キャンピング・プラッツから乗ったバスは30分以上も岡の周辺を登り降りしてやっと町の中心部へ近づいていった。グーゲンハイム美術館がどこにあるか知らないからバスの中の隣の乗客に聞いたところ、ここで降りて向こうの方角だと言う。大体スペイン人は自分が知らなくても絶対知らないとは言わないそうだ。それで全く正反対の方向を教えられ、二人で町のあちこちを歩き回っているうちに、やっと道路標識を見つけた。
歩いているおじいさんに聞いてもキョトンとしている。英語のできる若い学生らしい人がこの道をずーとたどれば、20分ほどで着くという。ビルバオの町の中はどこを見てもモダンな建物ばかりで今まで行ったスペインのどんな町とも格段にちがう。
グーゲンハイム美術館は1997年完成されたウルトラモダンな建築物で、西暦2000年祭の前後ヨーロッパ各地で競ってモダン建築物がつくられたが、たぶんこの建物が一番有名だと思う。ガラスとティタニアム、ライムストンの建物はカナダ・アメリカ人の設計士の作品で年間100万人以上の人々が訪れると言う。
ここは私の嫌いなモダンアートの美術館で展示されている絵画や彫刻を見ても特に感激するようなものは全然無かった。たぶんロンドンのテート・モダンを連携しているらしく、以前にテートで見たことのある絵が何枚かあった。テートの常設展示物は無料だがここでは入場料が高く65歳以上割引でも一人5ユーロする。
何でも経験してみなければわからないと急いで歩き回ったが地階の広大な部屋に常設されている巨大な鉄壁のオブジェだけは面白いと思った。中に入ったり隙間を通ったり大人も子供たちも結構賑やかに楽しんでいるが、一人渦巻状の壁の中に入っていくと軽い閉所恐怖に襲われた。
2階の観覧所から見下ろしても壁の中に入っている人達が一人も見えない。
ネルヴィオン河に面した川沿いの遊歩道には数年前ロンドンのテートモダンのターバインルームに展示されていた巨大な鉄の蜘蛛の像が置かれてあった。こういうのが芸術だとか美術だとか言うのがわからない。私が年寄りだからなのか?一体どれだけの人がこの巨大蜘蛛を見てわー素晴らしいと叫ぶだろうか?
美術館の対岸には古式ゆかしい?古い建築物があり、このビルバオはウルトラモダンばかりじゃないのだとなんとなくほっとした。
キャンピングプラッツに戻り岡の上から望遠で覗くと素晴らしくカラフルな屋根のフラット(アパート)が並んでいるのが一番印象的だった。
望遠でもグーゲンハイムは際立って見える。
この日夕暮れにまで時間があるからとスペイン・フランスの国境近くの町サン・セバスチャンのキャンプ場に入り、インターネットでドーバー・カレー間のフェリーを予約し、3日間でフランスを縦断、3月18日まだまだ真冬に近い英国にたどりついた。
もう一月ポルトガルに居たならばこんな寒い目に会わなかったのにと二人で嘆いたほど、今年の英国の冬は長かった。4月27日の娘の結婚式の為しかたなしに早々に帰国したもの。
次回は英国の結婚式の話です。
その夜、モンフラエのキャンプサイトで見たヨーロッパのニュースでは北欧からドイツ、オランダ,フランス中央部までは激しい雪に見舞われほとんどの空港が閉鎖されたと言う。
昨年3月20日過ぎの中央スペインでも雪が降っていたから、今回もわからない。
3月13日は朝から素晴らしい青空で風も収まっていたが、気温が低くて霜でも下りそうな寒さだった。キャンプサイトから真っ直ぐ北上して2年前に訪れたサラマンカの環状線を通ってバーゴスへ向かう。
途中から道路わきの牧場や畑地にうっすらと雪の積もっているのが見られ、小高い山は木々が凍っているようで白く輝いている。
スペインの道路は高速道路ではないが時速100kmまで出せ、設備も整っていて道路渋滞することが無い。快調に飛ばしているうちに粉雪が舞いだして、それが一時はボタン雪に変わった。それでも道路に雪が積もることが無く、この日400Kmを走ってビルバオの50km南の町ビットリア(Vitoria)に着いた。
この町の大きな駐車場はキャンパーのためにただで宿泊できるキャンピングプラッツが整備されていて、一角には水道と下水処理場が備え着けられている。もうすでに10台以上のキャンパーが停まっていて、雪は一晩中降り続いた。
このようなキャンピングプラッツでこまるのは電気が無いこと、ドイツのキャンピングプラッツの優れているのは1ユーロのコインを入れると数時間のメインの電気がつながってテレビやビデオが見られ、本も読める明るさが得られる。
キャンパー内のバッテリーではやや薄暗くて寝るまでの数時間が楽しめない。それに電気ストーヴがつかえないからガスストーヴを入れて暖を取ったが、寝るときにはガスは止めてしまう。
朝はあまりの寒さに目を覚まし、この冬初めての長袖の暖かい下着を着ることにした。
ポルトガルでは冬でも10度以下に下がることはあまりないからほとんどの日々半そでですごしていた。
ありがたいことに一晩中降った割には雪は積もらず、まだ雪の降っている中をビルバオ(Bilbao)へ向かった。
有料の高速道路を避けてNロードを行くと一山越えなければならず、この時は道路の両側の降雪の多さに驚き、まるでクリスマスカードの絵になりそうな景色が現れた。
そしてもっと驚いたのは山を越えた途端、あたりは一変して雪などどこにも見えない。ビルバオの町に一番近いキャンプサイトは50km北の海岸にあり、この日ビルバオのグーゲンハイム美術館を見るだけで夕方キャンプサイトへ行くことにした。
