Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

スポーツ漫画の歴史

2020-10-29 21:37:59 | ロンドン周辺

昨日、正午から一時間にわたってZoomでスポーツ漫画の歴史という解説があった。

これは毎年いろいろな試みをしてくれるJapan Foundation (日本基金)の一環で大変面白いものだった。

何しろ1972年に日本を離れ、以来日本の漫画など見たこともなし興味もなかったけれど、このコロナの影響で都心へ出ることもままならぬ。居ながらにして見られるZoomほど便利なものはない。

ということで先週Apply したのがこの解説だった。

日本のプロフェッサー吉村一馬氏が日本語で話すのを通訳の若い女性Bethan Jonesが直訳適切に話される。

まず初めの漫画は1947年に発行された バット君 作者は井上一雄氏、米国駐留軍が日本国内を管理していた戦後初めの漫画では格闘技(柔道や剣道など)は禁止されていて、民主主義を推し進めていた米国のアイディアで、日本は野球が国家のスポーツくらいに、人気を博した。(ちなみに英国では野球はほとんど知られていず、野球の漫画は現在に至るまでほとんど流通していない。)

格闘技が許可された1951年には福井英一氏の いがぐり君 が発行された。この当時親からは漫画ばかり読んでいないで勉強しなさいと言われた団塊世代がほとんどだったと思う。この漫画は柔道だった。

1966年には梶原一騎作、川崎昇氏漫画による 巨人の星 が人気を博した。私は読んだことはないけれどこの名前は知っていた。この漫画は野球のストーリーでスポーツ根性を描いた初めのものとして一躍人気を博した。これ以来スポーツ根性(今ではスポコンというそうだー日本語の何でも短くする言葉が定着すると判らなくなる。ここロンドンでも日本人女性の話す言葉でキンクロ(キングスクロス)やチャリクロ(チャリングクロス)と話すのを聞いてたまげたものだ。)

1968年東京オリンピックから4年後、バレーボールが主題の アッタクNO 1 や サインはVなどスポコン漫画が人気を博した。

1972年に水島新司氏の野球のストーリー ドカベン は2018年まで発行され続けたというからすごい。少年野球からプロ野球選手になった経過を描いているという。

1972年 ちばあきお氏による キャプテン は中学野球、1973年には同氏による プレーボール は高校野球を描いて、一人のヒーロではなくチーム各人のキャラクターを描いている初めての漫画と言われる。

1978年には小林まこと氏による 1,2の三四郎 これはラグビー、柔道、プロレスを織り交ぜたスポコン漫画を超えた人間ドラマを描いたものだ。

1981年、あだち充氏による タッチ は高校野球の少女が主人公、

1989年の河合克敏氏による柔道漫画 帯をキュッとね では今までいがぐり頭の男子が現代風に描かれるようになった初めという。

変わったスポーツでは2011年こざき亜衣氏の あさひなぐ は薙刀、1990年の坂田信弘作、かざま衛二漫画による、風の大地 はゴルフが主題、この頃には大人が漫画を読む時代に入った。

1987年戸部良也原作、山本修漫画の はるかな甲子園 は耳の聞こえない少年たちの高校野球を描いた感動的なストーリーで、これが障害者スポーツのはじめと言われる。

1999年井上雄彦氏の リアル は車いすバスケットボールを描いたもの。

2016年香川まさひと氏の ましろ日 はブラインド(盲目)マラソンをえがいたもの。

これら障害者の漫画ストーリーは障害者スポーツ協会の賛同を得ているという。スポンサーがつくのは漫画が発行され人気が出て初めてスポンサーの目に留まるもので、決してスポンサーが主題を示唆するものではないとのことでした。

ここ最近の傾向としては、高校クラブ活動を通して3年間に凝縮された人間関係が成長して社会に出ていくストーリーが多いという。

こうしてたかが漫画といえど社会と切り離せない歴史があり、今や日本ならず世界中で日本の漫画がブームになっていることが判った。

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コッツウオルド2日目

2020-10-29 07:15:03 | 英国内旅行

コッテージは2ベッドルーム、1室にシングルベッドが2つで、狭いベッドルームはいっぱい。

ジュードは寝言は言うし寝返りしては壁を蹴るし、朝は7時ごろから目覚めて寝かせてくれない。

今日も一日ジュードの遊び相手・・・・全く疲れ切った。

 

朝から予約したところが巨大な農家で、4人で30ポンド近くを払い、動物の餌代もお金を取る。

ここの動物、人間とみれば餌と心得ているから、にこにこしながら?すぐに寄ってくる。本当にこの豚笑っているように見えない?

