8月26日一ヶ月の予定でアイルランドへのキャンプ旅行に出発した。日本は7-8月は猛暑で熱帯夜が続いているとの事、ロンドンの8月は一日中晴天の日が5日しかなかった。Tシャツで歩き回れる日が少ないのは毎年のことだけれど、家庭に冷房装置が要らないことだけがよいことかも知れない。それにしてもこの日の天気はひどかった。
ロンドンから西にまっすぐ高速道路で210マイルの南ウエールスの最突端ペンブロークまでほとんど雨、午後4時過ぎペンブロークの港に一番近いキャンプサイトにたどり着いた。ほんの少しの晴れ間に海岸へ行ってみたが強風、寒風で数分で帰ってきた。海岸は砂浜が長く伸びて、晴天ならば夏休みの終わり前、最後の夏を楽しむ家族連れでにぎわうはずであろう。
此の夜のテレビニュースでは英国のあちこちで洪水、スコットランドの北ででマイナス2度になったとの事だった。
いつもキャンプ旅行の前には持ってゆくものすべてのリストをチェックするのだけれども今年7月に4週間の南英国(デボン、サマーセット、ドーセット)へ行った時に飲み水の容器を忘れ、当地へ行くまでお茶も飲めなかった。今回は忘れないよう容器をキャンパーに積んでおいたが、水を入れるのを忘れ、高速道路の休憩所でお茶を作って休憩するのに、水が無かった。3箇所目の休憩所でやっと水道を見つけ、昼食休憩をすることができた。こんなことは今まで無かったので,慣れとは恐ろしいものだと思う。もしかして年のせいか?
翌朝は打って変わった青空でペンブロークから南アイルランドの東南のロスレアの港までフェリーで3時間半、海は凪いで船酔いをしなかった。
5年前10月から11月の1ヶ月北アイルランドから南アイルランドまでを一周した。その時はウエールズの最北端のホリーヘッド(Holyhead)から首都のダブリン(Dublin)までフェリーで渡ったのだけれども、港を出た途端から激しい揺れで3時間半をひどい船酔いで、洗面所から一歩も出られなかった思い出がある。元船乗りだった亭主は今まで一度も船酔いしたことが無く、同情心も無い。それ以来両手首のつぼを圧迫すると船酔いしないというサポーターを使っていて、北欧やアイスランド、ギリシャからイタリアのフェリーには必ず使っている。それでひどい船酔いをしないのだと思うが、亭主は笑ってあんな池のように波の立たない海で揺れないもの、酔うわけ無いじゃないかという。
ペンブロークの港からアイリシュ海に乗り出すまでは、大小の島や半島に囲まれた静かな内海を通り、ウエールズのきれいな町並みや、岬の灯台、小島の城砦などを楽しみながら通り過ぎた。アイリッシュ海ではソファーで寝ていったので、時間は意外と早く過ぎた。
一番最後の写真がロスレアー(Rosslare)のフェリー港でまったく田舎の港だった。ペンブロークでもロスレアーでもパスポートを一度も提出することなく通り過ぎた。
ロンドンのボンドストリートの裏側にアイルランドの観光局のオフィスがある。出発の前日ここでアイルランドに関する資料をもらいに行って、キャンプサイトのガイドブックをもらった。
9月に入ればキャンプ場もシーズンオフの料金になる。それでも英国やフランスの盛夏の頃よりも高い。おまけにほとんどのキャンプ場がシャワーも別料金を払わねばならない。
アイルランドも英国と同じように経済危機で物価が高く、特に食料が高い。スーパーマーケットも小売店も値段は変わらない。これというのも小売店を保護するため大量仕入れで値段を安くできるスーパーがダンピングできないようになっているとか。
5年前にここアイルランドを回ったときは、値段がユーロとアイリシュ・ポンドの二本立てで書かれていた。ユーロもすっかり定着して今ではどこにもアイリシュ・ポンドの表示は見えない。相変わらず頑固なイギリスはEU 加盟は長いながら通貨をユーロに変えない。
