オープンハウスの最後に訪れたところがここホワイトホール・パレスのバンケッティングハウスだった。実を言うとこの官庁街にこんなパレスがあることも知らなかったが、中に入って豪華な天井に目を丸くした。
ホワイトホール・パレスは1530年から17世紀までスチュワート王朝の歴代の王家の住居だった。このバンケッティング・ハウスは1622年ジェームス1世(1603-25)によって建てられ、王室の宴会場として使用されていた。ホワイトホール・パレスは当時セント・ジェームスパークからチャリングクロス、国会議事堂週へまでを占めた部屋数2000室の大宮殿だった。今日ではこのバンケッティング・ハウスしか残存していない。
天井画はポール・ルーベンスによって1630-1634年に完成、絵はジェームス1世を中心に描かれている。
ところが1642年に起こった英国市民戦争でとらわれたジェームス一世の息子チャールス一世(1625-1649)はこのバンケッティング・ハウスで首を刎ねられた。
この歴史的出来事はヨーロッパに大きな事件として伝わり、このためこのハウスは有名だそうだ。
さてこの日はロンドンでもいろいろな催し物があり、バンケティングハウスの前の大通りでは、トア・デ・ブリテンの自転車レースを行っていた。ハウスに入る前にプロのサイクリストが通り過ぎて行ったが、ハウスの見学を終わってチャリングクロスの橋を渡っているときには、素人のサイクリングを楽しむ人たちが通り過ぎていった。
エンバンクメントの向かい側、旧カウンティ・ホールではこの週末2日間日本祭りで、たくさんの屋台が出て、人ごみがひどく、おまけにウエストミンスター橋からカウンティーホールへの一方通行、セキュリティが厳しく半分も見られず、すしの箱つめを買って早々に帰ってきた。
来年のオープンハウスには8月中に申し込みをして、日ごろ開いていない建築物を見て周りたいものだ。それにしてもこのような官公庁の建築物を一年に一回とはいえ無料で見せてくれる懐の大きさには感じ入る。さすが英国。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2009年の東ヨーロッパからギリシャ、イタリア旅行記は別のブログ http://blog.goo.ne.jp/reikoh1944 に記載してあります。
ギルドホールをでて地下鉄にてテームス河沿いのテンプル駅へ。
この近くに見事なテンプル教会があった。この教会はダン・ブラウンのダ・ヴィンチ・コードにもでてくる由緒ある教会でオープンハウスに加わっているが、予約が必要で入れなかった。教会の屋根の上に輝く船が面白い。
このテンプル教会の次のブロックが素晴らしい装飾のあるマンションのようで、上の一角にミドル テンプル ホールのシンボル 羊と英国の旗(白地に赤の十字)があった。と言うことはこの巨大な建物がテンプルホールの所有物だったのだろうか。
ホールはこのゲートを通って石畳の狭い坂道を100メータほど上った所にあり、入り口にしっかりと羊のシンボルマークがあった。
このホールは1562年から1573年にかけて建築されたエリザベス朝のもっとも代表的な建物で、この樫の木で作られた天井をモデルにして英国各地に同様の天井が建築されたという。
エリザベス1世はヘンリー8世と不義の疑いで首をはねられたアン・ボリンの娘で息子が欲しかったヘンリー8世は、次々妻をとっかえひっかえしたわけだが、娘が世継ぎになって英国が栄えたとは何たる皮肉。とにかくこのミドル テンプル ホールへはエリザベス一世は何度も足を運んでここで食事をされたと言う。
この長さ10メーター近くのテーブルはウインザーの森から切り出した樫の木をテームス河に浮かべて運び3枚の板から成っている。このテーブルはエリザベス1世からの贈り物で16世紀以来このホールから移動させたことがないと言う。
このホールは法律に関係する人々の集合や食事の場であり又法律を学ぶ学生の宿泊をアレンジしているところでもあった。一年に二回、食事の間にリーダーによって法律に関する講義が行われ、その名誉に与った人たちの名前が壁のパネルに飾られている。
窓は法曹界の有名人のメモリアルとしてステンドグラス様の飾り付けがされている。エドワード7世がその筆頭に入っている。
現在でもこのホールは法律家と法律を学ぶ学生の為に毎日の昼食や夕餉を提供している。
