Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

コロナ禍のイタリア旅行ーVilla Monastero

2021-10-30 05:01:24 | コロナ禍のイタリア旅行2021

Villa Monastero は過去には尼寺だったらしい。この日私は財布だけ娘のバッグに入れてもらって、自分のショルダーバッグを持ってなかった。それで入室するときは必ず見せなければならないワクチンの証明書を持って行かなかった。

料金を払ってから気が付いたため、屋内には入れず、庭を歩き回るだけになった。娘だけ中に入って昔風の家具など見てきた。

 

 

 

ポルトガルでもよく見かけたイチゴの木?この実からリキュールが作られるとのこと。

 

 

真っ赤に色づいた蔦。秋たけなわ!!!。

 

 

小さなモーターボートが7艘のヨットを引っ張っていく。

 

巨大な鉢に植えられた巨大なサボテン。サボテン大好きな私、これを見ると欲しくなる。

 

 

Villa Monasteroから見たVilla cipressi、湖のほとり、一幅の絵になる。

 

 

さすがローマの末裔、床のモザイクタイルが素晴らしい。

 

 

庭の通路わきに植えられた10本ほどの柑橘類の木、グレープフルーツよりも大きく英国ではポメロと呼ばれる。日本のザボンだろうか? こんな大きな実がなっているのをはじめてみた。通りがかる人達皆、珍しそうに写真を撮っていた。

 

 

 

見たことがあるような無いような可愛い花。

やたらとひねくれたシュロ? どうしたらこんなになるのか不思議。

 

 

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コロナ禍のイタリア旅行ーBellagio

2021-10-29 05:02:39 | コロナ禍のイタリア旅行2021

 

翌朝、フェリーで湖が2又に分かれているその真ん中の突端部、Bellagioへ行くことに決めた。

フェリー乗り場まで湖のふちを歩く。さすが観光地だけあって、細い水際の歩道はよく整備されている。

 

 

Varenna と隣接しているPerledo の町、フェリーから見ると山の上まで家々が点在している。

 

 

フェリーの真ん中は車が入り、私たち観光客は両側の階段を上ったところの椅子に座って周囲を眺めることができる。

 

ここが昨夜泊まったVarennaの町。

 

Bellagio には30分ほどで着いた。

 

 

フェリーを降りるとすぐ近くにあった玩具のような観光電車で娘とジュードは乗って廻るという。

 

 

ここはVarenna よりもずっと観光化していて、水際の通りはレストランと、お店がズラーと並んでいる。

 

 

この水際のお店やレストランと直角に細い急坂の階段が何本も山へ上ってゆく。

教会の広場へたどり着くとそこからは水際の道路と平行に狭い道路が走り、両脇はいろいろ素敵なお店が並んでいた。

 

 

 

この狭い道を大勢の観光客が右往左往する。それに車がゆっくり通り抜ける。

階段の細道のピザレストランに予約を入れて、娘とジュードに携帯で知らせ、12時半に再会。

毎日昼食にグラス一杯のワインと大きなピザを食べている。どこのレストランでも入る時にはワクチン証明書の提示を求められ、QR Reader でピーと検査して入室許可になる。

この日のピザも直径30センチほど、6歳のジュードが残さず食べるのには驚く。

 

街角の壁に音楽家のフランツ・リストが住んでいた。との石板が貼ってあった。

さて午後3時40分の電車でミラノへ帰ることにし、2時半から待って乗ったフェリーが、Perledoのフェリー乗り場の着岸に失敗し、まるで嫌がらせの様に、何度もトライしてとうとう電車がつく5分前にやっと下船できた。パトリックは駅で電車のチケットを買うため急いで走って行ったが、私たちが行ってみると、全線不通になっていて、今日は電車は来ないというアナウンス。

明日月曜日はパトリックが会社へ仕事に行く日で、何としても今日帰らないといけない。この沿岸にはバスも通っていないし、駅にはたくさんの観光客があふれた。

皆それぞれタクシーを雇って出ていく。パトリックも昨夜ホテルを世話してもらった若い女性に連絡してタクシーを探してもらった。タクシーがやってきたのが6時頃、娘は車酔いするから助手席に乗り、パトリックが後ろ真ん中、ジュードと私が左右に乗った。

2車線の道路はトンネルが多く、車に揺られているうちに、私とジュードはパトリックを枕に寝てしまった。ミラノの街中の宿泊所まで200ユーロ払った。

 

 

