Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

東ヨーロッパの旅 1 出発そしてドレスデン

2011-09-01 19:45:06 | 東ヨーロッパの旅 2011



ポーランドとバルティック3国は昨年から計画していたものだが、時期を逸して今年になってしまった。8月になると北ドイツも寒くなってくるので、早く出発をとあせってやっと6月7日ドーバーに一番近いキャンプサイトで一泊、翌朝ダンカーク(フランス)行きのフェリーに乗った。
今回はオランダから北海岸を回り北ドイツの海岸線をポーランドへ向かう計画をたてた。ところが北ドイツでは新種のイー・コーライと呼ばれる伝染病の発生で死者20人、入院患者2000人以上と聞いてはとっても行く気にはなれない。結局中央ドイツを横断して東ドイツからポーランドへ入国することに計画変更。

ベルギーのゲントで一泊、ルクセンブルグを通ってドイツに入国し、ニューレンブルグからドレスデンまで3日の道のり。ドレスデンの旧市街から500メータほど離れたところのキャンピングプラッツはキャンピングカーのみ停車宿泊できる便利なもの。
午後2時過ぎ駐車後すぐ観光に繰り出した。ドレスデンには4年前に来たことが在りとっても気に入った町だった。




ドレスデンは第二次世界大戦の空襲で町の80パーセントが崩壊し、この教会も崩れた石をすべて使って元通りに再建されたものだという。それで前回も今回も入場に長い人の列が続いていて、諦めた。




マイセン焼きの壁画は高さ8メータ、長さ100メターにも及ぶものでこれらは奇跡的に空襲の被害を免れたものだという。今ではドイツだけでなく世界の財宝の一つだものこうして見られるのは本当に有難いことだ。




4年前には開館されていなかったオペラハウス・センパーオーパーは3時には英語のツアーがあると書いてあったが、もう4時近く、ドイツ語でもいいから中を見たいと行列をついてツアーに入った。英語か中国語の案内書が在るといわれ、もちろん英語を選んだけれど、最近の中国人の海外ツアーはすごいなーと感じたものだ。一昔前の日本人団体客みたいにどこにも中国人団体客がいる。








このセンパーオーパーは1871年殻15年を費やして完成した当時の最高のオペラハウスでワグナーのタイホイザーはここで初演された。このオペラハウスも1944年の大空襲で壊滅し、40年後にやっと再建された。ツアーが初めに連れて行ってくれたのがこの飾り立てた回廊で、ドイツ人のガイドは長い間話していて一行に動きそうに無い。









この青い大理石の柱は大理石ではなくまがい物だとのことで、知ってしまうとなんだかありがたみが薄れてしまった。でも良く出来たまがい物だこと。




5階からなる観客席はそれなりにすばらしいけれど、やっぱりロンドンのコベントガーデン・オペラハウスのほうが格段に良いと思った。これも実際見てみなければわからないもので、行って良かった。これで思い残すことなくドレスデンを後に出来る。







下の写真はツインガー宮殿の一翼でここは前回に来たときにゆっくり見て周り堪能した所。前回の旅行記は下記のブログをクリックしてください。

http://stingray6.fc2web.com/reiko_travel/reiko42.htm

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東ヨーロッパの旅 2 ポーランド イレニア・グーラ

2011-08-31 22:27:58 | 東ヨーロッパの旅 2011




ドレスデンからポーランドの国境は100Kmもなかったと思うがはっきり思い出せない。只ポーランドの国境のユーロのサインが英語のPolandではなかったのでとっても驚いた。彼らは自分の国をなんと呼んでいるのか?此方の言葉が英語読みとはあまりに違って読めない。日本だって英語読みのジャパンとはずいぶん違うから。
国境には警察官が3人いて車が一台検問に引っかかっていて私たちは止まりもせずに通り過ぎた。下の写真はちょっとピンボケだがこれしかないので許して欲しい。




ポーランド南西にはキャンプサイトがかたまっていて、その一つを選んでカーナビをセットし、高速道路を降りて田舎道をあちこち曲がって走った。周囲はジャガイモ畑ととうもろこしの若い苗を植えたもの、それに青々とした麦畑が続いている。この麦畑の中にかたまりになって青い矢車草が咲いている。ヨーロッパでは矢車草はコーンフラワーと呼ぶがコーン(麦)の中に生える雑草らしい。

ずいぶん田舎道を走ってもうすぐキャンプサイトにつくという頃にたどり着いた町ではカーレースをやっていて通行止め。一台のレースカーが曲がりきれずに民家の壁に激突してたくさんの人だかりだった。いつ道路が開通するのかを聞いたところ夕方6時まで閉鎖という。

諦めて又違うサイトを探してカーナビをセットした。それから一時間後にたどり着いたところがイレニア・グーラ(Jelenia Gora)のキャンプ場。
結構大きなサイトで旧市街から歩いて10分ほどのところにあり、明日はゆっくり町を見ることに決めポーランドの一日目は過ぎた。







イレニア・ゴーラは小さな町で地球の歩き方にも載っていないが、旧市街のスクエアは色とりどりの高さのそろった建物が並び、月曜の午前中買い物に出た主婦でたくさんの人出だった。







新市街の一角に大きな教会が在り、入場料を払って(普通教会は入場料は取らない)入ってみた。天井画や教会内のデコレーションがすばらしく、入ってよかったと思った。教会の外壁に亡くなったパウロ2世(ローマ法王)の写真が飾られていて彼がポーランド人であったことを思い出した。