アイルランドは日本や英国と同じように右運転だが、ガソリンやディーゼルの値段だけはずいぶん違う。燃料タンクを満タンにすれば毎回10ポンド近くの差が出てくる。これというのも英国では燃料に対する税金がやたらと高いせいだ。
さて初日のキャンプ場はロスレヤーの港から近いSt Margaret'sというところで過ごしたが、そこまで行く道路のひどいこと。一車線の田舎道で一応舗装はしてあるのだが、いたるところに大きな穴が開いていてキャンパーの中の家具がばらばらになりそうな音を立てていた。サイトの周辺は海岸や湖があってウオーキングには最適と言われたが、帰りのフェリーに乗る前ここで2泊して歩くことにして、今日はティポラリーを目指した。
港とティポラリーの中間あたりにアイルランドの有名なウオーターフォード・クリスタルの町がある。後に残るようなお土産は買わない主義だから見に行くつもりも無かったが、そのウオーターフォードの手前数十Kmにあるニューロス(New Ross)の町にロスタペストリーがあるとガイドブックにあった。
通り道で特に先を急ぐたびでもないから、駐車場にキャンパーを停めて行った所がこれらの写真だ。
タペストリーと謳っているが実際は精巧な手刺しの刺繍でこの地域の歴史を10枚の絵に現しそれを刺繍して展示してある。これらの写真は玄関広間の展示室で一部を見せてくれるだけで、実際の10枚の絵は入場料を払い、奥の部屋で絵の説明をイヤホーンで聞きながら見て歩くのだが撮影禁止で残念。
アイルランドは太古の昔からゲーリック人の住む農業国だったが、9世紀から12世紀はバイキングの侵略、12世紀から16世紀にかけノルマン人の侵略台頭、19世紀から20世紀は英国の支配下にあった。
これらの刺繍は色彩の美しさといい、デザインの大胆さといい、将来観光地の重要な見ものになると思う。まだ10枚の絵のうち5枚しか刺繍画が完成していなかった。
このロスタペストリーの建物の向かいの川淵に停留してある帆船は、英国がアイルランドを支配していた頃に発生したPoTato Famine(1845-1852)で、多数のアイルランド人がこの船でアメリカに移民したものだ。
ポテト・ファミン(Potato Famine)というのはヨーロッパ人の主食のジャガイモが薯の病原菌に犯され腐ってしまい、主食が入手されず何百万人の貧民が餓死したという。この時期支配していた英国はビクトリア女王の時代でアイルランドは英国に搾取されていたため、生き残った貧農はほとんどアメリカに移民したものだ。アメリカの人口の多数はアイルランドの末裔で今回の旅でも多くのアメリカ人旅行者に会った。
私がアイルランドのポテト・ファミンを知ったのは今から15年程前だった。一年に一度開かれるロンドン北部の陶芸展でアイルランド人の女陶芸家の作品は小さな人間の頭をぎっしり並べたもので、いろいろな顔が天を向いて叫んでいる。
これはいったい何かと聞いたところ、ポテト・ファミンの話をしてくれた。あの小さな人形たちの表情は忘れられない。
ウオーターフォードのバイパスからティポラリーのりんご園(Apple Camping)に着いた。ここは政府の農業プロジェクトの一つで、ティポラリーの山に囲まれた盆地の平野に何十エーカーも果物が植えられている。特に多種類のりんごの木が植えられていて、今がその収穫時期。キャンプサイトはこのりんご園の真ん中に巨大な小屋が3つ並んでいてその中の一つにオフィス、トイレ、シャワー、洗濯場、皿洗い場までが設置されていて、アイルランドのキャンプ場では一番安かった。
小屋の一つはこの地で取れた、野菜、果物それにりんごジュースの瓶詰めやりんご酒などを売っており、絶え間なくショッピングに訪れた人たちで賑わっている。