ビルバオの町は周りが山や岡に囲まれた狭い平野にあり、キャンピングプラッツも町を見下ろす岡の上にある。
そこにはキャンパーが2台停まっていた。この場所から町までバスが往復していたからここにキャンパーを停めて町への観光に出かけることにした。
自然公園の観光案内所でもらった地図を頼りに昨日の川渕から上流へキャンパーを向ける。
この自然公園を流れる大河はポルトガルの首都リスボンへ流れ込むテージョ川の上流にあたり観光案内所近くで2手に別れた道の左手を行くと大きなダムに出会う。
このダムの対岸の荒々しい切り立った崖にも禿げ鷹が巣をつくり、上空では数十羽の禿げ鷹が舞っていた。
この地域はコルク樫の林で道端の草花もかわいい。ヘザーは白とピンクの花が今盛りと咲いているし高さ10cmくらいの野生の小さな水仙が下草の間に見え隠れする。
ロックローズの仲間でガム・シスタスと呼ばれるこの白い花は地中海沿岸の岩の多い荒地に生え、ポルトガル南部では今が盛りと咲いている。この自然公園では後2週間ほどですべての草薮が花いっぱいになるに違いない。
昔イタリアのカプリ島へ行った時、チェアリフトで山頂まで行ったが、その時山の斜面一面にこの白とピンクの花が咲いていた。あの時の情景は今でも忘れられない。私の前庭にはピンクの花の大きな株が植わっている。この花は咲いても一日しかもたない。
ダムの水辺には羽を乾かしている鵜が数羽居て動かない。人なれしているらしいブルーティッツが3メータくらい離れた柵に停まって写真のモデルになってくれた。まるで黒いベレー帽をかぶったような尾長も人なれしていて近くを飛び回っていた。
このダムからまた30分も上流に行ったところにも河の対岸に禿げ鷹の巣があった。なぜか禿げ鷹の巣のあるところは皆水辺に面した切り立った崖でそれらの岩が黄色になっている。これは禿げ鷹の糞かとも思ったが、岩コケなのかもしれない。
肉眼でも見える対岸の岩に停まった禿げ鷹が飛び立つまで連続撮影した。首の周りの白い羽が襟巻きのようでかわいい。
お昼近くに昨日のお城の下の駐車場へ行き、昼食にした。広い駐車場に観光バスが一台止まっている。自家用車はお城の中腹まで行けるがキャンパーやバスはこれ以上に駐車場が無い。そこでとにかく山上のお城を目指して急斜面の道路を歩いて登ってゆくことにした。この日はうす曇で風は冷たいがウインドヤッケで十分暑い位だった。
観光バス一台分の子供たちがお城の上で大騒ぎしている。その上を禿げ鷹が舞っていて、うるさいなーなんて思っているかもしれない。彼らの巣がお城の真下にあるから。
お城の上にたどり着いたときはすっかり汗をかいていた。そして上空から見えるテージョ側やコルクの森の連なりが素晴らしい。禿げ鷹が眼下にみえる。
散々写真とヴィデオを撮って満足してお城から下ったが翌日から3日は二人とも足の筋肉痛に悩まされた。
マルバオ(Marvao)のキャンピングプラッツはスペインの国境に近く、数十キロでスペインにたどり着いた。真っ直ぐ東へ向かうと昨年一週間も滞在したカセーレスへたどり着く。カセーレスの町へ入る最初の交差点の道路わきにコウノトリの団地のような巣を載せた柱が林立していて驚いた。とっさにカメラを構えて撮ったから周囲があまりわからないが、一体誰がこんなことを考えたものか?
カセーレスからカーナビをセットしてモンフラウェ(Monfrague)自然公園へ向かった。カーナビは地図にも出ていない田舎道を指し示し、近道らしいのが判って勇んで出発。初めは溶岩らしい岩の露出した牧場に牛や羊が放牧され平野を真っ直ぐ進んでいたが、50kmも行くとあたり一面コルク樫の林になり、谷間へ入ってゆく道路はジグザグで一番下に下りたところで対向車に大きなトラックが来てやっとすれ違った。
高い崖の上方にはヘザーの花が咲いているらしく全体がピンクに見える。遠くの山頂にお城が見えてきた。大きな河岸にたどり着くと道路わきの見晴台にキャンパーや自家用車が数台停車して沢山の人達が川向こうの荒々しい崖に向かってカメラを向けている。
もちろん私たちも急いで撮影開始。予想もしなかった道路わきで、こんなに沢山のはげたかの群れ、スペイン人のカメラマンは素晴らしい写真を撮って見せてくれ、案内の看板を指してあれはレナード禿げ鷹だと教えてくれた。
このモンフラウェ自然公園はヨーロッパ最大のはげたかの生息地で、他にワシ、ふくろう、黒コウノトリ、鵜などが生息している。
川向こうの岩やお城の下の崖に巣を作っているが肉眼では見えない。それで望遠を最大にして岩のあちこちを写しまくったら、中に数枚巣に座っている鳥が写っていた。時々頭の上をスーッと飛んでゆくが望遠を大きくすればするほど動いているものを捕らえるのはとっても難しい。300枚も写真を撮って雨が降ってきたのを機会にキャンプサイトへ向かった。
めまぐるしく天候の変わるこの日モンサラズを後にしてまた200km北方のマルバオ(Marvao)へむかった。雲が飛ぶように過ぎて明るいブドウ畑の道路わきにはポルトガルの主要産業であるワイン工場などがあったりする。
田舎の山道を走っているときに見つけた立派な建物の門にはホテル・サンタ パウロ尼僧院とあった。カソリックの強いこの国でも尼僧や僧院などははやらないと見える。以前は広大な土地を持って自給自足、それにワインなどを造って生活・修行していた修行僧や尼さんなどもなり手が無ければ身売りするしかないのだろう。