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東ヨーロッパの旅 3 カルパッチのワング教会

2011-08-30 13:34:52 | 東ヨーロッパの旅 2011



2泊したイレニア・グーラのキャンプサイトを去る朝、英語の片言を話す受付嬢がここから15km南西に木製の古い教会があるという。たったの15kmくらいならと早速行くことにした。
今まで通ってきた畑の田舎道は地平線までまっすぐなほどの平野だったがこのカルパッチ(Karpacz)の辺りから高い山脈が延びチェコとの自然の国境を作っている。

カルパッチの町は山沿いの坂道の両側にとっても大きな家々の並ぶにぎやかな一本道で、一日10ズロティ(2.5ポンド)の駐車場に停めて料金を支払った。
これらの木組みの家々は屋根の傾斜も鋭いところからこのあたりは雪が多いに違いない。この建築物を見ていると日本の合掌造りを思い出してしまった。なんとなく似ているような気がする。











まだ新しそうなこの教会は目的とはずいぶん違うし、お土産屋さんの絵葉書でワング教会の写真を見つけてどこかと聞くと、2Kmもっと上、とのこと。やっと見つけたインフォメーションで聞くと6km山を登ったところという。







たった10分の駐車で10ズロティはずいぶん高いが、仕方が無い。九十九折の道をやっと教会にたどりついた。細長くて高い石の塔と竜の飾りを屋根につけた木製の教会はとっても小さい。

この教会はもともとが19世紀半ばノルウエーから贈られたものだとのこと。確かに北欧にはこのような木製教会が多いし、ポーランドもバルト海を越えれば北欧だから北欧の影響を受けているらしい。この教会は日本の地球の歩き方のガイドブックにはもちろん載っていないが、スロバキアとの国境近くの木造教会群は世界遺産に指定されている。













教会墓地の変わった墓石などを写真に取っていたら、ポーランド人の老夫婦がよっぽどうれしかったらしく、ポーランド語で、この墓に入っている人はポーランドでは一番有名なマリオネットの劇場の人だという。身振り手振りに推測でやっと判ったらとっても喜んでくれた。




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東ヨーロッパの旅 4 ヴロツワフ

2011-08-29 15:54:05 | 東ヨーロッパの旅 2011



ワング教会を見た後すぐにヴロツワフ(Wroclaw)を目指した。カーナビをつけていったにもかかわらず二回も道を間違え、午後3時ごろに町の東にあるキャンプサイトに着いた。英語の出来ないサイトのおじさんが町の地図をくれて近くに日本庭園が在るという。

サイトに落ち着くとすぐにカメラを持って日本庭園へ向かった。キャンプサイトの周辺はシチトゥニツキ公園の一角でこの公園はヴロツワフ市の一番大きくてきれいな公園といわれているそうな。

広大な公園の中の市街電車の線路脇に、大きな噴水のある池と円形コンサートホールそしてすばらしい日本庭園があった。ここはとっても人気のある場所らしく庭園内のいたるところに老若男女が憩い、大きな人造湖には太りに太った鯉がたくさん泳いでいた。庭園の説明によるとアライ・マンキチさんという庭師が働いていたという。この庭は1913年にガーデニング・アート博覧会で作られたものだとのこと。アライさん本当に良くやってくれました。日本人として誇りにしたくなるようなすばらしいところだった。






翌朝、サイトの前の電車乗り場から旧市街の角まで30分、旧市街はほとんどが車禁止のため、碁盤の目のように整った通りを歩いて,市庁舎へ着いた。この市庁舎は又なんとすばらしい出来だ。市庁舎の周りは色とりどりの高層家屋が立ち並び、大きなスクエアになっている。

隣接したスクエアにたくさんの花屋さんが露店をだしている。今まで田舎道を走ってたくさんの墓地も目に付いたが、ここポーランドのようにお墓が花で埋まっているところも珍しい。それにしても街中の墓地の前ではないところにこれほど多くの花屋さんはなぜ?と思わずにいられない。


 





この小人の像は市内の30箇所に設置されていて、私たちが見つけたのはたった2箇所だったけど、真剣に見てなかったからだと思う。それにしてもこのような楽しみを人々に与えてくれるとはどんな人たちなのだろう。




パノラマ・ラツワヴィッカ民族博物館には予約が必要で、2時半の予約を入れ、その間1時間半を近くの国立博物館へと教えられていったところがこれ、ポーランド現代美術の展示はやっぱりこれが美術とは思えないけど・・・・・




パノラマ・ラツワヴィッカ民族博物館は一体なんだか判らないけど、たくさんの人が30分ごとに行列を作っているからと予約し、二人で35ズロティを払った。丸い巨大な建物の地下から真ん中のらせん状の廊下を登ってゆくと360度の立体パノラマ画がひろがる。 全長120m高さ15mの戦争風景画で1794年帝政ロシアと戦って勝利をおさめたポーランド農民兵や軍隊のあらましを描いたもので二人の画家によって描かれたという。亭主と二人口をアングリ、こんなにすごい絵は見たことが無いねと3回も周ってしまった。ここには中国人団体客がいて皆さん大変興奮していた様子。





ヴロツワフの観光案内地図を見るとなんと教会の多いこと、数えてみたら25軒にも上った。だからたくさんの教会内も写したけれど、この砂上の聖処女教会のステンドグラスと最後に行った洗礼者ヨハネ大聖堂は写真の撮り甲斐がある。