キャンピング客はこの中の敷地を自由に歩き回って、りんごや果物を試食してもよいとの事で、いろいろな種類のりんごを試したりプラムや梨などもとって楽しんだ。小屋の中にはりんごを圧搾してジュースを作る大きな機械があり、絞ったジュースに(そのままでは味が薄いから)クエン酸を加えて瓶詰めにしている。このりんご園で売るだけでなくあちこちに出荷されている。
りんごの木はどれも私たちの手の届く大きさで,収穫時の人手を考えればすばらしいアイディアだと思う。小さな木に鈴なりのりんごで、作業員に聞いたところ、アイルランドは雨が多くて根元は水に強い種類の木に幹はほかの種類を接木し、高さ1メータくらいでまた違う種類を接木して小さいままで多収穫を図っているそうだ。だからりんごの根元が象の足のように太い。
イチゴも地面に直植えでなく、摘みやすいように高く長い橋のうえに並べた箱(写真右下)の中に植わっている。そして長いホースが走っていて水と肥料を供給している。さすが政府の研究機関だと感心することしきりだった。
小屋の天井はツバメが飛び交い、雛にえさを持ってくる親鳥が巣に近づくときの雛の大騒ぎで日中はとってもにぎやかだ。ロンドンではツバメを見ることが無い。
一日りんご園の周囲の農道を散歩に行った。野うさぎが飛び出したり、羊や牛の群れが広い牧場いっぱいのんびり草を食んでいる。動物たちの冬の飼料のための牧草が刈られ丸められて転がっているのはいまどきヨーロッパ全部の農地で見られる風景だけど、この草をおにぎりのように丸める作業はここアイルランドではじめて見た。どこも巨大な機械作業だった。
この春生まれた牛の赤ちゃんはやっと乳離れして母牛から離され、耳に身元証明書をつけていてまるでイヤリングのようでかわいい。
りんご園を去るこの朝、まだ8月30日だというのにこの寒さはどうだ。スリーピングバッグの中で体が冷えてくる。今年初めての電気ストーヴを入れた。リンゴ園から車で20分ほどのカヒアー(Cahir) の町に古城があるので寄り道してみた。観光バスでの団体はアメリカ人であろう。駐車場がキャンパー禁止で駐車できなくて、城の外側だけ写して急いでリメリック(Limerick)へ向かった。アイルランドの建物はカラフルで通り過ぎる町や家々は写真を写すにはとってもいい。
下の赤い木枠にわら屋根の建物はパブ。どんな小さな町や村にもパブの無いところが無い。それにこの南西のあたりはほとんどが一戸建てのBBできれいな平屋建てがぽつぽつ建っている。
ゴルウエー(Galway)に行く途中から海岸線へ向かい今夜のキャンプサイトはドゥーリン(Doolin)を目指した。海岸線の細道で対向車が大型キャンパーやトラックだとひやひやする。Doolinは私たちの地図には載っていない小さな田舎の村で、アイリシュ観光局のキャンプ場リストにあったもので、何度も道に迷った。
アイルランドも英国もほとんど高い山が無く、きれいに企画された丘やフィールドは牧場が広がっている。道端はいたるところにCrocosmia (姫扇水仙)のオレンジ色で染まっている。
ドゥーリン(Doolin)は海岸の最先端がアラン島(スコットランドのアラン島とは違う)へ行くフェリーの発着場になっていて、観光バスが狭い道をやってくる。このフェリー発着場のすぐ近くに石垣で囲まれた相当広いキキャンピングサイトがある。シーズンオフに近いこの時期キャンプサイトには10台に満たないキャンパーやキャラバンが停まっていた。そのすぐ横の駐車場にもキャンパーが数台停まっていて、夜間のキャンプ禁止の立て札があるにもかかわらず、ドイツや英国車がキャンプしていた。
この海岸は波が荒く多くの若者がサーフィングしている。これらのキャンパーは彼らのものらしい。
周囲の巨岩は正方形や長方形でまるで石切り場のようだが、天然自然の妙味だ。これらの石が6角形だと観光客がぐんと増え世界遺産になるところだが、これほど平らでは人目を引かないらしい。広大な海岸線が平たく、まっすぐに亀裂の入った岩棚になっている。