途中で何度も雨に降られ、マルバオの近くになって道路は雨上がりの急勾配の坂道になった。ここにも山頂に城砦と僧院があり途中にキャンパーが宿泊できる停車場(キャンピングプラッツ)が有る。
着いてすぐ急いで写真を撮ってまもなく激しい雨と強風で歩いて5分にあると言う城下町へ行くこともできない。
結局この夜はガスヒーターをつけて温まり、早々に寝てしまった。この日の走行距離は400kmだった。
3月10日、日曜日3ヶ月半も滞在したオルニャオのキャンプサイトをでて帰国の途についた。と言っても真っ直ぐ帰れば5日で帰国できるで有ろうスペイン、フランスの道中も立ち寄りたいところを計画していたので、初日はポルトガルで一番見晴らしが良く高所にあるキャンプ場・モンサラズ(Monsaraz)へ向かった。
道路も今まで通ったことの無いスペインの国境と平行に北上するN122を走る。3月に入ってからというもの今までのからりと晴れた日は無くて強風、寒風、にわか雨の日々が多かった。この日曜日もしかり、晴れたかと思うとにわか雨、天候不順の一日だった。
それにしてもポルトガルの3月はまさに春たけなわ、道端も色とりどりの花が咲き乱れ,コルク樫の林の下草は白いカーペットを広げたよう。
時々現れる町の山頂には中世の城砦が威容を誇り、観光案内所には書かれていないポルトガルの城砦が一体どれほどあるのだろうと思う。こんなお城めぐりも面白いかもしれない。
途中に工事途中で廃棄された高速道路の残骸に2箇所も出くわした。3年前に北ポルトガルから南下してきたとき、高速道路と国道、県道が平行に走っているところが多くて何と言う無駄をと思ったが、このあたりもまだ経済危機におちる前に工事着工したものの、昨今の緊縮財政で工事打ち切りになったものと思われる。
ブドウ畑や牧場の広がる平野をスペイン方面へ向かうと、遠くに小高い山の上のお城と教会の尖塔が見えてきた。山のすそを半周して頂上近くにキャンパー専用の駐車場がありここでは宿泊できる。この駐車場から見える風景が素晴らしい。これで晴天ならばここに一泊してもよいと思ったが、風が強く、にわか雨も降って来た。
キャンパーを停めて昼食にし、晴れ間に町の正門から散策に行った。石畳のきれいな町で、日曜日のせいか、それとも天気が悪いせいか、人通りが少ない。
町の中心通りには土産屋さんとレストラン、カフェなどが数軒あるだけ。城砦も誰も居なくて強風が冷たい。急いで写真を写してキャンパーに戻った。
この駐車場にはキャンパーが4台停まっていたが、まだ1時過ぎ、次のキャンプサイトを目指してモンサラッズを後にした。もう一度晴天の頃に是非来て見たい所だ。
先週は平均すると曇りとにわか雨の日が多かった。最後の極め付きが金曜日の夜でポルトガルの3回の冬で初めて雷にあった。それも夜中の2時頃、激しいにわか雨に大粒のあられが混じってキャンパーの屋根にバンバン落ちてくる。とってもうるさくて眠られるものじゃない。
10分もしないうちに稲光と同時に轟音が響き思わずとび上がった。キャンパーがぶるぶる震えるほどの音だった。キャンパーの真横のウオータータワーの避雷針に落ちたに違いない。
翌朝は青空だったが近所の人達が会うたびにどんなに怖かったかの話でもちきり。
一番近いトイレ・シャワーブロックの女性用入り口にツバメが巣を作った。ツバメを見かけるようになったのは1月中ごろからでプールの側で毎朝縄跳びをしていると、ツバメが何羽もプールの水面すれすれに飛ぶ。良く見ていると高速で飛ぶ間に嘴を水に付けて水を飲んでいるらしい。
先週トイレに掃除に来る人がツバメの巣を取り除いてしまった。確かにあちこち糞が落ちて汚いし気持ちが悪い。無くなった巣の後にも毎夜ツバメの夫婦が戻ってきて、夜を過ごす。この写真を撮るのにフラシュを付けたせいで驚いたツバメはトイレの天井をとびまわり、なかなか落着かなかった。
翌夕ただ一羽のツバメがぽつんと停まっていて、連れはどうしたものだろう?他に恋人を見つけたのかしらなどと心配していた。亭主に言ったらお前がフラシュを付けたから怖がって帰ってこないのだと怒っている。
夜中に最後のトイレに行く時もただ一羽のツバメが哀れでならない。ごめんね。しょんぼり・・・。
今夕また2羽が仲良く向かい合って停まっているのを見つけて安心した。
2月25日は満月だった。毎夕空が晴れ渡り夕日が西空を染める頃、東の地平線から巨大な月が上がってきて毎夜満月になるまで写真を撮っていた。夜中、天中にあるときは素晴らしく明るく辺りが見渡せる。
またこの2週間ほど毎夜近くでふくろうが鳴き交わす。一度だけ夜中の12時頃大きな白っぽい鳥が2羽松林の中を飛んでいったのを亭主が目撃した。人の話に拠ればここポルトガルのふくろうは世界で一番大きな種類だと言う。
今まで5組の夫婦が居た私たちのブロックも2週間前に3組が帰国したりスペインへ行ったりで、残ったミッシェル夫妻がもっと日当りの良いところに引越し私たちだけになってしまった。そこへ英国ヨークシャーから小さなキャンパーでやってきたキャロルとロジャー夫婦、歩行困難で車イスで移動するロジャーのためキャロルはキャンパーの運転から家事全部をこなし、キャンパーの中に車椅子から小型洗濯機まで積んでいる。ミシンまで持ってきていて昨日作ったカーテンだなどと見せてくれた。
