私たち日本人にはイギリスと言えばスコットランドもウエールズも含む一つの国だと思われますが、スコットランドは独自の政府と独自の財政機関を持っていて、スコティシュ・ポンドの紙幣発行をしています。それでこの旅もイギリスの旅で押し通すのはまずいので、今日からはスコットランドの旅に改名します。
今日お送りするのは昨年ほとんど同じ時期に通った同じ道で、写真1では昨年も同じ場所にキャンパーを停めて写真を写しました。只違うのは今年の素晴らしい天気!!! お天気が違うと景色が数倍はよく見え、心浮き立ちます
ベン・ネビスから北西の地域はハイランドと呼ばれる険しい岩山と針葉樹、いたるところに横たわるロック(フィヨルド)で太古には厚い氷河で削り取られたあとに出来た湖や入り江です。スコットランドのこのような風景は湖の多いフィンランドに良く似ていますが、起伏の少ないフィンランドより何倍も写真の撮り甲斐があります。
エイリーン・ドナン(Eilean Donan)と呼ばれる古城(写真6)も、ロックの畔の駐車場は満員盛況、この城はこの地域の観光目玉になっていて絵葉書が多種発行されています。スカイ島にかかる橋(写真8)は昨年まで有料でしたが、もう建築費の元が取れたらしく、今回は無料でした。昨年はこの橋に一番近い町Kyle of Lochalsh まで行ったのですが余りの天気の悪さにあきらめたのです。
スカイブリッジを通り過ぎて初めに着いたBroadfordの町は大きなスーパーマーケットとガソリンスタンド・観光案内所が有ります。道路は静かな入り江に沿って無料の駐車場が完備しているので、大きなキャンパーでも停めやすく、観光案内所でスカイ島の地図をもらいキャンプサイトのある場所にしるしをつけてもらいました。全部で8箇所のサイトがあります。
ここから海辺沿いの道を北上すると初めに目に付くのが写真1の禿山です。岩と砂利から成るこの山は遠くから見ると雪山かと思わせる均整の取れた山でなんとなく小型富士山の趣があります。
この山裾をぐるっとまわってたどり着いたのはPortree の町、ここはこの地域最大の町らしくスーパーマーケットや病院、観光案内所もあり突き出た岬は入り江になってきれいな家が並んでいます。(写真2,3)
この町から真っ直ぐ北上しますと道路も極端に細くなり、一車線に対向車待機場が100メータごとに造られています。
Portereeを過ぎると見えてきたのが遠い山の中腹に突っ立っている細長い岩(写真4,5)で今走っている海岸線での一番の観光地、Old Man of Storr (ストアーのおじいさん・私の拙訳)です。この山の麓の道端に案内版があり登山口が見えます。頑張れば1時間で往復できるかもしれないと思い私一人カメラだけ持って出かけました。
初めは針葉樹林の険しい道を登り、途中で樹林が途切れると、なだらかな草地の平原からそそり立つ岩山が現れました。あちこち登山客がうごめいています。私のほうはポールが待っているからとあっせって、景色を堪能しながらゆっくりのぼっているわけには行かなくて、岩の懸かりには砂利が流れ落ちているような急勾配を四つんばいで登ったのです。たどり着いたところはあの細長い岩の根元で,そこに休んでいた若い女性と写真の撮り合いをしました。この高台から見る景色は本当に絶景、天気も良いため海の向うのスコットランドの本土が青くかすんでいます(写真6,7)
岩の根元の裏からざらざら流れ落ちる砂利を斜めに横切ってジグザグにやっと急勾配を降りてきてみると、登山禁止の立て札が立っていました。全く知らなかったこととは言え、だれにも見咎められないで往復できてほっとしました。下山は駆け足で、たくさんの人たちを追い抜いて、ちょうど一時間で帰ってきました。
Staffin のキャンプサイトはストアーから10マイルくらい、途中に一箇所観光サインを見つけ駐車してみました。アイスランドなら目にも留まらないささやかな滝が海に落ちています(写真10)でも海の美しさは又格別でした。