海岸と牧場の仕切りは岩を積み上げた石塀で(写真右下)このような芸術的な石塀が延々と続いている。こんな作業をした人たちの苦労がしのばれる。
ドゥーリンの村はこの岬やキャンプサイトから2Kmほど内陸に入ったところで、きれいなBBがあちこち点在し、お土産店が3軒パブも3軒、アイルランドで一番有名なパブと宣伝しているから行ってギネスを飲んだ。パブのギネスは缶のギネスとは比較にならないおいしさでこれだけでもアイルランドへ来た甲斐ありというもの。
パブの庭で日本人女性2人に会って話した。私くらいの年齢で、日本でゲーリック(アイルランド語)を習っているので10日の個人旅行だと言う。英語ではなくゲーリックとはなんと珍しい人だ。ゲーリックは読めるけれど、言っていることはぜんぜん聞き取れなく会話はできないとのこと。
土地の観光バスで一日観光に来たそうだが、ここドゥーリンのパブは休憩地であるらしい。
村を流れる小川は一見どこにもある普通の川で何気なくこの写真を撮ったものだが、後にここクレア州の一番の観光名所Cliff of Moher(モヘアの崖)の観光案内によれば、この川底の下に長い洞窟が延びているそうだ。
英国へ帰るフェリーの出航日までまだ9日もある。いつもは片道切符なのだけれど今回は一ヶ月と決めて往復の予約をしてあった。後は2箇所を行けば予定のコースを全部見ることになるので日日が余る。せっかく釣竿を買ったことだし・・・とまた50マイル北のベア半島へ戻ることにした。
お昼にはゴルフコースのキャンプサイトに落ち着いて午後1時ごろが満潮とて、初めて自分の釣竿で釣ってみる。この日は40匹ほど釣り上げた。針は疑似針で5つ下がっていて、いっぺんに5匹がかかったことが2回あった。とにかく興奮する。こんなにエキサイティングなことを長い間忘れていた。
キャンパーの横で鯖をさばくと汚れと匂いがひどく、翌朝はあたり一面に真っ黒の大きな蝿が群がっていた。消毒剤を撒いてやっときれいにしたので、今回は海辺の岩の上で3枚に下ろして頭や中骨、内臓を海辺に投げ捨てた。目の鋭いカモメたちは、私を遠巻きにして狙っている。全部処理して、海水で洗い流し、そこを離れた途端のかもめの奪い合いは、壮観だった。
翌日は慣れないことをしたものだから右肩や腕が痛い。それでも50匹ほど釣り上げ、小さいのは海に返して30匹ほどを冷凍にした。キャンパーの冷凍庫がほとんど鯖で埋まってしまった。
アイルランドに来て6日目、珍しくよい天気が続いて今朝も晴天、風は身を切るように冷たい。今日はこの州で一番の観光地Cliff of Moherへ向かった。ドゥーリンからずっと上り坂の道を南下し、下り坂にさしかかって”さては通り過ぎたか”と不安になった頃に道端の大きな看板が目に付いた。
広大な駐車場で入場料を払い冷たい風をまともに受けながら崖に向かった。(8月の日本の避暑地にぜひお勧め)幾重にも岬が突き出し、一番近い岬には城砦が建っている。この寒風の中幾重もの岬へ歩く人たちの姿が点のように見える。
歩道はよく管理されて、石切り場から切り出してきた大きな石板を立てかけてあり、この石板は歩道の海辺側全部に立てかけられているのでいったいどれほどの数の石板が使われているものか?
Eco Friendly Visitoe Centre (観光センター)やお土産店は崖をくりぬいたすばらしいもので、大西洋の生物や地域の風景などの写真展や映画も見られる。ここでドゥーリンの10kmにも及ぶ地下洞窟の説明や写真もある。
下2枚の写真はプロが写した航空写真でさすがプロフェッショナルだ、逆立ちしてもこの域にはたどり着けないとつくづく思った。
モヘアーの人魚と言う民話があるそうで,読んでみればまるで日本の天女の話(天の羽衣)とほとんど同じ、こんな遠く離れた国でもよく似たような民話があるものだと感心した。人間の夢や希望には国境が無いということだろうか?
