Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

アフガニスタンと平和な国

2021-08-23 19:54:20 | 日記21

毎日アフガニスタンの話で持ち切り、恐怖に泣いている子供たちがテレビに映ると思わずもらい泣きしてしまう。

今朝のニュースでは3100人のアフガン難民が英国軍用機でカブールを発ったとのこと。英国は1万人のアフガン難民を受け容れると発表しているが、それまでカブールで助けを求める人たちはどうするのだろうか?

昨夜のITV News で混乱状態の空港付近に日本人女性とアフガニスタンの夫君が見えた。日本の飛行機に乗り遅れた彼ら、日本人の奥さんは手放しで泣いていた。日本の親兄弟が彼女を認めたらどんなに悲しむだろう。

1万人のアフガン難民を受け入れる英国政府も彼らをどこに住まわせるのか? 毎年フランスからドーバー海峡を渡ってくる経済難民が今年夏で1万人を超えている。彼らはアフリカや、シリア、アフガニスタン、中国、などから陸路を通ってヨロッパへやってくる。この人たちを受け入れているだけでも大変なのに。

今朝のニュースではリバプールの難民受け入れのチャリティーが、身一つで逃れてくる人たちのため、衣服や食料、子供のおもちゃ等、寄付で巨大な倉庫がいっぱいになっているのを映し出した。英国人の心の広さには感激する。もちろん外人反対のナショナルフロントみたいな人達もいるが。

 

こうしてみると戦争の経験もなし、平和に暮らしている私達、本当に有難いと思う。

 

 

今年はミツバチが死に絶えたとうわさされていたこの頃、わが家のシュウメイギクにはミツバチがいっぱいいてうれしくなった。

今春3月に買ったベゴニアの球根も、芽が出だしたのが6月にはいってからで、すっかりあきらめていたらやっと花が咲きだした。

 

もう十年も鉢植えで持っているこのパイナップルプランツ、今年もやっと咲いてくれた。

 

 

7月から咲き始めたこのビロードモウズイカは今でもしっかり花が咲いている。長い花茎の下かららせん状に咲き、花が上のほうへ行くとまた下から咲きだす。そのうちにわき芽の花茎が伸びてきて咲きだすから、夏の間中咲いているだろう。

 

 

昨年秋にたくさん芽が出たルドベキア(ブラックアイスーザン)がやっと花が咲きだした。まだ咲き始めで満開になったらどんなにすごいか。

こうして花を愛でていられる幸せな私です。

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8月も終わり近い英国のこの頃

2021-08-22 03:20:46 | 日記21

英国の8月でも今年ほど雨が多くて寒い年はあまりない。

相変わらず気温は上がらず最高で22度、半そでで歩いても寒くはないが、家の中でじっとテレビを見ていると手足が冷えてくる。毎日の天気予報でも、今日も期待に背いてうすら寒い日だった。と言う。

いつもは今頃庭のイチジクは終わりを告げるころなのに、やっと取れだした。イチジクの木がやたらと大きくなりすぎ、梯子をかけて3メーターもある竹の棒の先にメタルのフックを付けて(自家製)高い木の上になっているイチジクをとる。イチジクの枝は柔らかくて良くしなるから、フックで枝をひきおろし実が熟れているかを確認して採る。

 

 

日本ではあまりなじみのないイタリア産のグリーンのイチジクで、木で熟れた実はとっても甘い。毎年イチジクの実が実ったころに日本人の友達がわが家にやってくる。

昨日は久しぶりに友達5人がわが家にやってきた。

昔働いて居た日系の会社で親しくなった人たちで、皆ほとんど私の年代。一人がジャマイカ人と結婚していて、2か月ほど前にジャマイカから英国へ帰ってきた。9月にまたジャマイカへ帰る前に皆と会いたいと言っていた。

いつもならどこかのレストランで会って食事をするのが恒例になっていたが、このコロナ禍、一向に収まらないし、わが家は一人でテーブルも6人が座っても狭くない。

それで各自が一品づつの食べ物持参と決めて、昨日の昼食を楽しんだ。

 

 

稲荷ずし、餃子、サラダとひじきの煮物、ルーバーブが入ったカップケーキ、ジャマイカのプランティン(青いバナナ様)の焼いたもの、それに私の作った春巻きの中身はカレー味のコロッケの具。

飲んで食べておしゃべりして、楽しい4時間を過ごした。最後の締めくくりにはやっぱりグリーンのイチジクを食べて皆満足して帰って行った。

また10年後にこんな会が持てたらいいね。それまで生きていないかもと弱気の人も居て、人生先は全く見えない。でも日本人女性の平均年齢は87歳とか、まだまだ大丈夫、大いに楽しみましょう。