午後の早い時間にスタッフィンのキャンプサイトに着いた私たちは、昼食後散歩に出かけました。この日は日曜日で、キャンプサイトのオフィスには誰も居ずスタッフィンの小さな村でも人影もありません。村にはいろいろ宗派の違う教会が4軒もあり、教会以外に楽しみが無いんじゃないかと話ながら静かな村を通り過ぎました。
このような小さな村でも歩道つきの通りが村を抜け、何処の家も白壁の立派なもので豊かな暮らしをおもわせます。途中に港のサインを見つけて海の方へ折れました。道端の草むらには色とりどりの野の花が咲き乱れ、放牧の牛は牧場の横を流れる小川を横切ろうと浅瀬を探してうろうろしています。羊は丘も道端でも一面に散らばって草を食むのに余念がありません。
遠くまで晴れ渡ったこの日はスカイ島では珍しいくらいだとか、紫外線が強いので皮膚がんに気をつけなければいけないそうです。
港は一本の堤防がくの字に10メーターくらい延びたひなびたもので、その近くから丘に伸びた細道を見つけ近道できるかもしれないと、ゆっくり登ってみたのです。(写真7)
丘の上は広々とした草原で、幾筋にも伸びた細道を歩いて、キャンプサイトにたどり着きました。多分3マイルぐらいは歩いたと思います。
キャンパーの窓に夕日がさして落日は11時、日が落ちても長い間夜空が明るんでいました。
朝10時過ぎにスタッフィンのキャンプ場を出て、Quiraingの岬を廻って今夜の予定はウィグ(Uig )です。この岬は人口が少なく道路も一車線、行きかう車もほとんどなく、途中でキャンパー2台とすれ違い、手を振ったくらいです。
道を横切る羊の群れは写真1で見るように親子連れ、子羊を連れている母親の毛は刈られていません。ここスカイ島で毛をきれいに刈り取られた羊は雄だけのようです。
途中草葺屋根の小屋が5軒ほど並んでいて立ち寄ってみました。この島の生活を展示する博物館でした。でも今ではスカイ島も離れ小島ではなく生活水準も何処にもひけをとらないくらいです。写真を写しただけで、次の村をめざしました。
ウィグはここの岬で一番大きな町(写真5,6,7)で長い堤防の突き出た港があり、ここから毎日この島の西北に位置するルイス島へのカーフェリーが出ています。数軒のお土産店とパブ、そして設備の整ったキャンプ場があります。
12時前にはキャンプ場に落ち着いたので、数日溜まった洗濯物を洗濯機に入れました。この日も暑い日で夕方までにすっかり乾いてほっとしました。この日は10台に満たないキャンパーが停泊しましたが、昨夜はオランダの団体キャンパーでごった返していたそうです。
午後お土産店を覗き波止場の突堤へ行ってみました。
カーフェリーが入るくらいですから港の水深は深く、澄んだ水ながら水底は見えません。二人でぶらぶら歩き回っていると何か大きな動物が水底から上がってきます。ひょっこり顔を出したのが写真8、9、10 のグレイシール(あざらし)です。
このあたりに生息して人馴れしているらしく、話しかけるとこちらの方を見たり、きょろきょろあたりを見回したり、恐れているようには見えません。
アザラシは3-4分潜ると呼吸をしに水面に現れます。立ち泳ぎしながらおしゃべりでもしたそうな雰囲気。4回も堤防の周辺を潜って行き必ず目に付くところへ顔を出します。愛嬌のあるアザラシで、私は近くに来た観光客に声をかけ、数人で大喜びで見ていました。
ダンベーガンDunvegan のキャンプサイトに今夜の予約を入れてすぐ、この小さな町から真西に行ったニースト・ポイントの灯台を見に行こうとメイン道路を折れると、車一台がやっと通れる道(写真1)に入りました。相当の距離を走りましたが対向車はほとんどなくて、羊や牛の放牧された草原と切り立った崖や時々現れる小さな村など、まるで昨年行ったフェロー諸島にとっても良く似ています。
