Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

2014年の越冬旅行ーフランス・シャンボール(Chambord)

2015-05-04 15:11:37 | キャンピングヨーロッパ 2014-2015

このロワール河畔のキャンプサイトへやって来たのは、今年のキャンピングブックによればロワール川に数多くあるお城の観光に便利とかいてあったからでそれもユネスコのお城があるという。そこでこのユネスコのお城へはどうやって行くのかと聞いた所、なんとここからロワール川の上流100km2時間かかると言われた。

 

 

  

せっかくここまで来たからにはぜひそこまで行こうと決心し、翌朝サイトを出発、すぐ立派な古い橋を渡ってロワール川の北岸を上流に向けて走る。確かに川の岸から遠くないところにいろいろなお城が見え隠れしている。特に感心したのが北岸の崖の中に住居が存在すること。以前スペインで見つけて感心したものだが、ここフランスにもあるのだ。

 

 

 

このシャンボール城は1519年弱冠24歳のフランソワ1世が愛する狩猟のためにこのシャンボール城の建設に着手したが、彼の32年間の統治生活でここで過ごした日数は72日しか無い。主塔の中心部分に3つの階を結ぶ2重螺線階段があり互いの階段から相手の姿を見ることができないという。この中央階段の傑出した設計にはフランソワ1世が1516年に招いたレオナルド・ダ・ヴィンチが関わっているのでは無いかと言われている。

 

 

 

 

フランソワ1世が1547年に死去するまでに完成していたのは主塔と王室のみで、彼の死後息子のアンリ2世とルイ14世によって現在の姿の整えられたという。主塔の周りに4つの高い塔があり螺旋階段になっている。17-18世紀当時の王室の居室を垣間見ることができるが、王室の興亡によりこのお城は何度も廃墟の憂目に会い、1930年フランス政府がシャンボール伯爵の後継者からここを買い取り、ユネスコ世界遺産に指定されている。

 

 

6箇所の出入口のある全長32kmの壁に囲まれた総面積5440ヘクタールの敷地はパリ市の大きさに匹敵するという。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年の越冬旅行ーフランス

2015-05-04 09:38:36 | キャンピングヨーロッパ 2014-2015

ポルトガルを出て4日め、パンプローナのキャンプサイトは町外れでフランスへの道筋にあたる。本当はピレネー山脈の国境あたりで数日過ごしてみたいと思っていたがエンジンがこの調子ではいつまた問題が起きるか判らない。一番無難なスペイン・イルン(Irun)の海岸線へ出てフランスへ北上することに決めた。海岸線へ出るまでの道路はトンネルが多く山頂は何処も霧か雲に覆われていた。

フランスへ入った頃から青空が張り出し、この日以来帰国するまで晴天が続いた。この日はバージョラックまでの300km.カーナビは近道をセットしているわけでは無いがどんな狭い道でも近道を行こうとする。賑やかな町の中の交通量の激しい通りを指示しまた郊外に出てメイン道路を走ったりで、亭主は怒り心頭。

キャンプサイトは昨年行ったオランダ人経営のキャンプサイトの近くだったが、オランダ人のサイトはまだ閉まっていた。このサイトはきれいな湖のほとりで周りにシャレーが並んでいて夏のウイークエンドは素敵なキャンプが出来るだろう。トイレやシャワー、キチンの設備があまり良くなく長期滞在には向かないが一晩だけなら我慢できる。サイトのオフィスにWIFIがありここで帰国のカレー・ドバー間のフェリーを予約した。スペインフランスはポルトガルよりも1時間の時差があるため、この夜は9時過ぎて夕闇が迫ってきた。そして辺りが暗くなるまで遠く・近くでカッコーが鳴いていた。

 

翌朝は素晴らしく澄み切った空で気温も10度に届かない。朝食前に湖の傍まで行って写真を写しまくった。対岸には男性2人が魚釣をしている。

 

キャンプサイトを出発してはじめにたどり着いた大きな町ペリギュ(Perigueux)に素晴らしい建物を見つけて停車してもらった。

 

 

まだ寒いのに半袖ショーツでカメラを抱えて素晴らしい大聖堂の周りを走り回った。入り口に物乞いが2人屯していたがカメラ以外持っていない。急いで中に入り写真を撮してまた半周、その間5分以内だっただろう。亭主は町中の駐車が不便だから極端にいやがるがこの街では大聖堂の近くの川縁に無料の駐車場があった。