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ロンドンマラソン その2

2021-08-13 04:54:04 | 思い出

息子は左側頭部、頭蓋内出血で開頭術をしていただいたが、血腫で圧迫された脳が回復してくるときに、激しいけいれんを伴ったため3ヶ日間薬によって眠らされていた。回復してもしばらくは右手足がマヒしていたため3ケ月のリハビリでやっと歩けるようになった。

息子が元気になってくると、やっぱりもう一度ロンドンマラソンで楽しみたい。

それで6ケ月間は朝、昼のトレーニング。

9月の申込書には過去の記録時間のコラムがあり、この時3時間半と嘘を書いた。4時間4分だとまた1万人の真ん中あたりか後ろになってしまうだろう。

その嘘が今回は好転して、Faster than Your Age(本人の年齢よりも早い)と言うカテゴリーに選ばれた。

1991年4月21日、私の46歳の誕生日、家族はグリニッチとドックランドで応援してくれるという。

貰ったゼッケンからグリニッチ公園の門の外に100名ほどのグループがあった。私の所属しているダリッチランナーの中に知った顔が2人。一人は私より1歳下の英国人女性、彼女はロンドンマラソン発足時から毎年出場しているベテランのスーちゃん。今まで何度かハーフマラソンなど一緒に走ったが一度も勝てなかった。

もう一人は70歳以上のダリッチランナーの長老、彼は外科医でしばしば海外へ出張公演に行っているという。彼は痩せて小さな人だがヨーロッパの70代のフルマラソン最速記録を持っている。

彼に挨拶して、貴方は早いから と言ったら でも僕はスタミナがないからね。とご謙遜。

出発の合図と同時に彼は消えてしまった。スーちゃんも100名の中に紛れて見失なった。でも6か月のハードトレーニング、何の心配事もなく体も足も快調。何よりも9000人の人の壁がない、皆相当早いペースで走っているから、目の前は十分スペースがあった。途中でスーちゃんを追い越した。 玲子、Go, Go, Happy Birthday !!と大声で叫んでくれた。

グリニッチのカティーサーク(古い帆船・ロンドンの観光名所)の近くで日の丸を振っている娘と息子、ポールは決して日の丸を振らない。あたりはものすごい応援の人混みで、そのあと地下鉄でドックランドへ行ったが立って応援するスペースがなかったという。

そう、ドックランドではまたもやベーコンを焼いている美味しそうな匂い、皆おなかをすかしているからオーとかアーとか嘆きの声。時々道端の応援をしている人達が飴をくれる。おなかがすいているときはなんでも有り難い。セロファンのかぶった飴を貰って走りながら剥こうとするが手袋をしている上に、手が震えていて剥けない。

やっと剥けたと思ったらポロリと落ちてしまい無念の涙。

 

 

この写真は働いて居た会社の若い人が、ドックランドの道端で待ち構えていて写真を撮ってくれた。25kmの地点だった。

胸に日の丸とユニオンジャックの小さなマークに名前をかいてあるから、道端の知らない日本人も 玲子さん頑張って  と大声で応援してくれる。

ロンドン塔の石畳もなんのその、快調に走ってエンバンクメントからトラファルガースクエアーを通って、バッキンガム宮殿へ向かうThe Mall (マルと呼ばれる大通り)へ差し掛かった。

いつもお昼休みに一緒に伴走してくれた若者S君がたくさんの人垣の後ろに立っていた。人一倍背の高い彼の姿を見つけるなり、 ほらこのタイム と時計を指さしたら、彼は I Know,  Reiko Go, Go, Go と言いながら私のペースに合わせて人垣の後ろを走り出した。しばらく走って、セントジェームスパークの向こう側へ横切っていくからと走って行ってしまった。

バッキンガム宮殿の前で左に折れ、ビックベンの有る国会議事堂への道は、歩いている時には気がつかないが、緩い坂道の登りになっている。この辺りもびっしり人垣で埋まっている。

ほとんど疲れも感じず、ウエストミンスターの橋に着いてあと100メーターでゴールと言うところで、あの外科医のミスターGに追いついた。

彼は橋の右側をよろよろ走っていた。嬉しさのあまり彼の横へ走って行ってハローMr G と声をかけたら、Oh Well done Reiko と言うなり急に走り出した。私も遅れてはならぬと追いかけ同時ゴールイン。3時間35分59秒。

あとでMr G の奥さんから いけない人ね。手を取り合って一緒に走ったらよかったのに。ランナーのクラブの人たちは そんな時は声をかけずにこっそり追いつき追い越すものだ。と言われた。本当に負けず嫌いの人たち。