岬の突端の駐車場には、観光客を待つ小型バスや20台近くの乗用車が停まっていました。灯台を見るには急斜面の崖に長く延びた階段を降ります。帰りがたいへん、帰りの途にある観光団体はヒーヒー言いながらすれ違います。
灯台の近くの海岸にたくさんのケルンがありこの土地の平らな石ならこそこうして高く積み上げられるのでしょう。ここのほとんど四角い岩の海岸は北アイルランドのジャイアンツ・コースウエーには及びもつきませんが、それなりに見事です。
灯台の横に突き出ているラッパはフォッグ・ホーン(霧笛)と呼ばれるもので、霧の深い日には此れが鳴り渡るのです。この灯台からキャンプサイトに帰る途中、小さな村の公民館でバザーを開いているとの看板を見て立ち寄りました。手編みのクッションや、子供服、パッチワークのベッドカバーなどこの地域の主婦の手造りですが、中の一人の夫人が白とグレーの毛糸を売っていました。長くて厳しい冬の間、自分の家で取れた羊の毛で手よりの毛糸を作るのだそうです。グレーの毛糸を100グラム7ポンドで買いました。羊はスエーデンのゴットランドシープだそうです。このようなひなびた毛糸を見たらもっといろいろ欲しくなり、キャンプサイトを通り過ぎて14マイル戻ったところに在るという、毛糸のお店へ行って見ました。
その田舎の毛糸やさんは自家製のスピニング(毛糸の撚り)はしませんが,出来上がりの白い毛糸を各地から買いこんで、その店の奥で草木染をしています。いろいろ見せてもらい買わずには帰れなくなって、青、緑、紫の毛糸を買いました。まだ何を作ろうとは計画せず買い集めているだけですが見ているだけでも嬉しくなります。
キャンプサイトで一泊した翌日もうスカイ島もほとんど走り回り、スカイブリッジのちかくで南に突き出た岬にあるアーマデール城を最後にスカイ島を去ることにしました。城は19世紀半ば火事で焼け落ち内部が完全に崩れて、壁だけが残っており室内は雑草が生い茂っています。よく手入れされた庭と広大な敷地を持つこの城はクラン・ドナルド・ランド・トラストによって管理されています。スカイ島にはナショナルトラストはありません。城の前庭ではアーチェリーの試合が行われていました。
スカイ島の橋を渡ってすぐ近くのキャンプ場で一泊した後、昨年も通った道を北に向かいました。風は冷たいのに日の当たっているところは焼けるほど暑く、夏の間はスコットランドの方が太陽に近いのかしらと思ったりします。
次から次と現れる大小のロックと樹木の育たない山々は北国特有のものでしょう。ゲアロック(Gairloch)のキャンプサイトに着くまでの旅路では流れ去る景色を大いに楽しみました。途中の山越えの道で移動図書館(写真5)の車とすれ違い、読書離れの今日この頃なんと今でもこのサービスと感心しました。
ゲアロックの町はずれの港の堤防で一休み、小型バンで開いているハンバーグ屋やパン屋の間にあった親子で商っている魚屋さんで鯖の燻製を求めました。片身2切れで3ポンドは安くはなかったのですが、キャンプサイトでお昼に焼いてみました。この数年塩分制限で燻製などポールに食べさせてなかったものですから、大喜び、”こんなおいしいものを忘れていたなんて ” と感嘆交じりのポールの言葉でした。実際それ以降にスーパーで2回も買ってみたのですがあの味には程遠く、もう一度あの港に行ってみたいと思ったものでした。
写真9はハイランド・ロングホーンと呼ばれる牛ですが長い毛が目を覆ってかわいいですね。この牛は肉牛なのか他の使用方法があるのか判りませんが、絵葉書で見るこの子牛はぬいぐるみのようにかわいくスコットランドの観光局のブローシャなどに必ず写真が載っています。
写真9の牛はまだ青年期ぐらいらしく1週間後にロックネスの近くで撮ったロングホーン(写真10)と見比べてください。