Cliff of Moherを出てまっすぐKilkee へ向かった。道はオレンジ色の野草が満開,崩れた教会や、城砦が見え隠れする。この地方の建物はとってもカラフルでおまけに崩れたあばら家を見かけたことが無いので,皆裕福な人たちばかりかと思ってしまう。
Kilkeeの町(右下)は我が亭主が50余年も前ウエールズ人の友達と何度もダイヴィングに来たことがあり、亭主は懐かしさのあまり一方通行の街中を走り回ったが昔の面影が全く無いとがっかりしていた。その頃は海岸に沿った一本道にパブとダイヴィング・ショップがあったそうな。
キルキー(Kilkee) からリムリック(Limlick)迄シャノン河口が広がっていて途中のキルラシュ(Kilrush)からフェリーで南へ渡ることができる。フェリーポートへ行ったらちょうど出たところで、一時間待ちの間に昼食をクックしてお茶を沸かしてのんびり待った。
アイルランド人は大変友好的な人たちでどこで会っても挨拶をしてゆくし、街中をゆっくり走っているときでも手を振ってくれる。人々がそうだからって、カラスまで人なれしたのかキャンパーの傍で”お腹がすいたよー”と鳴きわめく。ギャーというたびに羽を震わせいつまでもしつこく喚いていた。
フェリーの上でキャンパーの横に停まっていたトラックには、子牛が乗っていて柵の間からそっと外をのぞく。子供も動物も同じだなーと思って写真を撮ったが、母牛から離され、心細く思っていることだろう。
Tralee の町はケリー州の比較的大きな町で、キャンプサイトが町の中心から歩いて10分ほどにありそこで2泊した。と言うのはアイルランドへきて3日目にコンピューターが壊れてしまい、写真が入れられない。コンピュータ修理の店がこの町にあると言うのですぐに持って行ったからだ。
トゥラリー(Tralee)からカースルグレゴリー(Castlegregory)までは20km田舎の細道を走り、途中で食料補給してもお昼頃には目的のキャンピングサイトへ着いてしまった。キャンプサイトはメインの道路からはずれ、後ろに長い砂浜の海岸が伸びているひなびた所で、お店もパブも歩いて3km位かかるとのこと。この田舎のサイトはテレビ、ラジオの受信が悪く、この夜はラジオのニュースさえ聞けず、オペラのCDを聞いていたから亭主の嫌がること。
昼食を終わってすぐ一番近い町であるカースルグレゴリーまで散歩に行った。うす曇の日で太陽がかげると風が冷たい。普通車の通らないまっすぐの農道を歩くと周囲の湿地帯に野草が咲き乱れている。能登では盆花とよんでいた右下の花は最近初めてその名前が判った。
金沢の随筆家の先代芳子さんの’女の心仕事’と言う文庫本に”みそはぎ”と言う名前がのっていた。お盆の頃に咲く花だから盆花と呼ばれているらしい。この花は川淵や湿地帯でどこにでも咲き、ヨーロッパのいたるところで自生している。
カースルグレゴリーの町は小さいながら4軒のパブがあり、小さな教会のステンドグラスがきれいだった。お店はただ一本のメインロードにぽつぽつあるくらいで、全くの田舎町だ。
この町から北に突き出た岬にはまたキャンピングサイトや市街地があるらしい。そこはサーフィングのメッカだと案内書に記載されていた。
右下の写真でお気付きのように、道路標識はゲーリックと英語が記載されている。この写真を撮った理由は後ろの小花の赤いフューシャでこの地域から南にかけて野生の群生がすごい。道端は赤緑で染まっている。この花はチリが原産で1857年ケリー州で始めて記述されていて1930年代好んで垣根に植えられたものだと言う。よほど気候があったか地味が合ったのか、これ以降でこの花の群生を見かけなかったところが無い。