洗礼者ヨハネ大聖堂 へ行く前の橋の欄干には錠前がびっしり並んで下がっていた。これは一体どうしたものか今でも不思議でならない。




洗礼者ヨハネ大聖堂は中も外観もすばらしく、どんな遠くからでも2本の尖塔が見える。そして高さ60メーターの塔にエレベーターがついていて、ヴロツワフの全景を見渡すことが出来、とっても感激した。又対の塔の鰐のガーゴイルが近くに見え、小さな冠をかぶったユーモラスな顔が思わず笑いを誘う。

 





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東ヨーロッパの旅 5 クラクフ 1

2011-08-28 15:03:48 | 東ヨーロッパの旅 2011




ブロツワフからクラクフの間にあるカトヴィッツエの郊外で一泊して、バスで町を見物に出かけたが、あまりにつまらない町でここに記すのも惜しい。翌日は高速道路でクラクフの郊外のキャンプ場には午前中に着いた。それで午後半日をクラクフの町見学にとバスと路面電車を乗り継いで出かけたが、電車の降り場所がわからずあちこちうろうろして無駄な時間を費やしてしまった。

やっと旧市街を取り囲む電車路を見つけ町の北から歩き回ることにした。
旧市街を囲む城壁はあまり残っていないがその壁の近くにあるバルバカンは特に有名。これは15世紀に建てられた砦で城壁と共に外敵から町を守っていた。




旧市街の中心地はクラフク中央市場広場でヨーロッパ最大の規模を誇り、中央の堂々たる建物は元織物会館だった。その周囲には2本の尖塔のそびえるセント・マリア教会とクラクフ最古の聖ヴォイチェフ教会が建っている。会館の中は両側をびっしりお土産店が占めあまりにカラフルなみやげ物に目を奪われるほど。






観光客を乗せて市街を闊歩する馬車はとってもスマートで、特にこの双子の斑点までほとんど同じ馬にはすっかり魅せられてしまった。

















北ゲートのフロリアンスカ門の近くにあるチャルトリスキ美術館にはレオナルド・ダ・ビンチの世界に3枚しかないという油絵ポートレートのうちの一枚が在り、ぜひ見たいと思って行ったのだけど、土曜日の午後は3時で閉まるとのことで見逃した。美術館の前庭にはカラフルな絵を売っている人たちが多く、これらはこの町の名物にもなっている。






織物会館からまっすぐ南へ下る道端の教会は外門に12使徒の像が立っており、人々の出入りが激しいため覗いて見るとこのポーランドの民族衣装を着た女性たちが集まっていた。教会内部では女性合唱がまるで天使の歌声のようで、しばしききほれていたが、どうも合唱コンクールでもあったらしい。この民族衣装の女性たちは次の合唱グループらしかった。







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東ヨーロッパの旅 6 クラクフ 2

2011-08-27 16:26:12 | 東ヨーロッパの旅 2011

ポーランドのほとんどの都市が第二次世界大戦で戦災にあった中で、ここクラクフは空襲を免れたため中世の面影をそのまま残した都市として町全体が世界遺産に指定されている。確かにしっとりとしたいい街だが、私たちのように只半日ではなんとも言えない気がする。私個人としてはヴラツワフの旧市街のほうが好きだけど。

旧市街の南は高台に聳え立つヴァヴェル城とヴァヴェル城大聖堂が周囲を圧巻している。この高台から見下ろすヴィスワ河渕は広い散歩道になっていて、たくさんの人たちが川淵で憩っているのが見える。










大聖堂の前にはポーランドの誇る故パオロ2世の銅像が建ち、大聖堂内は写真禁止と在って一回りしてきたけれど、教会内はどこも同じと思ってしまう。大聖堂の後ろにあるヴァヴェル旧王宮は16世紀に造られたもので現在内部は博物館になっている。 ここも写真禁止といわれ、夕方の時間も無いため中には入らず帰り道を急いだ。






旧市街を囲む路面電車の内側は緑の木々が深い陰を作る公園と散歩道になっており、これらが世界遺産を決定する一つの要素になったに違いない。こんなに住民の憩いの場所の多い都市はあまりないと思う。この散歩道を歩いていると道端には故パオロ2世がポーランドを訪れたときの写真が延々と展示されていた。





帰宅前に立ち寄ったフランシスコ修道院の中のデコレーションは目を見張るほどで、思わず口がオーの字になった。






 

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東ヨーロッパの旅 7 ヴィエリチカ 

2011-08-26 17:09:06 | 東ヨーロッパの旅 2011

クラクフの南東15kmに世界遺産に指定されている巨大な岩塩採掘場がある。塩は古代から人間の生活に欠かせないものであり、ローマ時代は軍隊の給料は塩(ソル)で払っていたという。そこからサラリーという言葉が出た。今でこそ塩は大変安いが昔は岩塩を発掘、運搬、売買などでドイツの商人などは多大な財産を築いた。このヴィエリチカ(Wieliczka)でも1250年頃から採掘を始め1950年ごろまで発掘が続けられた。地下64mから325mに渡って複雑な地下道や地下洞窟が掘られ続けた。




英語のツアー案内人が30分おきにグループをまとめて出発しており、先ず最初は300段いじょうの狭い周り階段をどんどん降りてゆく。私たちのグループは30人以上が長い行列になって階段を降りた。たどり着いた地下64メートルから横穴をずんずん下へ降りてゆく。