ロジャーは真っ白のもじゃもじゃのひげが顔半分を覆っていて、おまけにほとんどいつもチロルハットをかぶっているから、顔立ちが覚えられない。キャロルは初め見たとき相当のおばあさんに見えたが近くで話して見ると私と同じくらいの年らしい。とにかく陽気でタフな女性だ。
ヨークシャーの農家の主婦で日本人と話すのは私が初めてだと言っている。ブロンテ姉妹の住んでいたハワースを訪れる日本人団体は嫌と言うほど見ているけど・・・だって。
野の花もバミューダー・バタカップは盛りを過ぎ、この紫色の花や黄色や白のマーガレットのような花が道端を染める。ミモザも日々につぼみが開き道端の大木が金色に染まりつつある。
毎夕、夕日に染まった白鷺の写真を撮ろうと狙っていたがやっと一枚うまく撮れた。本当はもっと真っ赤に見えるのだけど・・・。まっ いいか。
新年のポルトガル英字新聞に拠れば、今年はポルトガルの祭日を4日も減らすという。
それほどこの国の経済は悪化しているらしい。また国民の4分の1が海外に職を求めて移住したという。ポルトガル語が通じる国といえばブラジルが一番で其の他はヨーロッパの北部へ移住しているとのことだ。
英国からの定年退職者による海外移住の一番はマルタ島でここは英語が通じるから。第二がポルトガルで英字新聞に拠れば海外定住の決めては日光照射量、気温、降雨量、家屋の値段、車の燃料費、殺人などの犯罪率、医療設備とその費用、生活費などの総合で、住居の値段はフランスの3分の1だとのこと。
またポルトガルはヨーロッパ3番目に大きな英国コミュニティがあるそうで、だからこの一週間に一度の無料の英字新聞が発行されている。
そのほかに10位まで数え上げられるのが、スペイン、バーベドス、USA、オーストラリア、タイ、ジャマイカ、モロッコ、ギリシャが占める。
昨年1月に今まで無料だったIP1(ポルトガル西海岸からスペイン国境までの高速道路)が有料になったため、海岸と平行に走る県道125が一日3000台の車の量が増えているという。そして道路の保守工事に必要な予算も切り詰められているためか、道路の破損が大きく,昨年11月にポルトガル入国した際、あまりにひどい道路状態に驚いたものだ。
それでも電車やバスなどの公共料金は英国とは比べ物にならないくらい安い。電車のほうがずっと安くたとえばオルニャオからファーロ(Faro)までの片道料金は1.4ユーロ、ファーロ市内バスは一律1.9ユーロで電車と比べ物にならない。
先日のタヴィラ(Tavira)までの電車料金も片道2.3ユーロだったのにその3分の一にもならない距離のフゼタ(Fuzeta)までのバス料金が2.2ユーロだった。
食料特にこの地で取れる野菜と、豚肉、魚、そしてオレンジは感激するほど安く、毎週土曜日のマーケットの日が待ち遠しい。魚市場は新鮮な魚があふれていていつも買いすぎる。
先週土曜日の魚市場で大きな縞ダイ(パジャマ・フィシュ)が1kg1ユーロだった。もちろん刺身にして一人楽しんだ。
カレイが1kg4ユーロだったから1kg買って、生干しカレイにした。これが嬉しくてたまらない。
昨年2月はポルトガルでも深刻な水不足だったとのニュースだが確かに昨年2月から3月まで私たちが居る間雨が降らなかった。それと比べると今年は天気が悪く2週間晴天が続いたがこの二日間お湿り程度の雨が降って気温が下がる。
昨年今頃は満開だったミモザがやっと咲き始めた。3月に入るとあたり一面黄金色に染められるだろう。色とりどりの野の花が一面に咲き始めた。ポルトガルのルピナス(登り藤)は北欧のそれと比べると背も低く細い。まるで北欧人と南欧人の背丈の違いみたい。
毎夕5時過ぎから日暮れの7時頃まで、白鷺が列を作ってねぐらへ帰ってゆく。夕日の赤が反射して赤く染まって飛んでゆく。この写真を撮るのに2時間もプールサイドでカメラを構えて粘った。飛んでるものも明かりが乏しいと写真写りが難しいのがよく判った。
アイルランド人のピーターからのメールで彼らの友達ドイツ人夫妻が小型キャンパーでこのオルニャオのサイトへ来ているという。キャビンに住むドイツ人、ウオルフギャングとブリジッドの二人に確認して、皆お互いに知り合いだということが判った。
ドイツ人の旦那が 狭い世界だねぇ。といったのが妙に心に残っている。
2月10日日曜日にダンカン夫妻がスペインへ旅だった。
その一週間前のウイークエンドに彼らはリスボンへコンサート目的の2泊3日の電車の旅をして、120ccのお酒とジャスミンティーをお土産に買ってきてくれた。
8日金曜日にダンカン夫妻のみならず、ディヴ夫妻、ヤン夫妻の合同お別れパーティーの招待を受け、私も何か持ってゆこうと水曜日に魚市場で鯖を3匹買って3枚におろし塩漬け1夜、翌日は2杯酢でしめてしめ鯖を作り、バットに並べてその上から寿司ご飯を載せて押し寿司にした。鯖の嫌いな人のためにとスモークサーモンも押し寿司にして提供したから皆からとっても喜ばれた。
ダンカンがリスボンで買ってきたキーボードに、ベルギー人のミッシェルがコンピュータに接続して、カラオケ音楽や、ダンス音楽を流し、歌えや踊れの大騒ぎ。
ポルトガル・ウオータードックのアーカスも自分は人間と思っているから一緒になって楽しんでいる。
今までの5組の夫婦ばかりでなく周囲に住む英国人夫婦が5組にオランダ人ヤンの友達が数組やってきて盛大なパーティになった。まだ日の高い午後4時からディヴ夫妻のキャラバンの周囲で始まったパーティは、日暮れとともに急に寒さが厳しくなり、キャラバンに付随したテントの中に持ち越された。