オーチャード(果樹園)の奥には子供の遊び場があり、

私もパトリックも子供に帰って遊んだ。

 

軽業師ジュードの後ろを追って、私もこの小さな川を綱渡り

子供の想像力はすごい。ジュードの遊び相手でトラクタの後ろの荷車には馬糞を載せたり、麦わらを載せたり降ろしたり、トラクターの巨大な車についた(想像の)馬糞を手で掃除しなければならぬ。

 

午後2時、パブの庭で昨日のパトリックの友達夫婦と落ちあい、昼食を食べた。彼らは10歳になる胴長の犬(ダックスフントではない)2匹を連れてきて、この犬たち人間ならばもうずいぶんの年寄りとのこと。

 

 

昼食後田舎道を散歩に行ったが私の万歩計で7㎞を歩いた。

 

 

 

 

さすが田舎の散歩道は素晴らしい。可愛い子牛もおとなしい。ジュードはパトリックに2-3回肩車をしてもらったが7㎞のうちのほとんどを歩いた。

Pablic foot path と呼ばれる散歩道は教会の中の墓地の中を通っていく。

道端の草むらの中にワイルドシクラメンの群れ。

 

 

英国の田舎でいつも感心する石を積み上げた塀、よくこれほどに多様な石を集めてきたものだと感心したり・・・・・。

これは巨大なお屋敷の門番の家らしい。このあたり大きな家が多いことに驚かされる。

この夜コッテージで夕食を食べベッドへ行くまでの数時間、コッテージに備え付けの農家の雑誌を見ていたら面白い記事を見つけた。

英国にもワラビが多いが、日本人の様にワラビを食べることがない。ところがこのワラビが大きく葉を茂らせた7月にグリーンの葉を刈り取って、羊の毛も洗っていないのはラノリンがしっかりのっていて、ワラビの葉と混ぜて積み上げ、温度も70度になるという。これは上等のコンポストになるとのことで農家の副業で多大な収入になるという。ただただ感心した。

 

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コッツウオルド

2020-10-29 06:11:41 | 英国内旅行

最近の英国のコロナの感染者はますます増えて、一日の感染者は2万人を超え、多い時には3万人近くになっている。、死者も急に増えて昨日の火曜日など367人、今まで外出しなかった老人が若者の感染者から感染したのかもしれない。

ウエールズはロックダウンになり、出入国できなくなった。私たちまだ英国内は出かけることができるので、娘夫婦が二泊三日の小旅行に私を誘ってくれた。、コッツウオルドに小さなコッテージを借りることにして木曜日の朝遅く出発。

コッツウオルドは静かできれいな村があちこち存在することで知られるが、あまり観光旅行には向かない。特に5歳半の孫を連れての旅はどうしても孫が中心になる。

コッテージに入れるのは2時以降と聞いていたので旅を急ぐでもなく、午後3時ころについた。

2ベッドルームの小さな二階家できれいなリビングルームと小さなキッチン、ガラス張りのダイニングルームがあった。コッテージの持ち主の中年夫人も私たちもマスクをして応対。キッチンに取れたての卵がいくつかそれにアヒルの卵も2個あった。孫のジュードはアヒルの卵から雛(ダックリン)が返ると聞いて抱いて離さない。

パトリックはウエールズ近くに住む友達とサイクリングに出掛け、私たちジュードの好きな子供の遊び場を探して、車で出かけた。

ついたところはこの地域の大きな公園でプレイグラウンドにあらゆる設備が整っていて、小さな子供から大人まで楽しむことができる。

 

 

 

 

初めは怖がって無難な機械や馬に乗ったりして楽しんでいたジュードもだんだん冒険心が出てきたの

 

 

まるでサーカスの軽業師みたいに、手の届かないところを綱渡りしたりくぐりぬけたり、、だんだん勇気が出てきて、二回りも高い綱渡りをしてしまった。

 

これも上の綱を握って体を左右に揺らして下の板を動かすもので、はじめは怖がっていたのにすっかり気に入って、大喜びしていた。

もう日が傾くまで遊んでいて、コッテージに帰って近くのパブへ夕食に出掛ける時はあたりは真っ暗。パトリックが強力な電池を持って行ったので助かった。

村のあちこちにかかしが置いてあって、暗闇の中から出てくるかかしはあまり気持ちよくない。

初日はジュードの相手をして終わってしまった。昨日までひどい雨ふりだったが、この日の夕方は晴天でそれだけが来た甲斐ありというもの。

 