 

このサン・フロン・ペリギュ大聖堂(Saint Front In Periguex)は6世紀からあった教会が1120年に焼失後何世紀にもわたって大聖堂が形作られて行ったものだとのこと。この記事が書けるのも走っている途中の歩道に落ちていた英語の説明書で、靴跡が付いているがこれぞ神の助け。何しろフランス語では名前も読めない。

大聖堂の近くに立っていたこの変わった建物は倉庫か穀物庫のようなものではないだろうか。足元が高く細いところを見るとネズミよけのためでは無いかと思われる。

 

この町からルアール側沿いのキャンプサイトまで380km、道路は田舎道ながら綺麗で直線道路が多く、フランスがローマ人によって開発されたことが実際目に見えてうなずける。こんなかわいいシャトーが途中の道路脇にあった。

 

4月半ばのロワール川のキャンプ場はほとんど開業していて、今夜のサイトは川縁の小さな村外れ平野の真ん中に作られた真新しいサイトだった。子供たちがサイトの庭のプールで大騒ぎをしていた。

 

村の果樹園で見かけたこの梨畑、枝が上手に手入れされて編み込まれ前後から収穫されるようになっている。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年の越冬旅行ースペイン プエンテ・ラ・レイナ(Puente la Reina)

2015-05-03 16:48:09 | キャンピングヨーロッパ 2014-2015

さてスペインの3日め、天気も良く気温はポルトガルほどでも無いが、小春日和、今夜のキャンプサイトは以前に停ったことのあるパンプローナ、一度行ってしまうと興味も薄れてあまりエキサイティングでは無い。ただ帰国途上の宿泊地になってしまう。そこで亭主がパンプローナの郊外にプエンテ・ラ・レイナと言う町が面白いと言った。なんでも古いローマの橋があるという。

 

そこですぐ行こうと賛成。途中までの道は昨年春行ったオリーテ城の道筋、テファラ(Tefalla)から細道に入った所、平野の中に教会を中心に小さく固まる村や高い塔がにょきにょき建つ町などを通り過ぎた。まるでイタリアの小さな町・村を想像させる。

 

プエンテの町はなんとも変わった町で、メイン道路には脇道に駐車するところがふんだんにあり問題は無い。特に観光案内所あるわけでもなく町自体が4階建ての堅固な石造りの住居が隙間なくびっしり建っている。そしてどの住宅にも一階に当たる住居地に窓がなく人を拒否する堅固なドアがあるばかり。2階3階には窓もベランダも有って生活の基盤は2階以上というところらしい。

 

どの家も通りも古そうで開いているところがレストランと教会だけ、多分シアスタにかかったせいかと思われるがお店らしいショーウインドーも数軒見えるだけで何処も開いていない。

 

12世紀のサンチアゴ教会が開いていて、中に入ったが2-3人の観光客がいるだけで、町の人も教会の人も見かけなかった。

 

石造リの家々は見あげれば4階の屋根のひさしに立派な装飾が見られ貧富の差をここで表しているように見える。

 

立派なローマ橋は歩行者のみ、この橋がいつ頃できたものかインフォメーションが一切ないのが残念。

 

川縁の家やメイン通りの家なども人気がなくて静か、通りを歩いているのはカメラを構えた旅行客ばかり、一軒のレストランで昼食を注文したがメニューにあるカラマレは無いと断られ美味しくもない昼飯で何を食べたか思い出せない。

この町の印象はよそ者を受け付けない、多分外敵からコミュニティを守るために一階の入り口を堅固にした長い歴史があるに違いない。ロンリープラネットにも書かれていないこの街。もっと知りたいものだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014 の越冬旅行ー帰国の途 スペイン

2015-05-03 11:52:57 | キャンピングヨーロッパ 2014-2015

ポルトガルから帰国予定日は4月10日と決めていたが8日から天気は悪化するとの予報で、雨の中2日も待っていても仕方がないから水曜日8日の早朝キャンプサイトを出発した。この日は早くから小雨模様で結局スペインのプラセンシアのキャンプサイトへ着く頃まで、降ったりやんだりのイヤーな天気だった。