スコットランド人のダンカンは酔って来ると、お国自慢が飛び出し腰にはコートを巻きつけてキルトとし、折りたたみのイスを肩にのせてバッグパイプの代わりとして行進する。満場大喝采で大笑いをした。
9時過ぎには私も亭主もすっかり酔っ払ってしまい早々に退場、やれやれこれでパーティーはもう無いだろう。
日曜日朝にダンカン夫妻はスペインへ行き、3月に英国へ帰国すると言う。月曜日はディヴ夫妻が早朝にフランスへと旅立った。彼らはフランスのブリタニーにもキャラバンを置いてあり、4月までそこで暮らしイギリスへは季節のよい時期だけ2-3ヶ月住むという。
水曜日朝ヤン夫妻がポルトガル西海岸で友達と合流して3月末オランダへ帰ってゆく。
また今年10月ごろに再会を約束して皆去っていった。残ったのはミッシェル夫妻と私たちだけ。なんだか寂しくなったけど、また新しい出会いがある。今のところは彼らの去った跡地に誰も落着かないけれど、どんな人達がやってくるだろうかと楽しみでもある。
タヴィラはスペインからオルニャオのキャンプサイトへ向かう途中、ギラウ河の深い谷間にかかる橋を渡るが、その時眼下に広がる白い家屋の密集した町がそれで、先日ダンカン夫妻と話していたとき、タヴィラはこのアルガーヴ地方で一番きれいな町だと聞いた。
魔法瓶に入れた熱いコーヒーをリュックに2時間に1本の電車で出かけた。ポルトガルのコーヒーは小さなおままごとのようなカップに入った飛び上がるほど苦いものでミルクコーヒーをたしなむ私たちにはとても飲めるものじゃない。
タヴィラの駅に降り立った瞬間に一番目に付くのがこの純白のアイリスで、駅構内の小さな庭に咲き誇っている。イギリスでアイリスが咲くのも5-6月でポルトガルがどんなにか暖かいのがよく判る。
駅から4方に分かれた道路の標識を見て、町の中心地へ歩いてゆく。道路は下り坂が延びていて石畳の車道と狭い歩道がどこにもごみ一つ落ちていない。落書き一つ無く半壊した家屋などもあるのに汚れが無く清潔な町だった。
ギラウ河のほとりが広場になっていて観光案内所があり、広場の周囲のレストランでは休憩している観光客が余りに多いのに驚いた。
ギラウ河には見えるだけでも6つの橋が架かっている。左写真の一番遠くに見えるのが県道N125の橋でこの橋は一体何回往復したものだろうか。その手前が鉄橋でポルトガル、スペインの国境までつらなっている。
この町の一番の観光売り物といえば4番目にかかるローマ橋でさすが石造りのどっしりしたもの。この町はローマ時代からアフリカへの港町として栄えた歴史ある町だそうだ。
観光案内所の後ろから高台に上る狭い階段を登ると先ず目に付くのがセント・メアリー教会で、案内書に寄ればこの地にはムーア人によるモスクが建っていた。キリスト教との戦いに敗れた回教徒がアフリカに逃れた後、17世紀に建立されたものという。
城砦はムーア人の残したもので内部は花の咲く木が多い庭園になっている。
城砦の上から見渡すタヴィラの町は只素晴らしいの一言に尽きる。町のあちこちに書かれたサインはポルトガル語で清潔な町とのことで、本当にこれくらいオルニャオも落書きとごみや犬の糞が無ければいいのにとうらやましくなった。
右上はローマ橋から下流を見たもので、この日4つの歩ける橋を全部渡って町中を歩き回った。
昔の中央市場はレストランとお土産店に変わり、市場(Marcado)は町外れに移っている。ここタヴィラの町も海岸線はすべて塩田になっている。
フゼタはオルニャオからスペイン方面に向かった隣町で、昨年までは歩いて往復したものだけれど、年とともに往復はつらいから片道バスでと話が決まり、晴天のこの日二人で出かけた。バス停で待つこと35分、フゼタの町へ入る県道のバス停までは15分ほどで着いた。
このバス停からフゼタ駅のある町の中心までは2-3kmほど、田舎道を歩く。牛馬の牧場では野の花が咲き乱れ、道端の草さえ春の光にきらめいている。
田舎の豪邸は塀に囲まれ必ず番犬が2-3頭、私たちが通り過ぎるまでほえまくっている。この地方独特の煙突が面白い。
町に入ると新しいテラスド・ハウス(西洋長屋)が青空の下真っ白に輝く。何時見てもこのあたりは素晴らしい。道端には野生のけしの花が風に揺れる。英国やヨーロッパ北部でけしの花が咲き出すのは5月か6月で、ヨーロッパでは気温差があまりに大きい。
ため息が出るほど立派な豪邸もあれば町外れにはジプシーの住む小屋も有るのがポルトガルの現状、町の市場にはイチゴが出回っているがここで初めて温室育てでないイチゴが実っているのを見かけた。
フゼタ駅はちいさな一車線の駅で、ウイークデイでも一時間に一本通るくらい。この火曜日の日中、人通りも無く静かな町の中心地だ。駅近くの住宅の庭にはびわの青い実がびっしりついている。その隣はレモンがたわわに実っている。
庭も無い一階建ての官製住宅は屋根が庭であり洗濯物が翻っている。夏の暑さを和らげるために、このあたりの住宅は窓が小さい。
フゼタの町外れから海岸よりの湿地帯はあさりが採れるが潮の満ち干が激しい。6kmほど塩田脇の道は海水が引き入れられて今は農閑期、見えるのは海鳥やフラミンゴなど。
どこもかしこも野の花やアーモンドの花盛り、このガーベラのような花はキャンプサイトの黄色の花と同種だけれど赤の色が素晴らしい。
キャンプサイトへ戻ってみるとブロックの同じ並びにこの派手派手なキャンパーが停車していた。スイスのキャンパーで何と8人のヒッピーらしい若者や子供が住んでいる。オランダ人のヘリーンが聞いたところでは、彼らはインドまでこのキャンパーで回ってきたらしい。それにしても生活費やガソリン代などどうしているのだろうかと思ってしまう。