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コロナ禍のイタリア旅行ーミラノDay 1- 大聖堂

2021-10-28 21:30:33 | コロナ禍のイタリア旅行2021

ミラノの中心地は大聖堂(ドゥモと呼ばれる)の有るところ。ミラノで3泊した宿がこの大聖堂まで40分から50分で歩いて行けるところに有って、市内だから設備は大したことはないのに値段は非常に高いところだった。

 

 

月曜日の朝はパトリックが出勤した後、3人で歩いてこの大聖堂へ行った。通りを歩いている人もみなマスクをしている。

入場チケットを買うところは長い行列、屋内に入ったところでまずはワクチン証明書を調べられ、聖堂内と屋根に上がるエレベーターのチケットを買った。

聖堂への入り口で並んでワクチン証明書を見せて入場可。

 

この聖堂内部の床が色大理石で作られた模様が素晴らしい、何度見ても感激する。

 

四方の壁を埋め尽くすステンドグラスを見ると、いつも思うのは宗教はいつの時代も貧しい人を搾取して、すごい芸術作品を残したものだ。

 

 

屋根へ上がるエレベーターは聖堂の後ろの入り口から入る。ここでもワクチン証明書を見せて初めて中に入れる。小さなエレベーターで4人しか乗れない。

数年前ポールとこの大聖堂へ来たときは、屋根へ上れることを知らなくて、ここへ来た日本の従姉や、ロンドン滞在の日本人の友達から、ここが一番素晴らしかったと話を聞いていた。

エレベーターを使わないで階段を歩いて上がると料金は安くなるので、若者たちが息を切らせて上ってきた。

 

 

 

 

石で作られた建築物でもやっぱりいつも改修、補修が必要で、いつ来てもどこかを治している。

 

 

 

この白い石は補修後の石で、上の写真の部分だけ石の交換するのも大変な工事だろうと思う。

 

 

石像の向こうに見える四角い建物が、ミラノで一番醜い(アグリー)な建物と言われている。

 

 

石造りの建築物でいつも見られるのが、こんなおどろおどろした醜い動物の飾りで英語ではガーゴイルと呼ばれる。これらは日本の鬼瓦と同じような役目と考えられる。

屋根からの下りにはエレベーターがなく狭い石造りの階段をせっせと降りなければならない。約3分の1くらい降りたところで、キャーと叫び声を聞いた。降りながら角を曲がったところで、イタリア人の中年のおばさんが倒れていた。

言葉は通じないけれど、左足首をくじいた様子。さてどうしたものか?ちびデブの重そうなおばさん、私一人ではどうしたって持ち上げられそうにない。そこへイタリア人の家族連れがやってきた。そこの娘さんと2人でやっとおばさんを立ち上がらせて、その家族のお父さんがおばさんを支えて、私に行きなさいと言ってくれた。

地階に降りるまで相当の階段を下りてきて、あのおばさん足が使えないのにどうするのかと心配。それでセキュリティのお兄さんのそのことを伝え、彼は無線で誰かに連絡していた。

 

 

さて大聖堂の広場の左横に立派なショッピングセンターがある。世界のブランド物のファッションや靴バッグなど、有名店がズラーと並んでいる。

 

天井も内装もどれも素晴らしい。

 

 

 

特に気に入ったのが大理石の床模様。ここでもさすがローマの末裔、モザイクにかけては世界一だと感心する。

数年前ポールと来た時、中国人の観光客がこのモザイクの上にべったりと座り込んで、異様な眺めだったのが忘れられない。このコロナ禍でただ一つ良かったのが中国人団体観光客が一人も居なかったことだった。

 

 

 

 

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コロナ禍のイタリア旅行ーセンピオーネ公園【Parco Senpione)

2021-10-28 04:51:31 | コロナ禍のイタリア旅行2021

ショッピングセンターを通りすぎた広場の電車通りにあるのが、オペラ界では一番有名なスカラ座、以前見た時も今回見た時も、外観の目立たないこと。期待していくと一番に裏切られる。

 

 

壁の2か所に21年から22年の出し物のリストが張り出してあるが、いったいどれだけの人がコロナ禍を押し切って見にいくのだろうか?オペラハウスの中を見たいと受付へ行ったら明日は開いているからと言われた。多分午後オペラかバレーのパフォーマンスがあるのだろう。

 

昼食はまたもやピザを一人1個づつ食べ、6歳のジュードが直径30センチもあるピザを残さず食べるのにいつも驚く。午後娘は科学博物館へ行くつもりが、月曜日は公共施設は全部休みと知って、近くのスフォルゼスコ城(Castello Sforzesco)へ行った。