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ロビンソン・クルーソー と 棟方志功

2020-10-22 01:21:30 | 思い出

9月末までのコロナの感染者は毎日1500人ほどから7-8000人ほど、少しづつ増えていった。死者は少なく最低2人という日もあったが、多くて70人くらい。もう年寄りで体力のない人たちは死に絶えてしまったのかと思っていた。

10月に入ってから、コロナウイルスが大活躍し始めたらしく、毎日の感染者がうなぎのぼり、昨日の感染者数が2万人を超した。死者も100人台を保っていたがとうとう昨日は241人と発表された。最近の感染者動向としては英国の北部、マンチェスターやリバプールなどの若者に多い。若い人たちは自覚症状のないままに集団行動を好む人たちが多く、政府は感染防止に躍起になって、パブは10時までで閉めることと発表したら10時以降はパブの外でしつこく酔っぱらっている。

北部の病院は満杯で病床が足りないという。そのうちに英国南部へ移送が始まるかもしれない。公共施設ではマスクをすることが決められたが、しないと罰金100ポンドと言っても誰がその罰金を徴収するのか? いまだにマスクをしない人もちらほら見える。

 

最近身の回りを整理しようと思い、本棚からいらない本や読んでなかった本を引っ張り出した。このロビンソンクルーソーの本はもう20数年前英語の勉強をしようと買った子供少年少女向けの一冊。

若草物語や、赤毛のアンなどは当時夢中で読んだものだが、この400ページ近くのロビンソンクルーソーはどうしてかページを開けもしないで、本棚行き。

チャリティーに出す前に読んでみようと決心した。まずは前書き、作者のダニエル・ディフォーは1666年生まれ、今から534年も前の人。彼は若い時から政治揶揄する本などを書き多くの人達から嫌がられた。生前500冊以上の本を発行したが、有名になったのはこのロビンソンクルーソーだけだったという。彼は実際に海外を広く旅したことはなく、親しくなった船乗りから詳しく話を聞き、そこに彼の素晴らしい想像力をもってこの世界的に有名になった本を書き上げたとのこと。

この本は12歳前後の子供向きと思って読み始めたが、言葉が古い、まるで日本でいうなら中世の古書を読んでいるみたい。それに文章もあまりうまいとは思えない。ストーリーの展開が遅く、海上シーンが長々と続く、チャプター(章)ごとに分かれていないからいったいこの文章がどこまで続くのか判らない。2日目にしてお手上げ。

子供の頃に読んだ血沸き肉躍る冒険談は、彼の本をいやいや読んだ人が、上手に抜粋して子供向けに書き直してくれたものだと初めて分かった。今でも忘れられないのが無人島にたどり着いたロビンソンクルーソーが食べ物を探して、パンの実をとって食べたところ。子供心にいったいパンの実とはどんなものだろうかと不思議に思っていた。ここ英国のルーシャムのマーケットでそのパンの実なるものを見つけすぐ買ってみた。大きなグリーンの外側が固い実で半分に切ったものを買ってオーブンでローストにしてみた。特別おいしいものでもなく澱粉の塊と言ったところか。ただ一度だけの試み。

この本、心おきなくチャリティーショップへ上げることができる。

 

昨日 Japan  Foundation (日本基金)の 主催で棟方志功の作品の説明会がインターネットで有った。毎年このJapan  Foundation では日本の映画を見せてくれて、楽しみにしていたものだ。今年はコロナの影響で、会場に集まっては無理だが、今最高の技術 Zoom が素晴らしい。

説明は日本の棟方氏のお孫さんに当たる中年女性(名前を憶えていなくて申し訳ないがとってもきれいな人だということを記しておく)が日本からスライドを使ってお話しし、英国側ではその日本語を若い女性が的確に英語に翻訳して話される。

青森県出身の棟方氏(1903-1975)は子供のころから弱視で遠くが見えない。小さい時から絵が好きで、紙がない時は地面に絵を書いていたという。若くして絵描きになろうと上京して西洋画を学ぶが、弱視のため遠近法ができなくて、西洋画をあきらめ、昔からある日本の芸術、版画に目覚めて独学で彼独特の技法を確保した。

