた大きな石板を立てかけてあり、この石板は歩道の海辺側全部に立てかけられているのでいったいどれほどの数の石板が使われているものか?
Eco Friendly Visitoe Centre (観光センター)やお土産店は崖をくりぬいたすばらしいもので、大西洋の生物や地域の風景などの写真展や映画も見られる。ここでドゥーリンの10kmにも及ぶ地下洞窟の説明や写真もある。
下2枚の写真はプロが写した航空写真でさすがプロフェッショナルだ、逆立ちしてもこの域にはたどり着けないとつくづく思った。
モヘアーの人魚と言う民話があるそうで,読んでみればまるで日本の天女の話(天の羽衣)とほとんど同じ、こんな遠く離れた国でもよく似たような民話があるものだと感心した。人間の夢や希望には国境が無いということだろうか?
Cliff of Moherを出てまっすぐKilkee へ向かった。道はオレンジ色の野草が満開,崩れた教会や、城砦が見え隠れする。この地方の建物はとってもカラフルでおまけに崩れたあばら家を見かけたことが無いので,皆裕福な人たちばかりかと思ってしまう。
Kilkeeの町(右下)は我が亭主が50余年も前ウエールズ人の友達と何度もダイヴィングに来たことがあり、亭主は懐かしさのあまり一方通行の街中を走り回ったが昔の面影が全く無いとがっかりしていた。その頃は海岸に沿った一本道にパブとダイヴィング・ショップがあったそうな。
キルキー(Kilkee) からリムリック(Limlick)迄シャノン河口が広がっていて途中のキルラシュ(Kilrush)からフェリーで南へ渡ることができる。フェリーポートへ行ったらちょうど出たところで、一時間待ちの間に昼食をクックしてお茶を沸かしてのんびり待った。
アイルランド人は大変友好的な人たちでどこで会っても挨拶をしてゆくし、街中をゆっくり走っているときでも手を振ってくれる。人々がそうだからって、カラスまで人なれしたのかキャンパーの傍で”お腹がすいたよー”と鳴きわめく。ギャーというたびに羽を震わせいつまでもしつこく喚いていた。
フェリーの上でキャンパーの横に停まっていたトラックには、子牛が乗っていて柵の間からそっと外をのぞく。子供も動物も同じだなーと思って写真を撮ったが、母牛から離され、心細く思っていることだろう。
Tralee の町はケリー州の比較的大きな町で、キャンプサイトが町の中心から歩いて10分ほどにありそこで2泊した。と言うのはアイルランドへきて3日目にコンピューターが壊れてしまい、写真が入れられない。コンピュータ修理の店がこの町にあると言うのですぐに持って行ったからだ。
トゥラリー(Tralee)からカースルグレゴリー(Castlegregory)までは20km田舎の細道を走り、途中で食料補給してもお昼頃には目的のキャンピングサイトへ着いてしまった。キャンプサイトはメインの道路からはずれ、後ろに長い砂浜の海岸が伸びているひなびた所で、お店もパブも歩いて3km位かかるとのこと。この田舎のサイトはテレビ、ラジオの受信が悪く、この夜はラジオのニュースさえ聞けず、オペラのCDを聞いていたから亭主の嫌がること。
昼食を終わってすぐ一番近い町であるカースルグレゴリーまで散歩に行った。うす曇の日で太陽がかげると風が冷たい。普通車の通らないまっすぐの農道を歩くと周囲の湿地帯に野草が咲き乱れている。能登では盆花とよんでいた右下の花は最近初めてその名前が判った。
金沢の随筆家の先代芳子さんの’女の心仕事’と言う文庫本に”みそはぎ”と言う名前がのっていた。お盆の頃に咲く花だから盆花と呼ばれているらしい。この花は川淵や湿地帯でどこにでも咲き、ヨーロッパのいたるところで自生している。
カースルグレゴリーの町は小さいながら4軒のパブがあり、小さな教会のステンドグラスがきれいだった。お店はただ一本のメインロードにぽつぽつあるくらいで、全くの田舎町だ。
この町から北に突き出た岬にはまたキャンピングサイトや市街地があるらしい。そこはサーフィングのメッカだと案内書に記載されていた。
右下の写真でお気付きのように、道路標識はゲーリックと英語が記載されている。この写真を撮った理由は後ろの小花の赤いフューシャでこの地域から南にかけて野生の群生がすごい。道端は赤緑で染まっている。この花はチリが原産で1857年ケリー州で始めて記述されていて1930年代好んで垣根に植えられたものだと言う。よほど気候があったか地味が合ったのか、これ以降でこの花の群生を見かけなかったところが無い。
湿地帯で放牧されていた馬の親子は、子馬のまだ伸びきらないたてがみが、モヒカンかパンクのようで面白い。