湿地帯で放牧されていた馬の親子は、子馬のまだ伸びきらないたてがみが、モヒカンかパンクのようで面白い。
電波もまともにこないキャンプサイトは一晩でたくさんとこの半島の南側のディングル(Dingle)へ行くことにした。ディングルまでは25Kmだが田舎道を山越えしなければならない。それほど高い山ではないがつづら折の道で、一山超えると太陽が輝く明るい景色に道路の両側は行けども行けども、フューシャの花盛り。谷間はたぶん種が流れ着いて発芽したものだろう、川淵はどこまでもフューシャの藪が続いている。
ディングルの町では交通規制がされていて、キャンプサイトのありかを聞いたところ、町を出てまっすぐ北にと言われた。狭い道路にフルマラソンレースが行われていて、初めて交通規制の意味がわかった。
はじめに見かけた選手はトップ10に入る早い人たちで、キャンパーの窓から声援していたが、キャンプサイトへ近づくに従い道路は私たちには下り坂、したがってランナーには長くつらい上り坂、後になればなるほど歩いている人が多くなった。
キャンプサイトへ折れる500メーターは、マラソンがサイトの前で折り返しているため行く人、来る人でキャンパーもランナーのスピードに合わせてやっとたどり着いたが、サイトの前はたくさんの応援団とランナーで入れず、そのまま通り過ぎて、海岸へとドライブしてマラソン選手が全部通り過ぎたであろう午後3時頃まで海辺で過ごした。
青空に恵まれ海も牧場も山々も写真の撮り甲斐があるというもの。キャンプサイトに落ち着いてのインフォメーションでこの地域一帯で映画 ”ライアンの娘”の撮影が行われたと知った。あの映画は風景も配役もすばらしかったし、英国が統治していたアイルランド人の反感や苦しみなどよく現し、私の大好きな映画の一つだ。
キャンプサイトに落ち着いて、キャンパーのドアを開けたまま亭主はテレビを見、私は読書をしていたら、ロビン(こまどり)がキャンパーの中へ入ってきた。私たちが身動きさえしなければ怖がらせることなく、キャンパーの床を運転台からトイレまで全部探検して満足したらしく出て行った。人慣れならぬキャンパー慣れしたロビンだった。
ここディングルでは衛星放送が映った。夜BBCで大好きなプレシド・ドミンゴのリゴレットを放映していた。受信機の関係か判らないが音楽のバックグラウンドに甲高いピーという音が入り、聞いていると頭がおかしくなりそう。音なしで口パクパクのオペラなんてどんなにつまらないか。結局見ないであきらめた。
ディングルのカラフルな町(写真左下)を通り過ぎて、今日はRing of Kellyと呼ばれるIveragh半島へ向かった。ディングルではまだうす雲だったのに大聖堂のあるキラニー(Killarney)で道に迷い、2回も町の周囲を回っているうちに雨が降り出した。
キラニーからケンメアー(Kenmare)までの国道はKillarney National Park と呼ばれ晴天ならば風光明媚な山道であろう。残念な事に暗い空に小雨模様の道ではすべてがモノトーンに変わってどこを見ても大して感激することも無い。5年前にアイルランド一周したときもこのNational Park を通ったがぜんぜん覚えていなかった。あの時は11月でやっぱり雨の中だったから、今とほとんど同じような景色を見ていたに違いない。
ただ右下の写真の橋と谷川を見て5年前を思い出した。あの時は連日の雨で水かさが増してこの谷川は激流だった。この日のむき出しの岩を見てまったく拍子抜けしてしまった。
谷川のすぐ横の道端にあるこの小さな教会は今日も開いていない。この地域には農家や家らしいものが一軒も見当たらない。無人の教会はどうして建てられたものか?