7月初旬のスコットランドはうす曇りでもさすが真夏、昨夜は一晩中暑くてシーツもかけずに寝ていました。ゲアロックのキャンプサイトを出発しこの日はウラプールへ行こうとキャンパーをロックユー(Lock Ewe)の海岸線を北に向かいます。途中にナショナルトラストのサインを見つけて引き返し立ち寄ったのがインヴェレウィガーデン(Inverewe Garden)です。この庭はロックユーを借景(写真7)に世界中から集めた珍しい草花や丘に沿って植えられた石楠花の大木など、花の満開の頃は素晴らしいだろうと思います。
私が今まで見たことの無い花が数種ありましたのでお見せしましょう。写真5は小さいけれどもきれいな色と不思議な形の花で初めてです。写真6のピンクの花は蓮華草に似ていますが蓮華の花を見たのがもう35年以上も昔のことで葉の形が思い出せません。写真8の黄色の花は花房が長く地面を這って咲いています。
野菜畑(写真9)も充実してジャガイモだけでも5種類も違う物が植えられ良く手入れされています。
写真10は何処にでもありそうな羊歯ですが、葉の先に小さな手が指を広げたようです。 このような羊歯を見られたことがありますか?
ウラプールはスコットランドの北西地域では一番大きな町で、ここの港からヘブリデス諸島のルイス島へ行くフェリーが出ています。7月初めから夏休に入ったスコットランドではルイス島へ行く旅行者が多く、港周辺はいつも旅行者でにぎわっています。
昨年夏もこの町で一泊したのですが、嵐に見舞われ、町を楽しむゆとりもなく北をめがけて通り過ぎたようなものでした。今回は素晴らしい青空の町を一回りして、鏡のようなLoch Broomの港で写真を撮り、海岸に沿って散歩に行きました。海岸線にいたる散歩道には野生のラウズベリーの茂みがあったり、壊れた船がまるで動物の肋骨のように死体をさらしていて,野趣に富んでいます。ゴルフコースを通り過ぎた後はいつの間にか散歩道が消えてしまいました。明らかに火山の溶岩が流れる途中で固まったと思われる岩棚で海岸を歩くことも出来なくなり、急なスロープの牧場を登り始めました。
ここで初めて真っ黒の羊を身近に見ることが出来ました。というのは前日この町の毛糸屋さんで、土地の女性が手作りの真っ黒の毛糸を買ったのです。染色されていない黒ですから決して色落ちすることが無いでしょう。もちろん洗った羊毛を使っていますがその毛糸はラノリンの匂いがする雨をはじくものだそうです。
急斜面の牧場をへとへとになって上り詰め、牧場の上を通っている道路にたどり着きました。道端にはヒースの花(Heather)や野生の蘭(写真7)が草むらに咲いています。そしてこの北国の羊もフェロー諸島の羊と同じように衣替えの時期に、自然に落ちる羊毛を使うらしく、古い毛をぶら下げたままの羊がいたるところに見られました。
ウラプールからインヴァネスまで57マイル、朝ゆっくり出発してもインヴァネスのキャンプサイトには午前中に着きました。キャンプサイトは町外れのカレドニアン運河の横にあり、メイン道路を横切る運河にかかる橋が多分1時間毎(此れは確かではない)に通行止めになり、橋が回転して(写真2)船を通すようになっています。橋の回転時の警告音がキャンプサイトで聞こえます。
ロックネス(Loch Ness)から流れでる河はネス河と呼ばれインバネスの町の中心を悠々と流れています。この河にほとんど平行して作られたのがカレドニアン運河です。18世紀初め、インバネスからフォートウイリアムスまでの直線60マイルの運河のうち、22マイルが人の手によって掘り起こされたものです。当初の目的は外洋の危険を避けた海軍の時間と距離の短縮だったとのこと、今も完全に機能を果たしており、クルーズやヨットに人気があります。運河を上下している船はノルウェー船が多く,又どこからやってきたのかイスラエルの船を数艘見かけました。土地の高低にもかかわらず船を上下しているのがロックといわれる(写真3)関門で急勾配のここには短距離にロックが連なっていました。