ギルドホールのスクエアーの一角にモダンなギルドホール・ギャラリーがあった。オープンハウスのこの日は入場無料で、館内で写真可だった。
ここに展示されている絵はすべて英国人によるものばかりで、それも私の好きな1850年から1950年ごろに活躍した画家の絵が多い。
各絵画の説明も行き届いて、これほど丁寧に解説されているギャラリーはあまり無い。
今日は気に入った8枚の絵の説明も書き込もう。
この上の絵はジェームス・ティソット(1830-1896)の 最後の宵 と言う題名。
恋人が明朝このセーリングボートで出航してゆく場面を描いて、悲しそうな女性と慰めている恋人、後ろのひげの年寄りは彼女の父親であろうと思われる。又後ろの少女は彼女の妹だろうとの説明。雰囲気が良く出ている。
上はフレデリック・ロード・レイトン(1830-1896)の1877年のミュージック・レッスン。
この絵はレイトン卿 が1873年にダマスカスへ旅行に行ったときのモチーフで楽器はトルコのサズと呼ばれる。モデルの若い方の少女はコニー・ギルクライスト(1865-1946)で当時の有名な子供の踊り子だった。
これはエドワード・ジョン・ポインター(1828-1882)の作品エジプトのユダヤ人。この絵はエジプトで奴隷のユダヤの民が石の町を建造しているところ。ポインターはこの絵の完成に3年かけたと言う。
英国には19世紀ウイリアム・モリスを中心とするプレ・ラファーエリテスと言う一派が活躍していた。彼らの多くの絵はテイトブリテンで見られる。ここギルドホール・ギャラリーですぐ目に付く作品がこれダンテ・ガブリエル・ロセッテ(1828-1882)の作品。
ロセッテはこの絵をオックスフォードシャーのケルムスコット・マーナーで作成した。
このマーナーはウイリアム・モリスとロセットが共同購入したものでここにはモリスの妻ジェーンも来ていたという。ロセットとジェーンは不倫関係にあり、この絵はジェーンとの愛や肉体関係を表していると言うから、絵の批評家と言うのは恐ろしい。
モデルはアレキシア・ウイルディングだが、ロセットの絵はどれも同じ顔の女性ばかりでこの顔以外描けないのではないかと疑ってしまう。
ジョン・エヴェレット・ミレイズ も プレ・ラファーエリテスの一派で彼は後にサーの称号をもらっている。彼は1863年に5才の我が娘エフィーをモデルに”教会の初めての説教”と言う題の絵を描いた。この絵がロイヤルアカデミーで大好評を博し、同じエフィーをモデルに1864年”私の二度目の説教”と題名のこの絵を描いた。この絵に対しカンタベリー大僧正があまり長い説教は眠気を誘うばかりと警告したと言うから可笑しい。
ジェームス・クラーク・フック(1819-1907)は小さな漁村の生活と生活している人々を多く描いていてこの絵もスコットランド北のシェトランド島の子供たちを描いている。
海辺の岩でかもめの卵を盗んでいる子供たち。
これはヴィクトリア女王の在位60年のお祝いセレモニーをアンドルー・ガリック・ゴウ(1848-1920)が描いたものでこの祝日は1897年6月22日セントポールで式典が行われた。式典は20分ほどで終わり画家は写真を元に2年をかけてこの巨大な絵を完成した。このような絵は芸術作品と言うよりも歴史を現していて興味深い。
もっと興味深い絵がジャン・グリファー(1738-1773この間に活躍)でこれは1739年から40年にかけて寒波でテームス河が凍ったのを描いている。絵はホワイトホール方面から北、西に拡大して見たテームズで右手のウエストミンスター橋は建設中である。18世紀のロンドンは今よりずっと寒かったことが良く判った。
これはマーガレット・サッチャー元首相の像。彼女は現在アルツハイマーで療養中とのこと。
このギャラリーの地下にもローマの遺跡が発見されて遺跡として展示されている。2000年昔ローマ人がロンドンを建築し、その跡地は広大な部分を占め、ギルドホールの後ろにはバービカンとの間に高い塀の遺跡が残っている。
ギャラリーの二階から見たギルドホールスクエアーで向かいに教会とモダンなギルドホールの建物が広がっている。
夢のような一時を過ごし現実に戻ってみれば、日曜日のロンドン市内は車もまばらで騎馬警察が市内を巡回していた。