穴は壁も天井も床も岩塩で出来ているが塩という感じはまったくしない。時々塩の結晶が横穴を支える木材について真っ白になっていたり、岩にカリフラワーのような結晶がついていたりする。





岩塩を削って彫刻された像がいたるところにあり、まったく石と変わりない。天井から鍾乳石のように下がった塩のツララも多い。








地下100メータを越えたところでシャンデリアの輝く大広間が現れ、シャンデリアも塩の結晶で作られており、広間の壁を一回り彫刻した宗教画が取り巻いている。この地下の大聖堂には前ローマ法王のパウロ2世が、まだローマ法王に指定される前に訪門されたことがあるという。したがってここにもパウロ2世の塩の像が立っていた。固いタイルのような床は、やっぱり岩塩で出来ている。












地下120メートル以上の水の溜まった池や湖には、塩が飽和状態近くまで溶け出しており生命は一切ないとのことだった。






行く先々に使われているたくさんの巨木は、この狭いトンネルをどのようにして持ってきたものだろうか?地下120メータのお土産屋さんの並んでいる広場で、団体は解散になり、各自自由に地上へ帰れとのこと。お土産店のテーブルランプも塩を彫り削ったものだった。




この広場から、エレベータへ行く途中に地下食堂が在った。昼食も食べずに2時間以上も歩き回っていたので、この食堂で昼食を取る事にし、行列についてポーランド人のおにいさんが頼んだものと同じ、ソーセージの細切れたっぷりと野菜のスープ、サワークラウトと肉を煮込んだものを試してみた。いつも亭主の減塩食に付き合っているせいで、このどちらも美味しいのだが塩辛くて、午後は水を大瓶一本も飲む羽目になった。地下120メートルで食事をするのもこれが初めで終わり、やっぱりここは塩が多いからなーとは亭主の言葉。

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東ヨーロッパの旅 8 アウシュヴィッツ

2011-08-25 08:52:20 | 東ヨーロッパの旅 2011




クラクフから南西に2時間世界でも悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所がある。6年前のチェコの強制収容所(テレジン)ではじめて見た残虐行為の写真集は思い出すだけでも涙がにじむ。アウシュヴィッツもあのような残虐写真を見せるのだろうかと恐れつつ、この国に来たからにはやっぱり行くべきだろうと思案した。

カーナビは落ち着いた中年女性の声で(私たちはその声にミセス・ナビと命名した)行き先を言ってくれるが、どうしたことか亭主はミセス・ナビの言うこと全部に逆らって南西に向かったものだから、後10Kmで目的地へ着くというところで、とうとう小さな川のフェリー乗り場にたどりついた。乗用車2台を乗せて川を渡るもので、キャンパー一台でも長すぎると断られた。
また迂回してやっとアウシュヴィッツの収容所が見えたときにはホッとし観光バスがたくさん停まっている駐車場にキャンパーを乗り入れた。

英語のガイドツアーに入って一グループ40人ぐらいずつにイヤフォンが配られた。ガイドは若いポーランド人の女性で英語がとっても上手。外国人(私も含めて)特有の変なアクセントがない。彼女の巧みな先導で狭い収容所の廊下や地下室などを歩き回り、展示されている日用品の大量の山や捕虜が押し込められていた蚕だなのような3段ベッドを見た。他国語のガイドが連れて歩くグループが多くて、どこの棟でも観光客で詰っていてにおいも悪く気持ちが悪かった。




収容所の周りには高圧電流を通した鉄条網が2列に並んで逃亡を防ぐようになっている。実際この収容所に送られた百三十万人の収容者の中で逃亡に成功した人たちは百数十人、収容所から強制労働に出かけた先での逃亡だったそうだ。





ナンバーが書かれた収容棟の中には髪の毛の山が展示されていた。これはドイツに送られカーペットや軍服に織られたもので、死体を焼いた灰までが肥料としてドイツに送られたという。死体からは利用できるものはすべて取り上げ、リサイクルされたというから恐ろしい。たとえば金歯や義肢、義歯、めがね、など、食糧難の戦中時死肉を食べなかっただけが、ナチの罪をわずかに軽減することが出来るかも知れない。









第11号棟は死のブロックといわれ、SSが暗躍、ありとあらゆる拷問と下の写真の壁で収容者を射殺した。この壁は戦争終焉数日前に爆破して証拠隠滅を図ったものだが、戦後この記憶を消滅させないために再生された。





この収容所から2Km離れたところに第2アウシュヴィッツと呼ばれるビルケナウの強制収容所があり、アウシュビッツから無料のシャトルバスが運行している。
ここはアウシュヴィッツよりもさらに広大な土地に多くの収容棟を持ち、一大殺人所であった。



この引き込まれた線路はヨーロッパ各地から送り込まれた百十万人のユダヤ人、15万人に近いポーランド人、2万3千人のルーマニアからのジプシーや1万5千人のロシアの囚人などをこのプラットフォームで選別し、体力の在りそうな人を労働力として収容所にいれ弱い人や年寄り女性などはシャワーに入れると称して全裸にしてガス室で大量殺人をしていた。



この棟は男子用トイレと洗面用ブロックで、トイレは朝、晩2回のみと決められており、どれほど体力のある男性でも3-4ヶ月で衰弱、ガス室に送り込まれたという。このトイレで働いていた囚人たちが最終的には生きながらえた。というのは悪臭のトイレブロックにはドイツ人監視人も近づかなかったためそこで働く囚人たちは比較的自由が在ったという。