キャンプサイトで昼食を済ませて、運河の畔を散歩に出ました。時々出会う人々は友好的で、必ず挨拶して通り過ぎます。運河の畔から町の中心地まで割りと近くでショッピングセンターへ行きましたが、この日は日曜日、辺りは閑散としていました。インバネスの町の第一印象は、教会が多いことそして、なんて田舎町だろうと思いました。町の中心は堂々とそびえるインバネス城ですが、中は裁判所になっています。観光案内所が日曜日の午後4時過ぎでも開いていたのに驚き、町の地図をもらって、帰り道を教えてもらいました。
ネス河の畔を上流に向かってゆくと河の中にネス島という小さな島があり、両川岸から歩行者用の橋がかかっています。観光案内所の女性はそこにベンチがいっぱいあるから休んでいきなさいと言ってました。島に渡って初めてその意味がわかりました。なんて芸術的なベンチでしょう。(写真9,10,11,12,13)一つとして同じものはなくあちこちに配置されたベンチはこの町の誇りに違いありません。
翌日一日をインバネスの町でゆっくりすることにし、数あるチャリティショップへ行って見ました。最近では何処のチャリティショップも安くはありませんが、ロンドンからこれだけ離れていればスコットランド特有の物もあるかも知れません。私にぴったりのタータンの絹のベストを3ポンドで買い大喜びです。お昼にパブでビールとハギス(スコットランド特有の食べ物)珍しくおいしくいただきました。
インヴァネスのキャンプサイトからカレドニアン運河に平行している走る道路を南に行くと,すぐたどり着くのがネス湖で,その畔の駐車場に写真1の案内板があります。その絵でわかるようにネス湖は細長く南西に延びており、どんなに幅広のところでも対岸がはっきり見えます。ネス湖の写真には必ず載っているのがアーキーハート城で、500年の歴史を持つ廃墟の城です。
37年前私はヒッチハイクでこのネス湖の湖畔を通り、この城を見かけたのです。その時は乗せてくれた人が停まってくれなかったので、写真も撮れませんでした。今回も通り過ぎてあわてて引き返し、駐車場から写真を撮りました。たくさんの人たちが駐車場で写真を撮っています。その中に後姿は女性かと思わせたキルトのスコッツマンがいて写真を撮らせてもらいました。
タータンのスカートのようなキルトは、昔は各部族間でのアイデンティティとしていろいろな色彩と模様のタータンが創られ、勇壮な兵士の制服だったのです。1745年、英国に征服されたスコットランドは、それ以降のキルトの着用を禁止されました。最近ではスコットランド連隊の式服であり、また結婚式やパーティなどの男性の式服として貸衣装がはやっています。
ネス湖の最南端からは又カレドニアン運河が延びていて道路を横切り、橋は通行止めになりヨットやボートが通り抜けました。(写真5,6)ネス湖と同じように細長いオイチ湖、ローチィ湖でつながれた運河はフォートウイリアムで西海岸と連結します。
ベン・ネヴィスの麓のこの地域最大の町フォートウイリアムス(写真7,8)はインヴァネスよりも、もっとひなびた田舎町で、昨年も今回も観光客でにぎわっていました。スコットランドの国花は写真10のあざみの花です。
フォートウイリアムから海岸線を南に行くと、オーバン(Oban)の町にたどり着きます。この町の港から遠近の島々や半島へのフェリーが出ていて駅が港と隣りあわせで大変活気のある街です。港から町を望むと目に付くのはローマのコロシアム?が町の上にどっしり構えています。
此れはマッククレイグ・タワーと呼ばれる廃墟で1897年から5年かけて建てられたものです。スコットランドの裕福な銀行家のマッククレイグは家族の富を誇示するためと、この地域の石工に仕事を与えるために、このとてつもないタワーを築いたものです。ローマのコロシアムに傾倒していた彼はタワーの中に自分と家族の像を建てるつもりでしたが、外側が出来たところで亡くなり中は空のままで今に至っています。