思い返すと今私は彼の年齢になっていて、3時間35分で絶対走れない。そう思うとやっぱり MrG は偉大な長老だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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ロンドンマラソン その1

2021-08-11 05:49:40 | 思い出

何時のオリンピックでも一番興味を持って見るのがマラソン・・・・と言うのは私も1990年と91年の2回ロンドンマラソンに出場したから。

それに昨日拝見した自然農法をされている方の8月9日のブログ・・・・・マラソンとの出会い【 https://blog.goo.ne.jp/vzr05670 】 で私もあの時の経験を書いてみようと思う。

ロンドンマラソンがスタートしたのは1980年、それまで全然興味がなかったのに、1989年の4月初めてタワーブリッジ【世界で有名な跳ね橋)の片隅にマラソンを見に行った。タワーブリッジはマラソンの中間点にあたるところで、走っている人たちもまだまだ元気いっぱい。掛け声勇ましくみんな楽しそうに走っていく。このロンドンマラソンは優勝を狙うエリートたちが初めに通ってしまうとあとは3万人に上るファンランナーで後ろになればなるほど仮装行列のような賑わいになってくる。

こんなに楽しいマラソンなら一度出てみたいと思ったのがきっかけで、その翌日から毎朝1時間早く起きて家の近くをジョギングしだした。するといつも同じところで出会う道路掃除のおじさんや、牛乳配達のおじさんたちと朝の挨拶をするようになり、毎日待っていると思うから1日も休めない。

そのうちに働いて居た日系の会社の昼休みにテームス河のほとりを走るようになった。その頃は会社の医務室の奥に一つあるシャワールームの使用許可を取り、数人の若者たちと走るようになった。

ウイークエンドは朝から長距離を走ったりしているうちに、知り合ったランナーがダリッジランニングクラブに入っているとのことで、私もクラブに入ることにした。このクラブは毎週水曜日夜集まって8-10kmほどのトレーニングをし、日曜日は10-20kmを走る。そしてロンドンマラソンの1か月前、出場の決まっているランナー皆が、40Kmを走るトレーニングをしてくれる。

私の出場した1990年はマラソン発足以来10年目。毎年出場者が増えてこの年は3万人を超えた。

出場申請者は7万人を超すと言われていた。20代から30代の若者の倍率が高くて10人に一人くらいしか抽選で選ばれない。マラソンは毎年4月だけれど、確か9月に出場申請をしなければならない。

私45歳日本人女性と書いて申請したから難なく選ばれた。

抽選で選ばれる人は1万人、残りはいろいろなチャリティ機関に渡され、例えば癌研に100人分、赤十字に100人分と言う具合で、抽選に落ちてもチャリティの一つに申し込めば出場権がもらえる。ただ問題はそのチャリティにお金を寄付しなければならない。

英国はチャリティの伝統が長く誰かが何かを成し遂げようとするとき、知人や仲間に寄付を募り、終わった際にその金をチャリティに寄付する。

私は出場権を持っていたが、せっかく走るなら完走した際に寄付をと会社の仲間に頼んで2000ポンド(当時の円・ポンドレート180円位)36万円近くを集めた。

さて1年近くのハードトレーニング、ロンドンマラソンは4月22日日曜日。

金曜日の夕方、皆からの激励を受けて帰宅すると、14歳の息子が頭が痛いと言って寝ていると言われた。どうして頭痛か聞いてみるとスケートボードからコンクリートの床に頭から落ちた。私の声を聞きつけた息子はベッドルームから泣きながら来て頭が割れるようだという。すぐ救急車を呼ぶから早く着替えをしてと言ったらトイレに入ってすぐ意識不明になった。

私とポールの二人付き添いで救急車でルーシャムの救急病院へ運ばれ、レントゲンの結果頭蓋内出血で緊急手術。ここではできないからグリニッチのほうの病院へ転送するという。

もう夜も遅くあたりは真っ暗。初めての病院へ、私はタクシーで救急車の後を追いかけ、ポールは車を取りに行くと行ってしまった。

誰も居ない待合室でポールと二人朝の3時頃まで座っていた。やっと手術が終わったが、意識は戻らないから帰りなさいと言われて、病院を出た時は、あたりが青みがかってちょうど小鳥たちの歌声が姦しい。これはDawn Chorus(夜明けのコーラス)と呼ばれブラックバードの歌声が強烈。

帰宅しても心配で眠ることもできない。チャリティの寄付をしてくれる近所の人達にこのことを伝え、皆からそれでも頑張ってマラソン出場してくれと激励された。

日曜日朝、9時までにはグリニッチ公園内の出発地点に立っていた。私の前には9千人近くのランナーが並んでいる。ランニングクラブの仲間たちはこれこそ競争心むき出し。各自あっという間に散らばってしまい、誰も知った人はいなかった。

