何時のオリンピックでも一番興味を持って見るのがマラソン・・・・と言うのは私も1990年と91年の2回ロンドンマラソンに出場したから。
それに昨日拝見した自然農法をされている方の8月9日のブログ・・・・・マラソンとの出会い【 https://blog.goo.ne.jp/vzr05670 】 で私もあの時の経験を書いてみようと思う。
ロンドンマラソンがスタートしたのは1980年、それまで全然興味がなかったのに、1989年の4月初めてタワーブリッジ【世界で有名な跳ね橋)の片隅にマラソンを見に行った。タワーブリッジはマラソンの中間点にあたるところで、走っている人たちもまだまだ元気いっぱい。掛け声勇ましくみんな楽しそうに走っていく。このロンドンマラソンは優勝を狙うエリートたちが初めに通ってしまうとあとは3万人に上るファンランナーで後ろになればなるほど仮装行列のような賑わいになってくる。
こんなに楽しいマラソンなら一度出てみたいと思ったのがきっかけで、その翌日から毎朝1時間早く起きて家の近くをジョギングしだした。するといつも同じところで出会う道路掃除のおじさんや、牛乳配達のおじさんたちと朝の挨拶をするようになり、毎日待っていると思うから1日も休めない。
そのうちに働いて居た日系の会社の昼休みにテームス河のほとりを走るようになった。その頃は会社の医務室の奥に一つあるシャワールームの使用許可を取り、数人の若者たちと走るようになった。
ウイークエンドは朝から長距離を走ったりしているうちに、知り合ったランナーがダリッジランニングクラブに入っているとのことで、私もクラブに入ることにした。このクラブは毎週水曜日夜集まって8-10kmほどのトレーニングをし、日曜日は10-20kmを走る。そしてロンドンマラソンの1か月前、出場の決まっているランナー皆が、40Kmを走るトレーニングをしてくれる。
私の出場した1990年はマラソン発足以来10年目。毎年出場者が増えてこの年は3万人を超えた。
出場申請者は7万人を超すと言われていた。20代から30代の若者の倍率が高くて10人に一人くらいしか抽選で選ばれない。マラソンは毎年4月だけれど、確か9月に出場申請をしなければならない。
私45歳日本人女性と書いて申請したから難なく選ばれた。
抽選で選ばれる人は1万人、残りはいろいろなチャリティ機関に渡され、例えば癌研に100人分、赤十字に100人分と言う具合で、抽選に落ちてもチャリティの一つに申し込めば出場権がもらえる。ただ問題はそのチャリティにお金を寄付しなければならない。
英国はチャリティの伝統が長く誰かが何かを成し遂げようとするとき、知人や仲間に寄付を募り、終わった際にその金をチャリティに寄付する。
私は出場権を持っていたが、せっかく走るなら完走した際に寄付をと会社の仲間に頼んで2000ポンド(当時の円・ポンドレート180円位)36万円近くを集めた。
さて1年近くのハードトレーニング、ロンドンマラソンは4月22日日曜日。
金曜日の夕方、皆からの激励を受けて帰宅すると、14歳の息子が頭が痛いと言って寝ていると言われた。どうして頭痛か聞いてみるとスケートボードからコンクリートの床に頭から落ちた。私の声を聞きつけた息子はベッドルームから泣きながら来て頭が割れるようだという。すぐ救急車を呼ぶから早く着替えをしてと言ったらトイレに入ってすぐ意識不明になった。
私とポールの二人付き添いで救急車でルーシャムの救急病院へ運ばれ、レントゲンの結果頭蓋内出血で緊急手術。ここではできないからグリニッチのほうの病院へ転送するという。
もう夜も遅くあたりは真っ暗。初めての病院へ、私はタクシーで救急車の後を追いかけ、ポールは車を取りに行くと行ってしまった。
誰も居ない待合室でポールと二人朝の3時頃まで座っていた。やっと手術が終わったが、意識は戻らないから帰りなさいと言われて、病院を出た時は、あたりが青みがかってちょうど小鳥たちの歌声が姦しい。これはDawn Chorus(夜明けのコーラス)と呼ばれブラックバードの歌声が強烈。
帰宅しても心配で眠ることもできない。チャリティの寄付をしてくれる近所の人達にこのことを伝え、皆からそれでも頑張ってマラソン出場してくれと激励された。
日曜日朝、9時までにはグリニッチ公園内の出発地点に立っていた。私の前には9千人近くのランナーが並んでいる。ランニングクラブの仲間たちはこれこそ競争心むき出し。各自あっという間に散らばってしまい、誰も知った人はいなかった。
9時半出発のブザーがなっても人込みはほとんど動かない。グリニッチ公園の狭い門の中に大きな水たまりができていて、だれも靴を濡らしたくないから、迂回して細々と通っていく。私がその門を通るまでには10分以上もかかった。おまけに前の9000人の人達は仲間や友達同士横1列に走っていくから、通り抜けられない。ジグザグに隙間を走り、数キロ走ったところで、ブラックヒースの出発地点からの10000人と合流。皆お互い ウー、ウーと唸りあいしながら走っている。また少し行ったところでブラックヒース端の出発地点の10000万人と合流。とにかく道路は混雑している。
タワーブリッジへ行くと例の大騒ぎ、観客がエーイ、エーイと叫ぶとランナー皆がオイ、オイ、オイと呼応する。これがとってもおかしい。
ドックランドを走っているとおいしそうなベーコンを焼く匂いが流れてくる。早朝少しの朝食を食べた身にはあの匂いは恨めしい。きっと誰かわざとあの匂いをまき散らしているに違いない。
ロンドン塔の石畳はランナーの足に非常に悪く、石畳の上にカーペットをひいてある。ところが昨夜の雨でカーペットはぐしゃぐしゃ。ここではやっぱり足にけいれんが起きた。
ちょっと止まってストレッチして走り出し、ロンドン塔の塀をグルと回ると目の前にものすごい人の壁、まるで舞台に上がったような気持ちになる。そこからエンバンクメントへ向けてたくさんの応援団観客でものすごい歓声、だれの声も聞こえず見えず、友達がせっかく応援に来てくれたのに見つけられなかった。
あともう2㎞でゴールと言うときには疲れてフラフラ、そこらの道端に横になって眠りたいと思った。2日間の睡眠不足がたたった。2,3歩歩きかけ、一度止まったらもう動けないと思いなおして、またのろのろと走り出した。
エンバンクメントからバッキンガム宮殿の前を左に曲がって最終はウエストミンスターの橋の上。
よろよろと走っていると国会議事堂の広場の人込みに、いつもお昼に一緒に走ってくれていた、イギリス人の若者が私を見つけて呼んでくれた。思わずよろよろと彼のほうへ行きかかり、あっちに行くんだよーと大声で言ってくれ、あと3-400メーターやっとたどり着いた。4時間4分、クラブの人たちは私の走りでは3時間半と言ってくれていたのに。
ゴールでメダルとティシャツを貰い自分の衣服をもらってからは、電車とバスで病院へまっしぐら。
息子のベッドサイドには小さなテレビが置かれ、ナースが ほらお母さんが走っているよ と息子に話しかけていたそうだ。
息子は術後3日目に意識を戻したが、頭痛が激しく入院3か月、31年後の今でも右足を引きずる後遺症が治らない。
余りに長くなったから1991年のロンドンマラソンは次回に書きます。