ギルドホールはバンクから歩いて数分のところにあるきれいな建物で、昔通勤していた頃このきれいなレース編みのような建物を毎日見ていながら、一度も入ってみたことは無かった。
今回のオープンハウスではギルドホール、ギルドギャラリー、教会が皆開放されていて大いに楽しむことが出来た。
ギルドホールは昔のギルド制(徒弟制度)の名残で、現在では一マイル四方のロンドン市の法人として市役所の役割と、インターナショナルな経済、ビジネスの推進者としてサーヴィスを行っている。現在でもギルドの名前に関し商人、魚屋,皮商人、金属商,時計屋など12のシンボルを現した旗が飾られている。
現在のギルドホールは1411年から1430年に建設された。1666年のロンドン大火で延焼し1940年のドイツ軍大空襲でも多大な被害を受けたが1954年に復興された。
このギルドホールの中のグレートホールでは国賓を迎えての晩餐会やロンドン市長の儀式などが行われる。内部は輝くきらびやかさは無いが落ち着いたいい雰囲気。チャーチルの銅像やウエリントン・ブーツの名前の発祥であるところのウエリントン公爵の像が立っている。このホールの真下はクリプトと呼ばれる。教会の地下室はクリプトと呼ばれる遺体安置所だがここもそうだったのかは勉強不足の私にはわからない。
このクリプトの周囲のステンドグラスを良く見て行くとロンドンで生まれた有名人や、ロンドンで埋葬された有名人の生涯などを絵と文字で簡潔に表現してあり、なかなか興味深い。この絵はカンタベリーテールを描いたチョーサーで1400年ウエストミンスター寺院に埋葬された。
ここは王室と深い関係にあり、エリザベス女王の銀婚式のお祝い晩餐会などの絵が飾られてあった。この上の絵はジョージ5世とクイーンメアリーの儀式に参列している幼いエリザベス女王の姿が見える。
グレートホールの他にも大きな部屋が2室まるで教会内部のようだが祭壇やキリスト像などは見当たらない。奥の一室は天井も素晴らしいが、ガラス窓の絵がかわいく面白く、他には数枚の子供の労働を描いているのもあった。各国から贈られた品を展示してある中にこの小さな輪島塗の壷がありその美しさに見とれてしまった。
日曜日朝9時に英国銀行の前のストック・エクスチェンジで友達3人と集まる予定にしていた。電車の関係で20分早く着いたので、見ればすでに30-40人の行列が出来ていた。
英国銀行はその名もバンクという地下鉄の駅の前にあり、
その前には旧ストック・イクスチェンジの建物(まるでギリシャの神殿を思わせる)
と斜め向かいにマンション・ハウスがある。マンション・ハウスもオープンハウスで見られるが、8月に予約しなければ入れない。
9時までに集まった友達3人とはじめの50人のグループにはいって、英国銀行の内部へ導かれた。実際見せてもらえるのは銀行の脇入り口と廊下、中庭を通って二階の応接間や周辺だけそして博物館なのだが、入ってみてあまりの大きさに改めて驚いた。面積も広大だが、高さも相当高い。
内部は撮影禁止のため素晴らしい廊下のモザイクを写せなかったのが心残りだった。ローマ時代のモザイクに良く似た細かな色石をアレンジしてローマ時代から現代に至るまでのコインのデザインが多いとの事。長い廊下一面のモザイクは芸術作品そのものだった。
又ドアを通ってすぐのところにある大理石の像は、18世紀に作られたウイリアム3世の立像でローマの軍服をまとっている。当時はローマ人の真似をするのがステータスだったらしい。
この銀行内部を案内してくれたガイドのおじさんは非常にユーモアにあふれ上品なジョークが次々で決して飽きさせない。昨日のホワイトホールのおじさんとは何たる違い。
豪華な室内装飾や、高価な陶器セットなども展示されていた。
ガイドの説明では、英国銀行は世界で第二に古い(1795年)と言うことがわかり、一番古いのはスイスだとのこと。ナルホド・・・
金塊を計る重量計なども見て最後は博物館へ。博物館の一番のセールポイントは一箇所に飾られている金塊で長さ30センチほど、7Kgの重量で片手で持ち上げるのが難しい。
あんなに重いものだとは知らなかった。価値は9月半ばの時点で453,000ポンドだという。
映画などで金塊を山積みにした車や銀行強盗などいとも簡単に金塊を持ち上げたり、動かしたりしているが、あれは全く嘘だらけ。実物を見たことの無いシナリオライターに違いない。