オーバンの街中にはスコッチウイスキーの醸造所があり観光客が詰め掛けていました。このような醸造所はスコットランドのいたるところにあり、一般に有名なスコッチウイスキーの銘柄は各地の醸造所のブレンドだといわれます。
スコットランドは水が軟水でウイスキーには最適だからとのことですが、ウイスキーでなくとも、この水が良いと私が感じるのはシャワー後の髪の手触りです。硬水のロンドンの水ではコンディショナーをたくさん使ってもごわごわの私の髪が、ここスコットランドでは軽くそして絹の手触りです。
ほとんど禿げに見えるポールの頭には産毛のような細い髪が生えていて、ロンドンでなら洗ったあとは頭に張り付いてしまい、気にならないのに、ここの水では髪がカーリーになってふわふわ立って困るんだって。
このオーバンの町の毛糸やさんでも黒羊の真っ黒の毛糸を買いました。これは工場生産の毛糸で最近このようなナチュラルカラーがはやってきているそうです。この毛糸やさんの看板が写真3で夏も冬も雨ばかりというのが笑わせます。
オーバンからロックギルヘッドまでの途中は歴史あるキルマーティンの教会があり14-15世紀からの墓石が一箇所に集めて展示されています。セルテックの模様が墓石にはっきり見られます。教会の中にある壊れたキリスト像がこの無人の教会に祀ってありました。
この夜停まったキャンプサイトはロックギルヘッド(写真7)で遠浅の海は引き潮には見渡す限り砂地になります。
写真8のBlack-Headed Gull は顔黒かもめと訳しましょうか、此れが冬になると顔が白くなるそう、まるで私みたいじゃない!!!!
スコットランド・アーガイル州(Argyll)の海岸線をたどっている間に見つけた、2つのナショナル・トラストの庭を御紹介しましょう。
オージュエイン・ガーデン(Auduaine Garden)は大小の島々に囲まれたロック・メルフォートの岬にあり気候温暖で小さな岬全部が自然の庭園になっています。割と奥まったところにあるせいで余り見物人が少ないのか、この庭をトラストとして存続させるためのキャンペーンをしていました。よく手入れされたきれいな庭で(写真1,2 )樹木と草花など多いのですが、此れといった特色が見られず何時まで持つかなーと思いました。
そこと山を隔てた反対のロック・ファイン(Lock Fyne)の畔に在るクララエ・ガーデン(Crarae Garden)はもう一度いってみたいところです。スコットランドのキャンベル卿とその夫人が一生かけて世界中から集めた300種以上にものぼる石楠花の木やタスマニアからもってきたユーカリの木(写真4 )、めづらしい樹木等大変興味深く又広大な山の斜面を利用し谷川にはかわうそも生息しているとのこと。山の小道のいたるところに植物の説明書きがあり、此れがおもしろいのです。
写真5 は世界一大きな石楠花で花房がフットボールサイズと書かれていますから5-6月ころにもう一度来たい、この目で見たいと思いました。
写真6 の説明書きには日本・屋久島からの石楠花で葉裏がスエードのような手触りで保水性が在るとのこと、写真8 はロック・ファインの見渡せる山頂の黄色いつつじの群生です。説明書きによりますとこのつつじの蜜は毒で、紀元前401年バビロンから帰る途中のギリシャ軍の空き腹を抱えた兵士たちが見つけた蜂蜜が、このつつじの花から集められたものだそうで、全員がひどい中毒症状を起こしたとのことでした。
英語で石楠花はロードデンドラン(Rhododendoran)といいますが此れはギリシャ語でバラの木と言う意味だそうです。石楠花は小さいものは5cmから大きなものは25メーターにもなり、水平線100メーターから5500メータの高山まで生育します。チベットの高山やパプア・ニューギニーにも成育し葉の大きさも1cmから80cmとバラエティに富んでこの庭で石楠花の木に関して大いに知識を深めてきました。