風あたりの少ない日向では、いつものオランダ人たちが集っておしゃべり、ワイン片手に楽しんでいる。陽気な人種だ。
1月29日火曜日はヤンの66歳の誕生日。数日前からパーティは3時に始まると聞いていたから、プレゼントにポルトガルのお菓子一箱とワイン一本を準備していた。
この日は先週とは打って変わって素晴らしい青空の二日目。パーティーは3時きっかりから始まった。ヤンとヘリーンのキャンパーの窓には彼の年齢をかけてルート66と書いてあり、キャンパーの前のテーブルにスナックのチーズや菓子、ナッツなどと沢山のワイン、ビールが並べられて皆セルフサービス。
オランダ人のヤンはキャンプサイト内でもオランダ人の友達が多いから、いつもの隣人だけでなく、先日書いた昨年の我隣人トニーや青い目の犬スポッツの飼い主、それに奥さんがオランダ人、本人はポルトガル人というパオロたちなど他にも知らない人達で日中は賑やかな集団パーティーになった。
パオロは3週間ほど前から日本語を教えてくれと言い、こんにちはの一言を覚えるのに2週間はかかった。出会うたびに間違っているので、我亭主はコンニチハ男とあだ名をつけて二人の間ではその名がまかり通っている。
日が暮れて寒くなってくるとすぐ2個の携帯バーベキューコンロに薪や松かさを燃やして火の回りで歌を歌い飲んで踊ってと夜も11時15分前まで続いた。星が降るように瞬き東の空に丸い月が昇りあれは満月だと騒いでいたが、写真にとって見て初めてやや欠けているのが判った。7時間以上も飲んで騒いで、パーティーに招待されなかった人達は一体どんな気持ちだろうと思うと気が気でない。
これで2月に誕生日の人がいないので、2月はダンカンやディブが帰国するからお別れパーティが最後になるそうだ。
水曜日も雲ひとつない晴天、二日酔いからやっと回復してお昼近くに近くの村まで散歩に行った。サイトの横の細道から一車線の線路を通って鉄橋を2つ越えて、野の花盛りの塩田路を行く。線路の向かいの湿地帯ではこうの鳥の夫婦2組が昼食の蛙かイモリを探している。
村のはずれのオレンジやレモン野菜畑の道は,そこかしこにアーモンドの花が満開でもうすっかり春たけなわ。
遠近の建物の周りはバミューダ・バタカップで黄色に染められている。
年末に耕された畑には野菜が芽ぶき、どこもかしこも春だ。春だ。
公園の一角からキャンプサイトの一部が見え、本当にに大きなキャンプサイトだと改めて驚かされる。
最近良く雨が降る。気温は15度前後でそれほど寒くは無いが、夏には40度を越えるこの南国では、汗腺は開ききっているから15度はとっても寒く感じるだろう。町で出会う町の人々はしっかりアノラックやオーバーを着込んでいて、半そでやショーツで歩いている人達は北からの旅行者に間違いない。
ここオルニャオのキャンプサイトでも薄着で太陽が出ればせっせと日向ぼっこしている人達はドイツ、オランダ、スカンジナビア、英国人などで、日焼けしている人が一番魅力的と信じている。私たちの隣人ヤン(Jan)とヘリーン(Heleen)のオランダ人夫妻もその例に漏れず太陽礼賛の人達。ブラウンに日焼けして、毎日サイクリングに励んでいる。土曜日のマーケットでは太陽の当たるレストランの一角でビールを飲みながら、周りの人達とおしゃべりし、(オランダ人は何カ国語でも話せる人が多い)人生を謳歌している。
以前にも書いたイギリス人夫妻で春から秋は各国のキャンプサイトで働き、冬はこのサイトへやってくるジャッドとキャロンは中年なのに日焼けのため顔は深いしわがよって、気の毒なくらい。本人たちは気にしていないようだから、気の毒がることも無いけど。
過去2年このサイトの奥のほうにキャンパーを停めていたが、その時の隣人トニーはオランダ人の70歳をこえる老人で、今年も7ヶ月をこのサイトで過ごすと言う。今年はモーターバイクも持ってきて遠出しているらしいが、いつもショッピングの途中で出会うときは元気に自転車で走っている。彼も太陽信仰者で太陽が出れば、キャンパーの側に長いすを出し,上半身裸にショートパンツで真っ赤に日焼けして痛々しいほど。白人はメラニン色素が少ないからどんなに茶色に焼けても太陽の少ない自国へ戻ればすぐ元に戻ってしまう。
昨年トニーの隣にキャンプしている時に我キャンパーの後ろに小さな赤いキャンパーが停まっていた。ドイツ人の夫妻で旦那のほうが英語のかたことを話すが、奥さんのほうは一言も話せない。毎日顔を合わせても挨拶以外は話せないから名前も知らなかった。
一月半ばサイトのオフィス近くのバンガローで日向ぼっこの男女が手を振っている。彼らが隣に停まっているキャンパーを指差すので、近寄ってみて初めて彼らだと判り,再会を喜び合った。彼らは1月に入ってからドイツを出てここへ南下してきたと言う。今回はこのバンガローで2ヶ月ほど過ごし、春はスペインを回って帰国するとのことだった。
この同じ日、過去2回出合ったアイルランド人のピーターとメアリー夫妻がイーメールしてきて、今どこにいるのだ、我々もポルトガルの西のサイトでキャンプしていると言う。メールで連絡してみると彼らは12月に1週間このオルニャオのサイトへ来たと言う。大きなサイトだからチャンスが無いと出会うことが無い。
この春3月半ば、私たちがこのサイトを去る前にここにやってくるような、返事が来た。