ケンメアーから海岸に沿って半島の先端を目指す。道は2車線がやっとの田舎道、おまけに天気が悪いと何を見ても楽しめない。途中の町で昼食にしたが、あちこちから何台もの観光バスが町のスクエアに停まり、観光客が傘を差してぞろぞろ行く。一帯何があるのだろうと行ってみれば、狭い石橋から写真を撮っている。ここも水かささえ増せばすごい見ものなのだろうが、むき出しの岩ばかり。
下の写真はお天気も最悪のときに撮ったものだが、ここはRing of Kerry のコースの中では一番美しい風景で知られるCoomacista 山道にあたり、このあたりの小さな入り江では昔から密輸入が行われていたと案内書に書かれていた。
キャンプサイトのあるCarerslveenの近くでは横殴りの雨でどこを見てもうんざりする。この夜は真夜中まで暴風雨で、キャンパーが揺れていた。12時ごろに雨がやんで、外に出てみたら、満月に近い月が輝いていてあまりの変わりように驚いた。
翌朝穏やかな内海では子供たちがカヌーのトレーニングをして歓声がこだましていた。
キャンプサイトは町外れで歩いて1Kmくらいにただ1本のメイン道路に面して店も大聖堂も観光案内所もある。大聖堂は19世紀末に建てられたものだが、今から20年前ごろに改修工事が行われた。内外ともにまだ新しく見える。朝は晴れていたからコートも着ず、傘も差さないで散歩に出かけて、にわか雨に遭い雨宿りに入ったのがこの大聖堂だった。
下のこじんまりしたお城は実際はアイルランドの警察隊宿舎として建てられたもので、現在はOld Barracks Heritage cenntreとして地方の歴史や動植物の展示をしている。遠くからでもはっきり目に付くきれいな建物だ。右下のオブジェはキャンプサイトの隣の敷地がこの地域最大の高等学校で、その玄関入り口を飾っている。
この町はアイルランドの地方町村と変わりなく、町のサイズに合わないくらい、パブがやたらと多い。そしてどのパブも表玄関がカラフルで,凝ったつくりだ。
キャンプサイトは4泊すれば3泊分の料金というのでもちろん4泊してこのサイトを中心に近くを観光して回った。
キャンプサイトに面している遠浅の海は一方から川が流れ込み大小の島に囲まれた内海で、遠い向かいの海岸に崩れたバリーカーベリー城(Ballycarbery Castle)が見える。バレンシア島へ行った翌日、このお城まで歩いてみることにした。
Cahersiveenの町に沿って流れている川を横切らねば対岸へ行けない。町の警察隊宿舎のお城のような建物の前から長い橋がかかっていて、午前中は干潮のため川の水も少なく、川淵の石原が乾いていた。
夏の間は活躍しているらしい、陸海両用の船は川淵に乗り捨てられたまま誰もいなかった。
キャンプサイトから町まで1Km,橋からお城まで3Kmあり、なるべく近道をと川ぶちを歩いた。途中から道もなくなり石原を歩いたり、牧場のふちを歩いてお城の近くの農家にたどり着いた。周囲は柵で囲まれ、農家の庭を通らなければお城に行けない。たまたま家から出てきた奥さんに庭通過の許可を請うと快く案内してくれた。このあたりは河口か内海かわからない広く遠浅で牡蠣の養殖をしていた。
お城は14世紀に建立されたが今現在の壊れた建物は16世紀に再建されたものという。18世紀に政府軍の攻撃を受けた歴史を持ち19世紀にはこの城の横に住居が建てられたが20世紀に入って廃墟になったものだとの事。城は自由に入ることも上ることもでき、まだ壊れていない石の階段で2階へ行くことができる。
お城の壁を覆っている蔦はその根元が太く何年かかってこんなに成長したものか?