ここにも3段の蚕だなのバンクベッドが在り,冬季の寒さを防ぐために棟の両脇に暖炉が備え付けられ真ん中にレンガのオンドルが通っていた、・・・しかしほとんど火がたかれることは無かったという。





ここの死体焼却炉も終戦2日前に、証拠隠滅のため爆破されて今でも崩れ落ちた瓦礫の山がそのままにしてある。周囲の草原からはのどかなひばりのさえずりが聞こえる。




この焼却炉のすぐ近く、すべての死者を悼む国際慰霊碑が建っていて、その脇にも20箇のヨーロッパ諸国の小さな慰霊碑が並んでいた。急に降り出したにわか雨の中あわてて写真を取り慰霊碑に手を合わせた。




男性棟とは線路をはさんで反対側のレンガ造りの棟も女性用の収容所で中は同じく3段ベッドがひしめき合って、どんなにうらみや悲しみがこもっているだろうと思うと落ち着かない気持ちになった。






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東ヨーロッパの旅 9 カルバリア・ゼブジドフスカ

2011-08-24 14:03:57 | 東ヨーロッパの旅 2011




アウシュヴィッツ強制収容所のある駐車場の前から700メートルにホテルが経営するキャンプ場があった。広い芝生の庭にトイレ、シャワー食器洗い場のブロックが在り一泊60ズロッティ(約13ポンド)ロビーではインターネットも使えるというから停まってゆっくりした。インターネットが使えるなら少しでもブログを書き加えたい。
翌朝ここから60Kmほど南東に行ったところに世界遺産に登録されたカソリックの礼拝堂が在るというので、一日をゆっくり過ごし又このホテル・キャンプサイトへ戻ってくることにした。
このあたりは南へ行けば行くほど山が迫ってくるため、道路も上がり下がりが激しくなる。






カルヴァリア・ゼブジドフスカは1999年に世界遺産に登録された17世紀の礼拝堂で、ほとんど原型をとどめているという。ここはカソリックの巡礼地でここをイエルサレムに見立て28箇所の礼拝堂が建てられたと言う。坂道を長々と登ったところでやっと開けた礼拝堂は小雨模様もありほとんど観光客がいなかった。




金を主体とした装飾の礼拝堂内では今しもミサが行われている最中で、白衣に身をつつんだ神父が前の長いすに座っている信者たちに話しかけている。その説教は始めは話し言葉で途中からメロディがつき聞いていると何を言っているのかはわからないにしても、まるでミュージカルを聞いているみたい。ヨーロッパでミュージカルが発生したのもこういうところが基礎だったのかも知れないとやたらとうれしくなった。神父はバリトン・テノールでなかなかいい声をしていた。
亭主はあれはテープに吹き込んだ声に違いないと自説を曲げない。






礼拝堂の横から奥へ入ってゆくと廊下にびっしりと飾られた写真はこの礼拝堂で復活祭に行われるキリストの受難と復活を現実の生身の男性に演技させているところだった。キリストがどんな人だったかは誰も知らないが、一応髪とひげの長い男性が十字架をかづいて歩いてゆく。
復活祭には十万人の人たちがここを訪れるという。








1979年と2002年には故ヨハネ・パウロ2世がここを訪れた写真が飾られて在った。又礼拝堂の前に巨大な彼の像が立っている。




礼拝堂の後ろは四角の広い中庭の周囲に、巡礼者の宿泊施設があった。現在は6kmの巡礼路が整備されて公園になっているという。ここの案内書もなくインフォメーションも無くてこの礼拝堂以外に見るものも無かったのでお昼過ぎにはアウシュヴィッツのほてる・キャンプサイトに帰ってきた。





帰り道の左に見える山の向こうは、チェコではなくてスロバキアだと知った。


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東ヨーロッパの旅 10 チェンストホーヴァ

2011-08-23 16:21:30 | 東ヨーロッパの旅 2011



カトリックの総本山であるチェンストホーヴァは、カトヴィッツェから首都ワルシャワへ行く途中にある静かなきれいな街で、キャンプサイトがヤスナ・グラ僧院の後ろ100メータのところに在った。着いた午後、街の見物に行こうとサイトの管理人に街の案内地図を聞いたところすぐ其処といわれ驚いた。
今まで観光中心地のすぐそばにキャンプサイトがあったことは一度もなかった。

カーパークを抜けると僧院の裏門につく。たくさんの人が出入りしていてなんとにぎやかなところだろう,昨日の世界遺産の礼拝堂とはえらい違いと思った。





僧院の礼拝堂はたくさんの人で今まさにミサが始まるところ。外から入ってくる男女はいずれも正面の石畳に膝まづき、胸で十字をきる。ここでも若い神父が素敵なバリトンで謳い、間にバスの話し声が入る。

しばらく聞いていたが、この僧院は非常に大きく見るところいっぱいで、博物館を覗いてみた。中世からのポーランドの歴史がよくわかるように展示され、1655年スエーデン軍がポーランドを攻めワルシャワも占領されたときにこの地で守備して撃破したという。

このときポーランドを守ったのが黒いマドンナと呼ばれるエルサレム・コンスタチノープルを経て送られた聖母像でこの僧院の守護絵になっている。実際の絵は1430年盗賊に傷つけられた聖母の右頬を傷をそのまま復元したコピーやタイル絵が僧院の壁や門に見られる。







  