クララエ・ガーデン(Crarae Garden)をでて車をグラズゴー方面に向かって南下しましたが、途中に期待していたキャンプサイトがなく、午後4時頃になるとポールがあせりだして、一番近くのサイトを探し出したのがロック・ローモンドのキャンプサイト。ここが4週間のこの旅の中では一番高くて22ポンドでした。ロック・ローモンドの南端の町バロック(Balloch)辺りはクルーズ客の為のホテルやBBが多く湖畔に大きなショッピングブロックがあり、観光案内所も充実していました。ロックに注ぐレーベン河はヨットハーバーのごとく停船でいっぱいでした。夕方ロック・ローモンドの畔を散歩しただけで翌朝早くに南アイシャイヤー県に向かいました。
この日は空が抜けるような青空で週末の始まり、たどり着いたキャンプサイトは、満員で断られましたが、夕方もう一度来ればどこかに押しこめてやるといわれていってみると連れて行かれたのが丘の頂上。電気だけはつなげることが出来ましたが、トイレやシャワー、皿洗い所など500メーターも丘を下りなければならず、夕焼けが薄れてきた丘の上は露が降りこの夏一番の寒さでした。
南アイシャイヤーの海岸線ははるか水平線に丸く座っているようなアイルサ・クレイグの島(写真5)が見えます。この島も海鳥の宝庫ということを帰ってからテレビで知りました。穏やかな海辺を走っていると海岸線に見えた立派なモニュメント、此れは1904年にこの沖で嵐に見舞われ沈没したロシアの船の記念碑なのです。碑の前面に英語とロシア語で書かれています。
グレンルース・アビィ(Glenluce Abbey)はナショナルトラストの管理する崩れ落ちた元僧院。私たちのほかに若い男女の一組しか見学者は居ず、管理人も見えず、フリーで入ってください。と書かれていました。写真9で見られるように元は中庭を持つ大きな僧院ですが、此れだけ崩れ落ちると見物人も来ないのですね。ガーリエストン(Garlieston Campsite)のキャンプサイトは海辺でキャンピングクラブのメンバーのみ、ロックローモンドのキャンプサイトと設備は遜色なく、値段も13ポンドと余りの違いでボーゼンとし大喜びしました。
昨日ロックローモンドからたどり着いたキャンプサイトで夕方又来いといわれて、その間訪ねたナショナル・トラストのカレーン城(Culzean Castle)を紹介しましょう。キャンプ場から20分ほどにあったこのお城は、私たちが訪れたナショナルトラストの中では一番と思われる素晴らしい城です。
城の門からお城近くの駐車場までの広大な敷地はスコットランド初のカウントリー・パークになっています。
予習ナシで門から見たこの城は息を呑むほどの素晴らしさ、青空の中にかがやいていました。城内は写真禁止の為絵葉書をスキャンしたのが写真4,5,6、です。入った玄関の大広間が武器展示場(写真4)になっていて、此れだけの武器が芸術的に飾られていたのを見たのは、ハンプトンコート依頼でした。各室内に案内人が居ますが、各国語で書かれた案内書があり、日本語もありましたので、このような田舎でも日本人が多いのだろうと思います。写真5の螺旋階段はこの城の中心に当たり、設計者ロバートとジェムス・アダム兄弟(1758-1794)の会心の作といわれています。
写真6のベットルームの壁にかかる絵はナポレオンで、ナポレオンが失墜したすぐ後、イギリスの皇族貴族はこぞってヨーロッパへ出かけ、彼にゆかりのものを買いあさったそうです。それで絵のみならず、ナポレオンの姉妹の像なども展示されていました。