とにかくこんな重い金塊がこの銀行の地下に470,000本も眠っていると言う。想像がつかない。約10分ほど奥の部屋で偽札についての短い映画と説明があった。この銀行ではお札の印刷はしていないとの事だった。
十分堪能して、銀行の前に出てみるとあまりに長い行列で、英国人の気の長さに感心した。
朝一番にここに来たなんてすごくラッキー。
コベントガーデンのオペラハウスの近くに教会にしては異様な姿の建物があり、ここがフリーメーソンの本部だとこのオープンハウスで初めて知った。
あいにくここを訪れた土曜日の午後は雨が降り出し、外観の写真を撮ることが出来なかった。
午後4時の雨で内部は暗くなんとなく不気味な雰囲気。フリーメーソンという名前は聞いたことがあるが、一体何の団体であるか行く前は知らなかったが、内部を一回りし、博物館もしっかり見て出て来た時もやっぱり判らなかった。不思議な秘密結社のような感じがする。
フリーメーソンは男性だけしか入会できず、それもゴルフのような会員権を金で買うことが出来ない。ステータスが一番ものを言うらしい。お金持ちの道楽のようだが、入会は厳しい審査があり、入会のセレモニーが秘密めいているらしい。
こうしてオープンハウスで一般人を入れて”私たちに秘密はありませんよ”と見せてくれているのだろうが、どれだけ見ても判らない。宗教団体ではないらしいがイスがびっしり埋まっている会議場の天井にはユダヤのダヴィデの星(6つ星)と土俗信仰の5つ星が対局して描かれ、博物館内にはソロモン王の神殿の模型が飾られてあったりで、ますます理解に苦しむことになった。
お金持ちの団体だから展示されているものも金目のものが多く、室内の装飾も素晴らしい。
王家の親戚であるプリンス・マイケル・オブ・ケントが1982年以来メーソンのマスター(長)を勤めているとの事で、マスターはこのような金に糸目をつけない前掛けをつけることでその役職を現している。
このような幾何に使う道具のようなものが彼らのシンボルだと言う。 誰か知っている方がいたら判るように説明していただけないでしょうか
トラファルガースクエアーからバッキンガム宮殿を結ぶパル・マルの途中にあるマルボローハウスは1709年にクリストファー・レンの息子によって設計された、マルボロー公爵のタウンハウスだった。
1816年王家に買い取られ、以来王家の皇女、王子、歴代の王の住む家となったが、1959年エリザベス女王により英国連邦(コマンウエルスと呼ぶ)のセンターとして機能することになった。
屋内は写真禁止のため、ここに載せることは出来ないが、玄関大広間の壁全部が華麗な壁画で埋まっていた。玄関に立っていた女性警備員の前で大げさにワォーと感嘆詞を発したら嬉しそうににっこり笑った。
玄関から右のドアを通ると幅広の階段と踊り場に行くが、両方の壁はマルボロー公爵が各国で戦った戦争場面が描かれていて、これを見せるため二階へ上り玄関大広間の手すりを横切って左の階段(ここにも戦闘場面が描かれていた。)を降りてゆく。
建物左の2部屋は英国連邦の仕組みや仕事を展示・パンフレットなどがたくさん立てかけてあった。
その奥のダイニングルームは立派なテーブルや家具と壁にマルボロ公爵やジョージ5世とその夫人クイーン・メアリーの肖像画が飾られてあった。驚いたのはクイーン・メアリーの肖像画で、4年前スカンディナヴィアを旅行した際、デンマークのフレデリクスボゥ城の大広間に飾ってあった絵とあまりに良く似ていたからだった。
そこでその部屋のガイドの女性に聞いたところ、彼女はデンマークから英国へ嫁いだのだとのこと。あまりにきれいな人だったから、忘れていなかった。
このジョージ5世とクイーン・メアリーは現エリザベス女王の祖父母に当たる人で非常に厳しい人たちで在ったらしい。昨年の映画 King’s Speach でジョージ6世が吃音に苦しんだのは子供時代からのストレスだったというから気の毒。
話が横にそれてしまったが建物の真ん中の大広間は過去には Drawing room(客間)であったが今現在は長い楕円形のテーブルが置かれコンファレンス・ルームになっている。現在54カ国が英連邦に加盟していてテーブルにはアルファベット順に各国名が飾られていた。
裏庭の片隅にクイーン・メアリーのわら屋根、サマーハウスがあり大変良く手入れされている。パル・マルと垣根の間に54カ国の国旗が翻っていた。