9時半出発のブザーがなっても人込みはほとんど動かない。グリニッチ公園の狭い門の中に大きな水たまりができていて、だれも靴を濡らしたくないから、迂回して細々と通っていく。私がその門を通るまでには10分以上もかかった。おまけに前の9000人の人達は仲間や友達同士横1列に走っていくから、通り抜けられない。ジグザグに隙間を走り、数キロ走ったところで、ブラックヒースの出発地点からの10000人と合流。皆お互い ウー、ウーと唸りあいしながら走っている。また少し行ったところでブラックヒース端の出発地点の10000万人と合流。とにかく道路は混雑している。

タワーブリッジへ行くと例の大騒ぎ、観客がエーイ、エーイと叫ぶとランナー皆がオイ、オイ、オイと呼応する。これがとってもおかしい。

ドックランドを走っているとおいしそうなベーコンを焼く匂いが流れてくる。早朝少しの朝食を食べた身にはあの匂いは恨めしい。きっと誰かわざとあの匂いをまき散らしているに違いない。

ロンドン塔の石畳はランナーの足に非常に悪く、石畳の上にカーペットをひいてある。ところが昨夜の雨でカーペットはぐしゃぐしゃ。ここではやっぱり足にけいれんが起きた。

ちょっと止まってストレッチして走り出し、ロンドン塔の塀をグルと回ると目の前にものすごい人の壁、まるで舞台に上がったような気持ちになる。そこからエンバンクメントへ向けてたくさんの応援団観客でものすごい歓声、だれの声も聞こえず見えず、友達がせっかく応援に来てくれたのに見つけられなかった。

あともう2㎞でゴールと言うときには疲れてフラフラ、そこらの道端に横になって眠りたいと思った。2日間の睡眠不足がたたった。2,3歩歩きかけ、一度止まったらもう動けないと思いなおして、またのろのろと走り出した。

エンバンクメントからバッキンガム宮殿の前を左に曲がって最終はウエストミンスターの橋の上。

よろよろと走っていると国会議事堂の広場の人込みに、いつもお昼に一緒に走ってくれていた、イギリス人の若者が私を見つけて呼んでくれた。思わずよろよろと彼のほうへ行きかかり、あっちに行くんだよーと大声で言ってくれ、あと3-400メーターやっとたどり着いた。4時間4分、クラブの人たちは私の走りでは3時間半と言ってくれていたのに。

ゴールでメダルとティシャツを貰い自分の衣服をもらってからは、電車とバスで病院へまっしぐら。

息子のベッドサイドには小さなテレビが置かれ、ナースが ほらお母さんが走っているよ と息子に話しかけていたそうだ。

息子は術後3日目に意識を戻したが、頭痛が激しく入院3か月、31年後の今でも右足を引きずる後遺症が治らない。

 

余りに長くなったから1991年のロンドンマラソンは次回に書きます。

 

 

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8月

2021-08-09 20:57:21 | 日記21

昨日は亡くなったポールの90歳の誕生日だった。

いつもは買わないお花を買って彼の遺灰の横に飾った。庭にはシュウメイギクが満開だけど、この花うまく処理しないとすぐに萎れてしまう。2年前彼の88歳の誕生日に米寿の祝いとして20数名の友達が集まり娘の家で大きなパーティをやった。

あれが一番の孝行になったと思う。あれ以来で今年の誕生日の話をすると皆、もう2年も経ったのかと驚く。この2年コロナに振り回されていて、いったい何をして過ごしたか思い出せない。

 

今年のシュウメイギクはやたらと背が高くなり1.5メータ近くになった。

 

直植えのアジサイがやっと咲きだし、後ろのフロックスと同じように見える。

 

 

 

キッチンの窓辺にはポールの1周忌のパーティにいただいたミニバラの鉢が飾ってあり、きれいに咲いた。

 

一昨年ほとんど丸坊主に剪定してもらったイチジクは昨年一年間で長い枝を伸ばしたが実は一個もつかなかった。この写真は今年3月、まだ葉も出ていない状態。

 

 

これが今現在のイチジクの木で過去20年近く7月末から8月のポールの誕生日までに必ず食べられた。ところが今年はこの寒さ、7月半ば以降、一日たりとも日照りで暑い時がなく、イチジクの実も固いままで実らない。毎日気温は最高で20度近く最低気温は5-10度といわれている。これがイギリスの夏だもの、でもイギリスだけではなくフランス、スペインも毎日低気圧が襲っている。

これを見てもやっぱり天候異常はここだけではないけど、地球が壊れていくのかと思ってしまう。

 

 

 

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