博物館内は撮影禁止のため何も見せられないが、中にはワレサ大統領がノーベル賞をもらったときのメダルや故パウロ2世の遺品が展示されてあった。非常に興味深い博物館だった。






僧院の正面広場には大衆に見えるように高いステージが設けられていて、いすが整然と並んでいた。毎年8月15日の聖母被昇天の日にはポーランド各地から巡礼が集まり礼拝が行われる。ポーランドは95パーセントの国民がカソリック信者であり、それもこれほど熱心な信者はそれほどいないのじゃないかと思った。
街へ出かける前にもう一度礼拝堂へ行ったところ,鐘の音やトランペットの音楽の後祈りの言葉がスピーカーから流れ感激のあまり涙を拭いている婦人を数人見かけた。






僧院の尖塔がまっすぐ見えるように街の中心地は碁盤の目のようになっていて、広々としたメイン道路と幅の広い歩道が道路の真ん中を連なり、路面電車は僧院からのメイン道路を真横に横切って走っている。














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東ヨーロッパの旅 11 ルブリン

2011-08-22 21:59:09 | 東ヨーロッパの旅 2011




ヤスナ・グラ僧院を訪れた夜、翌日は首都ワルシャワを訪れる計画をしていたが、急に気が変わってルブリンへ行くことにした。ガイドブックを見るとルブリンの街には旧市街やルブリン城が在り又市電で20分でアウシュヴィッツより規模の大きい強制収容所に行けるという。

ルブリンまで320kmくらい、高速道路は100kmくらいで飛ばしたが、国道のいたるところで道路工事をしていて、遅滞を強いられた。この中央部は山らしいものがなく、肥沃な農耕地帯、麦畑に矢車草が満開であちこちブルーに見える。又この地域で始めて蕎麦の花盛りの畑地を見た。ポーランドのスーパーでは蕎麦の実を売っていて、珍しいものだから一袋買ってみた。英国では見たことが無いからお土産に買って帰ろうかと思っている。





ルブリンのキャンプサイトは市民が泳ぎに来る湖の側にあり、街まではバスで40分くらいかかる。







キャンプサイトについた日はゆっくり休んで、翌朝バスで街へ出かけた。サイトの前のバス停は一時間に一本のバスで一キロ離れたバス停から2本違うバスが出ている。遠くにバスが止まっているのが見え、あせっていったものの2分遅れで目的のバスは出てしまった。次のバスは30分待ちやっと乗り込んだのに、途中の道端で停まってしまった。
何事かと思ってみていると遠くから大勢の人たちがゆっくり歩いてくる。バスに乗っていたお客も運転も降りて行列がやってくるのを静かに見ていた。

翌日になってやっと判ったことだがこの日はカソリックのお祭りで2年前から国民の祭日だったそうな。ご神体を中心に歩いてきた団体はバスの停まっている前で右折し、角にしつらえてあった祭壇でお祈りを始めた。皆熱心な信者で、道路にひざまづいてお祈りしている。バスの運転手もお客の若者たちも道端にひざまづいて祈っていた。








30分も待ってやっとバスが動き出し、ルブリンの町のメインどおりにかかる角でおろしてもらい、旧市街を目指す。すると今度はもっと大掛かりな祭典が合同記念碑のある広場で行われていて、大変な人出だった。






人垣を抜け旧市街へ向かったが、レストラン以外はすべて閉まっていて、旧市街のインフォメーションも閉まっていた。これはとんでもない日に来たものだと思いながらドミニカン修道院の中をのぞいてみるとほとんど誰もいない。あの祭典はこの修道院から出発したものと思われる。





白亜のルブリン城は17世紀に作られ今は博物館になっている。ところがここも閉まっていて、320Kmもの距離をこの町とお城を見たいためにやってきたのにと嘆きつつ、旧市街を後にした。郊外にある強制収容所もこの分ではしまっているに違いないと諦め、新市庁舎の屋上から吹き鳴らすトランペットが物悲しく聞こえる








ご神体の通った後にはバラの花びらが一面に散っていて、これは白いドレスを着ている女の子たちが行進の道すがら撒いて行ったからだ。




広場を取って返しても祭典は続いており、バリトンの男性が歌っていたが過去3日の修道院の歌声から見るとあまりうまいと思えなかった。





バス道を離れたところに故ヨハネ・パウロ2世がローマ法王になる前、教鞭をとっていられたカレッジがある。その名もヨハネ・パウロ2世カレッジと命名された。



又そのすぐ近くに、巨大なマリー・キューリ婦人の像と彼女の名前を冠した大学があった。キューリ婦人がポーランド人であったことをはじめて知った。








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東ヨーロッパの旅 12 カジミェーシュ・ドルニィ

2011-08-21 16:19:09 | 東ヨーロッパの旅 2011




マイダネク強制収容所を出た時は、二人とも言葉も無く、ミセス・ナヴィの言う通り、北にキャンパーを向けた。ルブリンの北50Kmほどにあるプワヴィ(Pulawy)にあるチャルトリスキィ邸が有名との事で、行ったがキャンパーが駐車できる場所が無い。

亭主は道端に駐車して、いつでも動ける用意をしてキャンパーで待っているからと私一人館まで行ったものの、ゆっくり中を見ている暇も無く、外観を写真に写し、急いで帰ってきた。

この館は1671年バロック様式で作られたがスエーデン軍の侵略で焼失、18世紀の貴族チャルトリスキィ王子夫妻によって再建された美しい宮殿だとの事。







この館へ来る途中に見つけた道路標識でカジミエーシュ・ドルニイへ行くことにした。ここはヴィスワ河沿いの小さな美しい町で800年以上の歴史を持つという。








丘の上には修復中のカジミエーシュ大王の居城跡があり、又町の中心に立つ教会も内外全部修復中。しかしちょうどこの日から3日間音楽祭が行われていて、市場のスクエアーにはお土産店や屋台が並び、着飾った老若男女が楽しんでいた。










音楽祭は土地の民謡らしく民族衣装の娘さんたちが自分たちの出番を待っている様子。
この民族衣装を見ると、ここがスイスかオーストリアかドイツか判らなくなる。ヨーロッパ諸国の民族衣装は良く似ている。














この鶏の形をしたパンはこの町の伝統的な食べ物で、何百年もの昔鶏を丸焼きにしたことから、作られたものだという。





川淵には面白い形の船が停泊していた。この河を上下する観光船なのだろう。






にぎやかな町で気分を良くし、町外れに見つけたキャンプサイトにチェックインした。
このサイトは川と平行に走る道路わきの低地にあり家族経営の小さなものだが、キャンパーやテントのポーランド人が夏休みでこの辺りに来るらしい。只のWifiがキャンパーの中から使えて、一生懸命このブログを書き送った。




夜中の一時、疲れた目を休ませるべくキャンパーの外に出てみると、隣のホテルの庭からろうそくの熱で空に浮かぶ紙風船(提燈)が次から次と夜空に浮かび、風に吹かれて裏の丘へ流れていった。道路の交通も途絶え、ほとんどの人たちが寝静まったキャンプサイトに、音も無くふわふわ上ってゆく紙風船(提燈)は幻想的だった。


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東ヨーロッパの旅 12 マイダネク強制収容所

2011-08-20 13:00:15 | 東ヨーロッパの旅 2011


雨雲が低く覆っている陰鬱な翌朝、キャンプサイトをチェックアウトして、一路マイダネク強制収容所へ向かった。ここはルブリンの郊外で、車窓から広大な敷地と一見ぎょっとするような巨大な記念碑が見えた。




まだ朝9時過ぎ入り口で駐車料金を取る若い女性しかいなくて、駐車はどこでも良いといわれ入ってすぐ近くの駐車場に停めた。小雨の降る中レインコートに傘を差して500メーターも歩いたが、遺灰の祭られている慰霊碑や焼却炉までずいぶん遠い。





亭主はキャンパーを取りに引き返し、その間巨大な記念碑に登って周囲の目測と写真を撮った。キャンパーで慰霊碑まで行くとちゃんと駐車場が設けられていて、受付の女性のどこでも良いという意味が判った。
慰霊碑の中には土と小石がこんもりと山に積み上げられているが、これが遺灰と遺骨であることが判りすごいショック。 キリスト教のお葬式では最後に人は灰になり塵となり・・・・とあるが戦後66年これらの遺灰は土に返っているようだった。










それにしてもものすごい量の遺灰の山、すぐ隣にある焼却炉を覗いてみたが、ここで毎日1000人の死体を焼いたという。この焼却炉は世界で只一つ完全な形で残されたもので見ていて目頭が熱くなってきた。






マイダネク強制収容所は周囲にSS部隊やドイツ軍が駐留していたため、労働力を必要とし、規模はアウシュヴィッツより大きいが、団体観光客があまり訪れないらしくひっそりとしていた。この日私たちの後から3-4組の人たちが車でやってきて、ほとんど物音を立てず、話し声も聞こえず、博物館になっている収容バラックを歩き回っていた。







点々と建っている監視塔と二重の鉄条網に降り立ち鳴きわめくカラスの群れが不気味だった。





ここで強制労働の末亡くなった何十万人にも上る人たちはもちろんだが、この写真で見られるようなドイツのSSオフィサーや男女監視人たちすらも、戦争の犠牲者だと思う。この写真の中のオフィサー イムラーは戦後死刑になったが、写真で見る限りではインテリでとってもやさしそうに見える。
戦争がなければこの人たちも、普通の生活をし人を殺めることも無く、幸せな一生を送ったかもしれない。ドイツ軍の80パーセントは戦後、罪に問われることも無く生き延びたというが、一生罪の意識に悩ませられたに違いない。













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東ヨーロッパの旅 13 ワルシャワ

2011-08-19 16:48:30 | 東ヨーロッパの旅 2011



ポーランドの首都ワルシャワは第二次世界大戦時5年間をドイツに占領され、首都の80パーセントは灰燼と化した。戦後旧市街は戦前そのままに復旧された。

戦後40年以上も共産党政権下にあった割には、自由民主化が進んでいて西洋諸国のどこの首都とも変わらない。一番心に残るのはこの国の女性たちのスマートさ。若い人たちはタンクトップにショーツで歩き回っているが皆足が長くてかっこよい。中年から老年にかかる女性たちもドイツや英国で見られるような肥満体がほとんど見られない。
皆スマートな服装で出歩いていて、この違いはなんだろうと思った。肉体が食べもので作られるのなら、英国人は脂ぎったチップス。ドイツ人は脂肪ギトギトのソーセージだろうか。とするとポーランド人は何を食べてこれほどスマートなのだろう。


キャンプサイトのすぐ近くから路面電車で町の中心地セントラムまで行き、バスや地下鉄を乗り継いで、旧市街へ行った。交通費はバス、電車どれを乗り継いでも一日券は9ズロティ、三日券が16ズロティと格安。この町の観光には2日の予定だけれど3日券のほうが安い。





セントラムに降り立つとどこからでも目に付くのが、高さ234mの高層ビル。スターリンからの贈り物として1952年から4年もかけて建築された。中は科学アカデミーなどの各種研究所やコンサートホールなど。部屋数3288とのこと。
科学博物館や進化博物館などが地階にあるがこの日、月曜日はどこも閉館。







戦後新しく作られた旧市街の中心は旧王宮博物館で月曜日にもかかわらず開いていた。二人で35ズロティ(65歳以上のEU圏市民割引)で入場し、一通り見学して回ったが、良くぞこれほどまでに復元したものだと感心した。金ぴかの部屋部屋を回ると各部屋に立っている監視人がほとんど中年女性、彼女たちの前でオーと驚いてみせると、皆思わずにやりとし、まるで自慢するような表情になる。













一部屋はイタリアの有名画家カネレットの絵が壁全部にかけられ、彼がここワルシャワでも活躍していたのを知った。






バルバカンの砦はクラフクとヨーロッパにもう一つあるだけの珍しいものという。これも復旧されたものでどう見ても真新しく見えるのは仕方が無い。
旧市街市場広場はレストランのテントが張り出し、その中心に剣を振りかざした人魚の像があった。デンマークのそそとした人魚姫の像とは違い、体格も立派な人魚像。












昔は貴族の館を改造しオペラや劇場として使われたこの屋敷は今現在大統領官邸として鉄柵の中を銃を持った兵士に守られている。

そこから近くサスキ公園の入り口には直立不動の二人の兵士に守られた無名戦士の墓があり、彼らは一体何時間こうして立っていられるものだろうかと気の毒になった。







サスキ公園を横切り又路面電車で南下し、ワジェンキ公園内のショパンの像を見に行った。
大変暑い日で、木陰の道を歩いているときはまだしのげるが、真っ赤なバラに囲まれたショパンの像の周りのたくさんのベンチには人影まばらだった。この公園内のワジェンキ宮殿は歴史に翻弄された。1944年にはドイツに美術品を持ってゆかれ挙句は放火された。戦後修復されて国立博物館の分館となっているがもちろん月曜日。閉まっていた。





このワルシャワの多くの公園には大変人懐こい赤リスがいる。英国で普通に見られるグレイのリスより小さくて、毛並みは赤茶色だ。







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東ヨーロッパの旅 14 ワルシャワその2

2011-08-18 16:11:57 | 東ヨーロッパの旅 2011


ワルシャワの二日目、セントラムで路面電車を降りてすぐ地下道からショッピングセンターへ着いた。英国のマークス&スペンサーやフランスのカフォーのスーパーがここに店を出していた。近代的なショッピングセンターはどこの国でも大差ない。







又路面電車で国立博物館へ行ったが、ワルシャワの博物館はどこも12時からしか開かない事を初めて知った。まだ1時間もあるから博物館の前からバスに乗りどこでも好きなところに行って、一時間後に帰ってくることにした。



バスで3駅目に公園が目に付き下車、Skaryszewski公園を歩き回った。よく手入れされた花壇と若い母親たちが乳母車を押して散歩する姿が多く見られ、奥の湖ではカヌーでボールゲームをやっていた。大変のどかな火曜日の朝。





12時近くには又博物館に戻り隣の戦争博物館へ行ってみた。庭だけ開いているが館内は水曜日からしか開かないといわれた。







国立博物館ではスダーンの遺跡展をやっていて、1000年ほど前のスダーンのキリスト教会の遺跡を見、アフリカにこれほどの文化があったのに感心した。

エジプトやローマの遺跡も良くぞこれだけ世界中の博物館で集めたものだ。どこにでもあるのがこれら古代ギリシャとローマの遺物。

2階から3階にはポーランドの画家による絵画が多く、これらを見たくてやってきたから大いに満足した。18-9世紀ごろはヨーロッパの絵画の流れはどこも同じで、中世の宗教画の後のロマンティックな神話を絵にしたものなどなかなか面白い。ほかにはオランダの画家の絵が多く、17,8世紀はオランダの最盛期だったのだろう。









セントラムで遅い昼食を終えた後、又路面電車でクラシンスキー公園へ向かい、ワルシャワ蜂起記念碑にめぐり合った。1944年迫り来るソ連の軍隊がドイツ軍を撃破してきたのに期待して、ワルシャワ市民もドイツ軍に対して蜂起したが、ソ連の援助を得られないまま20万人の死者を出し、同年10月に降伏、記念碑は必ずしも幸せな出来事だけでないことが良くわかる。
この同じ場所には過去ナショナルシアターがあり、ショパンの楽曲演奏が2度行われた。と記念碑にかかれてあった。 










ワルシャワの町には2両編成の路面電車が碁盤の目のような通りを縦横に走っている。排気ガスの心配が無いから、環境保護に見直されつつあると思う。

昨日の旧市街ではポーランドの食事をと入ったレストランは、餃子を大きくしたような中にマッシュルームかほうれん草が入ったものを茹でて、上からクリームをかける。
11個いり一皿とマッシュルームをパンケーキで巻いてソースをかけオーブンで焼いたもの、そしてサラダを注文した。これらがこの国の典型的な食べ物か知らないが、美味しく満腹した。




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