移動の際は何時も違った道をゆくことにしていて今回はスペインへまっすぐ東に向かいセビリアからまっすぐ北へ向かうか、その途中に斜めに走っている道路を行くかでカーナビをつけてみたところ、3角形の2辺に当たるセビリアよりも斜めに走る3角形の1辺のほうが50kmも短縮できるので決めた。

ところがこれが間違いの元、この短縮道路は片側深い谷間の山道で曲がりくねり登り降り激しく村もほとんど見つからない。全く不運なことにポルトガルへ着く前に入れた汚いディーゼルでエンジンの調子が悪かったことがあったが、この日も同じことが起きた。坂道を登るのに全くパワーがなくてやっとのろのろ走っているので巨大なトラックなどに追い越されてしまう。下り坂になると我がキャンパーのほうが軽いから今まで追い越されたトラックを追い越して走る。

これを何回か繰り返しているうちに、トラックの運転手も私達がふざけて遊んでいると思ったらしい。下り坂で追い越そうとすると嫌がらせに横に出てきて進行方向を塞ごうとする。とうとう諦めてのろのろトラックの後を走って午後遅くプラセンシア(Plasencia)のキャンプサイトへ着いた。ここまでの山道ではまだ南の温かい気候、ポルトガルとほとんど変わらないから道端にはラヴェンダーとシスタスの花が咲き乱れていたが、何処もかしこもグレイの空の下カメラを取り上げる気持ちにもならなかった。

翌日は雨こそ降っていないがこれまたグレーの世界、50Shade of Grey という本が数年前に有名になったが、これは中・老年男の髪の色のことらしい。

 

 

 

 

ここでは本当に50色もの違う灰色(グレイ)で彩られた谷間の道を北東へ向かう事になった。この国道110号は数年前にも通ったことがあったと来てから気づいたがモウ遅い。数年前は3月半ばで曇り空でものすごく寒く、1275メーターの山頂では雪が降りだした。

この日はまっすぐ流れる谷川の両側の斜面は白っぽいサクラの花で覆われている。この地方はさくらんぼの生産地で山頂から川岸まで見事に耕かされた段差の激しい土地。天気が悪いためとサクラにピンクの派手な色がないため、歓声を上げるような素晴らしい景色は見られなかった。

谷間の最奥から山へ登るジグザグ道が長く続いており、パワーのないキャンパーは喘ぎ喘ぎ登ったが、この道はトラックの運転手にはよほど知られた道らしく一台も追い越されもせず、出会いもしなかった。

たどり着いた台地から左に見える高い山はまだ真っ白の雪におおわれ、ここから北東にほぼ直線に伸びる国道110号はスペインの高台を縦断する。海抜1000メータ以上のこのあたりは気温も低く4月半ばでまだ一桁。もう3ヶ月も温かい海辺の町で過ごした身にはこの寒さが応える。

 

 

今夜のキャンプ予定地まで300km以上もあるのにこのパワーの無さはどうだ。どこかの修理工場で見てもらおうとカーナビをセットし、高原の町アヴィラ(Avila)へ進んだ。町の入口には素晴らしい城壁が長く伸びていた。モウ過去2回もこのメイン道路を走っているが、メイン道路は市街地を迂回しているから今まで見たことがなかった。

止まって見て歩きたいものだが、今はそれどころじゃない。カーナビで大きな街を縦断して反対側の工業地帯に修理工場を見つけた。

それが12時半、30分ほど待って電子器具を持った修理工が2人やって来ていろいろ調べた結果、修理は4時から始めるという。

そうここはスペイン、シアスタが有って2時間以上もあちこち閉まってしまう。またキャンパーで出かけたならば同じ道へ戻って来られなくなるからじっと我慢、キャンパーの中でお昼を食べ本を読んだり昼寝までして彼らが帰ってくるのを待った。

 

4時から彼らはフィルターやパイプを変えて5時ころに完成した。料金も英国の半額ほど、大喜びで今夜のキャンプ場を目指す。空が少しづつ明るくなってきて気分が良い。エンジンの音も非常に軽く感じられる。坂道も前よりずいぶん早く走られそうなと亭主はいうがこの国道110号の前方に急坂はもう無い。

今回が3度めの高級キャンプサイトCamping Riazaへついたのは7時だった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする