木曜日の夜10時過ぎ、マリー・キューリー(Marie Curie) から送られたナイトナースがやってきた。彼女は朝7時まで亭主の横で眠らず見てくれる。
娘がセント・クリストファー・ホスピスに頼んだもので、そこからマリー・キューリーのナイトナースの要請が入ったもの。このサービスも無料で英国の終末ケアの奥深さを知らしめてくれる。
この国で伴侶や義父母を送った日本人の友達はみな一様にNHSを絶賛する。
この恩恵に与ったことのない人は、医者にかかるのに時間がかかりすぎると文句を言う。お金を払ってもいいから健康診断をしてほしい。だけどこの国には医者が少ない。お金を払ってもいったいどれほどの医者に時間的余裕があるだろうか?
この国にも人種差別は大いにある。今まで何度も来てくれているディストリック・ナースは全部アフリカ系の黒人だし、セント・クリストファー・ホスピスからのナースも白人女性はただ2人だけだった。私の地域はアフリカ系の黒人が多いが、ロンドン北部ではアジア系、フィリッピンや中国系のナースが多いという。
NHS で働くナースやドクターから外国人をのぞいたらいったい何パーセントの英国人が働いているだろうか。このコロナでもなくなった100数十人の医療関係者のうちのほとんどがアフリカ系の黒人かインド人だった。
英国のEU離脱を望んだ人たちは、外国人(特に黒人とアジア人)の入国永住を拒否した人たちが多かった。戦後すぐ英国にはポーランド人とユダヤ人の移民があふれた。1980年代ユガンダに移民していたインド人が,独裁者イデ・アミンの政策で強制退去され、英国が彼らを引き取った。だから英国には過去の植民地政策のしっぺ返しが来ている。
話が横道にそれてしまったが、この夜世話をしてくれたナースは亭主がしっかりとわかっていたようで夜中2回トイレを訴え、あとはお水が飲みたいと頼み、私を呼んでくれと言ったそうな。
その前日10時間の間に9回も起こされては寝ている暇がなかった。その朝亭主にこれではたまらないと文句を言ったら申し訳ないと謝っていたから、朝は一番しっかりしていた。いつもありがとうと申し訳ないという言葉を忘れない人だった。
それでナイトナースが帰った金曜日の朝も、ミルクコーヒーを300cc飲ませ、お昼までのイチゴのミルクシェイクを飲ませたがそれ以降は一切の水も受けつけなかった。
夕方娘が帰るときに、目をつぶったまま手を振ってサヨナラの合図をしたのが娘には最後だった。
夕方9時過ぎには意識も薄らいでほとんど寝たっきり、トイレも訴えず、体も動かさない。体に水分が入っていないから脱水状態で意識が無くなったのだろうと思われる。これで病院に入院していれば、本人の否応にかかわらず点滴をされ、体中にケーブルが張り巡らされて少しは長く生きられるかもしれない。一晩中身動きもせず血圧は少しづつ下がっていき、脈拍も今まで100を超えていたのが90くらいまで下がってきた。
喉の奥で痰が絡まるゴロゴロとした音が、呼吸が早くなるにつれ音も高くなってきた。病院ならば吸引して少しは楽にしてあげられたかもしれない。
明け方衣服が濡れるほど発汗して、それでも手と足はチアノーゼがみられて冷たい。
朝7時たまりかねてセント・クリストファー・ホスピスに電話すると、折り返し電話をくれるはずのナースからも連絡なく、呼吸は1分間で38回、ゴロゴロの音がやけに大きい。口が乾いているだろうと何度か綿を水で浸して口腔内をぬぐうと、水を吸おうと口をすぼめる様子。
まだ意識が残っているみたいと耳元で、私たちは47年も一緒に楽しくやってきたね。本当に楽しい人生だったねー。というと呼吸のリズムがやや変わる。きっと私の言ってることが判るのだろうとうれしくなった。その10分後、血圧も触診で上が90を割り、脈拍が触れなくなったと思うとすぐ、かすかに下顎呼吸数回、呼吸停止が来た。ちょうど10時30分だった。
亭主は痛みだけを恐れていたが、本当にラッキーだった。ドクターが処方したモルヒネは2回だけしか使用しなかった。それも痛みではなく、身の置き所がないようにベッドでゴロゴロしているのを可哀そうに思いモルヒネを飲ませて一日ぐっすり寝てくれたことがあった。
呼吸停止後すぐセント・クリストファー・ホスピスに連絡すると111に電話しなさいと言われ、1時間後にローカルのドクター(この方もインド人だった。)が訪問して、心臓と瞳孔を調べ、死亡確認を行ったうえ、月曜日に私たちの家庭医(GP)に連絡して死亡診断書の要請をするようにとのこと。
日本ならば遺体を家に安置したままでお通夜になるが、この国ではありえない。お昼ごろには葬儀屋が遺体を引き取りに来た。
月曜日、娘が家庭医(GP)に連絡すると、死亡確認を送ったドクターの報告が届いていたが、GPは今まで亭主を一度も見ていないから死亡原因を書いた診断書を書けないという。確かに昨年5月にブロムリーの病院へ救急車で運ばれ、それ以来癌研で治療やコンサルテーションを受けていたが一度もGPには行っていない。
3月以降のロックダウン時も何度かGPへ電話したが、GPは決して家庭訪問をしてくれなかった。それで彼は癌研とセント・クリストファー・ホスピスからのリポートを基に死亡診断書を書くという。これがいつに成るか判らないうえ、その診断書はレジスターオフィスへ回され、年金やドライビング・ライセンスなどの公共機関に報告されたのち、正式に死亡診断書が発行されるという。
そののちお葬式の準備が始まるから、2-3週間はかかるのが普通。
それ以来娘の家で夜を過ごし、昼はなんだかんだと忙しく過ごして、気を紛らわせている。友達やキャンプ仲間からもたくさんメールでの哀悼の言葉をいただき、その度に涙ぐんでいる。この悲しみは時しか癒してくれないだろう。