外務省を出てホワイトホールの並びに同じ名前の建物がオープンハウスで開館していた。近くだからあまり人も並んでいないしと行列に着いた。後50分ほどで私たちも入場できると言う。
このホワイトホールは英国陸軍のオフィスでエリザベス女王が陸、海、空軍の長であり、毎年5月に行われる女王のオフィシャル誕生祝いは、このホワイトホールの大広場で行われる。この派手な陸軍の制服に身を包んだ軍人たちが乗馬姿で行進する。
又バッキンガムパレスの正門はこのホワイトホールの門を通って出入りするのが正式で、今年のウイリアム王子の結婚式にも馬車の行列はここの門を通って出入りしていた。
約一時間ほど待っている間に口のうまい案内人が、”君たち、ここは待つ甲斐ありだからね”。と言ったからすごく期待した。
50人が一組になって案内されたのが二階の正面に近い一部屋で皆が入るとしっかり戸を閉めてしまった。そして陸軍の中堅どころと思われる中年の軍人が話し出した。
この人が余りに下手で話していることが全然面白くない。部屋のすべての壁にかけられた絵の説明を長々とやって、飽き飽きしたころに向かいの部屋に案内された。
ここでも絵の説明と・・・戦争の話とか・・・もういいから早く終わらないかとうんざりだった。
私が唯一つ興味を持ったのがナイチンゲールの手紙で、クリミヤ戦争のことも言ってたからその頃の物なのだろう。
外を見れば長く人々が行列を作っている。やめたほうがいいと言ってあげたい。
長々一時間も閉じ込められて、ドアを開けたらそれで終わりだった。2部屋以外内部はどこも見せてくれなかった。こんなにがっかりしたことは無い。
毎年9月半ばの週末2日間にロンドン中の有名、無名の普段は一般公開しない建築物や、入場料を払って入る建築物が、無料で一般公開される。
その場ですぐ入場できるところもあれば、8月中の期日までに申込書を送らねば入場できないところもあり、これらの会場リストが各区内の図書館に無料配布されている。
そこでロンドン在住の日本人の友達数人で、この日しかないと、なるべく多くを見るために朝9時集合で駆け回った。
その第一日目が外務省だった。この外務省はトラファルガースクエアーから国会議事堂へ向かう道ホワイトホールの途中にありヴィクトリア朝時代の壮大華麗な建築物だった。
ここが開くのは10時との事で9時20分ごろに行ってみるともう20人ばかりの行列が出来ていた。すぐ行列に並ぶとそれ以来どんどん人々が集まってきて、行列は10時ころには建物を曲がってまだまだ伸びている模様。
外務省職員が朝寝坊したとかで、開館が遅れ10時15分にやっと開場した。一団は50人くらいずつ入場可で、私たち待った甲斐あり、はじめのグループで入場できた。
門をくぐって中庭は駐車場になっているが周囲の建物はなかなか立派、長い廊下を進むと天井付の素晴らしいスクエアーに着いた。中のタイルの床も素晴らしいが、周囲の壁に飾られている彫刻は歴史を物語っているらしい。
この国に住んでもう40年近くになるが、過去200年のこの国の歴史など私の貧しい知識では到底判る由も無い。
ただこの国が大英帝国として一番ピークだったのがヴィクトリア時代だったらしいことがよーく判った。この彫刻で見るとヴィクトリア朝時代の偉い人たちがローマ人の服装をしている。この当時これが流行だったらしい。
2階をめぐると素晴らしく装飾された部屋にたどり着いた。ここは外国からの貴賓客を迎えてのパーティ会場だったらしい。その部屋を通り抜けると石つくりの階段と踊り場、その周囲の一部屋が現外務大臣のウイリアム・ヘイグの部屋だと警備員が教えてくれた。
あらゆる壁も天井も壁画で埋まりすべて歴史を物語っている。
天井中心の巨大な円周の中には5大陸の主要国が描かれ、日本もアジアの一員として入っていたから安心した。
階段下にヴィクトリア女王の紋章があった。と言うことはこの辺りのデコレーションは150年かそれ以前ということになる。
若い女性職員がアンケートを取っていたので、ヨーロッパをいろいろ回ってみたがやっぱりロンドンが一番素晴らしいと言ったら大喜びしていた。
建物のホワイトホールに面した外周の壁には、工業、化学、農業、芸術、音楽などの女神像が彫られてあった。今までこのとおりを何度も通り過ぎて、一度も気がつかなかった。