1月上旬隣のダンカン夫妻が、英国に残してきた双子の孫娘に会いに、10日間だけ帰国した。隣町のファーロから英国地方空港まで安い飛行機が往復していて、一時帰国や海外旅行なども問題ない。
ダンカン夫妻が出かけたすぐ後、ディヴ夫妻が20メータほど離れた高台へ引越しした。
今までいたところは雨が降るとすぐ水浸しになるからと言う理由で、この1ヶ月以上仲良くしていたコミュニティがすこしづつ崩れてゆく。ディブ夫妻の後に来たオランダ人夫妻はえらく人付き合いの悪い人達で、朝夕の挨拶以外は話したことも無い。たぶん英語が話せないのだろうと思う。
二日前に帰ってきたダンカン夫妻は彼らは英国へついた日から雪が降って、帰ってくるまで雪に埋もれていたと言う。それでも2歳の孫娘たちに会えて、うれしかったとロズが笑顔で話してくれた。
食器洗い場の近くのキャラバンに住むオランダ人の60代の男性は、この犬との二人暮らし。この青い目の犬スポッツは初めに出会ったとき、ボールを蹴ってくれとわめきこちらが飽きるまで遊んでやっていたが、一度ボールが顔に当たったことが有って、それ以来遊んでくれない。
それでこの2週間ほど毎日食べ物を持って行き、チキンの皮で彼の関心を買い、脂身で機嫌を治してもらいと苦心している。すると他の女とはボール遊びをするが、私が行くと尾を振って地面に座りいただきますの姿勢。ボールを蹴っても知らん顔で頭をなでようとすればズズズーっと後ろへ下がってゆく。スポッツは私をえさをくれる一人と認識したらしい。私のほうがうまく調教されたようでくさっている。
このサイトに落着いてから雨の降らない日は、毎朝食前にプールの近くで縄跳びを1000回している。初めの200回ほどが息切れしてつらいけれど、それを過ぎると体が慣れてしまって苦しさが無い。600回ほどになると、今が500回飛んだか600回だったか判らなくなり、いつもボケが始まったかしらと心配してみたりする。
キャンパーの隣の塀の向こうを沢山のジョガーが通り、散歩の年寄りや犬の散歩の人達が通り過ぎる。昔は彼らと同じようにジョギングしていたものだけど、この数年は縄跳びだけでもう沢山。
昨年暮れから風は冷たいが晴天の日々が続いていて、道端や野原が真黄色に染まっている。
これは英語名でバミューダ・バタカップと呼ばれる野性の花で1月から3月ごろまで地中海沿岸を彩るかわいい花だ。
先週オルニャオのショッピングセンターの3階にある小さな映画館へ昨今話題のレ・ミゼラブルを見に行った。キャンパーの隣人ダンカン夫妻とディヴ夫妻が一週間前に行って泣いてきたそうだ。それで行く前にハンカチとティシュを沢山持ってゆくようにと忠告を受け、とっても期待していった。
午後3時から始まる映画館は3時5分前にやっと開き、お客は3人私たち夫妻はレ・ミゼラブルのチケットを高齢者割引で一人4ユーロで買って入ったが、もう一人の客は他の映画を見にいった。
座席は60-70人ほどのこじんまりしたもので、一番後ろの座席の真ん中に座るとすぐ、映画は宣伝や予告など一切なしにすぐ始まった。
ミュージカルと言っても俳優が歌っているからうまくない。歌ならオペラを聴いたほうがずっといい。ストーリーは子供の頃に読んだレ・ミゼラブルを思い起こさせるに十分だったけど、何時になったらそんなに悲しいまたは感激する場面が出てくるのだろうと思っているうちに終わってしまった。
5時半に映画館を出てみると辺りはまだ明るかったから、さすが南国だなーと感心した。ロンドンの1月は4時半ごろには日が暮れる。仕事が終わる夕方5時が明るく嬉しくなるのが3月になってから。
そしてこのレ・ミゼラブルが英国で全国封切りになったのが1月11日からだった。ここオルニャオは1月3日から上演され9日で終わるとのことだったのに10日でも見せてくれていたから一体どうなっているのだろう。
ポルトガルでは英語の映画は吹き替え無し、サブタイトルが画面の下に出る。だからポルトガルではイギリスやハリウッドの映画を楽しめるわけ。ヨーロッパで外国映画やテレビ番組を吹き替えにする国がドイツとイタリアでこれは本当に困る。
日本も先進国だからポパイの漫画まで全部吹き替えで亭主が日本へ行った時に驚いたものだ。
2週間前の土曜日から私の一番気に入っているデンマークの政治ドラマ・ボーゲン(Bogen)が始まった。第1部の10時間は昨年春に見せ、今回は続き10時間を5週間で見せるらしい。
穏健派の女性党首ビルギッテ・ナイボルグは労働党と連合政権を組んで図らずも首相に選ばれる。学齢期の子供二人と協力的だった亭主フリップの家庭に首相の激務でひびがはいってゆく。その首相のコンサルタントのカスパーと彼の元恋人のニュースキャスター後に新聞記者になった若い女性カトリンの3人がメイン出演者で政治の裏でうごめく野心や裏切りなど、毎回ストーリーの展開が速くて面白い。このドラマもサブタイトルだから毎回2時間必死で英語を読んでいる。
このボーゲンはデンマークで3部まで作られていて、ヨーロッパのほとんど全部の国へ輸出されているそうだ。そして各国でベスト・ドラマを受賞していている。アジアでは韓国がこのドラマを見せていて、如何して日本のテレビで見せないのかが不思議でならない。