 

このお城大きくて立派な城だがあちこちに小さな展示場があり以前行って見たが、大したものが無くて何を見たかも記憶にない。

 

お城の前の噴水が面白いと孫のジュードは一回り水と遊んでいた。

 

 

広大なセンピオーネ公園は池やベンチやスポーツ器具が置かれてあり、結構楽しく時間を過ごすことができる。

道端の芝生のあたりにクルミの実がたくさん落ちているのを見つけた。たまたまバッグに入っていたビニール袋に40個くらい拾った。まだ外側の実が腐って黒いままクルミの実にくっ付いているから、かえってきれいに洗わなければならない。

 

公園の一角に小さなアンプシアターがあり、真ん中の小さな舞台でジュードが演説をする。私たち2人だからものおじせずに話しているけれど、学校では恥ずかしがって話せない。

このアンプシアターは面白いことにメタルの丸椅子が全部に埋め込まれている。

橋げたにはマーメイド?らしき像が4方に立っていた。

 

 

公園の最奥には凱旋門らしき立派な門 Arco Della Pace と言う。

 

 

あたりがかすかな花の香、これは銀もくせいではないだろうか?

 

宿への帰り道、いたるところに大きな地球儀の飾りが目に付く。

 

 

 

 

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コロナ禍のイタリア旅行ーヴェルディハウスとオペラハウス。

2021-10-27 00:06:28 | コロナ禍のイタリア旅行2021

ミラノ2日目、昨夜はパトリックとジュードはパトリックの会社が予約した高級ホテルに泊まり、娘と私は2部屋のダブルベッドでゆっくり眠った・・・のは私だけ。

娘の部屋には暖房が入っていて暑いのにコントロールできない。それで夕方から庭の戸を全開して温度調節。ところがこの4階のアパートはルーフガーデンになっていて、夕方の風が涼しくなったころには蚊がわんさか入ってくるーーと言うのが翌朝判った。

娘の両腕は蚊に刺されてボロボロ、蚊のキーンと言う音がうるさくて眠れずとうとう耳栓をして寝た。10月末でも蚊に悩まされるなんて。

それで2日目の朝は娘がジュードを迎えに行き、私はヴェルディ・ハウスへ行くため別行動。

ヴェルディハウスはもう20年も前、オカリナを習っていた日本の従姉がこのヴェルディハウスでオカリナの合奏をしたという。ここはリタイアーした音楽家たちが住んでいる高級老人ホームなのだ。それでミラノへ行くなら、ヴェルディ・ハウスへ行ってらっしゃいと言われていた。

 

娘から言われたとおりに歩いて地下鉄の駅に着いたが、切符の買い方が判らない。

切符を買っていた若い女性にクレジットカードを出して買い方を教えてもらった。一日券で7ユーロ。San Babilaの駅から7つ目であっという間についた。

地上に上がってみると道路が6か所くらいに分かれるラウンドアバウトの一角、どこへ行っていいか判らなくて近くでお花を売っていたアラブ人らしい人に聞いた。この人イタリア語も英語も判らなそうな。知らんと言われ、横断歩道で止まっていたおじさんに聞いたら指さしたので大喜びで道を渡って行ったら、ここだよーと大声で指さす。このラウンドアバウトの真横の建物だと言われた。

 

 

ミュージシャンのリタイアメントホーム・ヴェルディ作 と書かれている。

 

玄関が開いていたので入ってみたが、受付では コービットのため閉まっています。と断られた。

ラウンドアバウトの真ん中の銅像はやっぱりヴェルディだった。イタリア人にとっては神様みたいな存在だった。

 

地下鉄で引き返しスカラ座の博物館へ行って見た。ここでもワクチン証明書提示を求められ、階段を上ってゆく。

ヴェルディの銅像。

 

マノンやウェルテルのオペラを書いたマスネの像。

 

 

かの有名なセビリアの理髪師を書いたロッシーニの像。

 

今日はオペラもバレーもない日で4階の個室から舞台や客席を写すことができた。

天井桟敷もあの上の舞台の横だと、本当に舞台の3分の1くらいしか見えない。ロンドンのオペラハウスで何回も見えないのを我慢して見たことか。

ロンドンもミラノもオペラハウスの中は大して変わらないと思った。

科学博物館のロケット。娘はジュードと歩いて科学博物館へ行き、3時間くらいゆっくり見て歩いた。私はオペラハウスの後地下鉄のチケットを利用して、科学博物館へ行き、彼女たちが出てくるまで、玄関内の椅子に座って待っていた。