電波もまともにこないキャンプサイトは一晩でたくさんとこの半島の南側のディングル(Dingle)へ行くことにした。ディングルまでは25Kmだが田舎道を山越えしなければならない。それほど高い山ではないがつづら折の道で、一山超えると太陽が輝く明るい景色に道路の両側は行けども行けども、フューシャの花盛り。谷間はたぶん種が流れ着いて発芽したものだろう、川淵はどこまでもフューシャの藪が続いている。
ディングルの町では交通規制がされていて、キャンプサイトのありかを聞いたところ、町を出てまっすぐ北にと言われた。狭い道路にフルマラソンレースが行われていて、初めて交通規制の意味がわかった。
はじめに見かけた選手はトップ10に入る早い人たちで、キャンパーの窓から声援していたが、キャンプサイトへ近づくに従い道路は私たちには下り坂、したがってランナーには長くつらい上り坂、後になればなるほど歩いている人が多くなった。
キャンプサイトへ折れる500メーターは、マラソンがサイトの前で折り返しているため行く人、来る人でキャンパーもランナーのスピードに合わせてやっとたどり着いたが、サイトの前はたくさんの応援団とランナーで入れず、そのまま通り過ぎて、海岸へとドライブしてマラソン選手が全部通り過ぎたであろう午後3時頃まで海辺で過ごした。
青空に恵まれ海も牧場も山々も写真の撮り甲斐があるというもの。キャンプサイトに落ち着いてのインフォメーションでこの地域一帯で映画 ”ライアンの娘”の撮影が行われたと知った。あの映画は風景も配役もすばらしかったし、英国が統治していたアイルランド人の反感や苦しみなどよく現し、私の大好きな映画の一つだ。
キャンプサイトに落ち着いて、キャンパーのドアを開けたまま亭主はテレビを見、私は読書をしていたら、ロビン(こまどり)がキャンパーの中へ入ってきた。私たちが身動きさえしなければ怖がらせることなく、キャンパーの床を運転台からトイレまで全部探検して満足したらしく出て行った。人慣れならぬキャンパー慣れしたロビンだった。
ここディングルでは衛星放送が映った。夜BBCで大好きなプレシド・ドミンゴのリゴレットを放映していた。受信機の関係か判らないが音楽のバックグラウンドに甲高いピーという音が入り、聞いていると頭がおかしくなりそう。音なしで口パクパクのオペラなんてどんなにつまらないか。結局見ないであきらめた。
ディングルのカラフルな町(写真左下)を通り過ぎて、今日はRing of Kellyと呼ばれるIveragh半島へ向かった。ディングルではまだうす雲だったのに大聖堂のあるキラニー(Killarney)で道に迷い、2回も町の周囲を回っているうちに雨が降り出した。
キラニーからケンメアー(Kenmare)までの国道はKillarney National Park と呼ばれ晴天ならば風光明媚な山道であろう。残念な事に暗い空に小雨模様の道ではすべてがモノトーンに変わってどこを見ても大して感激することも無い。5年前にアイルランド一周したときもこのNational Park を通ったがぜんぜん覚えていなかった。あの時は11月でやっぱり雨の中だったから、今とほとんど同じような景色を見ていたに違いない。
ただ右下の写真の橋と谷川を見て5年前を思い出した。あの時は連日の雨で水かさが増してこの谷川は激流だった。この日のむき出しの岩を見てまったく拍子抜けしてしまった。
谷川のすぐ横の道端にあるこの小さな教会は今日も開いていない。この地域には農家や家らしいものが一軒も見当たらない。無人の教会はどうして建てられたものか?
ケンメアーから海岸に沿って半島の先端を目指す。道は2車線がやっとの田舎道、おまけに天気が悪いと何を見ても楽しめない。途中の町で昼食にしたが、あちこちから何台もの観光バスが町のスクエアに停まり、観光客が傘を差してぞろぞろ行く。一帯何があるのだろうと行ってみれば、狭い石橋から写真を撮っている。ここも水かささえ増せばすごい見ものなのだろうが、むき出しの岩ばかり。
下の写真はお天気も最悪のときに撮ったものだが、ここはRing of Kerry のコースの中では一番美しい風景で知られるCoomacista 山道にあたり、このあたりの小さな入り江では昔から密輸入が行われていたと案内書に書かれていた。
キャンプサイトのあるCarerslveenの近くでは横殴りの雨でどこを見てもうんざりする。この夜は真夜中まで暴風雨で、キャンパーが揺れていた。12時ごろに雨がやんで、外に出てみたら、満月に近い月が輝いていてあまりの変わりように驚いた。
翌朝穏やかな内海では子供たちがカヌーのトレーニングをして歓声がこだましていた。