初日の1月5日に見た翌日テレビではメリル・ストリープ主演のアイアン・レディを上映した。今は引退しているマーガレット・サッチャー婦人のストーリーで、彼女は結婚する時に夫君デニスと約束していて、家庭を顧みなかった。実際はデニスも不満が高じて南アフリカまで一人で行ってしまったがサッチャー女史のほうは彼がいなくなったことさえ知らなかったらしい。でも最後まで添い遂げられてラッキーなサッチャー女史だったがボーゲンは造られたストーリ、そうは行かず離婚されてしまう。
出演女性が皆 賢く強く、そして個人的には皆弱みを持っていて、これがこのドラマの魅力なのだ。
第一部にグリーンランドがデンマークの一部で(そんなことを知っている人が一体何人いるだろう)グリーンランドの住民エスキモーの生活を知る機会が有った。
デンマークが生活保護の費用を払っているから、労働・生産や教育に対する意欲を失ったエスキモーはアルコールに浸っている。オーストラリアの原住民と同じで生活保護を受けて朝からアルコールに浸っている彼らは滅び行く民族なのだろう。
毎週土曜日が来るのが待ちどうしい。
長さ6メーターのキャンパーで生活している私たちは、テレビとコンピューターがあれば他に特に欲しいものも無い。英国の家一軒分に詰っている物は一体必要だろうかとこの頃思うようになってしまった。
昨年4月から10月末まで英国にいた(これは過去8年ではじめてのこと)からその間に少しでも家にある不要物を整理しようと思った。過去40年溜まった手紙や不要な書類などは焼き、売れるガラクタはブーツセールで二束三文で売り払い、衣類などはチャリティへ寄付してしまった。それでも信じられないくらい沢山の物が我が家に残っている。
先週の月曜日、キャンパー内の冷凍冷蔵庫が壊れてしまった。修理のエンジニアは金曜日の午後まで来れないと言う。冷凍庫に詰っている肉や魚が3日目には完全に解凍されてしまったから肉など近隣のキャンパーの人達に食べてもらうことにして魚だけは焼いたりスープにしたりとにかく毎日 昼、夜は魚を食べていた。
冷蔵庫に入っていた食料は濡れたタオルで巻いて風通しのよい日陰において5日間無事に保存できた。戦後のまだ冷蔵庫の無かった時代、どうやって食料を保存したものだろうと思った。
12月30日 ファーロへショッピングに行った。過去2回ファーロへは日帰り観光に行ったけれどここにはあまり見るものが無い。たまたま隣のロスとダンカンの結婚記念日が1月4日だと言うので、クリスマスや誕生日の祝いにお世話になったお隣さんたちに、和食を作ることにした。
オルニャオのスーパーで買えたのはお醤油とわかめ、中華蕎麦などだが、巻き寿司用ののりが欲しい。
我が家には沢山ある海苔もここには持ってきていないし、まさかキャンプ中に和食を作るとは思わなかった。
たまたま出合った若い英国人カップルは、昨年このサイトの奥でキャンプしている時の隣人で、大きなサイトだからほとんど出会うことが無い。彼らは英国の家を売りキャンパーを自宅代わりに3月から10月までは英国やフランスのキャンプサイトで働き冬になると暖かいポルトガルへやってくる。
彼らの記憶ではファーロのスーパーマーケット・ジャンボに和食や中華・インドのコーナーがあると言う。
日曜日は2時間に1本の電車に乗って17分でファーロの駅へついた。そこからバスを待って5-6分でジャンボスーパーのあるファーロの町外れに着いた。あまりに近かったので ”しまった。バス代を損した”と言う気持ちになった。
晴天の暖かい日曜日だから、ショッピングセンター前のグリーンでは家族連れが楽しんでいる。センター内は小売店がズラッと並びクリスマス後のセールを開始し50%や70%引きのバーゲンセールをやっていた。
ジャンボの店内で10枚入りの海苔やしいたけ、千切り大根などを見つけ、帰る前にもう一度ショッピングに来ることにして、ショッピングセンターの周囲を散歩してみた。オリーヴの木が生き生きと並びかわいい花が咲き乱れている。これがポルトガルの年末!!!
午後2時近くセンター内のフードコートへ行くも家族連れや友達の群れでテーブルが空かない。20分もうろうろしてやっと一つのテーブルにイス2脚の空きを見つけた。テーブルを探している間に見つけた美味しそうな店で買ったのが豆スープとチキンクレープ、サラダ6種で6.2ユーロこんな健康食が英国では5ポンドくらいでは買えないと思う。
必要な買い物をして早めの電車でオルニャオに帰り、サイトへ向かう道すがら今日は起重機の上を占領しているこうの鳥が3組いた。この巨大な起重機が不要になっているほどこの国は不況らしい。
年の暮れも5組の隣人が集まり新年を乾杯して2013年を迎えた。
1月2日ダイアンとディヴの飼い犬、アーカスがきれいに洗ってもらい、テーブルの上でもつれている毛並みに櫛を入れてもらっていた。
このアーカスはポルトガルのウオータードックとプードルの混血で、毛並みが密集していて水を通さないから、昔は漁師の船に乗り魚の群れを網に追い込む役目をしていたと言う。
年末年始は漁師も仕事に出かけないだろうと思いながらも行った魚市場で大きなボラを2匹買った。3枚ずつにおろし、片身一枚を刺身にしたのがあたったらしい。翌日明け方から嘔吐、腹痛でとうとう町のクリニックにお世話になり3日間の絶食、水か冷茶を飲むようにいわれた。翌日腹痛も治まり約束の巻き寿司、味付け卵巻き、てんぷら、焼きソバなど10人分づつ料理して皆から絶賛を受けた。私は一口も食べられなかったが・・・・
結婚記念144年というダンカンと2週間だと言うロズの夫婦が、翌日この素敵なスミレを花束をお礼に持ってきてくれた。その気持ちがうれしい。