今日は一応ペトラの歴史に触れておかねば,ここがいったい誰によって何を目的に作られたかが判らないだろう。
ペトラは紀元前312年、アラビア人ナバティアン族によってつくられた都市で,現在呼んでいるペトラとはロック(岩)の意味。オリジナルにはラクエモ(Raqemo)と呼ばれていた。
ここは紀元前1世紀から紀元後2世紀が最盛期の、ロイヤルや貴族の墓地として栄え、その数1000にも上るという。ここは紀元後363年に大地震に襲われ破壊されたうえ、人口過多で水の供給が難しくなり、自然に住人の移動によって世間から忘れられていった。ローカルのベドゥインだけがこの地を知っていた。
1812年スイスの旅行・探検家ヨハン・ルドヴィック・Burckharolt によって発見され、ヨーロッパに知れ渡るようになった。
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私達4人はまだバックパッカーの若者たちが目覚めないうちに、ペトラの入り口のチケット売り場へ急いだ。
写真は村はずれから、ペトラの岩の割れ目を見たところ。これだものもし飛行機で上空から遺跡を探したところでほとんど不可能だっただろう。
入場料は観光客用のチケットがローカルとは違ってやたらと高く、一日券が一人25ポンド、2日券が35ポンド(だったと思う。)で オーストラリアのおじいさんとオランダ人の女性は、前日2日券を買った夫婦者から15ポンドで譲り受け、いかにも夫婦者を装ってサッサと入って行った。
私達も二日券を求めてその夜若いカップルに一人15ポンドづつで売った。
入り口から遺跡が見えるまでの1KMは高い崖の間を歩いて行く。早朝で鳥の声ももちろん現代の交通機関の物音は全くしない。
そしてもうずいぶん歩いたと思って岩陰を曲がったところで、急に明るいこの素晴らしい遺跡が見える。
この素晴らしい創造物はトレジャリー(宝物殿)と呼ばれているが、実際に作られたのは紀元後1世紀のナバティアン族の王アレタス4世(Aretas )の墓で当時は死者と同時に葬られた宝物がたくさんあったであろう。それでローカルのベドゥインからトレジャリーと呼ばれていた。
中にはただ大きな部屋があるのみ、遺体や石棺も何もない。
このトレジャリーは以前写真では見ていたが、実際この目で見て、あまりのすばらしさに声も出なかった。できる事ならこれが作られた時代に戻って、どうやってこんな均整の取れた巨大な創造物が出来上がるのだろうか?見てみたいと心から思った。
上の写真はこのトレジャリーの入り口から崖の割れ目の通りを見たところ。
最後に19世紀このトレジャリーが発見されたころの写生画で荒れ果てた様子が良く分かる。
これは絵ハガキでトレジャリーのサイズも、人間を対比にしなければ実際の大きさが判らないだろう。そして日中の太陽の下この街がローズシティと呼ばれているのがうなずけるであろう。