あとですぐ近くに巨大なストリートマーケットが開かれているのを見て、残念待ってる間に見てまわれたら良かったのにと思った。

それでもマーケットでおいしい柿1㎏99セントで買ったのはラッキーだった。新鮮な魚がきらきら光っていて、ホテルにキッチンがあったならと残念に思った。

今日が最後の昼食だからと娘がやたらとオーダーして食べきれず、ピザ4分の2(2人分)とサラダを持ち帰りにしてもらった。お腹いっぱいで夕食はレストランに行かずサラダを食べて本を読んでいたが・・・・娘一家は最後の夕食、フルコースにワインも食前酒からあらゆるものを飲んだらしい。私の1か月分の食費位を一晩で使った。

 

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シナイ半島ーシャーム・エル・シェーク(Sharm El  Sheikh)

2021-10-19 20:08:14 | 思い出

まだカメラがデジタル化されていない時期だから1990年代の終わりごろだったろう。ヨーロッパから一番近いサンゴ礁と言えば、エジプトのシナイ半島だった。

一週間の予定で真夏のとっても暑い時期に飛行機で飛んだ。

ホテルは高台にあり自分のビーチを持っていないのでとっても安かった。海岸線のビーチ付きのホテルは高い。それで毎朝10時過ぎかスノークリングの道具だけ持って、高級ホテルのお客のようなふりをしてそこのビーチへ降りてゆく。

 

毎日青空、太陽はギラギラ、あまり暑いのでローカルの犬たちも浅瀬に浸かって涼んでいるか日影で昼寝をしていた。

このプライベートビーチは大きな入り江の左側、そこからはホテルもなく崖と岩場がずーっと続いているからあまり観光客が来ない。

毎日2人で朝の10時過ぎから午後4時頃まで休みもせずに、泳いだり,写真を撮ったり、潜ったりしていた。今思い返してみると私達本当に体力があったなーと感心する。

 

毎日同じあたりで潜ったりしていると、一日に2回廻ってくる水中観光船?が近くを通ってゆく。

この船の下が透明ガラス張りの船室になっていて、お客は座ったままで水中が良く見える。私たちも潜るとそのお客達が良く見える。それで船が近づくと潜って手を振ると、お客達も大喜び。

ある日その船が私たちの隣で止まってコークを2本くれた。観光船の船員にしてみれば、私たちは格好の見世物だったのかもしれない。

シャーメルシェークは海がきれいで魚がいっぱい。こんなイーグル・レイなどホガダでは見られない。

顔だけ白いこの魚、漫画になりそう。

 

紅海で一番多いのがこのパロット・フィシュ、赤やオレンジ、グリーンに青と色鮮やかでサイズも30センチくらいはある。鋭い歯でサンゴをかじり真っ白のサンゴの砂を排泄してゆく。最近ロンドンのエスニックなお店では死んだパロット・フィシュを並べて売っているが、多分西インド諸島の人たちが買って食べるのだろう。

 

 

ホテルの朝食に出たゆで卵をいくつかもらって、水中でつぶしたところ、一面にあらゆる魚の群れに囲まれた。しかし近くに居たダイビングボートのインストラクターからやってはいけないと注意されたので、それ以後はやっていない。

 

ある日水深10メータくらいの海底に魚のトラップを見つけた。潜って行ってみると大きなウツボがはいっている。そしてその上に彼か彼女の配偶者のやや細めのウツボがとぐろを巻いていた。

こんな魚でも相手を心配して居座っているのを見ると、魚にも感情があるのだと思った。10メーターでは息切れがしてトラップを持ち上げられない。そこで500メーターほどの海でダイビングをしているダイバーボートへ助けを求めて泳いでいった。

10メータほど手前で I need Help (助けがほしい)と言ったとたん、ボートの皆が飛びこんだ!!!

2人のダイバーがスキューバーダイビングの装具で一緒に来てくれ、潜って行った。配偶者は相変わらずトラップの上に居たけれどダイバーがシュノーケルで追い払い、トラップにダイバーの浮袋を付けて空気を入れたため簡単に浮いてきた。

船にまで引っ張っていき私たちも船に上がって、彼らはそのトラップ(金網でできているらしい)を壊して巨大なウツボを海に逃がしてやった。このウツボが500メータの海底を配偶者の元へ逃げて行ったかは判らないけど、行ったと思うことにしたい。あんなに心配して私たちが近くへ来ても逃げもしなかった配偶者のため。

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紅海の魚たち

2021-10-08 04:59:39 | 思い出

もう50年近く前まで住んでいた日本では、10年間スキーに熱中して、結婚するならスキーヤーと思っていた。ところがこの英国で図らずも結婚したのがダイバーだった。英国には山がないからスキーは余り人気スポーツではない。

ポールは彼の20代からスキューバーダイビングに熱中し、20代(1953年以降)から結婚した41歳まで世界中のほとんどの海でダイビングしていた。

私達がエジプトのシナイ半島やホガダなどでスノークリングをするようになったのは1990年代。子供たちが巣立ってしまった後は二人でシナイ半島には3回ホガダの近くでは2回そして最後に行ったマーサアラーム(Marsa Alam)に行ったのが2006年の11月だった。

2006年は私も退職して自由の身、マーサ・アラームはエジプトの最南端のリゾート地で、赤道に近いからまだ暖かいだろう。

もう15年も前のことで、当時はリゾート地と言っても高級ホテルが数軒建っているだけで、ホテルの外へ出ても周囲は荒れ果てた砂漠だった。

2週間泊まって毎日泳いでいたのがコラヤ・リゾート・ホテル(Coraya Resort Hotel)で時期外れ結構安かったのを覚えている。そしてこのホテルにはロシア人がたくさん休暇できていた。もう名前も忘れてしまったが、まるでロシアの大統領プーチンみたいなタフガイのご主人とセクシーな奥さんと友達になった。彼らはシベリアに住んでいると言った。

このホテルはコラヤ湾の砂浜に面したところにあり、ホテルの建物がぐるっと取り巻いた真ん中には温水プールがあった。エジプトとも言えども11月になると水温も下がって1時間もコラヤ湾の中を泳いでいると体が冷えてくる。

その時は温水プールは天国だった。

紅海は熱帯魚が多く地中海とは比べられない。初めて紅海で泳いだ時、私の前生は人魚だったのだと思った。いつまでも泳いでいたいと思った。

私はスキューバダイビングはしないが、中学生の時からシュウノークルで泳いでいた。だから撮影した魚たちも結構浅瀬で撮ったものばかり。

体長1メーターくらいのバラクーダー、 ここでは1匹悠々と泳いでいたが、ポールはヨルダンのダイビングセンターでそこのインストラクターと潜った時は、このバラクーダーの群れが大きな輪になって回遊しているのを見たという。

 

 

私達が金魚と呼んでいたジュールフィシュ(Jewel Fish)これらは紅海のどこでも一番多くに見られる魚で何度写真をとっても飽きない。

 

 

サンゴ礁もきれいで、小さな珍しい魚が多い。

 

初めてこの魚を見た時は本当にギョッとしたものだ。ワニみたいだねと言ってたら本当にその名もクロコダイル・フィシュと言う。

 

ファイルフィシュ。色彩がきれいで口が小さい、まるでおちょぼ口みたい。30-40センチくらいのおとなしそうな魚。体の上と下の透き通るようなひれが細かく揺れている。上から見ると一本の線ほどしかないひらべったい魚だ。

 

 

体長2-30センチくらい縞模様が美しいサージョンフィシュ、尾ひれの近くの黄色い線が非常にシャープな切れ味でサージョン(外科医)と呼ばれる。

 

 

紅海のウミガメは南シナ海のウミガメと種類が違うのか甲羅の模様が美しくない。ここでは飽きるほど居た。ウミガメの好物はクラゲで、ホガダの海ではクラゲに取り巻かれて気持ちの悪い思いをしたが、カメさんはどんなに喜んだことだろう。

 

ブルートゥリガーフィシュ【Blue Triggerfish)は体長50-60センチくらいきれい

なブルーで上下のひれと尾がそれそれ別な動きをしてとっても優雅な魚。

 

 

見るからに獰猛なタイタン・トゥリガーフィシュ。体長50-60センチくらいで強力な歯をもち、海底の大きな石を歯でくわえて持ち上げエサを探す。

シナイ半島のシャーメルシェークで二人で泳いでいる時のお話。私が先頭を泳いで水深10メーターほどにこの魚を見かけた。そのまま進んでいったその後、6-7メータ後から泳いできたポールがこの魚にアッタクされた。

このタイタンはその水底で巣ごもりしているところを私が通り過ぎて、頭に来ていたところに、またポールがやってきたため、怒り狂って攻撃に出たもの。水底からまっすぐ上ってきてポールに噛み付こうとする。ポールは必死でフリッパーで蹴りまくり何度も攻撃していたがとうとう諦めて戻って行った。私は大笑いしたがポールは本当に水を飲んでの大騒ぎだった。

 

体長1メーターを超すナポレオンフィシュ、大きい割にはおとなしい魚で人にはアタックした話は聞かない。ホガダで初めて見た時は、船に乗ったたくさんの観光客(私たちも含めて)が飛び込んで泳いでいるのに、船頭さんがくれるゆで卵が欲しくて水底をウロウロしていた。いつもゆで卵を貰っているから、慣れていたのだろう。魚でもこうして手なずけられるのは、面白い。

 

ピカソフィシュ、体長20センチくらい、本当にピカソならこんな面白い魚の絵を書きそう。

レッドシー・マックロ(Red sea Mackerel)は団体で一斉に口を開けてエサを取り込みえらでろ過する。銀色に輝いて向かってくると初めはギョッとしたものだが、見るからにおかしい。

 

ホガダ(Hurghada) の町は貧民街もあり汚い街で、観光に出歩くところはない。その町から割と近いところのホテル街では各自自分のビーチを持っている。ところがこのあたりの海にはビニール袋が大小ぷかぷか浮かんでいて、カメがクラゲと間違って食べる恐れがある。このホテルに滞在した時も、そしてコラヤリゾートホテルに滞在した時も海にはビニール袋が多く、もしかして毎朝ホテルのごみを海に捨てているのではないか?それとも貧民街から流れてくるのか?

それでいつも泳いでいてビニール袋を見つけると、中の水を出し切ってしっかり結び、次の袋の中に入れて結びだんだんビニールの塊が大きくなっていくと、陸に放り投げていた。ホガダの近くのホテルではプライベートビーチにも関わらず、水底に魚のトラップが仕掛けてあったので、しっかり結んで大きくなったビニールの塊を魚の代わりにトラップに押し込んでおいた。

コラヤリゾートホテルを去る日、ホテルのマネージャーに手紙を書いて、毎朝一人の泳げる人にビニール袋を集めるようお願いしたが、手紙がマネージャーまで届いたかも定かでない。

シャーメルシェークはエジプト人の住む町はなく、ホテル街だけのため、そしてここは海が売り物だから、ビニール袋は一度も見かけなかった。

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コロナワクチン3回目(Booster)

2021-10-06 18:39:04 | 日記21

昨日ワクチンの3回目を打ってきました。最初の2回ともファイザーでしたので、3回目はいったい何がと心配して薬局へ問い合わせたところ、やっぱりファイザーでした。

今まであるとも知らなかったブラックウォールと言う薬局でしたが、行ってみると先に2人の年寄りがいただけで、5分くらい待ってすぐ注射になりました。

当薬局のオーナーのインド人のおじさんで、先の2回のワクチンで副反応は出たか?と聞かれ2回目に一晩腕が痛かった。と言ったら今回も同じだよ。と言われた。

確かに夕方から腕が痛くなり、と言っても痛み止めを飲むほどでもなく、今朝はほとんど忘れていた。

毎日1回は日本のいろいろな人たちのブログを見ているが、ワクチンに対して異様な恐怖心を持っている人たちが多い。確かにワクチンの副反応は人それぞれ、熱の出る人も腕の痛みが激しい人も居るが大体1日でなおってしまう。

9月25日に私の日本人の友達2人がわが家へ来てくれた。その時3回目のワクチンをする予定と話をしたら、彼女たちは2人ともまだ連絡が来ていないと言っていた。

ところがその翌日私より2歳年上の彼女のところへテキストメッセージが届いた。やっぱり近くの薬局でBooster ワクチンをするようにとのことで、連絡したらその翌日に予約が取れて、すんなり注射してもらった。彼女は2回ともアストラゼネカだったがBooster の今回はファイザーだったそうな。

副反応も一切なくて翌日は泳ぎに行ったとのこと。アストラゼネカの場合は3回目Boosterにはファイザーかモデルナを打つそうだ。

ブラックウォールの薬局で最後にインフルエンザはやったか?と聞かれた。21日に予約したことを言ったら、ここでは来週からいつでも予約なしでしてあげる。と言われ来週すぐに来ることにした。終わってから21日のはキャンセルするつもり。

私達の様にNHS で無料の人達にも、この薬局が積極的にオファーするのは、やっぱりNHSからお金が送られているに違いない。

 

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