この本は私の本棚に長い間眠っていたもので、いつ頃手に入れたのかも覚えていない。

実際昨日の説明で感動し、改めて一枚づつ見てみたがこんなにコンパクトな本に入りきれないほど巨大な版画だと知ってなお感激。

この版画など一枚づつの版画の板が60cmx60cmでこの絵は6x7枚(42枚)の版画板からなる。これとて全部ではないはずだから、その巨大さは現物を見てみなければわからない。

彼の子供の頃のあだ名が世界一で彼はいつも世界一になるのが夢だったという。本当に日本だけでなく世界一になられた棟方氏でした。

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Good morning Darling

2020-10-17 06:54:07 | ロンドン周辺

今朝11時過ぎ、ショッピングトローリーいっぱいに要らなくなった本を詰めて、セントクリストファーのチャリティーショップへ持って行った。

毎週金曜日の朝はごみ集めの車と人たちがやってくる。今朝は隔週で紙類の収集と一般ごみに生ごみを集めに来てくれる。

わが家のごみ箱はもうすでに空になっていたが、チャリティショップのあるベッケンナムへの1マイルの住宅街では今まさに紙類の収集が始まっていた。重いショッピングトローリーを引っ張って歩いている目の前を、中年のおじさんはわき目もふらずに、大きな車付きのごみ箱に道路わきの箱に入っている紙類を、手早く入れている。

通りすがりに Morning と声を掛けたら、Good Morning Darling(おはようダーリン)と返事が返ってきた。ポールが逝ってもう3か月、ダーリンと言ってくれる人などいないのに。

こちらの肉体労働者やマーケットの商人達等は、女性にはHello Love(ハローラヴ)とかHi ,Sweetheart(はーい、スイートハート)とか平気で挨拶する。彼らにとってはLove もSweetheartもDarlingも何の意味も持たない。女性なら皆その一言で挨拶する。間違っても おはようおばあちゃん などとは言わない。ちなみに男性にはHello Mate(ハローメイト)知っても知らない人でも区別ない。

お互い顔も見ないで、通りすがりの挨拶だったけれど、なんて懐かしい言葉、涙が出そうになった。

 

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もう10月

2020-10-02 00:29:31 | ロンドン周辺

今日待ちに待ったポールの死亡証明書が届いた。月曜日もう3週間にもなるのに来ないとしびれを切らして、ブロムリーのカウンシルに文句のメールを送った。

火曜日朝レジストレーション・サポート・オフィサーという人から返事で、私の送った申請書が見つからない。レシートの番号を知らせてくれとメールが来た。それで分かったこと、わたしはレシートを貰っていない。ということは私の申請書が向こうに届かなかったのだ。

もう3週間も無駄にして・・・と悔しくて、そのオフィサーに 私がバカだったのだと分かりました。すぐにもう一度申請します と書き送ったら、また返事が来て いえいえ馬鹿じゃないです、こんな悲しい時期に、いろいろな事務処理もしなければいけないのだから。申請したら僕がすぐ処理します。僕も昨年母を亡くしましたから。----こんな優しい心づかいのメールで泣いてしまった。

手書きの住所にファーストクラスメールであの親切なオフィサーが処理してくれたに違いない。すぐにお礼のメールを送り、同時にもう1か月も待たせた銀行に死亡証明書を送付した。

 

 

 

先週乳がんのチャリティソサエティから袋が送られてきて、衣類や本、DVDなどいらないものをこの袋に入れて木曜日に集めに来ますと書いてあった。それで亭主の下着やシャツ、パジャマなど2袋に入れて水曜日夜に庭の入口に置いたら木曜日午後無くなっていたから、これなら重いものを持って行かなくて済む。。

下着などチャリティではお店で売るのではなく、袋一つが何キロで、何ポンドと決まっていてぼろ布として売るのだそう、これは長年癌研のチャリティショップで働いて居る友達から聞いたもので、そんなことを知らなければ下着などごみとして出すよりほかないだろう。

まだワイシャツや、スーツ、オーバーなど一杯あるがそれよりも長年たまりにたまったタオル類とシーツを何とかしなければと取り出したのが上2枚の写真。

これらもボロとして処理されるのかもしれないけれど、ごみとして燃やされるか埋められるよりもましだろう。次のチャリティの袋が回ってきたら全部上げたい。

こうして少しづつポールの身の回り品が無くなっていく。個人がこの世に存在していたことさえも写真と思い出以外無くなっていく。

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