城の近くからCahergall FortとLeacanabuile Fortという2つの完全な形の城砦がみえる。歩いてゆけばまた何Kmかかるかわからないから城砦へは行かず、帰りはメイン道路を歩いて帰った。
橋にたどり着いたときは、満ち潮になってきているらしく、水は川上に向かって急流になっていた。橋の下では水が渦巻きを巻いている。
Cahersiveenの観光案内所でバレンシア島の地図をもらい、晴天のこの日キャンパーで出かけることにした。キャンプサイトから1Kmほど離れた海岸に島へ渡るフェリーが出ているという。また西のほうに橋が架かっているとの事で、橋を渡ることにした。橋のあるポートマギーの町までたどり着くのに15Kmほど田舎道を走り、橋を渡ったすぐにあるスケリングの経験(Skelling Experience)という変わった建物へ入ってみた。このバレンシア島から西に15kmの海上に見える2つの島がスケリング大島、小島と呼ばれ大島は世界遺産に指定されていて、Skelling Experienceでは島の歴史や写真、映画で島の紹介をしてくれる。
シーズンオフのこの時期、観光船は出ていないが、夏の海が穏やかな日には多くの人たちが大島(Great Skelling)を目指すそうだ。
6世紀に大西洋の荒波を押して渡った修行僧たちは、スケーリング・マイケル(大島)にビーハイブ(蜂の巣)と呼ばれる石造りの僧院を築き、8-9世紀に襲ってきたバイキングの襲撃にも生き残り、度重なる嵐で離島を余儀なくされた12世紀まで修行してきたものという。500段以上にも上る石段がピラミッド型の頂上へ向かい、ビーハイブの群れは僧院や、修行僧の住居、墓地 などから成る。僧たちは魚、海鳥、卵、ミルク、肉などを食料とし、この島が貿易航路であった為、海鳥の羽や卵を食料と交換したり世間のニュースを受け入れていた。
Geokaun山はこの島の最高部で駐車場が3箇所あり山のふもとで入山料を払って急な坂道を登ると、周囲360度の視界が開ける。大西洋に浮かぶBlasket島の説明や、Skelling小島の海鳥の説明、この島の生い立ちから歴史が周囲の岩や立て札で解説されてあった。雲の流れが速く、雲の影は海面を黒く移動し、それでも一日晴天に恵まれた。
フェリーポートのあるナイツタウン(Knightown)は向かいの船着場まで500メーターもあるかどうか。フェリーは絶え間なく往復している。このナイツタウンに彫刻家の看板を見つけて、彼のアトリエを覗いてみた。アラン・ライアン・ホールという芸術家は大きな銅像から、小さな動物のお墓まで彫り、アトリエにはチャプリンの像から,超モダンな絵まであった。
Cahersiveen のキャンピングサイトはフリーのインターネットがあり、Traleeの町のコンピュータ修理店で80ユーロも払って直ったと思ったコンピューターのインターネットが通じない。仕方がないからTraleeのキャンプサイトまで戻り、一泊してコンピューターを直してもらった。
2度目に通ったKillaneyの町は今回は間違えることなく、余裕を持って観光馬車の写真を撮りながら通り過ぎた。Kenmareまでのキラニー自然公園はこの日も天気が悪く、遠景は霞んでいたが、この5日間の雨で渓谷は激流だった。
アイルランドの地方には高速道路がなく、狭い往復2車線道路の国道は制限速度が100Kmとなんとも恐ろしい。山道など50Kmで走っても怖いくらいだ。
Kenmareから南へ行く道は山岳を越えてゆくのですばらしい景色が望める。途中の山中の休憩所はお茶やコーヒーの店にお土産も売っていた。ここで当地の純毛の毛糸を買った。少し前まで雨が降っていたから、外に出していたらしい毛糸の束は濡れていた。
Kenmareもカラフルな町でおまけに町のいたるところに赤白格子縞の旗が飾られていた(この写真で見えますか)。いろいろ通り過ぎた町では地方によって白黒の格子縞だったり赤青の格子縞だったりした。もしかしてこの国もお祭りでもあるのかと不思議だった。
たった1軒ある郵便局兼スーパーの前で売っていたのがピート(泥炭)の塊で、写真を写していたら、近くの人が笑っていた。