この城はケネディ家(米大統領ケネディ家と全く関係なし)の持城でしたが、1938年3代目侯爵が90歳でなくなる際、ナショナルトラストに寄付するようにとの彼の遺志で、1945年に寄付されたものです。その当時の相続税は49%から74%(1945年)に上がり、税金が払えなかったものでしょう。1945年にアイゼンハワーが訪れ、彼が1969年になくなるまでに4回も訪問滞在しています。この城の一角をアイゼンハワーに生涯の居室として贈呈した為です。
何マイルもの庭園に池や花壇があり鹿の遊ぶ牧場や森の中の散歩道など、その昔の貴族の富は計り知れないものがあります。
ガーリエストン(Garlieston)のキャンプサイトを出た日は日曜日、9時過ぎカークカドブライト(Kirkcudbright )へ向かってウイグタウン湾の畔を走ります。ここの湾も遠浅で写真1はキャンプサイトこそ見えませんが湾の正反対の海岸から写したものです。このように干潮時に向こう岸まで歩ける状態になり、冒険をして満ち潮が早すぎて溺れ死ぬことが多いとのことです。
カークカドブライト(Kirkcudbright )の町は芸術家の町と呼ばれ何処のお店も閉まっている日曜日の朝、アートショップだけが開いていました。
この町にスコットランドの画家E.A.ホーネル(Hornel)の家をナショナル・トラストが管理、公開しています。10時半ころには町の駐車場に着き、ホーネルの家が12時からしか開かないので、小さな町を一回りしてみました。
町の傍を流れるディー河(写真2)も干潮のため河底がむき出ています。町の真ん中のマックラーレン城(写真3)は廃墟にもかかわらず有料で、見るような敷地や庭もありません。
町の通りに面する家々は前庭が狭くそこに花があふれるばかり(写真4)でしばし見とれていました。
12時にホーネル家(写真5)のドアが開くと同時に待っていた観光客が次々つめかけました。この画家(1864-1933)は名前も知らなかったのですが、家の後ろに大きな画廊があり日本の舞妓の絵や、芸者の絵がたくさん展示されています。それで俄然興味を持って監視人に聞いたところ、ホーネルは1893年(明治26年)から1894年の一年半を日本で過ごし、多くの油絵を描いてきました。
そのほかに東南アジアを旅行し現地の若い娘たちの姿を描いています。http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Atkinson_Hornel添付のインターネットで彼の作風を見てください。子供や若い女性の絵がほとんどでたいへんロマンティックな絵が多く、少女小説の表紙にぴったり。
特に感銘を受けたのが二階の一部屋に飾ってあった日本の絵で、1.5MX1M の大きな画面いっぱいカラフルな衣装の侍たちが戦っている絵でした。彼が日本で買ってきたものでしょうが、今ならどれほどの値段かと思わせる立派なものです。
写真6は彼の裏庭で狭いながら飛び石の池は日本庭園を意図したものです。
さてこの家をでるとすぐ向かったのが此れもナショナルトラストのスリーヴ城(写真7)で牧場に沿った細道を1kmほど歩いたところのディー河の中の島の廃墟でがっかり、又テクテク歩いて戻りキャンパーで10分ほどのスリーヴ屋敷へ参上。ナショナルトラスト管理のこのヴィクトリアン・マンションと64エーカーの庭はヴィクトリア時代の百万長者が建てたもので、屋敷内は1時間半も退屈な案内人に長々説明され、庭を見る時間がなくなって大急ぎで一回りしました。この大きなマンションは設計がでたらめで、馬鹿でかいベットルームが2つしかなく家の階段とスヌーカールームだけが一番大きいのだそうです。
今でも毎年8月の1ヶ月間はこの庭で園芸の勉強をする学生たちが、たくさんのベットを並べた大部屋に寝泊りするそうです。
写真8のスレートの壷は1980年代の学生たちの作品でセメントなどの接着剤はいっさい使わず、スレートを形に切り乗せていったものだそうです。